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  • from: 生成門さん

    2008年07月19日 14時37分32秒

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    道元の悟り(3)悟りには表現が必要


    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元の悟り(3)悟りには表現が必要
    <補完共振>

    山水庵のテキストを編集的に引用しています。
    http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/index.html

    現成公案に含まれている謎解が必要なのです。道元の思考と言語の関わりについて吟味していきましょう。

    「深いは高い」という。なんだか、当たり前のことをいっているようです。これは、悟りには奥行きがあるのだということを言っているのでしょう。時間にも長く、或いは短かく感じる時があります。大きい湖と小さな湖があるように、天と月では、天は広く、月は狭いという関係と同じであることを知らなければなりません。悟りにも悟りを得るまで時間と広さ深さがあるということです。道元のテキストには、主語がないのです。ですから、場の状況を知らなければならないのです。場があって思考があり、言葉が出てくるのです。

    レストランで食事を注文する時に、「俺はカレー」ということがあります。これは正確な表現ではないでしょう。「私が注文する料理は、カレーです」というのが正しい表現であり、意味です。しかし、ウエーターは主語がなくても、それを理解できるのです。このような主語がない会話というは、場の論理が働いているから成立つのです。このことを西田幾多郎は、場所という概念を駆使して道元を理解しようとしたのです。主観と客観、自分と場という対立を超えてブラックホールの特異点の場所を「無」の場所としたのです。

    上村氏による西田幾太郎の悟り(自覚)へのプロセス球を参照して下さい。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758550

    この気配的な無の「場所」を「述語的な場所」としました。「俺はカレー」というとき、「俺」は「カレー」に含まれているのです。つまり、「主語=自我」は「述語」のなかに包まれているのです。
    「述語」の連鎖をどんどん放散していくとその場そのものは宇宙場に包つまれてしまうのです。ブラックホールの内側にはなにもありません。これが「無の場所」なのです。ブラックホールはすべてを含んでいるように述語は主語を包んでいます。主語は述語の中に陥没するのです。有は無の中に没するのです。

    「主語」ない事象の地平面が現われたのです。この「事象の地平面という場所」こそ、それぞれの「言葉」を超えた反転する構造なのです。分裂性親和的思考というのは四次元思考なのです。述語思考とは場所を中心に置く思考です。ですから自我=主語は吹っ飛んでしまうのです。座禅とは場所のことなのです。だからこそ、座禅では、心身脱落するといいます。そこでは自分、自我、我という主語などという余計なものなのです。

    道元の主語なしテキストが、事象の地平面が超越場であることを理解できれば、述語的思考の世界を理解したといえるでしょう。しかし、宇宙の用語である事象の地平面と述語的思考の世界を結びつけるのは、少し強引のような気がする。

    道元の言うことを聞いてみましょう。天月という言葉があります。これは悟りを自覚したイメージを表現しています。つまり悟りを得た心の状態であり、水に映った月は座禅の思考であり、自覚であり、述語的に言語化されたものです。つまり、水が場であり、月が自分です。水に包まれている自分を自覚せよということです。

    天月が水に映る。それはまったく誰にでも、同じように映るのです。ですから「悟り」は難行苦行の特別な体験して悟りがくるのではないのです。それは月が水に触れなくても映るように、修行でなくても意識の持ち方で悟りが得られるのです。座禅と悟りの関係は、水と月の関係であり、座禅をすれば悟が映るのです。悟りが割り込んでくるわけでもないし、座禅が悟りを招くのでもないのです。只座れば悟りが映るのです。月は濡れるわけでもないし、水も破れるわけではないのです。天月が水に映るのです。

    悟りには奥行きがあるのです。座禅をしたら、直ちに全部を了解したり、直感的に意識が転換することはないのです。水湖の大小によって、広狭、高低があるように、修行の長さや深さに応じて、映る月、即ち、悟りの会得度合いには個人差があるのです。その悟りを得たことをどうすれば確認できるのでしょうか。それを確認するのは、その実感したことを自己満足せずにありのままに言語で表現すべきです。その言語表現とは、当然、主語論理ではなく、述語的表現でなければならなりません。述語的思考をしたのであるから、述語的言語なくては、悟りを実証したことにはならないのです。

    科学は客観的に実証するのが仮説の正しさを主張する根拠です。悟りは科学ではないのですから、客観的な実証はできません。悟りを実感するのは主観であり、悟りという状態です。体験したからといって実証したことにはならないのです。

    しかし、実証して見せなければ、他人からは評価されないでしょう。悟りは主観の問題だからといって自己満足していたのでは自覚したことにはならないのです。表現して始めて自覚したことになるのです。表現して始めて、疑似悟りではないことを実証できるのです。

    表現することで悟りの段階が浅いことを確認することもできます。表現ができれば、それで最高の悟りまで達した(A悟)ということも確認できます。これが言語表現の必要な理由なのです。 
    続く。

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