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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2008年08月13日 17時30分57秒

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    道元宇宙への接近(3)

    図の引用先:http://www.d-b.ne.jp/exist/

    道元宇宙への接近(3)
    <道元との共振>

    シムパラダイムでは、「夢は現実である」となります。実現しないと思っていたことが現実となると、まるで夢=奇跡のようだといいます。また、織田信長が本能寺の変=有時=有事の最後の舞いで、これは夢幻だといいました。それは暗喩としての夢=奇跡=幻の「よう」なものではなく、紛れもなく隠喩的に「夢は現実」なのです。

    隠喩的な「夢は現実」とは一体何でしょうか。俗的には、現実とは私自身の意識=心とは関係なく目前にある現象のことです。心とは関係なくは本当なのでしょうか。同じ現実に遭遇しても、無関心であったり、強い関心を示したりします。心とは関係ないとは言えません。明らかに現実とは脳神経による認識です。無関心にせよ強い関心にせよ、そのような現実と解釈をしていることになります。解釈の主体がいます。解釈の主体は自我です。自我とは意識です。よって、現実とは自我が作り出したものだということです。自我とは意識ですから、現実とは意識だということです。ところで夢も脳神経による認識です。そのような夢を見るとは、そのような解釈をしていることになります。そこには解釈の主体がいます。解釈の主体は自我です。よって、夢は意識です。夢も現実も共に意識であるということになりました。道元はこれを有時といいます。有時とは、瞬間、瞬間の意識=現象=記憶ですから、夢は有時であり、現実も有時です。従って、述語的には「夢=現実」なのです。述語的な思考については、「花は散らない」「春は夏にならない」という道元の言い回しで吟味しました。「不確定とは困った」を参照してください。

    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100071623740

    要約すると以下のようになります。
    因果律  「花は咲く」→「花は散る」
    非因果律 「花は散らない」
    因果律  「春である」→「春は夏になる」
    非因果律 「春は夏にならない」

    これに習うと
    因果律  「夢を見る」→「夢が現実になる」
    非因果律 「夢は現実にならない」
    になります。

    ところが、「夢を見る」が「夢が現実になる」を「夢は現実にならない」としたのではおかしいことは自明です。「春が夏にならない」「花が散らない」とは少し事情が違うようです。というのは、三次元の世界では「夢は現実にならない」ときも「夢が現実になる」こともあるからです。「花は散る」「春は夏になる」の三次元の世界では、「花は散らない」「春が夏にならない」ということはありえないからです。それを道元は「花は散らない」「春は夏にならない」ということを、述語論理で解説したわけです。ですから、「夢は現実にならない」ときも「夢が現実になる」こともある夢に対して、「夢は現実にならない」といっても、意味が無いわけです。では、どのように考えたらよいのでしょうか。

    「春は夏にならない」は、主語論理=因果を否定したのであって、春(有る時)=夏(有る時)という述語の同一視を表現した言い回しです。つまり、述語の同一視=述語論理=述語思考です。夢を述語論理で思考するとどうなるのでしょうか。「夢が現実になる」「ならない」は主語論理=因果=時間の経過です。夢を見て、やがて実現する。しないという現実がやってきます。そこには時間の経過があります。花が散らない。春が来ないことはありません。しかし、夢は実現することもあれば、しないこともあります。春が夏になるのは自然現象であり、夢が実現する・しないは、その人の努力や運も関係します。ですから、「夢が実現する・しない」という可能性を問題にしなければなりません。三次元の世界では「夢を見る」=現在と「夢が実現する・しない」=未来は同時には存在できません。「夢を見る」は「夢を見る」という一時の位=有時1であり、「夢が実現する・しない」は「夢が実現する・しない」という一時の位=有時2なのです。「夢を見る」が「夢が実現する・しない」になるのは「ない」=因果的に繋がらないというのが四次元世界=述語論理です。四次元世界では裏と表が繋がっています。裏は表なのです。「夢を見る」と「夢が実現する・しない」は述語的につながっているのです。「夢を見る」という一時の位=有時1であり、「夢が実現する・しない」は「夢が実現する・しない」という一時の位=有時2といいましたが、述語的に同一視すると「夢を見る=夢が実現する・しない」なのです。ですから「夢を見る」が「夢が実現する・しない」になるというのは「ない」のです。

    述語的同一視は、三次元の経過する時間を無視するのです。ここで述語とは有る時=有時です。つまり、表=有時1と裏=有時2は共に固有の有時という時間回廊で繋がっているのです。夢を見る時の時間(有時1)と夢が実現する・しない時の時間(有時2)が共に在るのです。共に在る有時=時間が述語なのです。この述語の共通性をもって同一視するのです。これが述語論理です。述語論理は異なるものを同時に存在させるような、或いは、瞬間移動させるようなマジックです。三次元から見たらマジックとしか表現できないのです。「夢を見る」と「夢が実現する・しない」は共に存在するのですから、夢を見る=夢が実現する・しないであり、「夢が実現する・しない」が、夢を見ることと無関係に「ない」のです。回りくどい言い方になってしまいましたが、要約すると、夢が実現する・しないにかかわらず「夢は現実である」ということです。四次元の世界では、「夢を見る」=現在と「夢が実現する・しない」=未来が同時に存在する平行世界であり、現在と未来はクラインの壷で時間的に瞬時につながっているのです。

    今日、マラソンの野口、肉離れでオリンピックを欠場せざるを得ない、「夢が消えた」というニュースが飛び込んできました。この場合の夢とは「金メダル」を取ることでしょう。本来の夢とは寝ているときに見るものです。ここから理想を追い求めることを「夢を見る」などといいます。「夢が現実になる」と「夢が実現した」といいます。では、夢が実現しなかった場合はどうでしょう。この場合でも、夢が実現しなかったという現実があります。ですから、四次元的=述語的には「夢を見る」=「夢が実現する・しない」ということになるのです。野口の場合は、三次元的には「夢を見る=金メダルを取る」が「夢が実現しない=金メダルが取れない」に確定=現実化したということになるでしょう。四次元的=述語的には「金メダルを取る」が「金メダルが取れない」になることは「ない」ですから、「夢を見る=金メダルを取る」=「夢が実現する・しない=金メダルを取れる。とれない」となり、初めから、共存しているのです。金メダルを取るとメディアが大騒ぎして、お金に換算されます。金メダルがとれなければ悲惨なことでしょう。それが三次元世界=自我の価値です。しかし、そこには大きな錯覚があります。

    大きな錯覚とは「現実=夢」であるのに「夢→現実」と考えるように強制されていることです。大きな錯覚をどう考えるかです。私達は現実を余りにも確かなものとして過信しています。現実はそんなに確定したものなのでしょうか。量子の世界では電子は位置と速度を同時には確定できないといいます。つまり、現実は不確定であるというのです。量子の世界と私達の世界は違った仕組みなのでしょうか。

    私達の世界の現実は差異の体系(森羅万象)、即ち、確定された因果として現象するのですが、それがどんなに確定された因果であっても剥き出しの現実ではありません。前回に虹の例で示したように、それは解釈されたものです。現実というのは文化という解釈装置によって偏向された現象を確定された因果(繰り返し現れる)として確認して、それを現実と見ているのです。そういう文化の中に私達は生まれてくるのです。誰でも生まれたときにすぐ目の前にテレビがあります。その文化というもものが曲者なのです。文化は現実を生成(解釈)し、それが絶対と思わせる錯覚装置です。この装置はいつも正しく働くとは限りません。生きるために、便宜的に先人の智慧が蓄積されたものであり、引き継がれるソースの味のようなものなのです。そういう現実であるならば時代に合わなくなることもあるでしょう。ですから時々修正が必要になります。辞典の改正、政治の革新などはその現れです。

    現実を生み出すのは文化=解釈だということになりました。しかし、その文化を生み出すのは何でしょう。しかもそれは頑固であり、容易には変らないもののようです。文化を生み出すのは解釈ですから、それは意識=思考そのものです。更に、その思考を生み出すのは何でしょうか。その思考を生み出しているのは自我=意識です。これがまた厄介な難物であり、私達を頑固に確定しようとして取り付いているものです。夢は夢であり、現実は現実であると区別するのです。それが自我の同一性です。現実ではない現実を現実と錯覚させ、苦悩を与えるこの自我をどうにかしなければならないのです。金メダルが取れても取れなくても、それは夢幻なのです。だが、それは悟った人の意識=解釈であり、自我に囚われた俗人は、現実は意識=夢幻ではないと思わせているのです。ですから自我を解体しなければ、現実を確実な出来事(有時の連続=因果)と錯覚する思考から脱却と文化の解体は難しいのです。これが「現実は夢である」というシムパラダイムの宣言に表れているのです。

    四次元能<シムダンス=ティトムとの共振>では自我がどこから来たのかを突止めていきます。それを先取りして言ってしまいます。実は自我は光と共にやってきたのです。光は直進を好みます。この光の直進性が、私達をして次元降下させた元凶なのです。広大な土地を車で走るとします。やがてがくんと直角に曲るでしょう。これは地球が丸いことを無視した道路設計です。直線重視の光思考はこれと同じなのです。このような直線思考では四次元の時間と空間を編集できません。力と方向があるものをベクトルといいます。つまりベクトルとは、力と方向を直線として表現する方法であり、線形的な考え方を基本とするのです。企業では目標達成のためにベクトルを合わせるなどと表現します。これは組織の求心力を高めるためです。それはそれで効果のあることですが、線形的な思考なので、やがて袋小路に入ってしまうのです。右肩上がりの時はいいのですが、そうはいかないのが宇宙の摂理なのです。

    ベルリンの壁の崩壊、バブル崩壊、プライムローン問題と袋小路に入った例を上げたらきりがない程あります。私達の日常世界は袋小路だらけです。それは線型思考=自我=因果だからです。人間悩みを解決しようと様々なヒーリングテクノロジーがありますが、これらのほとんどは線形思考です。だから一時的な効果はあるかも知れないのですが、真に効果があるとは思えないのです。シムパラダイムは線形思考を真っ向から否定します。シムパラダイムが否定するのは線型思考の土台である左脳が得意とする思考であり自我です。こうした線形的な思考は、時空を理解するのに障害になるのです。時空一体とは四次元であり、左脳では手に負えない現象なのです。右脳が回生されなければならないのです。宇宙精神への回生エネルギーが右脳にあるのです。

    三次元で生きている人にとって、現実が夢であるというのは天球反転驚愕動地の思考でしょう。ここで反転しなければならないのは、三次元的考え方、線形的思考です。線形的思考は左脳に由来しています。人類はパラノ思考、主語思考、自我、西洋文明と次々と地球(ガイア)を破壊する道具を生成してきました。シムピープルはシムパラダイム世界観を受け入れて、無常、無自性の四次元的考え方、非線形的、即非的思考をします。非線形的思考は右脳に由来しているのです。右脳は、スキゾ思考、述語思考、無我、東洋文明と次々と地球(ガイア)を支持する道具を生成するでしょう。

    差異の体系としての文化に支配されて現実でない現実を現実と錯覚しているのも現実です。しかし、それは自我のつくる三次元の世界の現実=認識=意識=解釈であり、疑似四次元の現実なのであり、はかないものです。こういうわけなので現実は夢の「よう」なものなのです。夢は明らかに脳の作用であり、解釈=認識=意識です。それならば夢を仮想と置き換えて見てもいいでしょう。仮想とは仮の想うことですから意識です。現実が夢ならば仮想なのです。俗人は、夢は空ろいやすく、現実は確かなものであると思っているでしょう。しかし、それは錯角なのです。現実こそが夢=仮想なのですから空ろいやすいものです。量子の世界でも、誰も原子を見た人はいません。しかし、原子は電子と陽子と中性子で構成されているといいます。それは仮想=仮説=モデルであり世界の解釈なのです。ですから、現実は夢=仮想であるというのは、現実というのは自我が作り出した真の現実の偽もの=仮想であるという確信への四次元能からの警告なのです。

    真の現実というものがあるのでしょうか。あります。それが宇宙の法則です。それが意識に現れたものを宇宙精神といいます。宇宙精神は真の現実=悟りの状態であり、自我の支配から解放された意識です。宇宙精神は右脳と左脳のバランスのとれた状態であり、それは心身脱落したときにもたらされる状態です。宇宙精神というのは心の状態であり意識です。ですから、宇宙精神とは夢=仮想=解釈にすぎないのです。解釈ですからそれで普遍の真実をすべて理解したと誤解してはならないのです。

    四次元能を支える世界観=シムパラダイムでは世界は述語的解釈であると考えています。宇宙精神も一つの述語的解釈です。シムダンスでは、その解釈をシム方程式により述語的にモデル化しています。四次元能では、トレジャーハンティングの心構えとして、どんなリスクにも命をかけて探究し、検証しなければならないと思っています。単なる言葉など、たとえ釈迦の言葉=解釈であっても信じてはならないのです。そうはいうものの、四次元能は言葉を使って「宇宙精神」を示さねばなりません。それには、シムダンス的反転テクノロジーが必要でしょう。それを天球反転驚愕動地といいます。

    企業には経営ビジョンがあります。これは企業の行動倫理、未来に向って進むべき方向を示すものです。ベクトルを合わせて活性化させる源泉です。しかし、時として、これがマンネリ化して精神論的スローガンになりがちです。ですから飢えを充たすに足らない絵に描いた餅だといって揶揄されるのです。

    「絵に描いた餅=経営ビジョン」実は、これこそが、経営の極意(夢が現実)なのだということを述語的レトリックで反転させて見ましょう。企業には経営ビジョンがなければなりません。現在の経営ビジョンは主語的であり、形骸化しています。これでは競争市場では優位にはたち得ないでしょう。しかし、経営ビジョンがなければ、力は結集できないし、生残ることはできません。述語的経営ビジョンのない経営は企業ではないのです。述語的経営ビジョンは未来のフィードフォードです。フィードフォードとは未来の記憶です。記憶というのが分かりにくければ、先取りと考えてもいいでしょう。フィードフォードとは瞑想です。共に現在の中に未来が織り込まれるのです。未来は現実ではありませんから、現実は夢であるということになります。この夢=現実とする述語的同一視が、企業が存続するためには必要不可欠なのです。現実が現実であるというのが俗人の世界です。しかし、同時の、現実(現在)は夢(未来)であるという世界が同時にあるということです。これは私達が現実を余りにも確かなものとして過信しているのが俗人の世界であり、量子の世界のように不確定な世界があるという二つの世界が同時にあるということを意味しています。これが四次元の世界なのです。

    四次元能ではバイパス(述語的解釈)が存在すると考えています。これは大変重要な考え方です。三次元世界では、時間は過去、現在、未来と流れるでしょう。現在から未来へ、過去から現在への移行は当たり前です。しかし、忘れてはならないのは、未来から過去への移行もあるということです。もちろん、過去から未来への移行もあるでしょう。私達の三次元世界では、ベクトル性(直進性)が強制されているので過去・現在・未来は直線的に流れているだけです。しかし、そのようなベクトル性は真の真実ではありません。宇宙の法則は、4軸直交座標の平行世界(述語的世界)が、こともなげに存在しているのです。

    このテーマ終り。

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