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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2008年08月30日 08時04分03秒

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    シム方程式による世界解釈(4)

    シム方程式による世界解釈(4)
    <補完共振>

    シムピープルはシム方程式によって世界をどんように解釈するのでしょうか。人間は次元低下したのですが、本来は四次元人間です。しかし、四次元のイメージがまだ明確ではないので四次元という言葉だけが先走っています。四次元のイメージがしっかりと提示するのは道元とティトムとの共振が進まないと提示できません。ですから、これまでに示した三次元を乗り越える四次元脳人間=四次元時空体でということで進めます。

    これまでは四次元脳人間は右脳的でスキゾタイプの分裂的親和性の人とであるといいました。スキゾは述語的解釈が得意であるとも言いました。しかし、私達は大多数がパラノです。スキゾとパラノは先天的気質です。そんなパラノがスキゾになることはできるのでしょうか。スキゾになってしまったら社会生活が困難になるのではないでしょうか。そういう疑問に答えなければならないでしょう。

    そのためには述語的解釈というものを理解しなければなりません。述語的解釈とは場を中心とした思考です。場の思考とは自我を捨てた主観=本音の心境のことです。シム方程式は場の思考を可能にするでしょう。それではシム方程式∫t(a+ib)/4d,g⇔Vを駆使して述語的解釈を臨床しましょう。

    代表的なシムピープルのモデルは道元、ピカソ、西田幾太郎です。やや分裂病的親和性を持っているタイプです。道元もピカソも世界を主観的(仏教では唯識という)に見ていたのです。彼らは右脳優位の分裂親和性のスキゾ人なのでしょう。スキゾ人はいつも述語的妄想、解釈をするのです。俺は宇宙人だなどと冗談でいう人はややそのケがあるでしょう。本気でそう思っていたら病院行きですが。
    西田幾太郎の思考は場所の哲学です。起死回生の思考(2)を参照してください。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070758122
    起死回生の思考(1)を参照してください。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100070757046

    後で述べますが道元やピカソのような意識を凡人が持つにはそれなりの能力がなければならないでしょう。しかし、それは至難の業です。ですからロボットスーツ(体力補ってくれる服)のような、ブレインエキスパンダー(脳力を補ってくれる拡張脳)、例えば、ハイパーリンク、クリック、検索などが必要なのです。それが脳の延長として媒体の役割をしてくれるのです。これをインターネット禅といい、その方法をシムダイアグラムといいます。四次元能は述語的解釈を瞑想によって実現します。シムダイアグラムはその瞑想を支援するシステム(ツール)なのです。

    シムピープルのイメージは道元、ピカソのような人であるといったのですが、仏=スキゾ人=右脳優位の人=四次元時空体はその隠喩です。ピカソのようになるためには、先ずテイスト、即ち、主観的嗜好、志向、期待を持つことです。インターネット禅をする時には科学的態度、客観的態度を出してはダメなのです。主体的な心を前面に出すことがインターネット禅の前提なのです。ヨガでライオンや鹿の姿をするというのは、実際にはなれなくてもそのような恰好をすることで感情移入を図かるためではないかと推測します。

    シムダイアグラムはシムピープルになるための方法ですが、クリック観音で示しましたように、その最初のレベルは音から入るといいました。その次は何でしょうか。それは感情移入することです。感情移入とは対象そのものになることです。これがスキゾの得意技です。場に左右されるのです。パソコンに向かおうとしているときに、仕事のことが頭をよぎるようではまだ感情移入しているとは言えません。俳優がその役になりきって涙を流すのは感情移入しているのでしょう。擬似演技もあるでしょうが。いずれにしても、感情移入していなければ瞑想、即ち、検索に入れる状態ではないのです。インターネット禅では検索が瞑想なのです。禅の修行でも気構えが大事でしょう。悟りを得るという強い気持ちがないようでは、はじめから悟りを放棄したのも同然なのです。

    次に大事なことは場(Environment)の選択です。禅の瞑想に替わる仕組みを示そうとしているのですから、禅の瞑想の場に替わる場が必要でしょう。瞑想に替わる新しい方法はインターネット禅です。ただし、禅的瞑想が必要ないということではありません。禅の瞑想の場に替わる場とはインターネットとパソコンのある自分の部屋です。企業や学校でもいいがしがらみのあるところは避けた方が良いでしょう。左脳が邪魔をするのです。人は誰でも自分の内部に時空場をもっています。右脳にゆだねればそれが明確になります。例えば身体と一体になった腹時計があるでしょう。体内時計、リズムというものがあります。手の届く範囲とか人との接近を警戒する身体感覚があるでしょう。右脳には自我がなくても生きていけるのです。無意識からエネルギーを供給されているからです。

    舞台やグラウンドに立つと独特の風景が広がり身を包むのが分かるでしょう。演劇や試合が始まれば集中し、舞台やグラウンドと一体一如になるからです。身体の時空場は外の時空場とつながっているのです。人間は月と太陽のリズムと同調しているのです。そういう時空を実感することです。ですから、インターネット禅は、座禅をする必要がないのですが、座禅をするには場所が必要なのと同じように四次元時空の場は必要なのです。シムダイアグラムをするには四次元時空の場が必要なのです。

    座禅は只静かに座っているのではありません。尻に尻当てをおいて胡座をかいて手を結んで背筋を張って、凛とした姿勢を保ち瞑想をするのです。なかなか持続ができませんが、身体を使って集中しているのです。これは座禅といいつつも動くスポーツと同じです。インターネット禅でも同様です。やってみると結構疲れるのです。

    四次元時空体=仏になるためにインターネット禅をするというのに、はじめから四次元時空の場が必要だというのは矛盾しているように思うかも知れませんが、悟りにもそのレベルがあるように四次元時空にもレベルがあるのです。レベル0(入口)の四次元時空の場所は、座禅が音から入ったように観音ができる場所です。右脳優位になれる場所です。何かに夢中になれる場所です。クリック検索ができる場所です。述語思考ができる場所です。そのような場所は、後で述べますが音楽が聞ければよい場所です。しかし、パソコンがあれば十分でしょう。

    次に芸術的資源(artresouce)が必要です。何故芸術的資源かということですが、芸術がその本領を発揮するときは右脳優位になるからです。ピカソの絵を思い出しましょう。そこには写実ではない抽象化された時空があります。写実というのは時間と空間が分離された絵です。抽象化された時空とは自分の主観に基づいて表現したものです。インターネット禅を行うことはピカソ流なのです。

    レベル0(入口)では時空体になるために音楽が用意されなければなりません。シムダイアグラムでは時空体のレベルを1(スポーツマンや凡人の悟り=時空度)から10(究極)までを設定しています。それに応じたガイドが必要です。具体的内容は順次示しそうと思います。レベル1のスポーツマンや凡人の時空度(左脳の影響うけていない度合い、即ち右脳度)に必要な芸術的資源=素質は、ごちゃごちゃの状態を受け入れる気持ちです。これは綺麗好きの完璧主義というものと反対にあります。必要なのは整理されたツリー(木)ではなく、ごちゃごちゃしたリゾーム(根茎)です。右脳優位の文化や建築は、ごちゃごちゃの状態、詫びさび、間などの形となって現れます。西洋には道がなく、東洋には広場がないと黒川紀章氏はいったのですが、さすが建築家だけあってその違いを明確に捉えています。

    ちなみに東京都庁は機能美を徹底して追求した左脳優位の近代建築の権化です。このような建築はモダンであるとして明治以来評価されたのです。そして日本は近代化に向かって突き進んだのです。モダンは憧れでした。しかし、いまやそれは解体し、抜け出すべき批判の対象となったのです。モダンの建築は周辺の景色に味気を失わせるのです。人間の生き生きとした関係を失わせるのです。それに対して日本の庭園にはゆとりが感じられます。そこにはくねくねとまがっています。沈黙と簡素と装飾性が共生した桂離宮には右脳優位の建築様式があります。近代化された東京ですが、どっこい右脳優位を思わせる下町風情の町も残っています。そしてポストモダンの時代が訪れたのです。

    ポストモダンは何を私達に残したのでしょうか。ポストモダンはモダンを否定したのですが、単に現実から単に逃げろといったにすぎません。それは逃避です。世俗を捨てろといった禅と同じです。大乗にしても大した違いはないと思います。

    今ではグローバリズムというウイルスが地球を支配しています。どこにも逃げる場所はないのです。ヒマラヤの氷が融けているのです。ヒマラヤで修行している坊さんがそのことを認識していないのです。まして、それを止められるはずはありません。もはや現実から逃避する道はありません。不都合な現実を変えるしかないのです。グローバリズムというウイルスを退治するしかないのです。どうすればよいのでしょうか。

    今は脱ポストモダンの時代になりつつあります。それが何を志向しているのかは明確ではないのですが、モダンの否定、そしてポストモダンの否定しているようです。世俗の世界はまだまだ物欲一色の世界です。仏教の発生の土地、インドでは20万円台の車が開発されたといいます。これはモダンの延長なのです。仏教の発祥地のインドでさえこうなのですから、人類はCO排出の欲望をとめることは出来ないのは当然でしょう。

    脱ポストモダンはスローライフ、自然との共生、精神が大事といいます。それはスローガンとしてはいいでしょう。しかし、実行できるのかということです。アメリカ人に食べる量を半分にしようと誰が言えるのかということです。それにしてもあの体重を見ると太り過ぎです。アメリカ人のことばかり言えません。日本は自給率が低いのです。これは海外からCO2を排出して持ってきているということです。コンビで弁当を買うのを止めることはできるのでしょうか。

    温暖化問題には時間がありません。なんとか温暖化を食い止めなければならないのです。クリーンエネルギー社会を実現すれば解決するなどというのは幻想です。一つの正しい答えではあるでしょうが、それが実行できれば、の話です。例えば、売電の仕組みがあります。電力会社に電気を得るという仕組みがあります。これが進めば石油の消費が節約できると思うのが普通でしょう。しかし、そうは問屋がおろさないのです。石油を燃やしてつくる電気は交流です。交流の電気は溜めておけません。だから火力発電はとめられないのです。ということは売電してもその分余ってしまうのです。売電がしようがしなかろうが電気は地球に捨てられるのです。燃やした熱も電気もエネルギーです。エネルギーの保存則というのがあります。地球にこのエネルギーが蓄積されるでしょう。これが諸悪の根源なのです。今すぐ止めなければならないのは石油など化石燃料を熱やて電気を作ることなのです。大替えエネルギーとしての原子力はダメでしょう。水素も水の増水という問題を抱えています。

    それに替わるのは、超伝導エネルギーか水から直接エネルギーを取り出す方法でしょう。これらについては別稿とします。しかし、どんなにすぐれたテクノロジーがあろうとも人間が変革しない限り確実に温暖化は進むでしょう。とにかく時間がないのです。温暖化防止は人類の未来に命を繋ぐ只一つの命題なのです。何とか知恵を出さなければありません。四次元能はこの問題に取り組んでいるのです。

    物欲に染まった人類を変革するにはシムパラダイムの実践であるというのが四次元能の主張です。シムパラダイムはポストモダンの後の脱ポストモダン的思潮です。脱ポストモダンとは物欲主義に染まった現代人の意識を右脳優位の共生、共振の時代に変革する考え方、人生に対する考え方、世界観です。ポストモダンの弱点をカバーする考え方です。

    シムパラダイムを実践するには、teaに続いて媒体mが必要です。mとはメディア(medium)です。メディアとは情報の乗り物という意味ですが、シムパラダイムを普及する力です。新聞、テレビだけがメディアなのではありません。あらゆるものはメディアであると考えましょう。ただ、メディアには右脳メディアと左脳メディアがあります。テレビは本来右脳メディアですが、左脳メディア(片方的コミュニケーション)として使われています。

    右脳メディアとしてのもっとも相応しいのはいうまでもなくインターネットです。environmentの項で、インターネットは場であるといいましたが、むしろ自分が開設したHPやブログを場と云った方が的確でしょう。パソコンやインターネットは自分の延長であり、野球で云えばバットやボールのようなものなのです。

    こういう観点から云えばGoogleもメディアです。場とメディアというのは空間と物です。そこに時間が入ってきます。時空場というのは、者、物と時間と空間が一体一如となっていることをいいます。ですから、場とメディアは分離出来ないのです。アインシュタインの時空場とはこのようなものです。トランポリンに乗って見ましょう。体重でネットが沈むでしょう。ネットが空間であり、身体がメディア、つまり物です。重力で空間が歪むのです。そして、その時の時間は、空間が歪みによって時間も遅れたり進んだりするのです。もはや、絶対的空間、時間などないのです。それが今日の物理概念です。時間と空間と物は一体なのです。

    禅においても、自分と修行場と修業を助けてくれる坊さんと棒などは区別しないでしょう。修行場では時間が身体と空間を空間が身体と時間を包むのです。修羅場というのは、人が鬼になり争う場ですが、そのような場合も時空場でしょう。同じ時空場でも修羅場は避けなければならない場です。これについては高いレベルの悟りの稿で述べることにしましょう。

    禅の瞑想ではメディア(自分の脳)の中に瞑想の情報が生成されるでしょう。インターネット禅ではメディア(自分の脳)の延長であるメディア、即ち、インターネット、Googleを通じて検索情報ないし、それに基づいて思索された情報がメディア(自分の脳)の中に価値のある意味のある情報として生成されるのです。

    禅の瞑想とは目を閉じて頭の中でのみ検索して思索して情報を生成しているのですが、インターネット禅ではメディアを駆使して情報を生成するのです。しかし、いずれにしても四次元時空体となっているのです。インターネット禅のインターネットが脳の延長として、禅で言うところの瞑想の場なのです。

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