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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2009年01月30日 14時52分19秒

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    地上の失楽園

    地上の失楽園
    <PSとの共振>

    虚の自・他が共振して、この世に愛が生まれたときに地上の楽園が現れます。それは自他和合の自覚であり、自己の認識であるといいました。更に言えば、イデアの原自己と原他者が共振して、メディア=空の生成の力によって、地上の楽園が現象化すると言いました。四次元能との関係で言えば、イデア界=虚軸を四次元、メディア界を空=反転ポイント、現象界を三次元と読み替えれば同型となります。

    「プラトニックシナジー(PS)理論」の続きです。詳しくは下記を参照して下さい。
    http://ameblo.jp/renshi/theme12-10002716381.html#main
    以下、編集的引用しました。


    メディア界=空においては、原自己から原他者に向かう二重の志向性があり、その一つが自己の認識をもたらす方向に向かいます。それを式で表すと(i)*(-i) ⇒1です。こちらは地上の楽園行きで、そのためには、イデア界において原自己と原他者が共振していなければなりません。それがメディア界を経由して自己が形成されるのです。(i)*(-i) は本来の自他のあるべき関係、望ましい関係、即ち、地上の楽園行きの切符ということになります。

    しかし、メディア界は即非状態=述語論理が二重化(i*-i,i*-(-i))=(原自己*原他者、原自己*-原他者)されており、悪魔が宿っているのです。それは地上の失楽園行き方向を促す力(i)*-(-i)=原自己*-原他者なのです。

    この式の-は原自己が原他者を否定するという意味です。何故、原自己と原他者が共振せず、原自己が原他者を否定するのでしょうか。

    それは、人間が欲望の赴くままに生きるからです。欲望の赴くままに生きると(i)*-(-i)⇒-1(=自我)となるのです。これが、地上の失楽園行き他者否定の自我方程式です。近代的自我とは、この悪魔が働き、物質的欲望の自我が、更に先鋭化したと言えます。では、何故、物欲的欲望が、-1の自我になるのでしょうか。

    原自己が欲を満たすためには自己を主張するでしょう。そして、最後は原他者を否定しなければならなくなるでしょう。それによってもたらされるのは対立であり、緊張であり、苦です。それを回避したいのが生命の性です。そのためには原自己を限定しなければなりません。原自己を限定するということは欲を抑えることです。

    苦をもたらす原他者とは他人ばかりではありません。例えば環境(暑い寒いなど)も原他者です。環境が悪くなれば、それを避けようとするのが適応という行動です。現他者が人間であれば、戦いであり、環境であれば支配です。これが発展して自己中心の主語論理=左脳優位となるわけです。そして、自我が生成されるのです。苦を回避するということは、苦の原因である原他者を否定することであり、それを複素平面で表現すると、-1となるということです。

    原自己から原他者への志向性とは、原自己が原他者とどう向き合うのかの無意識的な振る舞いです。それが、三次元の現象として、見たり、聞いたり、理解したり、表現したり、行動したり場合に現れます。原他者を知るためには、原自己は原他者に近づかなければならないのでしょう。この「知る」という行為から、様々な行為の連鎖を生み、ついに言語を発生させたと言えるでしょう。言語の発生については既に述べました。言語は自我の発生に大いに貢献しているのです。

    相手に何かを伝えるのは表現しなければなりません。表現という行為には、視覚や聴覚や身体を使います。そこで視覚をi、聴覚を-iとして、自我がどう発生したのかを説明してみましょう。

    メディア界=空には二重の志向性{(i)*(-i) ,(i)*-(-i)}があります。この二重の志向性は、エネルギーのバランスのよって、三次元の現象として現れる方向を微妙に影響します。この関係が、どちらに傾くかで、自我が強められるか弱められるかの分岐点になるのです。視覚は左脳、聴覚は右脳に繋がっており、左脳は自我意識、右脳は無意識ですので、視覚が強くなれば、自我の強化となるわけです。私達の文明は視覚中心になっていることは明らかです。しかし、原生人はサルの時代に森の中で生活していましたから聴覚優位の生活をしていました。ところが、森が消失したために草原に放り出されたサルは、絶滅の危機に遭遇したのです。そして、急いで聴覚→神経→右脳のルートを使って視覚→神経→左脳のルートに組み替えたのです。それで何とか生き延びたのですが、大事なことは、脳の中で何が起きたのかということです。最初は、虚と-虚が共振して、自然に、右脳優位(i)*(-i) ⇒1となったのです。ところが、危機に面して、虚と-虚のバランスが逆転したのです。それが左脳優位(i)*-(-i)⇒-1(=自我)に反動してしまったのです。このように、人間の場合は、⇒1が先で、後で-1がその反動が起きたのです。自然界ではどうでしょうか。磁気のように±が分裂して対等に存在している関係があります。これについては、「虚実の世界は繋がっている(3)」を参照してください。
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100078149918

    これによると、自我(-1)優位となるか、自己(1)優位となるか、或いは、二極分裂する仕組みがあるのです。

    いずれにしても、この二重の志向性は現象化において作用しているということです。問題はどのように作用するのかということです。メディア界=空では二重の志向性=即非的差異=混沌{(i)*(-i) ,(i)*-(-i)}ですから、どちらが優位とかの状態ではありません。それが何らかの作用で現象化して、{(i)*(-i) ,(i)*-(-i)}が、分離して、(i)*(-i)と(i)*-(-i)になります。ここで、(i)*(-i)が強ければ、地上の楽園行き、(i)*-(-i)が強ければ、地上の失楽園行きです。何らかの作用といいましたが、それは揺らぎとしか言いようがありません。原自己と原他者のエネルギーバランスが乱れるのです。対称性の破れともいいます。
    (i)*(-i)、(i)*-(-i)のどちらかに方向が決まったとしても、他方がなくなるわけではないでしょう。もし、欲望が強くて(i)*-(-i)⇒-1(=自我)が決まったとしましょう。しかし、(i)*(-i)は、保持されたままでしょう。志向性は二重の志向性といっても、本来は、即非的差異=原自己と原他者を共振させ、包括するのが、自己の望みであり、それが主観の力(i)*(-i) なのです。つまり、言いたいことは、三次元の現象界においても、その主観の力は継続されるということです。しかしながら、(i)*-(-i)⇒-1(=自我)が選択された三次元では、自他を共振する世界などではなく、容赦なく自我同一性を保持するでしょうから、矛盾を矛盾として保持したい志向性=主観、即ち、自己は当惑するでしょう。一旦、走り出したら止まらないのが、自我の塊である官僚の行動に顕著に現れます。10年前のダム建設計画が、時代に合わなくても、遂行されるという愚が罷り通ってしまいます。そのような理不尽を受けた市民はショックを受けるはずです。官僚から見れば市民は否定するべき他者なのです。そのような扱いを受けた市民は天国から地獄へ突き落とされる感じでしょう。とにかく、現象化した世界では、他者が不浄な物としてあるような矛盾に満ちた世界なのです。

    では、取り残された(i)*(-i)はどうなるのでしょうか。官僚の中にも良心は残っているのでしょう。この良心は、主観=本音を志向するでしょう。その、本音は他者である市民と即非関係=共存を形成するでしょう。「官僚」は、「市民」であり、且つ、「市民」ではないという関係です。あるいは、「わたし」は、「ママ」であり、且つ、「ママ」ではない、等々となるでしょう。即非関係=述語状態を形成するとは、「市民」である他者=支援する者と官僚が述語的に同一視されるのです。

    述語的に同一視するとは、私と「私」の眼前や周囲にある物を同一視するということなのです。こうして、主観は、このときに、この共感をサインで指し示すのです。つまり、「市民」である「対象」を「市民」と呼び、「ママ」である「対象」を「ママ」と呼ぶのです。これが、他者と共振・共鳴する言語(サイン)と言っていいでしょう。「わたし」と三次元の物=他者とが共振・共鳴するものとして一体化するのです。こうして、官僚と市民の場合は(i)*-(-i)⇒-1(=自我)に行きかけたのですが、かろうじて、踏みとどまって、(i)*(-i) ⇒1に引き返したことになります。ここまでは、言わば、良い関係であり、地上楽園です。

    さて、この良い関係が破れて、地上楽園が崩壊する時がくるのです。「わたし」は、それまでは、「市民」、「ママ」、「自然」という他者と自己とが共振して一体化していたのですが、あるとき、他者を容認することが出来なくなるのです。共感が成立しないときがくるのです。「市民」は我儘であり、不快なものとなるのであり、また、「ママ」は、「わたし」を顧みなくなるのですし、「自然」は、豊かな恵みをもたらさずに、飢饉となるのです。「わたし」と他者との差異が共振し、共感する関係が破綻するのです。これが、-(-i)の意味なのです。共振ではなく、非共振、反発、排斥です。「わたし」と「他者」は、いわば、疎外関係にあるのです。結婚で言えば破綻です。企業で言えば倒産です。国家で言えば財政破綻です。よそよそしい関係、あるいは、敵対関係になるのです。感情的に言えば、冷たさが生成されるのです。冷暗さです。(i)*-(-i)⇒-1がここに発生しているのです。自我の発生です。自己から自我への反動なのです。

    アダムが禁断の知恵の実であるリンゴを食したのですが、この知恵とは、二元論ないし二項対立の知恵です。西洋文明の知恵と言ってもいいでしょう。客観主義的知恵と言ってもいいでしょう。エデンの園とは、自己と他者が共振・共鳴・共感して、一体となって生活する世界のことと考えることができるでしょう。すべての対立は、主観と他者との疎外関係、主観と他者との二元論的分離と見ることができるでしょう。結局、-(-i)の最初の-が二元論に分離を引き起こした力なのです。

    しかしながら、主観と他者の疎外ですが、もし、主観と他者との二つの差異が共振共鳴して、一体関係が、自然に回復されれば、-は消えて、再び、(i)*(-i)⇒+1の差異同士が同一視=一体化された円満世界に回帰するでしょう。仲直りです。

    このような自我と自己の対立は、人間の問題に関しては、すべて共通するようです。例えば、物質と精神、パラノとスキゾ、意識と無意識、西洋と東洋、農耕と遊牧、モダンとポストモダン、客観と主観、一神教と多神教、ピラミッドとネットワーク、還元と包括、競争と共生、科学と芸術、主語と述語等といった具合です。

    人類史において、自然回帰する思想をもったのはアジア文明ですが、自然回帰を否定した一神教が西アジアに誕生して、西欧、アメリカに伝わり、西洋文明が形成され、今日、経済にグローバル化によって世界を支配したのです。そして、これが、現代において、人類絶滅の危機をもたらしているのです。

    一神教は、自己と他者との疎外関係から発しているとパラノと言えるでしょう。そして、一神教=パラノは自分が生み出した三次元世界を飛び越して、反転空間(即非のメディア界=空)に回帰した宗教であると言えるでしょう。三次元世界の否定がここにあるのです。つまり、三次元世界への冷暗さ・僻み(ひがみ)・妬み・嫉み(そねみ)・恨み・憎しみ・嫌悪・侮蔑等のルサンチマンに基づくのです三次元世界への反動・反発・憎悪(ルサンチマン)から、反動的に、メディア界へと飛翔しているのです。つまり、これは、一種(i)*(-i)への回帰なのですが、しかし、(i)*-(-i)⇒-1をもった(i)*(-i)なのです。つまり、分裂しているのです。三次元世界の現実からの逃避という反動と反転の二重性なのです。即ち、現象界とメディア界との断絶が、一神教の特徴なのです。ここには、分裂・矛盾があるのです。メディア界¬=空は、三次元現象界を志向するのです。つまり、(i)*(-i)⇒+1です。しかし、反動なので、+1を否定して、-1とするのです。つまり、+1と-1とが矛盾分裂しているのが、パラノであると言えるでしょう。一種の精神分裂症(統合失調症)です。スキゾはもともと精神分裂症親和性ですが、精神分裂症ではありません。パラノは、自己(自他が共振して一体化したもの)と自我(自他が対立して分裂したもの)との矛盾分裂なのです。本音と建前の分離です。スキゾは、自己(自他が共振して一体化したもの)であり、矛盾そのものなのです。そして、これは、深層心理学そのものです。深層心理学は、パラノの精神分裂症の20世紀的発現に過ぎないでしょう。これが、西洋文明の「精神」なのですが、近代において、自我が中心となったために、自己性が喪失して、物質優位の二元論・二項対立、唯物科学・近代科学が発生して、それと資本主義が結合して、真に偏ったシステムが発生したのです。即ち、他を認めない、自我の連続した世界のみを同一視する近代的自我=唯物科学的資本主義です。

    これで自我の発生の仕組みの説明をしたことになります。しかし、これでは、正確には、まだ、完全に理論化したとは言えないでしょう。すなわち、何故、自他の共振が阻害(疎外)されて、三次元の日常世界が現象化されるのかが、明確にしていないからです。自我のみを認め、他者を認めないで、自我中心的な主語論理によって、自我を同一視する理論が示していないからです。これを示すのが、これからの課題です。

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