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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2009年03月06日 11時38分20秒

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    アポロ=パラノとスキゾ=ディオニッソス 

    アポロ=パラノとスキゾ=ディオニッソス 
    <補完共振>

    四次元能では、三次元脳と四次元脳、主語論理と述語論理、西洋と東洋、パラノとスキゾという対極で考えて行きます。これらはすべて複素平面上の実軸における現象なのですが、この現象の背後に、イデアがあると考えるのが四次元能のスタンスです。こういう立場をプラトン主義といいます。四次元能ではこのプラトン主義に依拠して森羅万象を説明しようとするPS理論に多大な影響を受けています。そこで、同じプラトニストであるニーチェのアポロとディオニッソスに置き換えてもなんら差支えがありません。PS理論を参照してください。http://plaza.rakuten.co.jp/renshi/diary/200804180000/
    以下、編集的に引用しました。

    私達は、自我にとらわれており、自己を認識していないのです。自覚が足りないと言いますが、まさに、自覚とは自己を知ることなのです。悟りを自覚とすれば、悟りは自己の認識のことなのです。私達は、日常において、自己や自我についての区別は曖昧のままです。四次元能では、この区別は「根源的なもの」からもたらされると考えます。「根源的なもの」とはイデアのことです。イデアが共振するか反共振するかで、自己と自我に分岐するのです。自我は左脳優位=主語論理=パラノであり、自己は右脳優位=述語論理=スキゾであり、この分岐=分裂した根源的な対称性のカップルに戻すのが四次元能の最大のテーマなのです。

    自我と自己への分岐は、パラノとスキゾに相関しますから、人間関係や文明、文化などのあらゆる基盤となります。自我と自己が曖昧のままでは、文明、文化の問題に関わる社会問題の分析にしても、曖昧とならざるを得ないでしょう。自我と自己、パラノとスキゾは、人間の基本的な思考や感情の基盤にあるものです。当然、性格と気質の基盤でもあります。パラノ気質とスキゾ気質があるということです。ところが、現代の心理学では、性格と気質にしては曖昧のまま取り扱われています。性格は後天的であり、気質は先天的といいますが、その境界はまるで雲のようです。気質が遺伝であるとするならば、その遺伝的な情報はどのようにしてもたらされたのかとなると皆目見当が付きません。進化論は、偶然の出来事と片付けてしまいますが、それなら、何故、多くの現象に対称性があるのかについての説明が付きません。四次元能は、自我と自己は、パラノとスキゾ、思考や感情、気質や性格に一貫した見通しの良い説明を与えたいのです。

    その最初の手掛かりが、現象の背後にイデアがあるとするイデア論を持ってくることです。そうすると、不思議なことに、自我と自己、スキゾとパラノ、気質文明、文化、社会問題などに一貫した説明が可能となり、特に、気質に対する不透明さが霧の晴れたように明晰となるのです。このイデアの力を理解した上で瞑想すれば、明晰夢を見ることを請け合います。

    イデアの力とは何でしょうか。プラトニストのニーチェの著書に『悲劇の誕生』があります。その中で、ディオニュソスとアポロという概念が出てきます。ニーチェのディオニュソスとアポロの概念は、一見明快なようですが、実は複雑です。

    そこで、アポロとディオニュソスの基本を抑えておきましょう。下記を参照してください。
    http://mohsho.image.coocan.jp/Apolo.html
    以下、編集して引用しました。

    感性と理性、感情と理屈、直感(直観)と論理という世界に対して、芸術表現においては、「アポロ」と「ディオニュソス」の概念はひとつの重要なテーマであると考えます。これらはギリシャ神話にでてくる神様です。ローマ神話になると「ディオニュソス」は酒の神「バッカス」になったようです。ニーチェの「悲劇の誕生」に二つの概念の比較がありましたので、それから抜粋します。

    要素 「アポロ」 「ディオニュソス」
    素姓 純ギリシアの神 トラキアの鬼神
    住居 天界 大地、下界
    聖獣 白鳥、イルカ 雄牛、豹、ライオン、蛇
    植物 月桂樹 キズタ、ブドウ
    音楽 荘厳な格調ある音楽 騒々しい舞踏音楽
    特性 冷静な自己抑制 陶酔、狂気

    簡単にいえば、美と秩序と制御の「アポロの世界」と陶酔と快感と激しさの「ディオニュソスの世界」ということになります。つまり、音楽にはいろいろの要素があり、美と秩序と制御の「アポロの世界」と、陶酔と快感と激しさの「ディオニュソスの世界」との2つの要素をもっていないと変化がなく飽きてしまいます。また、楽器造りにおいてもこれら2つの要素を描き出せる楽器がよい楽器と考えています。このような仲間を紹介しますと、「ハムレット」と「ドンキホーテ」(ツルゲーネフ、思索派と行動派)、「フロレスタン」と「オイゼビウス」(シューマン、情熱派と夢想派)、「恐れる男」と「恐れない女」(漱石、優柔不断と開き直り)、「哲人」と「詩人」(漱石、論理と直観、理性と感性)、「夢」と「現実」(荘子、虚と実、光と影、美と醜、有と無など)となります。
    ―――
    ディオニュソス=スキゾは、自他の違いを肯定する共感の気質であり、アポロ=パラノは、他を認めない主語論理を振り翳す気質です。アポロとは、権威の神であり、合理主義と結びつけられ、アポロは同一性に収斂していきます。同一性の反対は差異性ですが、これは、アポロ=パラノとディオニュソス=スキゾを区別する基本的な対称性です。

    差異性は、企業戦略でも、競争を優位にするために、商品やサービスを他社と差別化するという意味で、差異化の戦略などと使われますから、分かりやすいかもしれません。要するに「違い」ということです。格差社会などと言われますが、まさに格差とは差異です。差異が生まれて、格差と認識されたのです。差異のない社会が平等社会となりますが、ノッペラボウの変化のない、退屈な、機械のような世界でしょう。差異そのものには何の意味もありませんが、それが人間にとって意味付けされると、差異は、良い区別、悪い差別となります。差異の良し悪しは価値感によって変わるのです。

    こうした「違い=差異」は、いくら差異といってもコップに中(物質世界)の小さな違いに過ぎません。こんな小さな差異ですが、私達は血眼になって差異を追い求めているわけです。しかし、チリも積もれば、山になります。大きな差異になるわけです。文明の法則にもあるように、西洋文明が破綻して東洋文明へと移行するようです。これは、大きな差異です。量的な差異が質的な差異に変化するのです。

    物質的な連続的な差異の上を行く不連続な差異がありそうです。西洋文明を物質中心の文明とすれば、東洋文明は精神優位の文明でしょうか。そういう転換が来るのでしょうか。もしそうならば、物質と精神と言う差異は、これまでの差異とはまるで違う質的な差異でしょう。このような差異の本質とは、不連続的です。商品の差異は、確かに差異ではありますが、その差異は、三次元の中の差異ですから、直ぐに消えてしまう差異です。泡沫の出来事です。それに対して、本質的な不連続的な差異があるでしょう。それが、現象世界の多様な差異を作り出す大本、イデアなのです。イデアとは、実に対する虚ですから、これこそが、本物の、本質的な不連続的な差異です。実を三次元現象とすれば、虚は四次元です。虚と実は次元=世界が違うのです。ですから、本質的な不連続的な差異なのです。

    では、連続的な同一性とは何でしょうか。同じことを繰り返すことが同一性の現われなのでしょうか。イデアという差異も、差異を創る同一性なのでしょうか。混乱してきました。

    同一性を抑えておきましょう。一般的には、同一性とは、二つのモノが同じであることを意味します。例えば、今日の私と昨日の私は同じ人間です。何故、同じだと言えるのでしょうか。細胞レベルでは、新陳代謝していますから、物理的には同じとは言えないのですが、それでも、私は私です。もし、私という実感が違っていれば、赤の他人です。特に、自己同一性というとき、あるものがそれ自身と等しい場合をいいます。これは、主語論理に基づく同一性です。一方、「鹿は早く走る」「私も速く走れる」「だから、私は鹿である」というような、私と私でない差異を同一視する思考を野生の思考=述語論理による思考といいます。同一性についても、主語的と述語的がありそうです。述語的はとりあえず、後回しにして、自己同一性について考えてみます。

    同一性について考えているブログがありますので参照してください。http://www.edu.shiga-u.ac.jp/dept/e_ph/dia/tanimoto.html
    ―――
    これによれば、同一とは、その人間に関わる細かな事実が連続していることです。主語的同一性と連続性は置き換えても良いということです。

    主語的同一性について考えさせられるのが、性同一性障害です。性同一性障害という病名がなかったころは、男でありながら女などとは、有り得ないことですから、世間では狂人扱いされ、本人も家族も大変苦しんでいただろうと思います。今でこそ、性同一性障害という病名が付いたことで、その差異が認められ、社会的に受け容れられることになったのは、喜ばしいことです。これは述語的同一性が主語的同一性の壁を打ち破った一つの例でしょう。

    それほどに、性同一性の縛りはきつかった訳です。性同一性とは、心と身体が一致することです。ただし、心身一如とは区別しなければなりません。心身一如とは、性同一性を前提にした上での話であり、主語的人間である前に述語的生物であることを知らなければなりません。

    性同一性障害とは、「心は男でありながら、身体は女である状態(その逆)」をいいます。性同一性障害は、イデア論を考える上で格好な材料です。性同一性障害が教えてくれることは、まず心の性と身体の性が別々にあるということです。身体の性を決定する仕組みは遺伝子やホルモンに求めることが出来るでしょう。男性を決定するのはY染色体ですが、心の性を決定する遺伝子は見つかっていません。男らしさや女らしさはホルモンによることがわかっていますが、どの程度心まで影響しているのかは分かっていないようです。いずれ、分子進化論や進化心理学が進展すれば、その発生のメカニズムを明らかにしてくれるでしょう。

    性の決定においてもホルモンは重要にようです。「生物史から自然の摂理を読み解く」を参照してください。http://www.biological-j.net/blog/2008/06/000501.html
    以下、編集して引用しました。
    男や女、オスやメスであり続けるためには、男性ホルモン(雄性ホルモン)・女性ホルモン(雌性ホルモン)の働きが不可欠です。オスの身体、メスの身体を形作る上でも、その機能を維持する上でも、欠かせないのが性ホルモンです。この性ホルモンは、オスかメスかを決めるだけでなく、身体機能の恒常的維持のために無くてはならないものです。


    通常、動物の身体の中で雄性ホルモン(♂ホルモン)と雌性ホルモン(♀ホルモン)は、精巣or卵巣(or副腎)で作られ、体内を駆け巡ります。この性ホルモンを作るように性腺(精巣or卵巣)を刺激するホルモンがあります。性腺刺激ホルモンです。

    哺乳類では、オスになるか、メスになるかは、遺伝子型(XX/XY)によってほぼ固定されていますが、オスの身体になるか、メスの身体になるかは、性ホルモンの働きによって決まります。例えば、人間の場合、受精後7週目から、未分化性腺が精巣or卵巣になり始めますが、この精巣or卵巣が放出する性ホルモンによって、男の身体or女の身体へと成長していきます。
    ―――

    性の決定が、ホルモンや遺伝子の依存していることが分かったとしても、何故、心の性と身体の性が別々にあり、何故、心の性と身体の性が一致するのか、何故、一致しないかということについては何も教えてくれないでしょう。偶然の出来事にしてしまうのが落ちでしょう。四次元能は、この程度の答えでは納得できません。


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