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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2009年06月15日 10時52分58秒

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    「ある」のに「ない」

    「ある」のに「ない」
    <補完共振>

    心配性(不安)遺伝子が発見されているようです。この遺伝子から不安な心も遺伝子によって生成されるのでしょうか。心配というのは心の配りです。不安というのは安心したいという願望の反映であり、それが心の配りとなるわけです。このような心の元が遺伝子にあることが不思議なのですが、遺伝子に心の種があるというのは認めざるを得ないでしょう。

    それでも、三次元空間に形のないものがあるというのは、幽霊がいるというようなものです。三次元に幽霊はいませんが、四次元にはいるのでしょうか。この世界は四次元であり、三次元はその中に含まれるのですから、幽霊がいても不思議ではないのですが、その幽霊の主体を暴きましょう。

    ブログのテキストに心があるという言い方は間違ってはいません。実際、私達は、日常会話でも、「心を込めて謡う」、「この作品に心がこもっている」、「気合を入れていこう」などと言います。しかし、この言い方を厳密に考えてみると、無意識に四次元思考=複素平面的な思考をしていることに気がつきます。

    心を込めて謡うという場合、歌を謡うことそのものはエネルギーの発露でしかありませんので、心がそこにあるのではないでしょう。しかし、そこに心があると感じるのは何故でしょうか。それは、その歌の調子や、歌う方などのすべての情報が、聞く人の内面に共振して、心があると感じるわけです。送り手と受け手の関係によって決まるのです。

    ブログのテキストの場合はどうでしょうか。そこにはブロッガーの主張はあるのですが、それは心そのものではなく、テキストであり、それを読む人が現れてはじめて、心があると感じるのです。しかも、その心は読み人の中に生まれた心なのです。テキストは心を生む媒介にはなっていますが、心そのものではありません。

    幽霊も同じことです。墓場に幽霊がでるというのは、心の問題なのです。そこには幽霊のでる物語はあるのですが、それは幽霊そのものではなく物語であり、そこに人が現れてはじめて、幽霊が出ると感じるのです。しかも、その幽霊はその人の中に生まれた心なのです。墓場は心を生む媒介にはなっていますが、心そのものではありません。

    さて、問題は、心=幽霊がどこにせよ「ある」と言うなら形がなければなりません。「心はある。しかし、影も形もない」という矛盾した状況をどのように考えたらよいのでしょうか。

    「あるのにない」という状況は、物と精神の関係であり、精神を非物質とすれば情報も含まれますので、一般化すれば、実と虚がセットとなった複素数的共生であるといえるでしょう。遺伝子と命(情報)、テキストと主張、国旗と国家のイメージ、企業と経営ビジョン、神社と精霊など人間がいる場所、場面は皆「あるのにない」の関係にあるでしょう。

    物と精神は異質な関係であり、これを同じ土俵で語るから、「あるのにない」となり、答えがでないのです。物質を対象とする科学と精神を対象とする宗教は水と油なのです。いや、それは正しくありません。水と油は物質であり、混ざりにくいというだけであり、同じ物質であり、分解すれば同じ素粒子(連続している)になってしまいます。しかし、虚=精神と実=物質は決して交わらないでしょう。

    虚と実は異質であり、不連続なのです。この不連続な関係を同時に扱う(連続化するのではありません)には、虚実を交差させて複素平面化させなければなりません。複素平面化とは、不連続な虚実の関係を維持したままま、共生(あるのにない=虚実関係)させるということです。

    複素平面化とは、共生することによって虚を実に変換することをいうのです。その変換は物質化というような連続化させるテクノロジーではなく、空という魔術のようなテクニックです。空はまだまだブラックボックスですが、何かしらの変換構造を持っています。

    既に空とは二面性・二重性を持っていると述べました。二面性とは、虚と実のことであり、二重性とは、共振i*(-i)、反共振i*-(-i)の即非関係のことであり、変換構造とというよりは、⇒で示す志向性が適切でしょう。そして、その志向性はi*(-i)⇒+1、i*-(-i)⇒-1のことです。これは根源にイデアエネルギーがあり、空を媒介して現象化するという魔術のようなテクニック=宇宙の法則を示す式なのです。

    二重性・・・i*(-i)とi*-(-i)の即非的(ある・ない)側面
    二面性・・・虚軸と実軸に開かれている矛盾的(虚実)側面
    志向性・・・i*(-i)⇒+1、i*-(-i)⇒-1

    「あるのにない」というのは虚と実が同時に存在するということで、それ自体が矛盾なのです。ただ、即非の「ある・ない」とは区別されなければなりません。

    即非の「ある・ない」は、空の陰陽のことであり、i*(-i)のことです。それがi*(-i)⇒+1、i*-(-i)⇒-1となります。+1と-1の二極に分化したのですから、即非はなくなるわけです。虚の陰陽i,-iは二極分化ですから、即非ではありません。即非は空にしかないのです。

    私達は主語論理が基本ですから、即非のような論理は認めていません。主語論理で思考するということはi*-(-i)⇒-1、つまり、左辺実軸に主語論理で思考する人が現象化したことを意味します。つまり、パラノ人間=三次元脳人間が左辺実軸に現象化したということです。

    一方、i*(-i)⇒+1は、右辺実軸に述語論理が現象化したことを意味します。更に言えば、スキゾ人間=四次元脳人間が右辺実軸に現象化して、その人間の思考が述語論理だということです。述語論理は、右辺実軸でありながら、空の即非をそのまま体現しているのです。これが共振の意味なのです。

    主語論理と述語論理は、共に現象化ですが、主語論理では、即非は認めないので、ここで説明しているような、複素平面的な思考は受け入れられないでしょう。ですが、そんなパラノでも厳しい状況では認めざるを得ない事態が出てしまいます。パラノが突然、スキゾに変わるのです。このような変わり方を反動といいます。本来のスキゾとは違うものですが、実軸上では同じ右辺に位置します。

    どんな場合に反動が起きるのかといいますと、厳しい状況に追い込まれたときとか、お酒を飲んで、自我の抑圧が解けたときなどです。本来のスキゾとは、生きる現場の気質であり、もともと生物は述語的な場所の論理で生きていたのです。生物とは矛盾したスキゾな生き物なのです。述語的な場所の論理、つまり、即非の「あるない」が同時存在するような場面ではスキゾが出番なのです。

    即非の「あるない」は度々出てきますし、四次元能が目標とする四次元脳の思考ですので、これからも出てくるでしょう。その前提である複素平面の特徴である虚軸と実軸の交差「あるのにない」を、先に解決しておきましょう。

    「ある」は「三次元実軸にある」という意味であり、例えば、電気は±、生物はオスメス、パラノとスキゾのように対称性を持って二極分化して現象化しています。それが三次元現象としての+1、-1の意味です。一方、「ない」は「虚次元軸にある」という意味であり、i、-iです。

    人間として「ある」は、身体=物質として「ある」現象です。+1は女であり、-1は男と表現することになります。身体は物質ですから、三次元現象として素直に認めることが出来るでしょう。それはそれで良いのですが、心はどうなるのでしょうか。確かに心は「ある」のですから、身体に付属して、+1に女心、-1に男心が物質化された形で表出しているとしましょう。脳に付属してとしても良いのですが、それは後の議論にします。

    パラノとスキゾ思考、男心・女心が三次元実軸に本来あってはならないものが、身体に乗って「ある」、つまり、現象化していることになってしまいます。これが問題なのです。

    虚軸に心があるというなら、虚は非物質という約束ですから、それで良いでしょう。しかし、実軸に心があるとなると、虚軸は不要であり、複素平面は持ち出す必要がないことになります。それではポストモダンが嵌まったように袋小路に入ってしまいます。温暖化問題は精神の有り様にあるとした四次元能も閉幕としなければなりません。

    身体に「ある」心は認めなければならないのですから、虚軸にある心と実軸にある心は区別されなければならないということです。

    これを明確にするには、複素平面を理解しておかなければなりません。これまでも、出てきたのですが、簡単に復習しておきます。

    虚軸をi,-i、実軸を+1、-1で表して、交差する点を空とします。虚のi,-iエネルギーが共振した場合がi*(-i)、反共振した場合がi*-(-i)という状態で保持されていると考えます。これが虚実のi,-iが混ざり合った混沌であり、虚のi,-iエネルギーが中性化して空として存在していることの意味なのです。現象はこの混沌から生まれるのです。

    大事なことは、三次元の実軸に現象化するのはあくまでも物体であり、精神ではないということです。ですから、精神現象というのは正しい言い方ではないのです。精神は虚であり、実ではないからです。それにもかかわらず私達は心があるといいます。そこが悩ましいところなのです。

    三次元の身体に心が伴って現れるので、身体に心があるように見えるのです。しかし、それは心そのものではないのです。心の形が現れるという言い方が正しいのです。しつこくなるようですが、四次元能としては、核心部分ですので、心がどこにあるのか、それはどのようにして身体に形として現れるのかを詳しく探求していきます。

    身体そのものは三次元の物質現象です。しかし、身体には心が乗っています。乗っているのは、心そのものではなく、心の形=痕跡=物質化でしかないということです。これは複素平面的な関係として取り上げた企業と経営ビジョン、国旗と国家、神社と精霊などにも例外なく当てはまります。

    虚軸=イデア・・・空・・・実軸=物質---(1)
    という現象化プロセスと共に
    虚軸=イデア、精神・・・空・・・実軸=精神の形―――(2)
    という現象化プロセスがあるということです。しかも、(1)と(2)は連動しているということです。

    (1)(2)共に、空を介して現象化するのですが、その空は即非状態i*(-i)とi*-(-i)であり、その空から実へ⇒+1又は⇒-1となって現象化するといいました。特に、(2)のようなケースがあるので、三次元には「ある」が、三次元には「ない」という「あるない」が現象化するのです。


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