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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2010年04月03日 12時25分21秒

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    二つの世界

    二つの世界
    <存在との共振>

    私達が見る「もの」を存在する「もの」として認識するのは、それが「もの」即ち、物・者であるからです。その「もの」は、名付けられた「物」であり「者」です。しかも、その「もの」は、高さと深さと幅で決められる容器の中に「ある」でしょう。それをコンピュータ内に実現するときは実体、哲学的に表現するときには実存とか、世界内存在と言うでしょう。

    実体にせよ実存にせよ、それらは暗黙裡に物理的な容器の中にあることを前提にしており、その容器を空間と看做しているので、すべての実体は空間の中に「ある」ということになります。時には社会と呼んだり世界と称したりもします。

    さて、実体とは花とか犬や石のように実際に存在するものです。当然、それらの実体は時間と共に変化するので、存在を現象という場合もあるでしょう。すべての森羅万象は空間の中に、時間と共に「ある」というような言い方も出来るわけです。実存は人間に対してのみ使われるようです。

    ところがこのような実体・実存は「錯覚である」というのが、この四次元能の主張です。錯覚であろうがなかろうが、現実にこの私は、この地球の、この地域の、この家の中で、日々を生きているのですから、何も問題はないではないかということを言われそうですが、ところがそうではないということを、再三、繰り返して述べてきました。

    私というのは存在しないのです。存在していると思い込んでいるのであり、それは実は錯覚なのです。このことを手っ取り早く理解するためには、仏教や存在の科学を学ぶ方が早いかもしれません。実存の裏には本質があるとするプラトンのイデア的な考え方を学ぶのもいいかもしれません。

    もし、それらを学んでも、存在しないものがどうして存在しているのかという疑問が残っているようでしたら、そして、日常世界のおいての実践的な方法や悩みが解決できないようでしたら、まだ、探求の終着駅にはついていない四次元能に戻ってきてください。幕はいつでも開いているでしょうから、ご安心ください。

    日本では多くの経営者や指導者が経営の神様と言われるピーター・ドラッガーをお好きのようですが、もし、彼に物足りなくなってきたら、再び、この四次元能に惑ってきてください。ここにはピーター・ドラッガーが無視してきた環境問題に取り組む世界、本質を探究する道があります。気候変動の難問は、四次元脳を持って対峙しなければ解決できない問題なのです。

    容器は空間であり、世界であり、社会であると言ったのですが、その口が渇かぬ前に、環境問題に取り組む世界、本質を探究する道が必要だと言いました。こうした言い方に違和感を覚えませんか。物理的な空間(世界)と抽象的で概念的な空間(世界)が混同しているように思いませんか。また、現象と本質、存在と本質といった難しい用語で戸惑っていると思いませんか。これらを少し整理しておきたいと思います。

    先ず、世界という言葉の使い方です。環境問題に取り組む世界という場合、その世界は物理的な容器のイメージなのでしょうか。それとも概念的な空間なのでしょうか。気候変動が起こる場所は地球であり、物理的な現象ですから、容器としての空間を意味していることは、抵抗なく受け入れられるでしょう。

    一方、環境問題に取り組む姿勢とか、議論、理論という世界があります。それらは抽象的な空間ですが、表現としては、物理的な容器としての空間と同列に扱っています。人間が見る対象自体としての世界とそれを対象として研究したり、何かを言うときの世界があります。例えば、会社の同僚のAさんは、それ自体物理的な存在であり、Aさんは会社に属しています。また、Aさんについて何かを語るときはその存在についての抽象的な存在であり、抽象的な会社に属しています。解釈し認識するという前提には、必ず主観的な空間と客観的な空間の二つが同時に存在しているということです。

    夕日を見て感動するあなたは、そこの場所に立ち風景を見ています。それは紛れもなく、物理的な空間の中にいます。一方、夕日を見て感動する自分を見ている自分がいます。そのときのあなたは、その場にいるわけではなく、別の場所で、物思いに耽っているときです。それは頭の中の想像的な出来事であり、抽象的な主観的で、概念的な空間の夕日です。

    このように客観と主観に二分される世界に生きているのが人間なのです。科学は徹底した客観的な姿勢で物事を追求しようとします。すべての実体は物理的に存在するのです。しかし、科学がどんなに、物質を優先しても、その理論や主張は、精神という作用の結果なのです。つまり、すべては、精神作用であり、それは思考空間の中の出来事だと言えるのです。四次元能は、脳の中の能であると言ってきましたが、精神的な世界が物理的な世界に優先して存在していることを強調するための表現であると思ってください。もっと、言えば、物理的な世界は実は「錯覚である」であると思ってください。

    卑近な例を示しましょう。最近、3Dテレビが開発されまもなく市場に投入されるようですが、この仕組みは存在が錯覚であるということを実に良くあらわしています。というのは、断片の映像を、メガネを通して右目と左目に別々に脳に送り、脳の中で編集させるというもので、編集された映像は3Dになるという仕組みなのです。編集とは解釈ですから、「世界は解釈である」という四次元能の主張を証明している製品であると言えるでしょう。3D製品を使わなくても、同じことは言えるでしょう。私達は裸眼で見た世界を、つまり、目を通して編集され生成された世界を実在と思っているのですから「実在とは生成されたもの=錯覚である」と言えるでしょう。

    極論すれば、この宇宙の存在、森羅万象は、すべては解釈、編集、認識するから存在するのであって、認識の外に存在はしないということです。実際、人間が死んでしまったら意識がなくなってしまうのですから、死んだ人間にとって世界はなくなってしまうのですから、客観的な世界はないということになります。しかし、そう言っても、人間がこの地球に現れたのは高々45億年程度です。それに対して、私たちの宇宙は、今から100億年ほど前に、ビッグバンとよばれる高温、高密度の火の玉状態で誕生したと言われます。人間の意識があろうがなかろうが、宇宙は存在したのですから、やはり、物理的な空間は実在するということになります。しかし、ビッグバンは説であり、人間の思考です。ですから、精神がなければ宇宙という実在は存在しないのです。

    この論理をいくら展開しても、結論が出そうにもないので、永井俊哉氏の「認識するとはどういうことか」に任せることにします。この論は、広松 渉氏の世界の共同主観的存在構造」について語ったものです。こちらを参照してください。http://www.nagaitosiya.com/a/epistemology.html

    以下、編集して引用しました。

    認識とは、対象を受みで模写するだけのことでしょうか。それとも対象を積極的に構成することでしょうか。模写説か構成説か、実在論か観念論か、唯物論か唯心論かということです。哲学史上の論争をジェンダー論の観点から振り返り、システム論的な止揚を試みてみましょう。

    1. 認識論の根本問題

    哲学者たちは、長い間、唯物論と唯心論、実在論と観念論のどちらが正しいかをめぐって論争してきました。一方で科学主義を標榜する唯物論者たちは、「真に実在するのは、物質とエネルギーだけであり、意識とか観念といった幽霊は、実在の世界から退治しなければならない」と主張し、他方で、極端な観念論者たちは、物の実在を否定し、すべては意識が主観的に作り上げた観念にすぎないと主張しました。

    中略します。

    近代以前の認識論では、母権社会であれ、父権社会であれ、人間は、世界の意味を与えられ、受動的にそれを体験しました。近代になって、人間は、自ら神となって世界の意味を能動的に創ろうとしました。世界を意のままに支配する野望が幻想と化したポスト近代においては、人間は、認識対象と対等の立場で対話することを余儀なくされています。男と女の関係についても、同じことが当てはまります
    ―――

    この重要なことは「認識の対象と対等の立場で対話する」というくだりです。四次元能はまさにシムダンスという方法によって、その対話を実践しているところです。

    「実在は錯覚である」ということを示すシムダンス=対話を続けましょう。

    世界には物理的な空間と精神的な空間があると言いましたが、別の観点から検証しておきましょう。それは次元という表現です。私たちが次元という場合、それは空間とは違うのでしょうか。認識した世界を次元と呼ぶことがあります。この場合の次元とは、3D映像でも確認したように三次元空間を暗黙に指しています。

    ところで、議論しているときに、相手と違った論理であることを主張するために、それは次元が違うという言い方をします。例えば、環境問題に取り組む次元が違うといった言い方です。この場合の次元は視点といっても良いでしょう。三次元空間とは異なる抽象的な空間を次元ということもあるわけです。

    物が入っている容器は三次元空間ですが、環境問題に取り組む次元という表現からは容器=空間のイメージは湧いてこないでしょう。視点=次元=世界ですから、見る角度によって対象が異なるのは当然です。このような見方をすることで、ある重要なことを示唆していることに気が付かなければならないのです。

    見る角度によっては対象物が違って見えるというのは当たり前のことですが、すべて網羅して全体像を掴むことは出来ないので、視点を固定して見ているのです。そして、その視点で見たものを私達は客観的に実在すると言っているのです。

    しかし、本当に実在するのでしょうか。私達は「人を見る目がある」などという言い方をしますが、見る人によって対象が異なることを認めているのでから、本当の対象は存在しないのではないでしょうか。対象の真の人間像に迫るには対話(探求)をし続けるしかないわけです。しかし、それは、又、対象物=人が客観的に存在しないことを意味しているということです。

    三次元という客観的な物理空間とは違う異質な精神的な次元=空間=視点=世界があり、私達はそれを暗黙にしかも何の抵抗もなく無意識に使っているのです。このような抽象的な空間を精神の世界として、私達は受け入れているのです。ところが、科学はこの当たり前のことを、逆にと言いますか、科学によって構築された世界のみが、正しい唯一つの真の世界であるかのように、私達に押し付けているのです。

    科学の作る物理的な世界と科学と言う精神作用の抽象的な世界、この二つの世界は別れ別れになっています。この三次元の世界ともう一つの世界をどうブリッジするか、どうシムダンスするのかが、四次元能の大きなテーマなのです。

    見る対象(物)に対する二つの見解

    見るものによって異なる=主観的に認識した実在・実体・現象は存在しない=錯覚(解釈に過ぎない)=芸術的態度

    見るものに依存しない=客観的に認識した実在・実体・現象が存在する=科学的態度

    見る者が存在する二つの世界(空間)の見解

    見るものもその世界に含まれる=主観的に認識した世界だから客観的には存在しない=錯覚(解釈に過ぎない)=芸術的態度

    見るものに関係なく存在する=客観的に認識した実在・実体・現象が存在する=古典科学的態度


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