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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2010年05月10日 08時44分39秒

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    仏教の弱点は何か

    仏教の弱点は何か
    <プラトンとの共振>

    人類で最も古くから自我の弊害を警告してきたのは仏教ですが、その自我の力の前に、これまでのところ、仏教は自我の凶暴化を抑えることが出来ていません。何故、なのでしょうか。その仏教の弱点と間違いを徹底的に解明できなければ、四次元能も同じ轍を踏むでしょう。仏教のように負け犬にならないために何をすれば良いのでしょうか。

    それは、簡単なことです。仏教の弱点と間違いがはっきりしているからです。それは三点あります。

    第一は、密教のように、悟りを超能力化したことです。超能力ですから、特別な人しか獲得できない能力です。当然、殆どの人が近寄れないということになります。

    第二は、大乗仏教のように、エージェント化したことです。悟りは特別な人しか獲得できない能力ですから、修行を積んだ人が悟りを拓く代わりに、俗人は信者となって、御経を上げればよいというやり方です。この結果は末法化です。

    第三は、禅のように、一人一人が修業しなければならない点では密教と同じですが、違うのは、密教のように荒行ではなく、「世俗との縁を断ち切るための出家」と「唯只管、座禅による瞑想」を、悟りを得る条件としたことです。

    つまり、社会との断絶を前提にしたやり方と悟りを拓くためには身体以外に、全く道具やツールがないということです。この結果は、やはり、密教と同じく人を引付けない運命をたどったのです。俗人が、いつまでも、社会との断絶したままでは生活が出来ませんから、悟りの実現性という点では全くどうにもならないのです。

    要するに、悟りという状態ないし、悟りとは何かということのイメージが、明確ではないのです。勿論、言語化されれば、それは自我の世界になるわけですから、自我の餌食になってしまい、自我を無化するのに、自我を頼りにするという矛盾になってしまうのです。従って、身体行、即ち、荒行や座禅ということになるのですが、それはスポーツや山登りと変わりがありません。スポーツで汗を流した後や山登りをしたときのすがすがしい気分は悟りとも言えるものです。勿論、仏教者に言わせれば、それを悟りとは言わないでしょう。ですが、それでは何かと尋ねると、「喝」と一言ですから、取りつく暇がないのです。

    言葉で説明をすると、自我の餌食になることを知っているのです。ですから、禅では不立文字といい、言語化することを嫌ったのです。と言いながら、多くの説教のテキストがあるのも禅なのですから皮肉なものです。

    しかも、仏教に致命的と思われるもっと大きな弱点があります。それは、悟りの修行の後で、生活をすると元に戻ってしまうということです。それは、スポーツや山登りの後では、直ちに俗世界のしがらみの中に戻っていくことと同じなのです。レジャーにしても、非日常を経験することで、しがらみを忘れることが出来ますから、息抜きになるのですが、それもつかぬまのことであって、すぐに、しがらみの世界のどっぷりと浸かる生活に戻らざるを得ないのです。俗人はしがらみから抜け出ることが出来ないから困っているのです。それを仏教は何の手助けもしてくれないのです。
    また、仏教の説法にしても、「家内安全、無病息災、商売繁盛、子宝安産、学業成就」などを売りにするのは、自ら自我の餌食になっているようなものです。これらが弱点になっていると思うのです。

    仏教は自我の力を甘く見ているのです。自我はパラノパンデミック(資本経済のグローバル化)をもたらすウイルス様の感染力を持っているのであり、森林火災のように、全てを焼き尽くすのだという認識がないのではないかと思うのです。自我の力が資本経済を普及させ、その結果が温暖化をもたらしたのだと思っている宗教家が果たしているのでしょうか。

    仏教は節約志向であり、環境と共生する志向です。スローライフ、エコロジーとも親和性が高いのですから、世界の趨勢となっても良さそうなものですが、自我の前には手も足も出ないでいるのは、余りにも情けないと思うのです。

    同じ宗教である一神教が自我強化後ろ立てとなっているのに比べて、仏教の方はその力の弱さばかり目立っているのは、何故なのでしょうか。

    一神教=自我の後ろ盾――――仏教=無自我の後ろ盾

    四次元能は、宗教ではありませんが、その枠組みからして、一神教とは相容れない思考を目指しています。一神教は文字通り、自他反共振ですから、自己=神のみを肯定して、多の神を認めないわけです。これは自我の主張そのものなのです。

    四次元能の枠組みは、即非=自他共振ですから、仏教との親和性は高いのですが、仏教の方法とは、全く異なるアプローチで自我=パラノパンデミックスと対峙していきます。対峙して否定するのではありません。共振するのです。これについてはもう少し後で、説明するでしょう。

    仏教と四次元能で大きく異なるのは、仏教が真理を空においているのに対して、四次元能は、更にその奥にプラトンのイデアのイデアを導入していることです。プラトンにはイデアの上に、さらにイデアのイデアがあり、これが虚次元=虚軸です。空は虚次元ではなく、虚空と実空からなる実軸と虚軸区が交差する点であるとしました。

    相対性理論では三次元空間と時間を融合して四次元時空としているのですから、虚次元を五次元とすればよいのでしょうが、何故、四次元能では四次元と言っているのでしょうか。

    それは、四次元時空が三次元空間だからです。つまり、時間と空間は分離できない「相対的なもの」であるといい、それをまとめて時空と言っている上に、時間を次元にカウントして四次元といっているからです。空間という意味ではニュートンの三次元空間と同じなのです。空間について、平坦化か歪んでいるか、時間と空間が絶対か相対かの違いはありますが、少なくとも四次元空間ではないということです。

    四次元能では、四次元空間と言った場合は、歪んでいるどころか捩れて、裏表が反転していなければならないのです。三次元の延長の空間を四次元とは言いたくないのです。

    誰かが捩れて、裏表が反転している空間を見たことがあるでしょうか。それは誰も見たことがないはずです。ですから、この世界は三次元空間というわけです。透明人間が壁から出てくるのは想像できますが、そのような世界があるならそれは四次元空間です。アインシュタインはそのような空間を前提にしているのではないのです。

    私達にとって、少し前までは、四次元空間はまだSFのことでした。しかし、そうは言っていられない事態がおきつつあります。その事例を、宇宙から、或いは身近なところから発見して、証拠を示そうとしているのが、この四次元能なのです。既に、銀河の回転、彗星の軌道、磁気のヒステリシス曲線、電子の軌道から、それらしきものを示してきました。

    そして、最も身近になったインターネットが四次元空間ではないかと言うことを検証してみたいのです。

    その前に、次元について、もう少し、補足しておきます。もし、四次元空間が存在するなら時間を加えて五次元、それに虚次元を加えるなら六次元にならなければなりません。それでも四次元能は四次元と言っています。このことについては、既に説明したのですが、簡単に言えば、アインシュタインの時空には同意しますが、四次元能では時間は次元にカウントしないということです。時間は生成されるものであり、消滅するものだからです。

    時間は原子様=ティトム球の属性として扱います。三次元を実軸として、虚次元と虚軸として交差させれば複素平面が出来ます。ですから、四次元空間で十分なのです。複素平面をクラインの壷と看做せば、そのイメージが更に湧くでしょう。

    クラインの壷については誤解があるので、これについても補足しておきます。ポストモダンの浅田氏が「構造と力」という著書で、次のように言っています。

    資本主義では貨幣が物質を回収して、循環している構造になっているために、人間はその空間に閉じ込められて、欲望を生産する奴隷になっています。だから、その空間から逃れることが最大の脱パラノ逃走戦略であるという趣旨です。

    閉じ込められている空間をクラインの壷を使って説明していますが、貨幣=虚、物質=実として、それが内外反転して、循環している構造を言っているわけではないので、クラインの壷を使って説明する必要はなかったと思います。貨幣は記号であって、虚ではないからです。記号世界は、三次元の物質世界そのものなのです。ですから、閉じた円環構造で十分だったのではないかと思います。

    また、クラインの壷のイメージについても誤解していると思います。大概のクラインの壷は、下図のようなイメージでしょう。「クラインの壷」はhttp://www.c-player.com/ac99328から引用しました。



    複素平面が交差するという点があるというその場所は、クラインの壷で言えば、
    「とって」の部分、或いは、「括れ」の部分になるでしょう。しかし、これは三次元で描いてイメージだということです。四次元でこうなっているというわけではないのです。第一に四次元ではこの図のようには交差しないのです。それを次元を落とした三次元で射影(単に影でよい)して描いているために、交差してしまうのです。ちょうど、立体交差点(三次元)を上から見る(二次元)と交差しているように見えるのと同じなのです。より詳しい話(痛烈な批判)がありますので、「知の欺瞞・浅田彰のクラインの壺をめぐって」を参照してください。http://cruel.org/other/asada.html

    さて、仏教の弱点の話に戻りましょう。プラトンと仏教では現象の背後に真理があるという点では同じですが、精神と物質と融合させるためには、仏教の空だけの文脈では、虚が実になる展開をスマートに出来ないために、神秘的な背後霊だとか、神通力などといった理解できない話を持ち込まなければならなくなっているのです。仏教に限らず、科学とは絶縁したのですから、神秘主義と言われるものはすべてがそうなっていかざるを得ないのです。

    つまり、仏教の論理では科学のツールである複素平面を使えないので、科学=自我=資本経済に対抗することが難しいのです。

    そうはいっても、仏教の空の視点は有効ですから、それを受け継ぎます。仏教の系譜である禅は西田幾多郎が即非の論理として取り上げたように、イデア論ともつながりを見出せるところがありますので、これを現代風にアレンジしていくことで、応用することが出来るのです。禅の瞑想は、そのままでは使えませんが、瞑想=明晰夢と考えて、インターネットを駆使して禅を取り入れていきます。

    「アレンジする」とは具体的にどのようなことでしょうか。つまり仏教を科学的に説明すると言うことです。それには複素平面を使うことです。複素平面を使えば、実と虚を交差させることで、宗教や科学が単独では無理な精神と物質とを融合させるのに、大変都合が良いのです。

    複素平面が何であるかを知らない人には、それは手品のようなものかもしれません。かつて、芸術的な能力と科学的な素養を持った人は沢山いたでしょうが、その人達でさえ、それらの融合は図れなかったのです。それは、当時では複素平面という概念を持っていなかったからです。

    自我を確立した哲学者のデカルトでさえ、虚数が登場したときに、それを訝ったのです。それで、名前を「虚数」とつけたのですが、デカルトとしては、そのような虚を認めたくなかったのでしょう。その虚が実となる時代が来ることなど、全く予想も出来なかったでしょう。

    ここで、注意すべきことがあります。上で述べた科学のことですが、それは自我の力が生み出したものですから、自我を無化するのに、自我を巻き込むという矛盾になってしまい、大乗仏教と同じ轍を踏むことになってしまうのではないかという指摘がなされると思います。その指摘に対して、四次元能はどう答えるのでしょうか。四次元能には、自我の餌食にならない方法があるのでしょうか。

    それがあるのです。というのは、世界の知の事情は四次元能にとって都合が良くなってきているのです。既に述べたことですが、科学と言ったのは、今では古典科学と呼ばれる知になっています。四次元能に味方をしてくれているのが量子力学という先端の科学なのです。量子力学は虚が実となることを事実で証明してくれたのですから。

    また、その量子力学は複素平面を使っているので、デカルトとは対極にあるプラトンや仏教とも親和性があるのです。

    かつての仏教専門家、例えば、土木行為をして灌漑用水池を作ったり、言語を編集したりした空海にとっては、その当時では、量子力学という学問はなかったのですから、科学と融合を図るなど思いもよらなかったでしょうでも、その業績を見ると無意識に、それをやっていたと思われるのです。

    幸い、現代はインターネット時代でもあり、インターネットを使えば素人でも量子力学の知を活用することが出来るようになってきましたので、複素平面を応用して、科学と融合を図る奇想天外なことも出来るのです。

    そして、四次元能を支持するもう一つの科学が宇宙論です。宇宙論は、自我の力が及ばない空間です。これもまた、プラトンと仏教とも親和性が良いのです。

    更に、四次元能が独自に発見したクラインの壷と複素平面の融合です。これは、科学(自我)と仏教(無自我)融合を図る四次元空間という最大の武器となるのです。

    更に、極めつけはプラトンのイデア論です。仏教をイデア論で解釈すれば、SFよりも、とてもわくわくする展開が可能となるでしょう。

    ということで、四次元能の舞台は様々な戦略と武器を用意して、精神と物質、宗教と科学、パラノとスキゾと言った自我と無自我に由来する対立を和らげて、仏教が出来なかった大仕事、それらを共振させようとしているのです。そして共振能力の高い四次元脳人間を輩出することを目論んでいるのです。

    仏教の話が長くなってしまいましたので、インターネットが四次元空間かどうかを検証する話は繰越にします。

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