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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2010年05月22日 13時09分09秒

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    三次元のムジナは特異点にいることはできない

    三次元のムジナは特異点にいることはできない
    <プラトンとの共振>

    特異点に「いる」「いない」を巡って、
    三つの疑問を提示しました。

    第一 「特異点にいる」ことはできるのか。
    第二 事象の地平面と特異点は三次元の延長か。

    第三 事象の地平面を心理的な事象や社会的な事象に応用できるのか。

    という疑問です。第一と第二は次のようなことになりました。

    第一の「特異点にいる」は、特異点は三次元ではないので、「いられない」といったのですが、事件の渦中にいることを特異点にいるというなら、「特異点にいる」ということになるという曖昧な結論になりました。更なる検討が必要のようです。

    第二の事象の地平面と特異点は三次元の延長かですが、これも曖昧のままです。特異点は三次元ではないのですが、事象の地平面から特異点までの中間は、三次元でもありそうでもないという結論になりました。これも、更なる検討が必要のようです。

    第三の疑問は、物理の事象の地平面や特異点を社会の激変や心理的な事象に適用できるかということでした。
    これについて、考えていきましょう。

    事象の地平面は物理の概念=事象の地平面ですから、その大きさは重力によって変わります。ですから、人によって、それが変わることはありません。

    ところで、今問題にしているのは、社会的な変化が起きるという心理的な特異点と事象の地平面です。従って、心理や社会の事象の地平面、特異点とは何かを考えて見る必要があるようです。

    物理や科学や社会学というのは二分法・自我思考ですから、見るものと見られるものという観点からしか見ていません。しかも、見るものは蚊帳の外において、見られるものだけを論ずるのです。即ち、対象論理=主語論理なのです。

    しかし、どんなに見るものを蚊帳の外においたとして、その客観性を担保することは出来ません。つまり、人によって、その対象の見方が必ずしも一致しないのです。

    まして、明治維新の真只中にいる人達は、その事件を対象化して、自分を蚊帳の外に置くことなどできないでしょうから、当然、完全に超越した神のようには、客観的に見ることなどはできないでしょう。

    ですから、自分達の時代を歴史家のように、「今は明治維新だ」などと認識できるはずがありません。誰も今は丁度インターネット革命が起きている真最中などと言えないということです。

    明治維新と命名したのは、現代の歴史家であり、当時の人ではないということを確認しておきましょう。

    確かに、坂本竜馬たちは、新しい意識を持って、新しい国の形を模索していたのでしょうが、それだけで特異点にいたとは言えないのです。

    特異点は原点であり、三次元ではないのです。人は三次元にいるのです。三次元人間がどうして、三次元ではない領域にいることが出来るのでしょうか。

    そこがブラックホールであるならば、何も見えないはずなのですから、まして、その中にいたとしても、知ることなどできないのです。にもかかわらず、このコンテンツ「特異点はいつも近い」http://memo7.sblo.jp/article/34660929.htmlでは「特異点にいると」と言っているのです。

    どうもすっきりしません。見方を変えてみましょう。そこで、歴史化の視点で、社会の激変の構造を見ておきましょう。

    社会の激変とは、人間が集まるところには、いつも見られるのですが、体制派と反体制派、保守と革新の力の鬩ぎ合いがあり、その政治的な争いによって体制が変わることを言います。最近でも、自民党政権から民主党政権に変わったばかりですが、大なり小なり、このような変化は日常的に起きているということです。

    そして、政治を動かすのは、いつも革新派であるでしょう。問題は、その当事者が、自分達の位置づけを歴史の転換点であると認識しているかということです。プロパガンダとして言うことは自由ですが、真にそうであるかは別なのです。

    それを言えるのは歴史家や評論家(一般人も含む)だけであって、当事者にはそのようなことは言えないのです。

    このことは、ゲームで考えればもっと分かりやすいでしょう。例えばプロ野球を例にとって見ましょう。

    選手も監督もコーチも、試合の途中では一生懸命にプレーや采配に夢中でしょう。試合を決める場面が訪れます。ここが分岐点だと考えて、代打を送りサインを出します。

    さて、彼らは特異点の中にいるのでしょうか。

    ゲームをブラックホールと考えれば、その中にいるだけで、「特異点の中にいる」と言えるのでしょうか。果して、ゲームはブラックホールなのでしょうか。

    もし、ゲームがブラックホールなら、何も見えないはずです。まして、ゲームで何が起きているのかなど分かりようがありません。

    一方、この試合を観察している人達がいます。球場の観客とテレビで見ている人です。彼らは見ている人ですから、ゲームをブラックホールと考えれば、その中にいないので、選手は「特異点にいる」でしょうが、見ている人は「特異点にいない」ことは確実です。

    ゲームがブラックホールであるなら、ゲームそのものも見られないはずです。でも見ているのです。ということは、ゲームはブラックホールではないということです。

    しかし、よく考えて見ましょう。見ている人でも試合に熱中していると、まるでプレイヤーみたいです。つまり、試合にはまっているのです。ただ見ているだけとは言えないのです。

    とすると、ゲームにはまっている人も、ブラックホールと考えれば、皆ブラックホールの中にいるということになってしまいます。ブラックホールは見えないはずなのに、見えています。

    何がおかしいのでしょうか。

    見えるものはブラックホールではないという原点に戻りましょう。それから言えば、ゲームはブラックホールではないということです。

    先ほど、代打を送りサインを出すなどと、ゲームを描写しましたが、これ自体が、見ているわけですから、ゲームはブラックホールではないと言っているようなものです。

    もう一度、ブラックホールの定義に戻りましょう。ブラックホールには事象の地平面があり、それによって、外と内が区分されます。この区分が問題なのではないでしょうか。内とは何でしょうか。

    この内部と外部と言うところに、手掛かりがありそうです。

    今、完全密閉した部屋があるとします。ここで事件が起きました。どうやって、事件は起きたのでしょうか。事件が起きるはずがない内部で起きたのですから、何かのトリックがあるはずです。名探偵ポアロならこのトリックをどのように暴くでしょうか。

    もし、トリックがあるなら、完全密閉した部屋ではないということです。もし、トリックもなく完全密閉なら、外からでは事件が起きたことも分からないはずです。それなのにどうして事件が起きたと分かったのでしょうか。それは鍵を開けて中に入ったからです。いや入っただけではダメです。出てこられなければなりません。出てこられなければ、外にいる人に伝えられないからです。

    ここが重要な点です。

    トリックがあるとうことは、完全密閉した部屋という前提は始めから崩れているのです。ブラックホールでは、事象の地平面の内部は、仮に仕切っただけの内側ではないのです。

    トリックがある完全密閉した部屋=内部というのは、開けたとたんに外部なのです。入って出てきたら内部は外部なるのです。

    医者が、身体を解剖する場合を考えて見ましょう。医者にとって、患者の身体は外部であり、身体の皮膚は事象の地平面であり、皮膚で囲まれた内側の部分が内部です。

    ところが、一旦、メスを取って身体を切り開きますと、内部の内臓が見えてきます。この瞬間、内部は外部になったのです。これは、完全密閉した部屋=内部の前提がくずれたのと同じ状況です。

    では、内部は何だったのでしょうか。医者と同じように、やっているのが科学者です。生理学者は内臓を開いて内部を見て分析します。更に、分子生物学者は、顕微鏡を使って、細胞の内部を見ようとします。更に、物理学者は、原子の内部を見ようとしています。

    このように内部への挑戦は果てがありません。その逆をしているのが宇宙の科学者です。内部から外部を見ようとしているのです。彼らが見るものは外部であり、見た瞬間に内部となるのです。

    これで分かるように観測技術の精度の問題がありますが、内部を見る、外部を見るというのは、見た瞬間に内部が外部に、外部は内部になってしまうのです。

    ここで、内部とは何か、外部とは何かという新たな問題が出てきてしまいました。

    ブラックホールの内部とは、真の完全密閉された内部であって、メスで切り開けば外部が内部になるような単純な内部ではないということです。入ることは出来ても出こられない内部なのです。

    ブラックホールはまだ見つかっていないのであって、もし、それが見つかればそれは内部が分かったということですから、真の完全密閉された内部ではないということになり、そのときはブラックホールとは言わないでしょう。

    何故、ブラックホールはまだ見つからないのでしょうか。ブラックホールの間接的な証拠はあるようですが、それは完全密閉された部屋を、外から音を叩いて内部の様子を伺っているようなものです。まだ、誰も直接見たわけではありません。

    また、ブラックホールなど存在しないという説もあるくらいですから、これに決着をつけるのはかなり難しい問題を抱えているということです。なにしろ、それが見つかったら、それをブラックホールとは言わないのですから。完全密閉の事件を解いたら、完全密閉とではないと言うようなものなのです。

    さて、内部とは何でしょうか。ここには次元の問題があるのです。三次元の世界で内部と外部を区分けするということが何を意味しているかということです。

    私達がしていることは、仮に区分けするということをしているだけなのです。仮想敵国という言葉がありますが、これと同じように、仮想の内部、仮想の外部を作っているのに過ぎないのです。

    三次元は連続なのです。それを内部と外部と呼んだところで、仮にしか過ぎないのですから、内部が外部となったところで、何も変わっていないのです。単に、人間が認識するために、便宜上、そうしているに過ぎないのです。

    そのいい例が国境でしょう。国家とは人間が都合の良いように、境界を定めたに過ぎないのであって、渡り鳥にとって、国境など何の意味さえないのです。まして、公害の越境が問題失されていますが、
    流動するものにとって、固定化する境などは意味が無いのです。

    三次元の区分など仮に区分しているだけということになってしまいました。では、ブラックホールはどうなのでしょうか。

    そうです。ブラックホールには四次元が含まれているのです。四次元ですから見えなくて当たり前であり、三次元と四次元は真正の不連続なのです。

    事象の地平面の外側は三次元であり、内側とは四次元へのゲートなのです。

    これで、内側の問題をはっきりさせることが出来ました。ゲームをしている人も見ている人も、ブラックホールの内部などではなく、三次元のムジナだったのです。

    明治維新の坂元竜馬も、ゲームのレイヤーにすぎませんから、ブラックホールの内部にいるのではないのです。

    ということになると、先のコンテンツでは「特異点にいる」と言ったことは、間違いだということになります。

    これで終ってしまうと「特異点にいる」を取り上げた意味がなくなってしまいます。四次元能は、とんでもない反転のシナリオを用意しているのです。


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