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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2010年06月28日 22時42分44秒

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    PS理論の基本8:カタストロフの地点

    PS理論の基本8:カタストロフの地点
    <PSとの共振>


    aは実数でありながら現象ではないということは、なかなか理解しにくいところです。

    何故なら、+1は無限大の代わりなのですから、それ以上の実数はないからです。

    このような行き詰まりをどう打破すればよいのでしょうか。

    ガウス平面は内部であると言いましたので、それを手掛かり解明してみます。外部から内部が見えないように内部から外部は見えません。

    このことは、私達が地平線にと喩えて見ればよく分かるでしょう。地平線までは見ることはできますが、その先は見えないのです。当然、地平線の向こう側にいる人は、こちらを見ることはできません。

    もし、自分一人でこれをするとどうなるでしょうか。地平線の向こう側にいる自分とこちらにいる自分、これをどう呼べばよいのでしょうか。

    今、自分が内部にいるとします。ガウス平面は、内部をMPとして心を意味しているので、自分の見える範囲が内部となります。

    つまり、内部の中心、即ち、原点に私がいるとして、その私から見える範囲は地平線であり、それが単位円の淵、無限遠点の+1だということです。

    ただ、この位置は私の位置、つまり、主観の位置なので、誰にも報告ができないのです。もし、誰かに秘密をもらしたら罰が下されるのです。

    鶴の恩返しの話を思い出して下さい。お爺さんとお婆さんは、娘から着物を織っているので、私を見ないでくださいと口止めされたのですが、見てはいけないと言われても、どうしても気になって、ついつい見てしまったのですが、そこには娘はいなくて、くたびれた鶴がいたという話です。

    このなんの変哲もない鶴の恩返しという昔話は、一体何を意味しているのでしょうか。何か重要なことを教えてくれていると思いませんか。

    四次元能らしく解釈をすると、これは自己の指し示しを意味しているのではないかと思うのです。

    これを海舌氏が、自分の分身である「a」が、自分に会うために近づいてくるけれども、「a」が自分だとはっきり分かるほどに近づいてきた途端に、カタストロフ、自己と重なって消え去るという表現で言い表わしてくれました。

    ただ、自分に会うために近づいてくるわけですけれども、それは想像上のことで、実際には、近づいてくる姿は外からは見えないわけです。内から見ると、離れていっているように見えるのですが、それが突然消えてしまうわけですね。外から見ると突然見えるわけです。どちらにしても、途中の姿は見えないのですからカタストロフなのでしょう。

    それでも、何故、実数なのかという疑問が残ります。

    これを解明するには、やはり、MPの問題を明確にする必要があります。

    内側から見れば、実数でも外から見たら、実数とは+1から始まるのではないかと思うのです。内側というのは実はMPなのでないかと思うのですが、如何でしょうか。

    内側から見たMP世界は、原点から無限大までありますが、外から見ると、それがどんなに大きなMPでも、それは点でしかないわけです。

    どちら側にいても、その境界をまたぐときに、カタストロフとなるわけです。

    外側にいれば突然の現象の現れですし、内側にいれば、突然の消滅です。

    波動の収縮というのは内側から見た、つまり、想像して、そう言っているのではないでしょうか。

    又、粒子として見えたというのは、外から見て、つまり、観測して言っているのでではないでしょうか。

    このことをもう少し具体的に検討してみたいと思います。

    鶴の恩返しの話に戻します。

    綺麗な娘と鶴とは自分のことなのです。綺麗な娘となって現れたのが主観的な自分、そして自分の分身が鶴なのです。

    どっちが自分の分身かというのは、自分の本質をどっちに置くかで変わってきますが、とりあえず、主観の自分を本質とします。

    娘を主観の自分とすれば、この物語は、自分が感じたことを口に出して言ったら、それはもう主観=娘ではなくなるということ暗示しています。

    主観の娘=自分を見ようとしたら、見た瞬間に娘が消えてしまったというのは、自分が自分を指し示すことの不条理といいますか、当然の帰結を言い表しているのです。つまり、この物語は客観と主観は、同時に存在し得ないことを暗示しているということです。

    このことをPS理論の文脈で言うならば、主観の娘が消えたということは、単位円が収縮したということではないでしょうか。単位円のMPが元の原点に戻ったのです。

    ですから、後には実軸の世界だけが広がるのです。MP、単位円、複素数の話をしているときは、見えない主観の世界の話をしているのです。

    では、どうして内部を覗くことができないのでしょうか。覗いてはいけないと言われても、覗きたくなるのが人間の本性です。

    鶴の話に出てくるおじいさんとおばさん達は失敗しましたが、実は内部を見る方法があるのです。

    それは簡単なことです。想像することです。

    想像することで、覗くことができるのです。人の心を憶測できるのです。想像することで、自分の内面でさえ覗くことができるのです。

    想像したことを口にすれば、既に述べたように、内面は逃げてしまうことを注意してください。

    想像するとはガウス平面ではどの位置にいるのでしょうか。

    これが、自己を認識する内部でもない外部でもない位置の話に繋がっていくのです。

    これまでの基本事項を要約すると、以下の通りです。

    ・ aは見えない
    ・ ⇒aと⇒+1は雲泥の差がある
    ・ ⇒+1と+1は異なる
    ・ ガウス平面は心の内面である
    ・ 単位円はMPを拡大した図である
    ・ 内部には複雑な構造がある
    ・ 外部でも内部でもあるという特別な位置がある
    ・ 特別な位置とは⇒+1と⇒-1である
    ・ 二人の自分がいる
    ・ <+1の⇒aは現象化していない
    ・ ⇒aと⇒+1は現在進行形の内部の出来事である
    ・ +1、-1は現在完了ないし過去の現象である
    ・ aとは不確定の心、⇒+1は確定の瞬間、+1とは確定の現象
    ・ 心⇒現象、主観⇒客観、不確定⇒確定
    ・ 二回転すると自己が認識できる

    二人の自分がいる、二回転すると自己が認識できるということに関しては、まだ不明な点もあると思いますが、徐々に明らかにできると思います。

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