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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2010年07月14日 11時42分04秒

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    反共振から現象するとした錯覚

    反共振の結果の-1には現象しない
    <PSとの共振>

    上の図は、海舌氏の描いた認識の概念図です。

    私は共振について、間違った暗黙の前提を置いて考えていました。つまり、共振は良い、反共振は悪いという前提と言うよりは錯覚です。それは、共振は良いという主観的イメージで解釈したからです。

    しかし、考えて見えれば、共振には、よい共振もあれば、悪い共振もあるでしょう。例えば、類は類を呼ぶ、腐ったリンゴの話などは、悪い共振の例でしょう。確かにRennsi氏が言うように、石油文明を作った近代的自我は悪い共振の例でしょう。

    更に、良い、悪いには感情的な良い、悪い、知的な良い、悪いがあるでしょう。それは主観と客観という見方でもあります。私は、このような基本的なことさえ、ガウス平面上で位置づけさえしていなかったのです。
    特に反共振については、根本に立ち戻って、よく考えて見なければならないようです。

    無我を否定するとは、どういうことなのかです。その反動としての自我を否定するとはどういうことかなのです。

    自我と無我の関係で言えば、意識=自我と無意識=無我であり、意識と無意識の関係で言えば、意識は氷山一角であり、水面から出た部分であり、水面下が無意識でしょう。

    自我と無我を意識と無意識に対応させるのであれば、自我が無我を否定することなどできないわけです。何故ならそれらは、双子のようなものであり、それらは虚界の分極した性質だからです。もともとの根源を否定するなど天に唾としか言いようがない罰当たりなことなのです。

    確かに、自我は現実的な自分の立場からの判断や知覚を最優先して、内面のイメージや感情を拒否はするでしょうが、無我自体を否定することなどできるわけがないのです。

    孫悟空がお釈迦様を否定することなどできないし、お釈迦様が孫悟空を諭しはしても、否定することなどするわけがないし、双子の片方が消えるときは、もう一方も消える運命にあるのです。電子と陽電子が出会えば、自分達の生まれてきた母体である根源の真空に戻るのです。

    一方、実軸についてですが、現象する場所を実軸+1と-1と考えていました。つまり、虚軸がiと-iに分極するように、実軸の+1とー1に現象が分極すると考えていたのです。しかし、反共振という現象が果してあるのかということです。それが怪しくなってきたのです。それを明らかにしようと思います。

    現象するとは、実体としてあるということであり、存在すということです。虚軸の陰陽、凸凹という対称性が一体化してなくなるということです。

    例えば、オスとメスという分極現象は、実軸の+1と-1に配置してはならならないのです。これは現象なのです。つまり、オスやメスという現象なのです。オス、メスそれぞれの中に陰陽、凸凹という対称性は溶け込んでいるのです。なくなったわけではないのです。その証拠が性であり、凸な優位のオス、凹が優位のメスという具合に現象しているのです。

    性同一性障害というのは、この凸凹という対称性が中間的な状態として現象しているということなのです。

    物質の±も同様です。物質には、正の物質(+)と反物質(-)がありますが、これを実軸の+1と-1に配置してはならならないのです。これは物質現象なのです。暗黒物質という変な物質がありますが、これをどこに位置づけるかは思案中です。

    物質にも、中間状態として現象するものがあります。例えば、中間子、中性子などです。

    要するに、すべての現象は+1であるということです。それを忘れて、実軸に±1にすべてを当てはめようとしたことが間違いの元でした。

    人間のタイプ分析や市場分析は、現象世界のことであり、この私達の日常の世界のことなのです。それをガウス平面の実軸に持ってこようとしたのです。まるで、サッカーにゲームにラクビーのルールを当てはめようとしたようなものです。まだ、サッカーとラクビーは、この世界のゲームですからいいようなものですが、ガウス平面は、内部の世界、つまり、次元が異なる世界の出来事なのです。それを混同してしまいました。

    余談ですが、人間には草食系と肉食系があるという話ですが、それはそのように観察したのですから、正しいとか正しくないとかは別にして現象したということです。

    私もそれと似たように人間の根本的な類型を遊牧系(S)と農耕系(P)と狩猟系と遊農系と分けています。そのSとPの見分け方ですが、特別な話題もなくただ会話をするときにその特徴が表れます。

    身近な話をもってくるのがPであり、遠くの事を持ってくるのがSです。これは渾名のつけ方と同じであり、隠喩(因果が飛ぶ)と換喩(因果が近接する)との関係があります。赤バットとつけるのは、赤いバットを持っているからであり、換喩の例です。亀とつけるのは、のろまだからであり、隠喩の例です。Pは換喩的なのです。Sは隠喩的なのです。

    遊牧系は遠い地平面を気にします。農耕系は近くを気にします。これが空間に対する換喩と隠喩の関係と繋がるのです。こうした違いは、どこから来るのかですが、実は根源の虚から来るのです。いつか、これを掘り下げて人間の性格が虚の対称性に由来していることを示したいと思います。余談でした。

    さて、本題に戻って、何故、私が-1を現象する場所と見立てるような混同をしてしまったのでしょうか。それは、私自身がどちらの世界にも所属しているからです。その切り替えや区分けができなかったのです。

    MP1は私の内部の共立の精神作用(無我)であり、-1に私という人間の心を誘導するのであり、MP2は私の共役(共振)の精神作用(自我)であり、+1に私という人間を現象させるのです。

    ただし、MPの作用は複雑であり、MP1から、ダイレクトに+1に私という人間を現象させることもあります。直感的な行動がそれに当たります。MP1を直感作用の主観世界、MP2を知的作用の客観世界とすれば分かりやすいかもしれません。

    当然、MP1、2は同時に進行しており、+1と-1は同時に生起します。+1を現象というのは、それが見えるからであり、測定できるからです。ですから、人間として+1に現象する場合でも、それと同時に-1に心が生起していることを明記して於いてください。+1身体-1心、±1で心身なのです。MPの作用についてはもっと多様なので別途にします。

    -1は私という人間が想像する心世界であるということです。そういうと、心の世界はMPのことであると言いましたので、齟齬があるように感じるかもしれませんが、MPとは精神作用の世界であり、その作用の結果が+1、-1であることに注意してください。

    MPに裸体の元型(イデア)があったとして、それを想像して裸体のイメージを生起させたら、それは脳内のことであり、-1の世界だということです。つまり、観測されていないということです。大事な会議中に、誰もあなたが頭でそんなことを考えているとは想像もしないしょう。しかし、身体はそこにあるわけですから、あなたは、+1に現象しているのです。

    私は-1の世界=想像する世界と+1の世界=現象する世界を混同していたのです。ですから、-1と+1の世界を、もっと、分かりやすく言ったほうがよいでしょう。

    +1は客観の世界、存在の世界、-1は主観の世界、非在の世界、超越的な世界と言った方がよいでしょう。かえって分かり難くしてしまったかもしれませんが、+1は身体、-1は心の残骸、MPは精神作用と理解しましょう。±1とMPで心身ということです。

    間違いの原因は、i*-(-i)⇒-1を心⇒現象としたことです。確かに、オイラーの式を変形すれば、e^iθ-isinθ⇒cosθから心⇒現象が導かれるのですが、e^iθとe^-iθの共役(共振)からは、常にi*(-i)⇒+1しかでてこないのです。ですから、共振があるなら反共振もあると考えて、無理に-(-i)として、i*-(-i)⇒-1も又心⇒現象と解釈してしまったのです。言い訳になりますが-1の意味を深く考えなかったということです。

    私達の日常世界では、-は負債、負い目、減給などです。しかし、それらは負債企業、負い目を持った人、減給された人ですから現象なのです。つまり、ガウス平面の+1に位置づけられるべき現象なのです。

    つまり、ガウス平面の「-」と日常世界「-」では意味が違うということです。

    ガウス平面の+1と反対の現象として現れる現象として、-1を考えてしまったのです。これが大きな間違いでした。

    この間違いから、i*-(-i)⇒-1を、無我を否定した自我だけの人間の生成過程と解釈したのです。先に述べたように、自我は無我を拒否できますが、無我を否定はできないのです。実際に、自我優位の人はいますが、自我だけの人というのは見たことがありません。

    要するに、i*-(-i)⇒-1が間違っていたのではないかということです。ですから、もう一度、共振の+1、反共振の-1とは何かを考える必要があるということです。


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