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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2010年09月08日 11時13分40秒

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    失恋を受け入れられますか

    失恋を受け入れられますか
    <PSとの共振>

    もし、新しい科学が量子力学を意味するなら、とても、おかしいこと、つまり、イデア科学的なこと、MP:非在(検証できない仮説)⇒実在が起きているといいました。

    それをもっと具体的に示しましょう。

    量子力学の先端では、「ひも」とか「膜」といった理論が出てきており、次元も10ないし、11次元と跳ね上がっています。

    例えば、その先端を走っている超弦理論(超ひも理論)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7%90%86%E8%AB%96は、物質の基本的単位を大きさが無限に小さな0次元の点粒子ではなく1次元の拡がりをもつ弦であると考える弦理論に超対称性という考えを加え拡張したものです。

    宇宙の姿やその誕生のメカニズムを解き明かし、同時に原子、素粒子、クォークといった微小な物のさらにその先の世界を説明する理論の候補として、世界の先端物理学で活発に研究されている理論です。

    この理論は現在、理論的な矛盾を除去することには成功しているのですが、なお不完全な点を指摘する専門家もおり、また実験により検証することが困難であろうとみなされているため、物理学の定説となるまでには至っていないのです。
    ―――
    更に、その上を行く先端の先端はM理論http://ja.wikipedia.org/wiki/M%E7%90%86%E8%AB%96と言われるものですが、現在知られている5つの超ひも理論を統合するとされる、11次元(空間次元が10個、時間次元が1個)の仮説的な理論があります。

    この理論にはひもは存在せず、2次元の膜や5次元の膜が構成要素であると考えられているのです。それらの理論を実証するには、天文学的な予算を必要とする実験装置が必要であり、事実上、検証不可能な領域に入ってしまっているのです。
    ―――
    私が超ひもや膜について解説する能力はありませんが、重要なことは検証できる理論ではないということです。

    検証可能性とは古典科学が捨てないで守ってきたことであり、科学の最後の砦だったのではないでしょうか。それを捨てようとしているのでしょうか。

    第一、10次元などという空間をどうやってイメージすればよいのでしょうか。四次元空間でさえイメージできていないのです。

    いずれにしても、先端の物理は、常識の通じない世界に踏み込んでしまったのです。科学がその対象と観察する者との間を分離できているうちは良かったのですが、量子力学になってきて対象と観測者が分離できなくなってしまったのです。観測者が物理現象に関与してきたということなのです。観測したときに波が粒子になるという表現にそれが端的に現れています。

    観測すると言うことは、見るということ、つまり、見て、判断するということが含まれています。つまり、解釈すると言うことです。四次元能では、世界は解釈であると言ってきましたが、この辺の事情を意味しています。

    つまり、観測するということは意識=心が関与しているということに他なりません。ですから、古典科学が守ってきた心と物を分離する構図が量子力学では崩れてしまったのです。見るという行為が物理現象の認識に入ったということは、他人の心を知るために、私が関与すると言うことに等しいのです。

    現在の心理学では観察者は関与しません。確かに、いろいろと会話をしたりして関与しているように見えますが、決して心の中に入っているわけではありません。

    鉄筋コンクリートの内部にひび割れがないないかどうかを調べるときにX線透過撮影法で調べると同じ方法をしているのです。

    この場合、内部には関与していないのです。つまり、内部は観察者がいようがいまいが、客観的にひび割れはあるか、ないかの状態です。それを調べるだけです。観測者がX線透過させたからといって、内部が変化することはありません。これが物理現象の常識です。鉄筋コンクリートの内部(対象)と観測者は分離されているのです。

    ところが、人の内部はどうでしょうか。人が、観測者(他人)が、相手の心を探ろうとすると、相手は心の状態を変えてしまいます。観測者が何かを問いかけようが問いかけまいが、頑なに心を閉ざしていて、氷のようにかたくなっているということはあるでしょうが、それでも現れた反応は、内部の心を客観的に示しているのでしょうか。それはその人自身が一番良く知っていることです。それを私自身に置き換えればもっとよく分かるでしょう。

    近づいてきた観測者(人)の容貌や話し方で、こちらも態度も変わるのです。観測者が何かを話すか仕草をすると私の内部が変容するのです。

    それまでは心の中は、混沌としており、いくつかの状態が重ね合わせのようでありモザイクの不確定な状態にあるでしょう。それが、一瞬にして確定されて、態度に現れるのです。観測者はそれを見て、その人の心だと解釈するのです。

    これを刑事と容疑者の取調べに置き換えて見るともっと良く分かるでしょう。

    刑事=観測者は、容疑者を犯人と特定するために、科学的な観点から取り調べます。その観点とは検証可能なこと、つまり、アリバイ、物証、動機が、その条件です。

    さて、物証とアリバイは、心の外部の出来事なので、ここでは除きます。問題は動機です。犯罪をする理由(恨みや欲望)があったのかどうかということです。

    動機があるかないかを確定するためには、当然、その事件の背景を調べるでしょうが、なんと言っても、容疑者自身を調べることは必須です。そのために取調べをする刑事は、あの手この手を駆使するのですが、そこでのやり取りの構図は、日常の会話や心理学者が心理療法をするのと変わりはありません。

    つまり、内部=心は見えないということです。観測者としての刑事は、相手がある確定した心=動機を持っているという前提で臨むでしょう。実際にはどうでしょうか。容疑者は、心を閉ざして、全く口を開かないか、饒舌に話をして、無罪を主張するでしょう。

    どちらにしても、刑事からすれば、それが真実かどうかを判断するすべは、話されたことなのです。真実かどうかはアリバイや証拠と比べて客観的に判断されるでしょう。

    しかし、心だけはどうしても掴めないのです。刑事にとっては、その容疑者の態度や話がすべてなのです。それが観測されたただ一つの心の証拠なのです。しかし、それは心を代理しているかもしれませんが、心そのものではないのです。内部は見えないのですから当然です。

    しかし、それでは犯人と特定することはできません。それで仕方がなく観測された事実(アリバイと証拠と動機)に基づいていて、立件して裁判ということになります。

    このプロセスが科学的ということです。

    言いたいことは、科学は心の中にはタッチしていないのです。言い換えれば、現れた言葉や態度を持って、心=動機と看做しているのです。それは、現れた言葉や態度=心の反映と信じているからであり、刑事が詰問しようが、しまいが犯罪をした動機は、その容疑者の心にあるとしているからです。

    この様な刑事と容疑者の関係は、心理学者や鉄筋コンクリートの内部を調べる対象と観測者の関係と同じなのです。

    しかし、科学的ではない日常的な会話では違ってきます。

    例えば恋愛では、相手が自分をどう思っているかを知りたいので、会話をするのですが、どうにも相手の心が分かりません。相手の心の中には入り込めないからです。相手の心を掴んだと錯覚して、独りよがりになって失敗することもあるでしょう。

    相手が好きだと言ってくれたとしても、それが心からのものだとは言えないのです。本当に心は掴みどころがないのです。いや、絶対につかめないのです。そこで、仕方がないので、刑事と同じように、相手の態度や表現されたことから判断して、それが心だと妥協するのです。

    刑事との違いは、刑事は表現されたこと=観測したことは妥協ではなく、真実だと信じていることであり、恋愛(日常生活)では、真実ではないが、真実だと思うことです。この違いは大きいでしょう。

    刑事事件では、もし、それが冤罪だったなら、社会問題になり、警察という存在が否定されるのです。ですから、刑事の観察者としての条件は、科学的であることをもって、冤罪がないことを保証しているのです。それでも冤罪があるのですが、それは科学的に未熟であるとして、逃げているだけなのです。

    「刑事は単なる観測者にすぎず、真に容疑者の心など掴むことはできないのです」とは、制度上、絶対に言えないことなのです。

    しかし、恋愛ではどうでしょうか。恋愛をする人は「私は単なる観測者にすぎず、真に相手の心など掴むことはできない」ということを知っているのです。

    もし、騙されたとしても、相手を恨む人は、それが分かっていなかったということであり、刑事と同じ位置にいるということであり、科学的な考え方の持ち主ということです。

    心を知ることはできないことを知っている人は、もし騙されたとしても、それは自分がそう信じてしまったのであり、責任は自分にあるとして、失恋を受け入れるでしょう。

    さて、科学的な行為の代表の例として、刑事、鉄筋コンクリートの観測者、失恋で相手を恨む人を挙げました。どの場合も、「私は観測者であり、外部に現れた現象は内部の忠実な反映である」ということを信じている構図を持っています。

    それに対して、失恋を受け入れる人は「私は単なる観測者にすぎず、真に相手の心など掴むことはできない」という態度を貫いているということです。

    この態度を一般化して言えば「私は単なる観測者であり、外部に現れた現象は内部の忠実な反映ではない」ということになるでしょう。

    長い話をしましたが、何を言いたかったのでしょうか。それは量子力学が開けた箱はパンドラの箱を開けたのだというとことを言いたかったのです。

    検証可能なことを前提にするのが科学なら、量子力学は科学とは言えないというところまで来たのです。

    量子力学では失恋を受け入れる謙虚な態度と同じことになったのですから、私達の普通の感覚と同じになったとも言えるのでしょう。

    むしろ、科学的な態度の方が、失恋を受け入れないで相手の心変わりを恨むと同じ構図だということですから、偏っている考え方と言えるのではないでしょうか。

    この例で示したかったことは、失恋の場合のように、心の内部は不確定であり、外部からは観測できないのであり、それを観測しようとすると、内部の反映ではあることは確かなのですが、内部にはまた別の可能性もあり、それが表面化したとき、つまり観測したときに、そんなはずはないとなって、恨みに転化するのですが、それは自業自得というものです。

    初めから、量子力学のように、内部は不確定であり、いろいろな可能性の重ねあわせた状態であり、それがあなたという観測者が現れたときに、その一つが出てきただけでありという、そのような考え方をしていれば、失恋も受け入れられるというものです。

    量子力学は、観測できない、従って、検証できないという内部を対象とするということになってきたということです。従って、検証できないものを対象にしないという科学の基盤を捨ててしまったと言ってもよいのです。これを分かりやすく言えば、失恋を受け入れる態度とまったく同じ土俵に立ったとも言えるのです。

    量子力学に限らず検証できない対象を扱っておりながら科学と言っている分野があります。それは進化論です。進化論はどうして物質から生命に意識が生まれてきたかを説明することができていません。それは、余りにも昔の出来事であり、再現して検証できないからです。

    観測不可能な内部、つまり、非在の対象が入ってくると途端に科学の限界が現れてしまうのです。

    こうした科学の限界を突破するには、内部=観測できない領域を取り込まなければなりません。それを新しい科学というならば、量子力学はとっくに、そのパンドラの箱を開けてしまったと言えるでしょう。

    四次元能が、何故、量子力学や相対性理論や宇宙論を探求しているかという答えが、検証できない非在の対象を扱っているということにあるのです。

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