新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

シムダンス「四次元能」

シムダンス「四次元能」>掲示板

公開 メンバー数:58人

チャットに入る

サークルに参加する

ここは自己生成の門ーーー宇宙の原理「動的作用反作用」を使って精神革命の臨床実験中!

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: 生成門さん

    2010年09月13日 08時11分37秒

    icon

    主語論理と述語論理をPS理論で解明する(1)

    主語論理と述語論理をPS理論で解明する(1)
    <PSとの共振>

    三つの自己{+1・0・-1}の自己は固定されているのではなく、同時に起きており、その自己は回転するガウス平面そのものなのだということです。

    ガウス平面が回転するなら、-1と+1以外の途中ではどうなっているのでしょうか。-1と+1以外に出ることはできないのですから、その状態は外部からは見ることはできません。

    ただ、共役した場合には、その値が<1の実数(確率)となるので、仮想的な位置があるということは言えるでしょう。

    仮想的な位置とはどういう意味なのでしょうか。

    内部にいたままでは、自己を観ることはできないので、外部+1に出て、他のガウス平面の内部を見ることにしましょう。対象を観察する場合を想像してください。

    これは、量子力学の波を観測するとときと同じ状況です。例えば電子は内部(見るまでのこと)では、実体のない波(非在)ですから、その位置を確定することはできません。

    観測すると、そこが確定した位置であり、即ち、+1(電子)の位置です。観測しなければ、位置は不確定ですから、どこにいるかは仮想的になります。それを確率で示すことができます。それが共役した値なのです。

    このことを人間の心に当てはめてみましょう。

    他人の心を見るためには、自己が+1の位置にいなければなりません。このことは、瞑想(-1)しているときに他人と会話(+1)はできないということを想像すれば理解できるでしょう。上の空では仕事もはかどりません。

    その上で、他人の心を観測するのですが、心は内部では波ですから、その位置を確定することはできません。観測すると、そこが確定した位置であり、即ち、+1の位置です。観測しなければ、心は不確定ですから、どこにいるかは仮想的に確率で示すことしかができません。それが共役した確率という値なのです。

    仮想的な確率の位置とは、結局、想像でしかないわけです。ですから、読むことはできても、他人の心は直接には見ることはできないのです。+1に現れてきた私(見るもの)と他者(見られるもの)という二人という自己(自我)は、確定した心の現れです。そして、共に観測者(他者も、私が他者を見ている様に、私を見ているということ)として出合ったということなのです。

    その時には当然二人のガウス平面は消滅しているのでしょう。消滅するということは実際にはないのですが、意識から内部の自己が一時的に忘却されると理解すればよいでしょう。

    ですから、外界を認識するということは、自己が観測者として+1の自我の位置にあり、その自己が、他者ないし、物質を観測しているということを意味しているのです。観測された物質ないし、対象は、物質(対象)自体ではないということは申すまでもありません。観測された物質(対象)を、私と関係なく存在していると思うことは、勝手ですが、それこそが自我の作用だということです。

    ところで、外界を認識する自己は、自我としてその位置に何時までもいるわけではなく、絶えず、+1と-1の位置を行ったり来たりしています。これがガウス平面は意識から一時的に消えても、なくならないという意味です。

    つまり、ガウス平面を持つということは生きるということそのもののことであり、人間は内面の-1の非在としての科学的思考、数学的思考、日常の思考(感情も含めて)、その他の思考をすべて動員していて生きているのです。

    他者となって生きることが自我の状態と言いましたが、この場合の他者とは、内部の他者であり、上で述べた観測者として他者とは異なることに注意してください。

    観測された物質と物質自体とが異なるように観測者としての他者と観測された他者とは違うのです。観測された他者は私の内部の他者のことであり、それが自己と同一視されて、自我の位置+1に他者として現れたのです。それが自我=他者という同一性の構図なのです。

    <他者の構図>

    虚軸:凸i(原自己)・・・凹i (原他者)

    虚軸の差異の共役(共振)・・・凸i(原自己)*凹i (原他者)⇒+1(自我=凹i=他者)

    虚軸の差異の共立・・・凸i(原自己)♯凹i (原他者)⇒-1(内部の自己と他者)

    -1(内部の自己と他者)から+1への反転・・・これを解明することが今回のテーマ

    他者の構図からも分かるように、観測者としての他者など絶対に+1に実在しないのです。実在しているのは、(観測者としての)他者を観測したときなのです。観測するまでは、非在の他者として-1には現れているでしょう。

    ですから、今後、他者といったときは内部の他者(ただし、自我と同一視される+1の他者)であることを忘れないでください。

    自我人間は他者となって生きると言いましたが、言い換えれば、外界に意識が向いているということです。対象に意識が向っているということです。対象を志向する人間(対象を志向する人間)、対象を指し示す人間とも言えるでしょう。

    自我と対象という構図(自我→対象)があるのです。見るものと見られるものという構図があるのです。

    自我人間が他者となって生きているだけかというとそうでもないのです。そのような人でも、ちゃんと、別の場面では内的な自己を生きているのです。

    ただ、自我に強く支配されている人が現代人です。現代人は仕事(対象)に埋没していることを余儀なくされているので、自己が固定されてしまうことが多いのです。つまり、自己が流動的でないので、なかなか、自己を開放できないのです。休日にレジャーなどで開放感に浸るのが積の山でしょう。

    そこで、自己が自我に固定されるということの意味を考えてみたいのです。

    自我とは他(他者ないし対象物)と同一視することですが、この同一視には二つの仕方があるということです。

    一つは主語的な同一視であり、もう一つは、述語的な同一視です。主語的な同一視とは、私が対象と一体化するということです。その心理プロセスは、「私は高い位置にいる。富士山は高い。だから、私は富士山である。」というように思考します。この思考は換喩的であり、三段論法です。つまり、富士山の属性である「高さ」を代表させて、自分の位置を喩えているのです。つまり、自己を説明しているのです。

    このように主語の特徴を持って、主語を説明する考え方が換喩であり、これが、主語=私=自我を先とする思考の中心となるのです。このような論理を主語である私と富士山を同一視(私=富士山)するので主語論理と言います。主語論理の特徴は、「私は富士山である。」の「である」が強調されるのです。

    それに対して、「私は高い。富士山は高い。だから、私は富士山である。」というように思考したとします。一見、主語論理と変わらないように見えますが、この思考は隠喩的であり、水平に瞬間移動する論法なのです。

    つまり、私と富士山の述語である「高い」の共通性を持って、私を富士山に喩えているのです。つまり、私は富士山の「ようである」と自己を説明しているのです。

    このように述語の特徴を持って、主語を説明するというより、水平に瞬間移動して主語を消してしまう考え方が隠喩なのです。

    これが述語を先とする未開の思考と同じ特徴を持っているのです。生きる原点志向、生きる場の思考と言ってもよいでしょう。このような論理を「高い」という述語で、私と富士山を同一視(私=富士山)するので述語論理と言います。

    何故、ここで、主語と述語論理を持ち出してきたのかといいますと、自己が自我に固定されるということの意味を考えてみたいからです。

    主語ありきの思考とは、図書館のシソーラスの分類のようなものなのです。シソーラスは木構造のことであり、ピラミッド構造のことであり、ツリーデータベースのような管理体系です。車の部品表のことです。

    例えば、コンピュータで車のデータベースを作成するには、車という主語(実体=オブジェクト)が先になければなりません。車は車体とエンジンとその他で構成されており、更に車体は、いつくかに分類されます。

    こうして、細部に分解していくことで、部品表というツリーができます。この体系は「である」の連鎖でできています。車という同一性が失われないことが体系という意味なのです。車=部品1+部品2+・・・+部品n=Σ(部品)なのです。

    こうした考え方のすべてが、自我、科学、日常の思考にまで浸透しているのです。
    ですから、自我を解体するなどと、軽い気持ちで言っては見たものの、それはこの思考を捨てるということに等しいのです。そんなに私達の思考の基本をとなっているなら、自我の解体など本当にできるのかという疑問が湧いてきたのではないでしょか。

    自我を解体するとは、主語論理を捨てるということであり、それは、即ち、階級制度、官僚制度、規律、文化、血統を捨てるということに等しいのです。私達は骨の髄までシソーラスでできているのです。

    これを、PS理論の文脈で考えて見ましょう。


    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全0件