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  • from: 生成門さん

    2011年03月09日 18時59分56秒

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    観念的同時と共時性

    観念的同時と共時性
    <共時性の不思議>


    同時については、観念的同時、因果的同時、物理的同時があり、光や因果、観測と認識、時間と空間が複雑に関係していることが分かりました。

    また、共時性とも関係がありそうです。

    今後、更なる探求をしていきますが現段階で理解したことを図にしました。

    因果的同時を現在と未来にしましたが、過去と現在にした方が適切でしょう。春が終わると夏になりますが、春と夏に観測者が同時には存在できないからです。









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from: 生成門さん

2011年03月13日 11時29分29秒

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「Re:Re:Re:観念的同時と共時性 続き」
海舌さん

> >  一方、共時概念は、二人以上のファクターが必要になるのはないでしょうか。この点で、相対的な理解に留まるのでは、と思われます。但し、研究を進めて頂きたいです。

確かに、自他といっても、見る者(自)と対象(他)という自己内部の関係ですから、観念的同時の精神過程-1⇒+1では一人芝居(対象は内部化されている)です。

現在の星(対象)を現在の私(見る者)は見ることができないので、類推するしかありません。そこに「ある」と確認できないし、断言もできないのですから、「-1⇒なし」観念的不同時です。

従って、観念的同時の完結とはならないのですね。観念的同時では、時間の遅れを無視しましたが、もし、この場合でも、時間を超越(無視)して認識できるなら観念的不同時が観念的同時なることがあるとも言えるのではないでしょうか。

この場合は、光によらない、観念的同時の完結=共時となります。そうなら、一人芝居でも共時はあるのではないでしょうか。果して、時間を超越(無視)する共時があるのでしょうか。

これを、今、追いかけているところです。

例えば、量子のもつれは、量子ペア(a,b)が時空を超えて関係を維持しています。この場合、観測者がaを観測するという条件が付きますが、見る者とaの関係に着目すれば、見る者とaは観念的同時-1⇒+1となります。

一方、bは観測できないので、-1⇒なしとなります。しかし、この場合、見る者は、時空を超えて量子ペア(b)の状態がaの反対であると観測しなくても類推して断定できますから、-1⇒+1(?)としてよいのではないでしょうか。

星が現在そこにあると類推するのとは違って実在を断定できるのです。観測によらない認識を観念的同時の認識と認めるかどうかですが、量子のもつれはそのためのいい題材だと思います。

<星の場合>
見ている星は観念的同時:-1⇒+1
現在の星は観念的不同時:-1⇒なし
1万光年の前の星の類推は観念的不同時:-1⇒なし
1万光年の前の星をインターネットで見た場合は観念的同時:-1⇒+1

<量子のもつれの場合>
観測した方の量子は観念的同時:-1⇒+1
もう片方は観念的不同時:-1⇒なし

ただし、片方だけを観測して量子ペアを同時に観測したという同一視できる実験を確認した場合:-1⇒+1

類推だけでは観念的同時は完結しませんから、その対象は存在しません。ですから、+1には出てこないのですが、断言できるほど確認できるようになれば、観測できなくても、実感に近いのであれば、+1にでてくるとしてよいのではないでしょうか。

言って見れば仮説的認識と法則という認識のような関係しょうか。仮説では、検証されていないので、観念的同時の認識で、存在そのものは不明なので、観念的不同時としてもよいのですが、法則になると、存在を確定できるのですから観念的同時の完結としてもよいでしょう。
  
仮説:-1⇒なし
法則:-1⇒+1

確定ができない類推:-1⇒なし
確定ができる類推:-1⇒+1

量子ペアでは、片割れについては観測しなくても、「こうである」と断言できるようですので、片割れについても観念的同時の認識が完結したと言えるのではでしょうか。

「見てきたような嘘を言う」と良く言いますが、過去の星でも観念的同時が完結して存在が「ある」言っているのですから、見なくても、「言ったこと」は嘘でも、錯覚でも、原理的にでも断言できるなら+1(存在する)として良いということではないでしょうか。

マニュアル主義者が、何の実感もなくて行動した場合は、事の良し悪しは別として、存在を認識していると言ってよいのでないでしょうか。

類推的認識は「存在を認識していない」から、反対の結論「存在を認識する」ことがあるになってしまいましたが、更に探求を続けて見ます。

現在の星の場合の類推的認識:観念的同時に認識は完結しない。絶対的な観念的不同時です。

マニュアル主義者の類推的認識:観念的同時の認識が完結することも(行動しない頭でっかち)しないこともある。(無責任な盲目行動)

「だろう」運転者の類推的認識:観念的同時の認識(大丈夫だろうと思う)が完結することがある。(事故を起こす)

これは誤った観念的同時の認識で、観念的同時が完結してしまい、事故を起こしたケースですが、認識の良し悪しは別として、事故という存在に接続したという意味で-1⇒+1は成り立っています。

仮説的認識:類推的認識と同じでどちらもある。検証できないようなフリーエネンルギー仮説なら⇒?ですから、観念的不同時ですが、検証できるなら仮説⇒検証ですから、正しい仮説か正しくないかは別にして、観念的同時の認識が観念的同時として完結したと言えます。

法則的認識:正しい仮説が生き残ったのですから、観念的同時の認識がいつも確実に観念的同時として完結することを保証してくれます。本当に法則的認識が正かどうかは別にして、そう信じているのなら存在していると言うことです。

事実的認識:見たものは存在していると言うことですから、観念的同時の認識がいつも確実に観念的同時として完結することを保証してくれます。事実的認識の誤認があっても、その時点では、存在していると言ってもよいでしょう。

体験的認識:事実的認識と同じです。
見ること:事実的認識と同じです。
実感的認識:事実的認識と同じです。
妄想的認識:類推的認識と同じです。
マニュアル的認識:類推的認識と同じです。

観念的同時に認識(-1)と観念的同時に完結(-1⇒+1)の関係は、仮説、妄想、マニュアル的認識、「だろう」運転などを検討してみましたが結構複雑ですね。

ところで、量子のもつれは一人芝居(見るものが一人)ですが、気を送るような場合は二人芝居(見る物が二人)ではないでしょうか。

ただ、見方を変えると、一人芝居でも良いかもしれません。というのは、気を受ける側が気を感じれば、送った相手との相互作用を確認しなくても、気を受ける側だけに着目すれば、観念的同時は成り立つからです。

閃きのような場合は、明らかに一人芝居ではないでしょうか。

もう少し、探求が必要ですが、相互作用のある共時と関係だけがある共時(観念的同時)とを区別しなければならないかもしれませんね。

これについてはもう少し探求してみます。

> >  認識に、光は付随的な要因だと思います。光を媒体にしなくても、認識可能なことは在ると思います。例えば、超越的存在の認識です。但し、虚数空間自体が、電磁関連作用なので、媒体としての光の重要性は理解しています。但し、虚数的な光や虚数的な時間を含めて、将来的には考えて行きたいと思います。また、重力や量子段階の認識構造などが光との関連で考えるべきなのか、光とは無関係なのか、この点も今は不明です。

私の方は、この領域にまもなく突入します。できましたら、早い、解明をお願いいたします。

> >  あまり先のことを類推しても、間違いを起こしやすいので、取り合えず、生活空間に於いて、認識されたものは存在する、観念的に同時に存在している認識があるのに、類推的には、異次元(異なる世界)に存在しているように考えられる場合、そこに、時間と空間の概念が出てくる。だから、観念的同時の概念こそ、根本的な概念だと思われます。

光を媒体にしない認識は、それが類推であれ、仮説であれ、妄想であれ、幽霊であれ、超越的認識2:MP1⇒-1としましたが、光を媒体にしない超越的認識1:MP1⇒-1とは区別していません。

幽霊の存在を認めるかどうかの議論になると思いますが、それには、観念的同時の完結編:-1⇒+1について、見ておかなければなりません。

常識では、幽霊は存在しないのですね。

幽霊のイメージ⇒なし(実在しない)

しかし、「幽霊が出た」と誰かが言ったとします。

幽霊のイメージ⇒言葉で表現された幽霊

妄想的認識では、妄想者が存在すると思えば存在するし、存在はしないと思えば存在しなません。マニュアル主義者は、事実が存在しようがしまいが、無責任に行動してしまいます。

その場合は、マニュアルによって事実が存在していると思っているのですから、マニュアル主義者にとっては存在しているのではないでしょうか。

さすがに、企業経営はサバイバルゲームですから、妄想者やマニュアル主義者の経営者はいないでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。

そのことを理解するために飛行機の操縦を例に出します。

計器飛行になった現在は、計器に示される数値が認識=存在(内部と外界に状況)そのものです。

パイロットにとって、見たもの=数値認識⇒存在(内外の状況)となり、マニュアル認識⇒存在(対象)と同じ関係になります。

つまり、見たものは代替指標でも認識は認識ですから、それを信じて存在するとしているのです。しかし、パイロットにとって計器に示された数値は存在を信じる唯一つの手掛かりなのでしょうか。

そのようなことはないでしょう。そこにこそ、超越的認識2の観念的同時の認識:MP1⇒-1が入ってくるのです。

現代の企業経営では計数によるマネジメントが主流ですが、理論と経験とが混在しています。数値や体感的認識から直接的、間接的に存在(例えば、顧客のニーズ)を把握するでしょう。

しかし、それだけでは、十分とは言えません。経験から来る直観や暗黙知といった知が動員されます。このような知こそが超越的認識2の観念的同時の認識:MP1⇒-1なのです。

一方で、無謀運手があると同じように、無謀経営もありますから、未経験から来る直観や未熟な暗黙知といった無知が動員されます。このような無知も超越的認識2の観念的同時の認識:MP1⇒-1なのです。

産地の偽装行為は、ばれないと観念的同時を認識(判断)して、産地を偽装したのですから、ばれることは想定(類推)していないのです。従って、この経営者にとってばれないという事態は存在していますが、ばれるという事態は存在していないです。

いずれにしても、事態は存在しているということですから、MP1⇒-1(暗黙知の認識)の作用があり、次に偽装行動という-1⇒+1があり、観念的同時が完結したと言えるでしょう。

見ていない星を類推して観念的同時の認識:MP1⇒-1としたと同じように、ばれる・ばれないという事態の想定(類推)は、超越的認識2=観念的同時の認識:MP1⇒-1なのではないでしょうか。

見ていない星を存在とするかどうかは情報との兼ね合いであり、ばれる・ばれないという事態の想定から実行するかどうかは、本人の確定程度できまります。

類推の場合、存在を認識するかどうかは、
本人次第ということになるのではないでしょうか。

どんな経営者でも、パイロットでも、視界不良となれば、実感がなくても、計器の数値を頼りにして、経験や直観を頼って、最適な意思決定をするでしょう。つまり、計数+直観+経験(暗黙知)⇒行動となるでしょう。

計数認識は超越的認識1の観念的同時の認識:MP1⇒-1であり、直観+経験(暗黙知)は、超越的認識2:観念的同時の認識:MP1⇒-1であり、これらが混在した認識によって、人間は存在を自己の確信度によって確認して、行動(+1)しているということではないでしょうか。

すべての認識の根源は超越的であり、観念的同時が基本であるということを確認できたとお思います。

ここまでを要約しておきます。

認識1:

 認識1a>

  超越的認識1a=観念的同時の認識:指し示しの認識(内部化)
   MP1⇒-1(見ることなど)

 認識1b>

  超越的認識1b=観念的同時の認識
   MP1⇒-1(暗黙知や類推や夢など)

認識2>

  超越的認識2=観念的同時の完結
   -1⇒MP2⇒-1

認識2>

  超越的認識2=観念的同時の不完結(観念的不同時)
   -1⇒MP2⇒なし

超越的認識2による観念的同時の完結・不完結(観念的不同時)の分岐:主体者の観念的同時の認識による存在に対する確信度による

気や念という現象は時間や空間を前提としない共時的認識ですから、超越的認識1b=観念的同時の認識:MP1⇒-1(暗黙知や類推や夢など)としても良いかも知れません。

類推から存在を確信するときがあるなら、気や念から存在を確信するときこともあり、その場合は、超越的認識2=観念的同時の完結:-1⇒MP2⇒-1となります。この共時的な気や念からについてはこれからの課題とします。

さて、長くなりましたのでここでやめます。

私の方は臨床的なので、修正を覚悟で類推を重ねていきますので、よろしくお願いいたします。

生成門

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from: 生成門さん

2011年03月13日 11時28分38秒

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「Re:Re:Re:観念的同時と共時性 続き」
海舌さん

> >  しかし、眼前の星の存在は、絶対的な真実ですし、見えていれば、存在の認識を確信できます。

確信こそが存在なのですね。

この目の前に見えている星こそが存在していると確信しているですから、実在+1としてよいのですね。それは過去の姿であれ、見えていることは確実なのですから、錯覚だとしても実在+1であるということですね。

> >  観念的同時は、自分ひとりで確信出来ることなので、超越的な認識だと思います。

見た物を実際にそこにあると確信する精神過程を-1⇒(MP2)⇒+1とすれば、これを超越的認識2としました。

ただし、認識を存在に接続する作用した後、更に、その存在を再認識するのですから、+1⇒(MP1)⇒-1なり、認識はループ(再入力)します。つまり、超越的作用は観念的同時が循環すると言えるでしょう。

単純に、認識を存在に接続する作用だけをいう場合を超越的認識2:観念的同時の完結とします。

続きます。
生成門

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from: 生成門さん

2011年03月13日 11時26分48秒

icon

「Re:Re:Re:観念的同時と共時性」
海舌さん

> ここは、哲学的に、スパッと、割り切ろうと思っています。
> 光とか、重力波とか、量子とか、そんなもの全部忘れて、「認識したものは存在する」と「認識」することにしませんか。

割り切りは必要ですね。問題はどのように割り切るかですね。

「認識したものは存在する」と「認識」する。なるほど分かりやすいですね。

「見た物」は「ある」と「する」ですね。

>目を閉じて、心の奥に見える映像も、その時点では、「存在する」と認識している、と考えます。

目を閉じて、心の奥に見える映像=-1
「存在する」と認識したもの=+1
としてよいでしょうか。

簡単に、見たイメージを-1、その表現された物を+1とします。

今、地震のニュースを見ていますが、これによって私は福島県で地震があったことを認識しました。

地震のイメージ:地震があったことを想像する=地震の認識=-1
地震の存在:地震の認識を認識する=地震を確信して表現するなど=+1

認識は、対象を存在していると認識1することと、その認識1を認識2するという二重構造になっています。

認識2は、行動するとか、表現するとか、対象に対しての働きかけとなり、それを自己が認識1できますので、循環構造(認識1⇒認識2⇒認識1)となっているのでややこしいのですが、取り合えず、認識1から検討します。

認識1は「見る」という視覚以外の認識(感じる)も含めます。

一方、私は地震を体験しましたから、地震があったことを既に認識しています。

体験とは揺れを体で感じたことです。従って、この感覚が認識1の基本です。

感覚→感知→判断→認識1という内部プロセスがあると思います。割り切って、プロセス全体を認識1と言っても良いかもしれません。

もっと言えば、認識1とは「見ること」=「感じる」ことと言えるでしょう。

地震を体験して直接知る場合と、それをニュースで知る場合があることを示しましたが、ニュースで知った場合は、認識と事象の間には時間の遅れがあります。しかし、認識したのですから、それが過去であったとしても地震が存在していると言えます。また、直接知った場合でも、震源地からの時間の遅れがありますから、認識1は過去についての認識だということになります。

現在、直接体験した場合でも、体で体感したことを頭で認識するまでには時間がかっています。ですから厳密に言えば、過去の体験だと言うことです。

つまり、感知・・・認識の間は空間(距離)によりますが、時間がかかるということです。

しかし、認識には、必ずMPの作用が作用しており、超越的だということです。
ですから、光を媒介にした時間と空間を前提にしていますが、認識1は超越的ですから、この時間・空間を無視することにします。

すると、感知=認識となり、認識は存在であると割り切ることができます。

遠くで起きたことでも、報告されたことでも、直に体験したことでも、その時間空間を無視して、認識できればその出来事は存在しているとします。

この認識=存在:-1⇒+1が観念的同時の完結ですね。しかし、ここではMP1の認識と⇒+1の認識を区別していません。

区別しておきましょう。

-1の段階では、見ることで対象を内部化(頭に中に取り込んだ)したということに過ぎなく、まだ、存在を認識2できている(存在を認識1したと認識2すること)とは言えませんが、内部化を前段の認識1として、観念的同時の認識1ということにします。

時間と空間を無視することで、存在の認識は観念的同時の認識であると割り切れたのですが、更に、認識1を認識2するという後段(外部化)があります。

観念的同時の認識には、光を媒介にした見る物と対象という関係があります。

この見る者・・・・対象の脳内作用を複素平面でどのように対応させればよいのでしょうか。

私は次のように理解しています。

見る行為や感じる体験には、MP1の志向作用(無意識⇒対象)という指し示しが先ずあります。これを超越的認識1a:観念的同時の認識(観念的同時の完結とは区別します。)とします。

見る者と対象の関係は自と他の関係ですから、凸iと凹iという内部MP過程(無意識⇒対象⇒自他分離)を経て、目に見えた物(対象)が非在の対象(イメージ)として-1の位置に出てくるとします。

これを厳密に表現すれば、指し示し:MP1⇒感知対象、対象の内部化(感知ないし見たということ): MP1⇒ 対象のイメージ(-1)です。自他までを表現すると、即非のMP(自他)ですから、MP1(凸i♯凹i)⇒非在のイメージ(-1)です。

指し示しのない、つまり、感知しないで、非在(夢のような出来事)が出てくるときもありますが、この場合もMP1⇒ 対象のイメージ(-1)です。これを超越的認識1bとします。この場合も、観念的同時の認識です。しかし、まだ完結はしていません。

超越的認識1:観念的同時の認識(単に認識1)

光を媒介にした認識 1a
  超越的認識1a:
指し示しの対象⇒MP1⇒ 対象のイメージ(-1)

光を媒介にしない認識 1b 
超越的認識1b:夢・妄想・仮説的な発想
  MP1⇒ 対象のイメージ(-1)

指し示しの後、目を閉じても残像としてある場合は、非在(残像)ですから、この場合もMP1⇒ 対象のイメージ(-1)です。これは超越的認識1の観念的同時の認識としてよいでしょう。

指し示しの対象⇒MP1⇒ 対象のイメージ(-1) ・・・(目を閉じる)・・・MP1⇒ 対象の残像イメージ(-1)

対象の内部化を非在としたのは、認識=存在となる観念的同時の完結プロセスを明確にするためです。ですから非在の段階(-1)では、まだ、認識=存在:観念的同時は完結していないということです。

認識は、内部化されると、見る者と見られる物(対象)という対の関係になりますから、自他の作用として-1(凸)=見る者と-1(凹)=対象に分離して理解した方がよいのでしょう。

見られる物の非在のイメージは-1(凹)ですから、第3象限ですが、限りなく実軸-1の位置に近いということになるでしょう。

この見る者と見られる物(対象)の関係を割り切って非在=-1とします。-1はイメージであり、三つのケースがあることになります。

<観念的同時の認識>
認識1:対象(存在)の認識(MP1⇒-1)
認識1a=超越的認識1a=見たもののイメージ
認識1b=超越的認識1b=夢・妄想・類推・残像としてのイメージなど

<観念的同時の認識の完結>
認識2:存在の認識の認識(-1⇒+1)
=超越的認識2

次に、-1の非在のイメージがMP2の認識作用(意識⇒対象)によって、実在するものとして+1の位置に反転させます。これが観念的同時の認識を存在に結びつける作用であり、存在を認識し(内部化=-1)、つまり、「存在の認識」を「認識する」(-1を+1にする=外部化)という二段構えとなっています。

これをもって観念的同時の認識の完結とします。

二段構えの認識作用(観念的同時の認識の完結)には、見たものを(対象のある場合)、頭で思ったこと(対象のない場合)を、体で感じたこと(対象のある場合)が混在していますが、いずれにしても、一旦非在(-1)として内部化して、それを外部化(+1)するプロセスがあるということです。

これが、認識したものは存在することを認識するということの私なりの理解です。これで良いのでしょうか。

二段構えの認識構造は{「認識1=存在」認識2}を簡単に-1⇒+1と表現しますが、-1にMP2が作用して、+1になること、つまり、-1⇒(MP2)⇒+1であることを忘れてはならないでしょう。

それを忘れなければ、観念的同時の認識の完結{「認識=存在」認識}を⇒+1、又は+1と表現してもよいでしょう。

いつ、どのようにして非在から実在に反転するのか、その(MP2⇒)の作用についてはまだ巧く説明できません。いずれ挑戦してみたいと思います。

ここで重要なことは、目を閉じても見えるもの=認識1したもののイメージ=-1=非在とそれを外部化した物それ自体(認識2されたもの)=存在+1は区別されなければならないということです。

この区別は、「思う」ことと「やったこと」「言ったこと」ことは別の事として区別しています。

この区別をすれば、思ってもやれない、思ったことを直ぐに口に出すとか、殺意のあり・なしなどという現象が簡単に説明できます。

-1⇒+1のいろいろな例

思うこと⇒やったこと
思うこと⇒言うこと
殺意あり⇒事件(殺人事件)
殺意なし⇒事件(致死事件)

さて、認識のプロセスには、内部化(指し示し:見る⇒対象)と外部化(-1⇒+1)があり、内部化にはMP1が、外部化にはMP2が作用しているとしてのですが、MP1の直接的な外部化のルートもあるようなので、更なる吟味が必要となります。

それに見る者と見られる物の関係が+1と-1には必ず凸凹が付帯しているということも重要だと思います。

ただ、自=凸と他=凹を-1(凹)と-1(凸)、+1(凹)と+1(凸として、毎回表現するのは面倒なので省略しますが、自我を語るときはそうはいかないので、ケースバイケースということになるでしょうか。

この多様性については、海舌さんが提示された+凸凹+, -凸-凹などの64パターンを使うとことになると思いますが、今はまだ私の能力が置いてついていません。

> >  星を見ていない時は、星が存在すると類推できますが、「存在を認識」していません。

類推した星は「存在を認識」していないということですが、二段構えの認識に言い換えると、{「存在の認識1」を認識2できない}となります。

更に、言い換えると、その星(-1)は「あるだろう」と認識1(類推)するが、見ることができないから存在するとは言えない、つまり、認識2できない(+1はない)と理解します。

これを、式で表現すると{MP1⇒-1⇒なし}です。

この意味は、類推した星:非在-1(-凸又は凸-)は「存在」していないのですから、当然、+1には出てこないということです。つまり、MP2 の作用(-1⇒+1)が励起されないということです。

{「存在の認識1」を認識2}しているとは、MP2 の作用(-1⇒+1)が励起されて、非在と実在が一致している:-1⇒+1、これが観念的同時の完結ということになります。

{MP1⇒-1⇒なし}は、観念的同時の認識はある(そこに星があると思う)が、観念的同時は完結していない(あることを確認できない)観念的不同時ということになります。

これを、何かの事件を目撃したことに応用してみます。

{「存在の認識1」を認識2}=(-1⇒+1)は面倒なので、認識=存在と表現していきます。

認識=存在:事件の目撃⇒事件が存在する(観念的同時の認識があり、観念的同時が完結している)

認識≠存在:事件を目撃していない⇒事件は存在しない(観念的同時の認識もなく、観念的同時も完結していない)

事件を目撃していないが新聞で知った場合はどうなるでしょうか。

認識≠存在:知ってはいる⇒事件は存在しない

この場合は、観念的同時の認識はある(事件があったことを思う)が、観念的同時は完結していない(事件を確認できない)観念的不同時(-1⇒なし)ということになります。

しかし、この場合は、もうすこし厄介です。

事件に関する情報が更に入ってくるので、確からしさがましてきます。つまり、事件のことを詳しく知り、確信を持てるようになり、認識=存在:事件を確信する⇒事件は存在するとなります。これは観念的不同時が観念的同時に反転する例です。

これを星の場合に対比させると、

認識=存在:見ている星⇒星は存在している
認識≠存在:類推している星⇒星は存在していない

となります。

この場合は、類推している星が現在の星を意味しているのであれば、絶対に確認が取れないのですから、星は存在していないので、観念的不同時が観念的同時に反転することはありません。

同時刻の同時は絶対有り得ないのですが、同時を現在の同時としなければ、星の場合のように過去の姿を見ていることでも観念的な同時とすると、事件の場合と同じように、最初は情報がなかったので観念的不同時ですが、情報が入ったことで観念的同時に反転したように、観念的不同時が観念的同時に反転することはよくあることです。

それを見ておきましょう。

<地震の場合>
認識≠存在:地震を感じない⇒地震が存在しない(観念的不同時)
認識=存在:地震があったことをニュースで知る⇒地震があったと認識する(観念的同時の認識はあるが、まだ、信じられない場合は、観念的不同時)

認識=存在:地震があったことを更にニュースで知る⇒地震があったと確信する(観念的同時の認識があり、確信するから観念的同時が完結する)

<事件の場合>
認識≠存在:事件を目撃していない⇒事件は存在しない
認識=存在:事件の報告を受ける⇒事件が存在すると認識する(観念的同時の認識があり、確信するから観念的同時が完結する)

<星の場合>
認識≠存在:類推している星⇒星は存在していない(観念的同時の認識があるが、確信できないから観念的同時は完結しない)

認識=存在:インターネットで星を見る⇒その星は過去の姿であることは分かっているが、星は存在していると認識する(観念的同時の認識があり、確信するから観念的同時が完結する)

認識≠存在:類推している星⇒星は存在していない(類推している星が現在に姿である場合、決してインターネットで星に映像を見ることはできない=観念的同時の認識があるが、確信できないから観念的同時は完結しない)
少しくどくなりましたかね。

> >  何万光年前の星を演繹的に類推できますが、それを実感できません。(当然のことですが。)

類推できるが実感できていない:-1⇒なし(認識は出来るが、存在を認識しても、それを認識できない:観念的不同時)

つまり、類推は存在を認識していないということですね。でも、インターネットでその映像を見れば、それはそれで納得するでしょうから、観念的不同時が観念的同時となるということになるのではないでしょうか。

しかし、宇宙の果てとかの想像図がインターネットにありますが、これを見て、観念的同時が完結するのでしょうか。

想像図は想像(-1)の表現(+1)ですから、宇宙の果てそのものの表現(+1)ではありません。ですから、宇宙の果ての想像イメージ(-1)はある(観念的同時の認識)としても、それを実在するとは思えないのです。

ですから、-1⇒なしです。しかし、将来、過去の宇宙の果ての姿を、ハッブル望遠鏡が映したら+1に反転するかも知れません。

観念的不同時が観念的同時となるようなことは日常でも良くありますね。

その典型は、マニュアル主義ですね。マニュアル主義者は経験がないのでマニュアルを信奉するので頭でっかちとなってしまいます。これが、頭では考えても行動できない人間を評する言葉となるのですが、マニュアル認識≠存在:-1⇒なしで、観念的不同時となります。

ところが、マニュアル主義者も仕事となると義務感でマニュアルに書いてある通りに行動するので、-1⇒+1観念的同時となります。このような観念的同時行動は盲目的ということになりますが、マニュアル認識は類推的認識とは違うのかどうかを吟味する必要があります。

同じなら、類推的認識=存在:観念的同時が完結することになってしまうでしょう。

マニュアル主義の観念的同時の完結が、-1⇒+1だとしても、自信を持って行動する場合-1⇒+1と区別ができません。今は、マニュアル主義の可否を問題にしているのでないので、これについてはここでは言及をしません。

続きます。
生成門

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from: kaisetsuさん

2011年03月09日 23時58分33秒

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「Re:Re:観念的同時と共時性」
ここは、哲学的に、スパッと、割り切ろうと思っています。
光とか、重力波とか、量子とか、そんなもの全部忘れて、「認識したものは存在する」と「認識」することにしませんか。
目を閉じて、心の奥に見える映像も、その時点では、「存在する」と認識している、と考えます。

 星を見ていない時は、星が存在すると類推できますが、「存在を認識」していません。

 何万光年前の星を演繹的に類推できますが、それを実感できません。(当然のことですが。)

 しかし、眼前の星の存在は、絶対的な真実ですし、見えていれば、存在の認識を確信できます。

 観念的同時は、自分ひとりで確信出来ることなので、超越的な認識だと思います。一方、共時概念は、二人以上のファクターが必要になるのはないでしょうか。この点で、相対的な理解に留まるのでは、と思われます。但し、研究を進めて頂きたいです。

 認識に、光は付随的な要因だと思います。光を媒体にしなくても、認識可能なことは在ると思います。例えば、超越的存在の認識です。但し、虚数空間自体が、電磁関連作用なので、媒体としての光の重要性は理解しています。但し、虚数的な光や虚数的な時間を含めて、将来的には考えて行きたいと思います。また、重力や量子段階の認識構造などが光との関連で考えるべきなのか、光とは無関係なのか、この点も今は不明です。

 あまり先のことを類推しても、間違いを起こしやすいので、取り合えず、生活空間に於いて、認識されたものは存在する、観念的に同時に存在している認識があるのに、類推的には、異次元(異なる世界)に存在しているように考えられる場合、そこに、時間と空間の概念が出てくる。だから、観念的同時の概念こそ、根本的な概念だと思われます。

海舌

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