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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2011年08月30日 08時04分25秒

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    先祖返りの自己認識方程式

    先祖返りの自己認識方程式
    <PS理論の深化>

    新しい光の自己認識方程式: i*(-i)⇒+1⇒i/i⇒i*1/i⇒(i/1)*(1/i) ⇒+1
    は考えれば考えるほど面白いですね。

    分数a/bはb⇒aと表現できます。分母を母として、分子を子と看做すと母⇒子となります。これは感覚的に受け入れやすいですね。

    i/1は1⇒iとなりますので1を母として、iを子と看做すと母⇒子となります。しかし、1/iはi⇒1となりますので、分母⇒分子というルールは変わりませんが、1を母としたことにこだわると子⇒母となります。

    従って、(i/1)*(1/i)は母⇒子と子⇒母となります。この子⇒母をRenshi氏は先祖返りと言ったのですが、これはどのような意味を持っているのでしょうか。

    結局、母⇒子と子⇒母は常識で考えると卵か先か鶏が先か?と言っているようなものです。つまり、常識では答えが出ないのです。

    ここは超越(飛躍)なければなりません。

    (i/1)*(1/i)は、そのことを同時に、つまり、「即非的に考えよ」と言っているのです。

    こうした発想はこの四次元能では一貫して流れている主張ですが、表現を変えて、ツイスター、複素化、観念的同時陰陽論的同心球面対、捩れた四次元、二重螺旋、光の平方根、光の認識の方程式、自己認識の方程式など言ったりします。

    さて、子⇒母は子の心が母に向うのでしょうか。

    子の心が母に向うとは何を意味しているのかを考えて見ましょう。

    1⇒i/iは(i/i)/1=1(i/i)です。そして⇒+1
    となります。何かにi/iを掛けるとは何を意味しているのでしょうか。

    複素平面上の単位円を考えると、iを作用する(掛ける)とは90度右回りに回転させることを意味しています。1/iを作用させるということは、i*-i=1からも分かるように1/i=-iですから、90度左回りに回転させることを意味しています。

    従って、何かにi/iを作用させるとは、同時に左右に回転させることを意味します。これが認識の多様性を生む仕掛け、作用だということになるのではないでしょうか。

    既にi/1と1/i にi/iを掛けた結果を計算してあります。ここから意味を汲み取っていきます。

    i/1にi/iの作用させる場合と1/iに i/iを作用させる場合とに分けて表現します。又、二回目のi/1*(i/i)=-(1/i)は-1/iと-1/iと考え分数化します。同様に1/i*(i/i)=-(i/1)は-i/1とi/-1と考え分数化します。


    i/iの作用 i/1.....1/i..........意味
    一回目.....1⇒i....i⇒1.....第一象限の1/4回転
    二回目.....i⇒-1............第二象限の1/4回転
    二回目.....-i⇒1............第四象限の1/4回転
    二回目............-1⇒i....第二象限の1/4回転
    二回目.............1⇒-i...第四象限の1/4回転

    二回目については、-(1/i)と-(i/1)の答えが二つ出てきましたが象限をそろえて

    i/iの作用 ...i/1.....1/i..........意味
    一回目......1⇒i.....i⇒1.....第一象限の1/4回転
    二回目......i⇒-1...-1⇒i....第二象限の1/4回転
    二回目.....-i⇒1.....1⇒-i ...第四象限の1/4回転
    とします。

    これで第一象限の「行って来い」と同じ形になりました。

    面白いのは、もう一度i/iを作用させると(i/1)*(i/i)*(i/i)=i*i*i/i*i=-i/-1=i/1, (1/i)*(i/i) *(i/i)=i*i/i*i*i=-1/-i=1/iとなり、第一象限の「行って来い」の元の形に戻るということです。

    i/iの作用 ...i/1....1/i.........意味
    三回目......1⇒i....i⇒1....第一象限の1/4回転

    これらはどのような意味があるのでしょうか。個別に吟味してみましょう。

    i/iの一回目の作用では1⇒i とi⇒1で、  第一象限の「行って来い」となりますが、認識の式では(i/1)*(1/i)となっています。

    ⇒で示すと「行って来い」という経過を想像してしまいますが、これは3次元の時間の概念を潜入させた順番的な考えです。

    しかし、(i/1)*(1/i)にはそのような時間の概念は入ってきていません。*は即非共振ですから、(i/1)と(1/i)とは同時なのではないでしょうか。

    つまり、1⇒i は時間を越えた物質からの精神への飛躍であり、i⇒1は精神から物質への飛躍なのではないでしょうか。

    1⇒iを光の認識とすると、第一象限の認識、つまり、陽光の認識と言えると思います。

    ですから、陽光に依存する物理では物体から光が飛んできて時間が経ってから網膜に達すると考えるのでしょう。

    つまり、光源の物から発した陽光が脳に入り(1⇒i)それを物として認識(i⇒1)するという順番的な光学的メカニズム(1⇒i)→(i⇒1)で説明するのです。

    しかし、内面的に起きていることは(1⇒i)*(i⇒1)であり、無時間的な指し示しです。無時間的な指し示しとは観念的に即非的に同時なのです。

    ここで、光を私として私の認識を考えてみましょう。

    すると(1⇒i)*(i⇒1)は(先祖⇒私)*(私⇒先祖)となります。これが光による自己の認識を多角的に捉えるという一つの例であり、私なりの解釈ですが如何でしょうか。

    なぜ、1が先祖かと言いますと、先祖は実在したのです。物質が存在する(した)と存在を想像するとは根本的に違います。存在は+1であり、想像は非存在であり、-1だからです。

    今では先祖は墓場の骨となっていますが、確かに3次元の物質(精神的身体)として存在していたのです。

    その先祖(母)から私が生まれるから先祖⇒私なのです。生まれた私は+1ですが、生まれる私はiなのです。

    生まれるだろう私(i)は実在ではないですから虚の私です。私はまだ生まれていないから虚なのです。これは私の遺伝子イデアといってもよいかもしれません。

    ところが、私⇒先祖は遺伝子の私が先祖を指しています。この意味は、虚としての私が先祖に向っているのですから、renshi氏の言葉を借りれば、「先祖返り」、始原への回帰となります。

    これは私達の通常の認識は実(物質)から虚(精神)に向かいますが、同時に、虚から実にも向っています。物を見たとき「おや!なんだろう?」と思うことは1⇒iです。しかし、直ぐに、「そうか、それがタンポポだ」と認識したときがi⇒+1です。

    もちろん、はっきりと何であるかを同定できないこともありますが、それでも何かしらの身体的表現はあるのです。ですから1⇒iと i⇒1は同時であり、(1⇒i)*(i⇒1)なのです。

    三次元の意識としては、物を見ることと物と判断することを同時には認識できないのですが、観念的には同時と認識できるのです。

    先祖を遡っていくと最後はミトコンドリア・イブ(人類の最初の母)の辿りつきます。また、私の未来の子孫は途切れるかもしれませんが、仮にそれをi とすれば、i⇒1は、全ての未来の人類は始原に通じていると言えるのです。

    言い換えれば、私の子孫が持つであろうミトコンドリアは、実在した人類の最初の母を指しているのです。もちろんミトコンドリア・イブのもっと先の始原も指しているでしょうが。

    次に「i/iを二回作用」した結果の i⇒-1      と-1⇒i(第二象限の認識)を考えて見ましょう。

    +1と-1の違いは物質(+1)非物質(-1)の違いです。光でいうとi⇒-1は脳の中の物のイメージ(-1)が生成されるということです。最初の資源とは何かということになると更に遡らなければなりませんが、それは四次元宇宙論になるでしょうから、ここで止めておきます。

    物から発した陽光が脳に届き、直に物だと認識(1⇒i)*(i⇒1)するのが第一象限の認識ですが、大抵は、記憶してそこから判断があって認識するという経路を辿ります。これがi⇒-1と-1⇒iです。

    先ず、第一象限で、物として認識されます。同時に、物のイメージ(-1)が
    MPを媒介にして生成されます。つまり、+1の鏡像として-1が形成されるのです。

    当然それはMPに記憶されます。それが-1⇒iです。一旦記憶された物のイメージはいつでも瞬時に想起することができます。それがi⇒-1です。

    このプロセスは第一象限と連動して起こり、物から物へのループ{(1⇒i)→(i⇒1)}したように、第二象限も{-1⇒i→ i⇒-1)}とループしているのです。

    前者のループが陽光による外部認識(対象の認識)であり、この後者のループが陽光による内部認識(想起や残像)なのではないでしょうか。

    次に、「i/iを二回作用」した結果の -i⇒1 と1⇒-i(第四象限の認識)を考えて見ましょう。

    これは簡単にループ{1⇒-i→-i⇒1}となるでしょう。これを第一象限のループ{(1⇒i)→(i⇒1)}と比較すれば、一目瞭然、iと-iの差だけです。

    しかし、共通しているのは1⇒()⇒1、つまり、物⇒()⇒物(簡単に物から物)です。これが物の認識の有り様です。

    では、第一象限と第四象限の認識ではどのような違いがあるのでしょうか。それは言うまでもなく、iと-iの差にあります。

    これは第一象限での説明をiを-iに変えれば済むことです。

    i/iを二回作用させると第四象限の認識1⇒-i と-i⇒1となるのですが、即非の認識の式では (-i/1)*(1/-i)となるでしょう。

    1⇒-i は物質からの精神への飛躍であり、-i⇒1は精神から物質への飛躍です。

    物を見たとき「おや!なんだろう?」と思うことは1⇒-iです。1⇒iとの違いは、i:自己、-i:他者ですから、1⇒iの自己に向かう「おや!なんだろう?」に対して、1⇒-iは他者に向かう「おや!なんだろう?」です。

    1⇒iは物から私(自己)へ向うのです。例えば、地震が来たとします。そのとき私は恐怖を感じるでしょう。そして、机の下に隠れるかもしれません。自己を防衛するのです。それから「大した地震ではなかった」と分かって「ほっ」とするのです。

    これが自己中心的な志向i⇒1です。

    ところが1⇒-iも私に向うのですが、-iは他者ですから私の中の他者に向かうのです。

    当然「おや!なんだろう?」から始まって、「大変だ」「逃げなくては」「子供は」「母は」「妻は」という具合に、身近な者への気配りとなるでしょう。

    それから「大した地震ではなかった」と分かって「ほっ」とするのです。それが-i⇒1です。

    {1⇒-i→-i⇒1}のループにおいては、物質から来た即非の光が分岐して、陽光と陰光となりますが、こちらは陰光のみの認識と言えると思います。陰光は他者へ向う光と言えるでしょう。

    陰光に依存する物理(そういうものいは存在しませんが)は物体から光が飛んできて時間の進みとは逆に進んで網膜に達すると考えるのです。つまり、未来から光がきたということになります。

    つまり、 (-i/1)*(1/-i)は、光源の物から発した陰光が脳に入り(1⇒-i)それを物として認識(-i⇒1)するという順番的な光学的メカニズム(1⇒-i)→(-i⇒1)で説明できるのです。

    しかし、内面的に起きていることは(1⇒-i)*(-i⇒1)であり、無時間的な指し示しです。無時間的な指し示しとは観念的に即非的に同時なのです。

    では、第一象限ではi⇒1を子⇒母「先祖返り」と言いましたが、第四象限の-i⇒1も先祖返りと言えるのでしょうか。

    -i:他者ですから、他者の子⇒1(先祖)となってしまいます。これはどうしたことでしょう。

    ここで、私とは(i -i)であることを思い出してください。私は自己iであり、他者-iなのです。つまり、私の中の他者が先祖に向うのです。当然、私の中の他者とは兄弟、仲間です。ミトコンドリア・イブから見れば人類は皆兄弟です。しかも、-i⇒1の-iから先祖を志向するとは、まだ存在していない私(他者:-i)から先祖帰りをしているということになります。

    従って、未来の人類は全て始原に回帰するのです。これが第四象限の認識ということです。

    これでi/iを作用させるとことで自然な形で第一象限、第二象限、第四象限の認識を認識することが出来ました。

    ところで、第三象限が出てきませんでした。どうしてでしょうか。

    第三象限の認識が出てくるためには、
    -1⇒-i→-i⇒-1のループが出てこなければなりません。そのためには-i/-1*-1/-iのMPにおいて即非共振がなければなりません。

    -i/-1=i/1, -1/-i=1/iですから形としては第一象限と同じです。しかし、第三象限の意味は第一象限の意味とはまるで違います。

    非存在と他者が交錯する数学的領域の認識なのです。これが存在と自己が交錯する物質的自我領域の認識と同じであるなどとは言えないのでしょう。

    なぜ、i/iの作用では、第三象限の認識が形成されなかったのか、認識の違った形があるのか、ここはまだ私の理解が不足しているところです。課題としておきます。

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