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  • from: 生成門さん

    2012年01月31日 11時29分07秒

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    視覚による認識と超身体による光の認識

    視覚による認識と超身体による光の認識
    <四次元能版:新世紀エヴァンゲリオン: GPS:Gaussian plane Positioning System)>

    そろそろ第2象限の認識に移りたいのですが、海舌氏が虚数濃度(精神濃度)の概念http://blog.kaisetsu.org/?eid=813406
    を提示されましたので、四次元能では強度と言ってきましたが、今後は「濃度」を使っていきます。

    第2象限の認識では光の認識はどのようにGPSに位置づけされるのでしょうか?



    第1象限との違いは、実軸が+1から-1に変わるだけで、虚軸は凸i(陽の光)変わりがありませんから、-1とは何かをしっかりと理解しなければなりません。

    -1は海舌氏の人間認識図では超越的存在となっていますが、超越的存在とはどういうことを意味しているのでしょうか。

    +1が身体性であり、物質的、日常的、生活世界ですから、それと反対の世界、つまり、反身体的、反物質的、反日常的、反生活世界ということになるでしょう。

    反とか非をつければ分かったような気分になりますが、そうは問屋が卸しません。

    そこで、第1象限の認識から初めて第2象限に移っていく過程を探求することにしましょう。

    外界の出来事を見るということは、光が頼りです。葉っぱを見ることを想像してください。新緑の季節になると青い葉が一面を埋め尽くします。これは日常の現実的感覚です。

    しかし、何故、葉っぱは青いのかと考えてみると、おかしな現実が浮かび上がってきます。

    もちろん、秋になると紅葉してきますが、それは置いておいて、今は青い葉に着目していきましょう。

    太陽光(自然光)は偏光した光ではなく色々な光が混じっています。葉っぱはその大部分を内部に取り込みますが、特殊な光は反射してしまいます。

    葉という身体はこのとき超身体となって、全身で光を受け止め、選択的に光を選んでいるのです。つまり、選択は生きる営みであり、葉っぱの生き様なのです。具体的に言うなら、葉は内部で光合成を行うために必要な光を吸収するのです。しかし、青い光は使わないのです。

    (青いは間違いです。緑が正しいです。以下同様)

    これを超越的身体と呼んでも良いでしょうか?

    この葉っぱを外から見ると、色々な光を取り込んでいるのは見えませんが、青い光が反射されていることが類推できます。

    何故なら、光が来ないと暗くなるからであり、光が来ると良く見えるからです。

    ということは青く見えるということは青い光を反射しているということです。それが私達の目に入ってきて、脳のスクリーンに青い葉っぱを映し出すのですね。

    その結果、私達は「青い葉っぱ」と認識して、「葉っぱは青い」という言説を外に向かって口に出して言うのです。

    ここから言えることは、葉っぱ自体が青いのではなく、光の反射によって青く見えているということなのですね。

    ということは、光の認識は仮想の現実(それはあたかも現実だと見えてしまうが現実ではない)だということになります。

    そうであるなら本当の現実はどこにあるのでしょうか?

    それを第1象限の認識では知りようがないということです。これが第1象限の認識の限界なのです。

    さて、人間は葉っぱと同じ精神的身体です。「私」という身体はこのとき超身体となって、全身で光を受け止め、選択的に光を選んでいるのです。これが-1からの光の受け入れです。

    -1は目のような特殊器官がないのですから光の受け入れは出来ないと思うのですが、どのようにして光を受け入れるのでしょうか。

    +1の受け入れは、身体の特殊化された目があり、これを表の玄関とすると、-1は裏口です。-1からの光の受け入れは裏口入学みたいな感じなのでしょうか。

    光と闇という対称性が虚軸の精神性:凸i,凹iですが、+1と-1の対称性を明るい光と暗い光としても良いかも知れません。

    実際、+1を物質(光が反射する)とし、-1を暗黒物質(光を吸収する)として説明することも可能ですから、反射を明として、吸収を暗とすることは意味がありそうです。

    これは明らかに、光と闇とは意味が異なることです。光と闇とは内部の光であり、明と暗というのは外の光を指しているからです。

    -1からの光の受け入れを暗い光の入り口(裏口)とすると、+1のように特殊化された身体ではないので、超身体となります。つまり、身体として実体がないのです。

    実体のない身体ですから超越的存在です。この超身体には全ての光が入ってくるのです。陽の光を浴びると気持ちが爽快になりますが、これは自然光が混在した光であり、それが内部の精神と共振するからではないでしょうか。

    とにかく、色々な光が入ってくるのですから、色々な色の認識が可能となります。ある人は赤を認識するかもしれませんし、橙を認識するかもしれません。「赤い葉っぱ」を認識した人は「葉っぱは赤い」と表現するのです。

    こうした裏の暗の世界を説明するには、印象派や浮世絵が適当でしょう。

    絵画をGPSで位置付けることは別途にやりますが、今は簡単に済ませます。

    写実的な絵は明らかに現実の再現性が高い認識と表現ですから、+1から選択された光の認識そのままです。写真ほどではないにしても、光の濃度は低く、つまり、精神の濃度が低く、しかし、自己表出の濃度が高い認識でしょう。

    写実派の絵は第1象限(0.8,0.3)位に位置するとしておきます。

    一方、印象派の絵は、-1からの光の認識そのままです。彼らの絵は、写実性(再現性)に乏しく、しかし、光の動き、変化の質感に重きを置いています。それは自分が感じた光の印象を表現しているのです。

    印象派の絵は、写実性に乏しいとは言うものの、抽象画と違って、何が描いてあるか分からないほどではない(抽象画は明らかに非現実的なので第2象限)ので、光の濃度はそれほど低くはなく、つまり、精神の濃度が程々あり、しかも自己表出の濃度も高いので、中間的な位置、第2象限(-0.5,0.5)位に位置するとしておきます。抽象画は(-0.8,0.2)位に位置するでしょうか。

    いずれにしても、-1からかの認識だということは視覚からの明の認識ではないということがポイントで、非現実な世界(暗の認識)になるでしょう。

    浮世絵はゴッホなど印象派に影響を与えたといわれていますが、その「浮世」という言葉が第2象限の特徴を表現していると思います。

    「浮世絵」や「浮世話」のように名詞の上に付いて「当世の」「現代風の」「好色な」といった意味も表すようになったのですが、浮世はこの世を「無常のもの」「仮の世」と考えるようになり、「うき世」も「はかない世の中」の意味になっていったようです。

    この世、つまり、第1象限の世界は仮の現実だから、第2象限の世界に行こうよ!というのが、浮世絵が出てきた背景なのでないでしょうか。

    江戸時代では「はかない世の中であれば浮かれて暮らそう」という、現世(+1)を否定した享楽的世間観が生まれ、男女の恋情や遊里で遊ぶことの意味となったのですが、結局は、現実逃避であり、非現実的ですので、第2象限の認識です。

    第2象限の認識には、このような逃避的な側面もありますが、現実は錯覚だということ再認識させ、新しい視点で第1象限を切り開く面もあるのです。
    続く

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