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  • from: 生成門さん

    2012年03月21日 07時13分03秒

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    「この化石」では想起できない[反転が起きるまで]

    「この化石」では想起できない[反転が起きるまで]
    <四次元能版:光による認識を拡張する:モナドのワープ作法>



    第2象限の光の方程式
    -1⇒(-1⇒i)*(-i⇒-1)⇒-1

    -1⇒(-1⇒MP2⇒MP1⇒凸i)⇒(凹i ⇒MP1⇒MP2⇒-1)⇒-1
    ですが、化石を例にとって、第2象限:-1⇒iから第3象限:-i⇒-1への象限跨ぎ(図では青の舞)の実際を示しましょう。

    発見した化石を「1万年前のこの場所での出来事を指し示している記号」だと認識(直観する)したのですが、これが第2象限に位置づけできるのか、それとも、第3象限に行ってしまうのか、この能舞の最大の山場です。

    化石が非在の記号であるからには、過去に発見された化石を「思い巡らす」とことになるでしょう。それは他の化石を「参照する」ことを意味するでしょう。

    他の化石を参照して、その類似性から「この化石」を解読するということは、「この化石」の個別具体性を否定することになります。ということは、「この化石」が生きた時代の普遍性を探求することになるでしょう。それは、結局、化石論という考古学へ向かうことを意味します。

    しかし、今は「この化石」の意味を探求しようとしているのであって、化石論をしようとしているのではありません。

    「この化石」の意味は第2象限に位置づけられなければならないのです。第2象限に位置づけるためには、「あの場所、あの時」の風景とかの刻印がなければならないのです。

    ですから、記憶を「想起する」なのです。想起とは「想い起こす」ということであり、私の過去の思い出に遡るということです。つまり、過去とは記憶であり、記憶とは時間と場所が付帯していなければなりませんので、あの場所、あの時の風景とかの刻印があります。従って、想起は第2象限に位置づけられるのです。

    しかし、想起しようとしても、他の化石との類似性からでは「この化石」の「あの場所、あの時」の風景とかの刻印を想い起こすことはできないないでしょう。

    何故なら、私はその時代には生きていなかったのであり、この化石と時間と空間を共有していないのです。ですから、時間と場所を共有していないなら、時間と場所の刻印された記憶もないのですから、想起できないのは当然です。

    記憶には必ず時間と場所の刻印が付き物であり、たとえ曖昧さはあっても、あの頃、あの辺といった時間と場所の記憶があるものなのです。つまり、記憶とは体験なのですから、行ったこともない場所の記憶など想起のしようがないのです。

    「この化石」があるということは、過去に生きていたことの事実なのですが、私の記憶の中にはそれがないのです。ですから、想起することは不可能なのです。

    想起ではないとすると、化石に対する直観は、第2象限ではないことになります。

    果たしてそうなのでしょうか?

    もし、想起ではないとすると、想像することでしょうか?

    もし、想像なら他の化石との類似性から場所や時間が刻印していなくても、仮に思うことならできますから可能です。そのような認識は第3象限ということになります。

    「明日は天気になるだろう」というのは、未来のことですが想像できます。これは記憶の想起ではありません。過去についても同様な想像はできるのではないでしょうか?

    源義経はジンギスカーンだったという仮説がありますが、それが事実かどうかは分かりませんが、そうだと仮説、つまり、想像はできるということです。それは、決して記憶から類推しているのではありません。記憶に頼らなくても時間を遡れるということは、これはまさしく、時空方程式(時間は空間であるということの普遍化された理論)の応用です。

    普遍的或いは一般化された仮説は個別具体的ではありませんから第3象限の認識です。もっとも源義経の仮説は、墓場行きの仮説、つまり、第3象限は仮の宿かもしれません。

    「この化石」を見て時間を遡るということは、記憶には頼らない認識ですから、他者の認識です。つまり、「この化石」の否定です。化石全般についての知識の探求を意味しており、化石論となるのです。「一」から「全」への探求なのです。

    「一」 から「全」というのは、「一」則「他」でもありますから、「他の化石」との関係で位置づけるのであり、個別具体を無視することです。

    時空方程式のように、個別具体の時空を無視して、座標上に時間と空間軸を設定して、そこに個別具体の物を他と一緒にプロットして化石全体の様子を想定するということです。これが科学的な方法を使った客観的な第3象限の認識なのです。

    そうすると、「1万年前のこの場所での出来事を指し示している記号」だとする認識(直観する)は、第2象限に位置づけできないというになります。

    しかし、私は現場にいて科学的な方法を使う以前に直観したのです。それは私の主観であり、私の体験です。ここまでは第1象限と同じなのです。違うのは、その記号に対する直観なのです。

    もう一度、生きものと化石の関係図を見て見ましょう。

    生き物が活躍していた時期→→→→→化石を発見した現在

    第1象限の光の認識なら時間が経過して現在において認識するという図式が成り立つのですが、生き物が活躍していた時期から光が来る訳はないのですから、第1象限説は成り立ちません。

    化石の生き物が生きていた時期と場所というのは、座標の上の認識であり、その時間の経過はあくまで客観的な歴史的な時間です。

    私は今、どこにいるのでしょうか?

    私が化石を見たときが現在ですから、

    生き物が活躍していた時期→→→→→化石を発見した現在(私の位置)

    ですが、私が直感したときは、私は生き物が活躍していた過去の場所にいるのです。これがワープの心理です。化石が記号だと直観するとき、私の無意識は過去に遡っているでしょう。しかし、時間を遡ったという意識はないでしょう。

    しかし、この化石の記憶がないのでいくら検索しても、想起できないことがわかるでしょう。そのとき脳内では何が起きるのかでしょうか?

    そう。「想起できない」ということは自己否定が起きるのです。今、この化石を指し示しているのですが、その指し示しの否定です。

    「この化石の指し示し=想起」の否定から「他の全ての化石」という、「一即他」という、つまり、想像への述語的反転がおきるのです。
    この過程を纏めると

    -1⇒MP(化石からの裏の光の信号を受ける)
    MP⇒凸i(化石が記号だと直観する)
    凸i⇒凹i(想起できないので、想像へ反転する)

    ここまでです。

    この後、
    凹i⇒MP(類似の化石を想像する)
    MP⇒-1(化石の生きた時代を想像する)

    が起きます。
    続く

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