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  • from: 生成門さん

    2012年08月31日 16時22分43秒

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    二人称が一人称と三人称の不完全さを補う

    二人称が一人称と三人称の不完全さを補う
    <四次元能版エヴァンゲリオン:自己との対話>



    スタックやロストから抜け出す
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111228374
    の続きです。

    スタックやロストから抜け出すには二人称の認識、つまり、話し相手が必要ということから話を始めましょう。私達の人生でもそうですが話し相手がいるだけで随分と違いますよね。

    ということで、二人称との対話を考えてみましょう。ここがT/エージェントの最も重要なところです。

    内部観測の数学的表現に挑戦している高橋信二氏の「内部観測:脱構築から発達へ」
    http://www.e.okayama-u.ac.jp/jafee/paper/a42.pdf
    を参考にして考えています。

    二人称とは話し相手になる人のことであり、その間には場(状況と文脈)の共有があり、一人称と同様に曖昧さがあります。相手から見れば、自分が一人称であり、こちらが二人称なのですから当然です。

    従って、「それ」とか「あれ」とかが連発して、二人称における指し示しも不完全なのです。どうしても、その会話には曖昧さからくる思い込みがあり、誤解が生じてしまうのです。「行った・言わない」で揉め事が起きるもの一・二人称の会話の特徴なのです。ただし、二人称においては会話の中で抽象的な概念を用いることもあります。それもまた当然ですね。一人称と三人称はいつでも切り替えが自在なのですからね。

    「君の言う企業戦略は、結局、コスト優先なんだよね」

    と言うようなことです。これは二人称ないし、一人称の個別的発言を企業戦略とかコスト優先という普遍的な概念に話をすり替えたのです。難しくいうと論理の階段を上げたということです。

    しかし、二人称における会話では相手を説得するためだったり、おまけに感情も入ったりするので、使われる概念は歪曲されたり押し付けだったり正当性に欠け結局は曖昧なのです。

    個別的発言が必ずしも企業戦略とかコスト優先という普遍的な概念に結びつくのかは分からないのです。話し手が勝手に、相手を言い包めようとして断定していることもあるからです。そういう例は数多くありますよね。難しいボキャブラリーを発して煙に巻くといったようなものです。四次元能の発話もそういうところがあるかもしれません。反省します。これは三人称への飛躍です。(^-^)

    そもそも話し相手との間にそんな概念をしっかりと定義して会話をしようなどという姿勢は微塵の欠片もないのです。第一、そんなことをしていたら誰も聞く耳を持ってくれないでしょう。

    二人称は一人称の裏返しでしかなく、互いが話を進行させるときにしか相手として認められない泡沫の存在であり、非常に不安定な立場なのです。相手がいなくなってしまったら二人称は消失してしまうのです。突然、相手が怒り出して席を立つことは二人称の関係の消失なのです。

    とにかく、そこでは思い込み勘違いの連続であり、どうにか友人とか仲間、家族、企業、組織、社会といった枠組みの価値観の中で関係を維持しているのです。

    日常生活では、誤解は話すことによって次第に解消はされて行くのですが、決して完全にはなくならないものです。それはクワス人のような不定の輩が常に現れるからです。

    この不定さをもたらすクワスとプラスについてはこちらを参照してください。

    プラス人とクワス人
    http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100111153929

    不定とはどこからやってくるのかということですが、それは会話の中で突然にやってきます。二人称と一人称では、個別(自分の体験)と第三者的な認識とがごっちゃにされるのです。自分の体験をあたかも第三者的な認識として話をすることがあるということです。意図的かどうかは別として、これが会話を円滑にすることもあるでしょうし、誤解を与えることにもなるのです。

    一般的な概念を導入して、例えば、夫婦とは「こうあるべきだ」というように主張したとして、その主張が二人称(相手)だとしても、結局、それは、自己の体験に基づいた個人的な意見でしかないでしょう。

    話の展開が常に一人称と二人称という関係で行われるために、その一人称と同じ曖昧さが二人称にも付き纏うのです。もっと言うと、その個別(我が会社)と普遍(会社という概念)を混同して使ったりするのです。その自覚がないのですから、平気で「うちの会社の人間は擬人者ばかりだ」などというような言い方をするのです。

    天に唾ではありませんが、前提を否定するよう人は自分自身を否定することにもなってしまうでしょう。

    この前提を否定することは、その前提も否定されるという連鎖を生みますので、不逞の極み(嫌味)です。しかし、意外なことに、この嫌味を得意とする二人称が一人称と三人称の認識上の不完全さを補うのですから面白いのです。

    その面白さが二人称の自己認識でもあるでしょう。二人称の曖昧さが不定の輩を持ち込んで、内部観測のより発達した認識、進化した三角錐という記号過程を作動する契機となるのです。

    続く

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