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  • from: 生成門さん

    2013年07月31日 13時11分21秒

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    三人称⇒一人称を見つけ出すのは難しい

    三人称⇒一人称を見つけ出すのは難しい
    <PS理論との共振:ダランベールの原理は三人称認識を一人称認識に変換したものである(続き)>
    http://blog.kaisetsu.org/?eid=813909

    海舌氏は「三人称を一人称に変換した」と言っていますが、普通では、「一人称を三人称に変換する」ことがほとんどであり、「三人称を一人称に変換する」ことはありません。例えば、ニュートンの運動方程式と言っても最初はニュートンの主観仮説であり、一人称の命題です。それが多くの科学者の間で共有され、共同主観となって、学会などで認められ主観が取れ、客観的な原理や法則として格上げされるのですね。ですから一人称⇒三人称という方向性があるのですね。

    ですから、三人称⇒一人称という構造と方向性を認識することは簡単にはできないのですね。

    日常に於いて、そのような構造と方向性は存在しないのでしょうか? 四次元能ではかなり前ですが、一人称と三人称についてドラマを対象にして取り上げたことがあります。

    何事も始まりは一人称から
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100110807005

    ドラマは三人称がほとんどですが、一人称小説というのはあります。一人称の小説を実際に描かなくても、三人称ドラマを作るときは誰かの体験をドラマ化するのですから、一人称のコンテンツが存在していると言ってよいでしょう。その方向性は一人称⇒三人称です。ですから、その逆の三人称⇒一人称という方向のドラマは存在しないのですね。しかし、日常体験で、三人称⇒一人称という方向の体験(認識)は全く存在しないのでしょうか?

    三人称ドラマは一人称の視点と区別することが難しい
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100110735717

    ここで言っているに様に、現実には、三人称ドラマでは三人称と一人称の視点と区別することが難しいのですね。三人称を「理」として一人称「情」とすると、理と情を完全に分離することは難しいでしょう。しかし、敢えて言うと、よくある体験ですが、例えば、会議などで非情(感情的にならずに抑えて)、冷静になって理(筋を通す)ことはできます。その逆はやっぱり見当たらないのですね。「理を情で訴える」というのはあるのでしょうか?

    無理に探してみましょう。

    例えば、選挙です。選挙は一人一人の思いを一票に託し、それがエージェント(政治家)を選択します。この段階でも、政治家はまだ、選挙民の思いを背負っているのですから情の人です。さて、舞台は国会に移ります。国会での答弁や質疑はすべて理で行われます。ここまではすべてではありませんが、概ね「情⇒理」です。

    国会のやり取は紛糾します。その時は極めて感情をむき出しにします。情中心なのですね。政治家も人間ですから、一人称になるのですね。ただ、それだけでは情⇒(理)⇒情であって、理が情になるわけでなく、単なる選挙民と同じ位置に立ったに過ぎません。決して、高度な政治理念を淡々と述べるのではなく、情で訴えるわけでもないのです。

    政治家には政治理念というのがあります。例えば、ガンジー主義を理念としている場合、それを国会で情に訴えることはできるのではないでしょうか? その場合は三人称(理念)を一人称(政治信条)としたのですから、この場合は、三人称⇒一人称という方向性持っていると言えるのでしょうか?

    厳密に言うと、一人称の政治家が自己の主張を正当化するためにガンジー主義という理念を利用していると言えます。このような構造は科学者の論文の他者の文献を引用する場合にも見られます。論文に限らず、ブログの投稿する客観的な記事は殆ど引用があります。引用主義は三人称のテキストを利用して自己を主張するのですから、一見、三人称を一人称に変換しているように見えなすが、決してそうではありません。三人称のテキスト+自己主張ですから、意味が付加されているのです。三人称<一人称なのです。単なる変換ではないのですね。ですから、海舌氏の三人称⇒一人称とは同じ構造ではないのですね。三人称⇒一人称は本質的には三人称=一人称なのですからね。

    三人称の誰かのテキストを引用した一人称のテキストは、三人称に支援された一人称ということができます。ですから、三人称⇒一人称と区別して一人称(三人称)と表現しましょう。三人称⇒一人称は引用ではなく意訳のようなイメージですかね。

    三人称⇒一人称は、文献をドラマにするようなものです。一人称(三人称)は文献を論文(仮説)にするようなものです。その違いは意味(視点)が変わることはあっても、三人称⇒一人称の本質は三人称=一人称でなければならず、一人称(三人称)は一人称>三人称でなければなりません。文献の翻訳の場合は一人称≒三人称ですが、どらかというと一人称(三人称)でしょうね。

    論文は翻訳や引用することはできますが、一人称のドラマにするなんてできませんよね。ガンジーが自分の生きざまを語るというようなものですからね。生きていればともかくですが、いないのですからね。自叙伝というのは、どうでしょうか? やはりこれも三人称⇒一人称という構造にはなりません。自分が自分を語るというのは、自分を客観視してそれを一人称で語るのですから、一見、三人称⇒一人称のように見えます。しかし、やはり、新たな意味(美化)が付加されてしまうのです。

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