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  • from: 生成門さん

    2013年08月28日 08時03分28秒

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    悟りとは仏(三人称)を一人称に折り畳むこと

    悟りとは仏(三人称)を一人称に折り畳むこと
    <PS理論との共振:一神教(三人称)と多神教(一人称)>の続き
    http://www.beach.jp/circleboard/ad00178/topic/1100200410861

    仏教を多神教にするというのは誤解が生まれるかもしれません。仏をイデアとして考えると「一つ」だからです。しかし、一神教が存在する「もの」とは関係なく神は「一つ」なのに対して、仏は万物に宿ると言うように仏は姿を変えて多くの神になるというイメージで捉えると多神教で良いかと思います。実際、仏には多くの仏(菩薩など)がいます。

    仏がイデアだとすると釈迦や観音様はそのエージェント(媒介者)だと考えればよいでしょう。そうだとすると仏教も一神(仏)教であり、媒介者レベルで考えると仏教は多神(仏)教になります。しかし、それは便法であって、やはり、「仏は万物に宿る」というところに注目すべきであって、キリスト教と大きく違うところでしょう。

    イデア(神)⇒媒介者(キリスト)⇒キリスト教(信者には神は内在しない=信じる者だけが救われる)
    イデア(仏)⇒媒介者(釈迦・菩薩・曼荼羅)⇒仏教(信者には仏は内在する=即人成仏

    宗教というのは本来一人称(信じる)現象ですが、信じるという心理過程で、三人称(神や仏)を一人称に変換することだと思うのですね。ただ、その変換が完全に行われないのだとだと思うのですね。神の場合は外に存在するのですから初めから分裂を予定しているのですね。

    多くの宗教は「信じれば救われる」と言いますが、実際はそうではないこととが多いのですからね。どう折り合いをつけるかですね。神の場合は一人称として内在しないで外にいるのですから、祈りで一人称になっても、どこかに知が働いているのでしょうね。懺悔などというのは神との対話ですからね。どこかで見られているという意識が働くのは仕方がないでしょう管理社会(監視カメラなど)と同じ構造ですよね。

    これでは外部観測状態になりますので、信じる行為と信じる対象が分離された中途半端にならざるを得ないでしょう。神を意識している時は三人称、祈っている時は一人称なのですから半分だけ一人称、半分だけ三人称、つまり、半人称ということになりますね。仏の場合でも後利益を求めようとする信者は、仏に外に置いた外部観測状態になってしまいます。この場合も半人称でしょうね。真に悟りを求める人だけが内部観測状態(瞑想=心身脱落)となり、一人称になると言えるでしょう。

    いずれにしても半人称的な状態は即非状態と言えるでしょう。即非状態から中途半端な半人称的な曖昧状態、即非状態から選択的に一人称ないし三人称の明確な現れの二つのケースがあると思います。悟りの状態とは悩める人が即非状態から信じることで悟りの一人称になることですが、それがなかなかうまくいかないのが現実ですね。一神教では始めから悟りなどという状態を想定していないのですね。神が加護するだけなのですね。

    半人称というのは難しい概念ですが、単純に即非(どちらも可能性がある状態)からどちらかを機械的に選択する仕組みならうまく説明することができます。それは「半導体」です。半人称を考える上で役に立つかもしれません。

    半導体というのは半分導体、半分不導体であり、電圧をかけると導体になったり不導体になったりするので半導体というのです。電圧をかける前は即非の状態にあり電圧(順方向か逆方向)を掛けると必ずどちらかが現象するという仕組みです。宗教の場合は必ずどちらかが現れるということにはなりません。そこが機械と人間の違いというところでしょう。

    人間では一人称と三人称とが混在した即非状態にあり、心構えによって一人称や三人称として現れるのですね。半導体のように電圧の掛け方によって必ずどちらかが現象(導体・不導体)として現れますが、人間では、情では一人称、知では三人称となってしまうのですね。心が分裂するのですね。半導体は電圧の掛け方によって不導体とは導体が同時に現れることはありません。そんなことになったら半導体として機能しません。

    しかし、本当に人間では情では一人称、知では三人称が同時に現れるのですかね? よくよく見れば情が優勢になったり知が優勢になったりして切り替えているのではないでしょうか? 外から見ているだけでは分かりませんので、同時に現れていると見えるのでしょうね。ですから半人称と言えるでしょうね。しかし、信じるものが求めるのは一人称の悟りなのですね。細かく一人称と三人称が切り変わるのは半導体としては優秀ですが、人間としては悩みの種でしかなりません。

    半導体:電圧を掛ける>>>導体⇒不導体⇒導体⇒...[スイッチング機能]
    理想的人間=半人称(即非状態):信じる行為>>>三人称⇒一人称(悟り)

    現実の人間=半人称(即非状態):信じる行為>>>三人称⇒一人称⇒三人賞⇒一人称⇒・・・[分裂・混乱]===満足できない

    一神教の現実の人間=半人称(即非状態):信じる行為>>>三人称(神を意識する)⇒一人称(祈る)⇒三人賞⇒一人称⇒・・・[分裂・神の加護(愛)を知で考える]===満足?

    仏教の場合は、分裂することを戒めて一人称(即身成仏・心身脱落)になることが目標なのですが、なかなか難しいようです。元の木阿弥(分裂)になってしまうのですね。一神教の場合は、神はあくまでお外にいるのですから信じるしかありません。それで祈って満足なのですからどうもよくわかりません。

    まるで監視体制にある囚人の有り様ですよね。監視されていると安心なのかも知れませんね。確かに、泥棒を避けるために鍵を掛けたり、監視カメラを配置するというのは安心ですから、それを神が代行してくれるという意味ではこういう仕組みにも価値があるのかもしれませんね。しかし、そのような心の機制が管理社会を強めていくのかもしれません。

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