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シムダンス「四次元能」

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  • from: 生成門さん

    2015年02月27日 09時32分10秒

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    はじめに時間が生まれたという物語(作り話)

    「はじめに光ありき」は正しい。これが始めに時間ありきになる。光から時間の単位が生まれたことをSF風に物語ってみよう。

    この物語は物理量の単位である時間が生まれた時の物語である。

    宇宙の根源である三大パラメータは時間・空間・質量である。これらは物理量である。他のすべて物理量はこの三つから派生したものである。では三つのパラメータの内、何が最初に出て来たのだろうか。それは時間である。時間はどうして生まれたのだろうか。

    原始人は時計を持っていなかった。しかし太陽と共に生活していた。日の出と共に起き、日没になると寝た。日の出が一日の始まりである。だから初めに光ありきなのである。一日とは昼間の時間である。夜とは無意識の世界である。だから時間もない。彼らが意識するのは昼だけである。日の出が一日の始まりの合図である。

    もちろん、一日が終わればまた一日が来る。繰り返すことは知っていた。だから一日という単位が概念として生まれた。これが時間の概念の始まりであり。意識の量子化でもである。

    原始人はどのようにして時間の概念を細かくしていったのだろうか。生活の必要があっただろう。狩りに行くとして午前か午後ぐらいの区別はしただろう。夕食時は何時かも決めただろう。

    彼らにとって一日とは太陽が光っている間である。だから太陽の動きが時間である。日が出るとやがて太陽が真上に来る。そこで土の上に棒を立てる。影を写す。線を引く。左右に分ける。これが午前・午後である。棒の高さによって二つに分けたのだから棒を引くすると影は長くなる。これではやってられないので最初の二分した線の長さの二倍を決める。これを一日と決める。

    日出  棒の位置  日没
    *   ーー@ーー   *
    *++ーー@ーー++*

    これで一日を四分割したことになる。これで十分だ。やがて生活水準が上がってくる。するともう少し時の刻みを小さくしたくなるだろう。もう太陽の影を追う必要はない。一日は繰り返すのだから線を丸めて分割しただろう。簡単にするためには8分割である。近代以前の東洋では6分割であり西洋では12分割であるが、原始時代は8分割だったのではないだろうか。それはすべて生活と関係する。火を使いだしたことは時間の概念を分割することに大きくかかわって来ただろう。火を使うことは夜でも生活できるということになる。従って、夜の時間も必要になる。こうして一日の定義が変更される。一日とは夜と昼の二分されるのである。これを円で示すと昼の円と夜の円の二つが必要になる。

    しかし、重ねることで一つの円で十分だ。生活も木目細かくなってきた。狩りの時間を合わせることが必要になってきただろう。8分割では荒っぽすぎる。獣の生態に合わせるためには12分割が適当だろう。これが十二時辰の始まりである。

    十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)

    原始時代は未だ言葉がなかったので単に地面に円を描い石を置いて分割した程度だっただろう。現在使われている24分割の六十進法の時間単位は紀元前約2000年にシュメールで考えられたものである。

    時間は時を刻む。一日を24時間、1時間を60分、1分を60秒としたのである。秒単位で時間を刻む秒時計(ストップウッチ)までが発明された。現代ではセシウム原子時計である。

    こう考えると時間とは何か不思議なものに見えてくる。時間とは定義である。原始人は一日を日の出から日没と定義したのである。その後、定義が変わって一日は地球の自転(日の出から日の出まで)と変更されたのである。秒が時間の基本単位である。

    時間は変化する物を測る物差しである。物指しは物理量である。物理量は客観的に実在すると考えるのが唯物論である。だから時間も実在すると考える。しかし、時間の歴史を見てきたようにそれは太陽の動きを分割したものであり、定義されたものである。

    しかも定義は何度も変更されている。時間は変化を測る物差しである。変化する物質的現象は存在するかもしれない?が、時間は物差し=定義だから物そのものでなない。物のようにそこにあるわけではない。時計は物であるは時間はものではない。だから存在しない。時間の変化は物の変化である。それを時間の変化と言う。変化といは差分である。時間の意識があるというのは時間の差分を取ることである。

    変化の意識をどう差分して時間の意識にするのだろうか。

    その場合、どこまで小さく時間の差分を採れるのだろうか。時間の最小時間というのはあるのだろうか。

    はじめに光ありきからはじめに時間ありきとなった。これは物理量の単位としての始めが時間だという意味である。そして客観的実在として時間が実は定義であり、定義は式(計算される)だから唯識であり、物理量の基本的なパラメータが時間であり、その時間が式=識であるということになったのだから物理量は唯識であるということになる。物理量が唯識なら物理学は唯識論となる。物理を唯物論と言った哲学者は時間を物理量=客観的な実在と錯覚したのである。

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