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公開 メンバー数:152人

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from: ueyonabaruさん

2020/02/06 23:30:21

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大川隆法とエルカンターレ

複数の方々から大川批判が出ておりますが、このような批判はあって当然だと思っております。これを議論できるのは支部では無理なんだと思います。ですから、この

複数の方々から大川批判が出ておりますが、このような批判はあって当然だと思っております。これを議論できるのは支部では無理なんだと思います。ですから、この場所で表明してもかまいません。大川隆法は人間であると同時にエルカンターレなのですから、大川批判が必ずしもエルカンターレ批判とは同一ではありません。

 人間イエスを例に考えてみます。偉大な方ではありましたが、かれを当時の人々はどのように見ていたのかを思うとき、現在の大川隆法のように沢山の批判・不満が寄せられていたのではないでしょうか。ユダヤ人を救う救世主の登場を望んでいるものからは現実的力のない単なる一預言者でしかなかったわけです。娼婦マリアがイエスの足を高価な香油でぬぐうとき、もったいないバカな行為にしか見えなかったでしょう。イエスの行った奇跡を疑う者も多かったでしょう。

 私たちは少なくともマグダラのマリアのことを思いながら大川総裁を見ていいのではないでしょうか?大川隆法とエル・カンターレをまったく別物に考えることはできません。ここのところが難しいのでしょうかね。

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from: yoshizumiさん

2020/02/09 00:18:24

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君よ、涙の谷を渡れ、のご法話の中の、判断しなくていいです、ただ、ついてきてください、という、直接的なメッセージは、信仰心熱い者を奮い立たせるには十分でしたが、多少なりとも理性的な人間、特に男性である私たちには、試金石でしたね。

素直に、主は絶対であると信じられる婦人部の方々が、うらやましく思えることもありますが、数多くの矛盾を乗り越えていかねばならぬ信仰生活は、平たんではありませんね。

先日、総本山正心館で、「異次元パワーを得るための祈り」を受けてきた婦人部の方の話などを聞くと、理屈ではなく、感覚的に信じているのだな、という波動が伝わってきて、圧倒されます。

私などは、納得しながら、亀のような歩みを続けるしかないと、思っています。

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from: ueyonabaruさん

2020/02/09 22:43:49

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yoshizumiさんへ

>君よ、涙の谷を渡れ、のご法話の中の、判断しなくていいです、ただ、ついてきてください、という、直接的なメッセージは、信仰心熱い者を奮い立たせるには十分でしたが、多少なりとも理性的な人間、特に男性である私たちには、試金石でしたね。


 この言葉はどのようなことを言わんとしているのかについて考えます。

① 先生のお気持ちは、ご自身が救世主であり真実を語っているのにそれを信じきれない人たち(弟子)が多い。これは嘆かわしいことである。皆さんが自分自身の判断力に頼っているのだ。悟りが深まれば分かることではあるが、悟りの近道は信仰心である。素直に信じれば分かってくることも多いし、悟りも早いのだ。

② 宗教とは信じることである。信じてそれを実行するのだ。多くの人はあまりにも自分の小さな頭で考えすぎて迷っている。私の言葉は神からの言葉だから、ただ信じ実行せよ。

③ 私の語る言葉を信じるだけでいい。これがホントの信仰だ。理性や知性で考えても真理をつかみ取ることは不可能である。ただ、信じよ。

 先生は上のようなお気持ちなのでしょうか?

 私でも、信仰心とはこのようなものかもしれないと正直思うのです。ですが、色々と考えるのです。特に理性ですよね。理性・知性を消去することはできませんからね。幼子のように信仰心だけで世の中を生きておられる方もいます。これは、これで立派だと思うのですよ。私の場合は、幼子の心のまま生きよと言われても無理です。

 理性は捨て去ることは不可能ですから、理性をさらに磨くしかないのではないかと思っております。高い理性は神に通じる筈です。

 真理へ近づくために、幸福の科学の教学をするとともに日々の行(正心法語の読誦、主への祈り、守護指導霊への祈り、その他)を実施することが大事だと思っております。おかげで私の信仰も少しづつ進行していることは感じます。疑いの念で心が苛まれるときは、祈ります。そして時間の経過も待ちます。

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from: ふじのさん

2020/02/09 07:38:40

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>先日、総本山正心館で、「異次元パワーを得るための祈り」を受けてきた婦人部の方の話などを聞くと、理屈ではなく、感覚的に信じているのだな、という波動が伝わってきて、圧倒されます。

ああ、ここだな、と思うんです。
それは事実であるし、「信」ということは非常に大切です。
しかしながらここで欠けているのは一般の方からの視点だと思います。まず一般は理から入ります。その教団がなにをしているか、教祖がどんな方なのか、などから入ります。光や言葉を超えたものは入信して精舎などでしか味わえず、入り口では理で判断するしかない。しかし今もはや大川総裁や教団に信者ですら色々懐疑の目を向けている。まして一般なら門を叩こうとすらしないと思います。信者さんすらどうなんだろうと思うわけですから。

またもう一つは「信」のみでいくと教団がおかしな方向にいったときブレーキがかかりません。総裁や教団が魔にやられることはないと100%言い切れるはずなどなく、もしおかしな方向に行ってしまったときに「とにかく信じます」「わからないけど主には深いお考えがある」ではもう舵を切りなおすことはできずそのまま沈んでしまうと思うんです。

宗教ですから最後は「信」でよい。それは賛同だしその通りです。しかしながら教義には「理証」もあります。やはり理屈でおかしいところがあるならばそこはきちんとしたチェック機能が働くべきであり「批判する者は悪魔」では、、、、と思います。

教団からすれば、上記考えを率直に述べれば「悪魔払い祈願を受けなさい」「反省系の研修を受けなさい」で一蹴されると思います。そしてそういう考えこそが、今日の幸福の科学に変容してしまった原因としか私には思えません。

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