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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月28日 13時26分44秒

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    石原慎太郎を読んで

     石原氏のご本「法華経を生きる」を読み終えました。仏教への理解が深いことには非常に感心しました。特に、宗教を生活に生かしている、氏の生き方は、仏教信者の模範にもなりうるでしょう。

     石原氏の仏教観と幸福の科学を信奉する私の仏教観とはどう違うのかと問うた場合、あまり違わないというのがその答えになります。積極的な仏教観です。

     同じく釈迦の教えを学ぶ方々にも様々な考え方があります。
     佐倉哲さんのように、無霊魂説を唱える方もいますし、仏教の専門の学者にも虚無的な仏教観のかたがたも多くいるとのことです。 
     現役の仏教の僧侶に来世の存在を信じるかどうかのアンケ-トを行ったところ、半分前後の僧侶は来世の存在を信じないと答えたそうです。さらに、信じないのに葬式になぜ供養と称してお経をあげるのかという追加の質問にたいしては、遺族が満足する安心するからだというのがその答えだったそうです。まさしく末法の時代です。葬式仏教、観光仏教と批判されるのも当然でしょう。

     それに比べ、霊友会の小谷師のように石原慎太郎をして法華経信者にもしてしまう力があるのがこのような新興宗教の導師なのです。石原氏は立正佼成会の庭野師も、弁天教の大森智弁師なども尊敬しているようです。氏は、新興宗教に何の抵抗もないかのようです。実存的に仏教を捉えていこうとする石原氏の面目躍如たるものがうかがえます。権威にたよらず自らの信念で、自らの理解のみで、真理を追究する石原氏を讃えたいと思います。


     さて、これまでアウグスティヌス、プラトン(ソクラテス)、石原慎太郎と読みすすんできたわけですが、ここで、私という幸福の科学の一信者が、これら賢人達のことをどのように考えているかについてさらに若干のべておきたいと思います。

     アウグスティヌスですが、彼の神への信仰心には打たれます。「告白録」のあるくだりで、哲学的な思考を続ける彼が、時間とい
    うものが分からないと神に助けをもとめます。次のように祈ります。哲学者が神に祈るのです。

    「私の魂は、まことにこみいったこの謎をときたい願いに燃えています。閉ざしたもうな、主よ、神よ。善き父よ。キリストによりて願いたてまつる。閉ざしたもうな。わが熱望にたいし、この身近にしかも深くかくれた謎を。この謎のうちに深くはいりゆき、おんあわれみの光のもとに、照らしだされるようになしたまえ、主よ。この問題について、誰にたずねたらよいでしょう。あなた以外の誰に自分の無知を告白し、あなたに告白する場合に得られる以上の成果を得ることができるでしょうか」

     私はこの「告白録」を読んではじめてキリスト教の敬虔な信仰が哲学とも深く関わっていることを如実に知ることが出来ました。また、敬虔な唯一神信仰の美しさも知ることが出来ました。思うに、安易なキリスト教批判はしまい。幸福の科学の信者が深くキリスト教を学んでもないのに、安易な批判などすることはあってはならないと思うのです。

     プラトン(ソクラテス)ですが、大川隆法の哲学になんら矛盾しないというのが結論です。あの世の存在、霊魂の存在、善き来世と悪しき来世があること、不成仏霊のこと、哲学者の行くべきあの世の輝くような美しさ、輪廻転生など共通します。
     大川師はキリスト教は、教典編纂の際に当時の多くの宗教にはあった輪廻転生の概念をすべてとりさったというようなことをおっしゃっておりますが、プラトンを読むとそのようなこともあり得たことだと思わざるを得ません。

     私は幸福の科学の一信者ですが、今後とも、石原氏のように実存的に真理の探求を続けてゆくしかありません。願わくば、わが信仰が決して失われることがありませぬように。

     

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月27日 16時10分44秒

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    石原慎太郎の法華経論 ⑦

     さらに、石原慎太郎の仏教の基本的なことがらについての考えを見てまいりますが、今回で石原慎太郎の法華経論は終わりになります。 以下引用です。

     度々私なりにパラフレイズして引用してきた庭野日敬師著の「新釈法華三部経」には、随所になるほどと思いいたるところがあります。  中でも仏教哲学の奥の奥たる「実相」についての記述は実に多くの示唆に富み、特に、第一巻の「実相」に関しての記述は豊富な引用を駆使して読むものに多くの啓示を与えてくれます。・・・・・本旨を損なわぬように要約して引きますが


     著者はまず、この世の中、つまりこの現象世界は千差万別であり、変化してとどまるところがないように見えるが、その奥の奥では常に大きな調和を保っている永遠の存在だという。  そして、目の前の机の上にある本とインクとグラスとその中の水は、見た限りまったく別のものとして実在しているが、実はもともと同じものなのだ。  もっとも現代的な科学の一つである原子物理学は、すべての物質は、陽子、中性子、電子といった素粒子の組み合わせ出来上がっている。液体、固体、気体といったすべての物質の違いはただ、それらの素粒子の組み合わせの違いによるものでしかない、ということを証明している。  しかし、ならばその素粒子が何でどうやって出来ているかは、まだわかってない。  ある学者は、それはエネルギ-であるといっている。この宇宙を動かす根本のエネルギ-が、それが醸し出される条件の違いのままに、電子になったり、陽子、中性子になってくるのだと。  またある学者たちは、あらゆる物の物質的要因は、真空である、ともいっている。 真空といえば空気も他のいかなる気体も存在しない虚空と思いがちだが、いわれればなるほど、宇宙の大部分は真空ですから真空なるものは人間には知れぬ深い意味があるのかも知れない。・・・・・


     つまりこの世に存在するものすべて、目の前の机の上に在る本もインクもグラスも水も、その向こうの壁も、その外に見える木も道路も何もかも、それを眺めている自分自身の体も、すべては一種類の、大本のある存在によって出来上がっているのだということなのです。   ならば、その絶対的に共通した大本のある存在を何がどうやって動かしあやつり、さまざまな素粒子を作り出し、それを合成して水とか木とか空気とか、さらに本とか机、インクといった物たちをつくりだしているのということです。・・・・・金やウラニュ-ムを作り出している条件、方程式をいったい誰が作ったのだろうか。  それはまだ誰にもわかっていない。多分わかる訳もないのだろう。  しかし釈迦はそのことについて多分この世界で初めて、それらこの世のすべての存在のミクロの条件、ミクロの方程式を与えたものについて感じとり、見出し、それを実相として私たちに伝えようとしたのです。

     しかし実はまた、目に見えるような、手で触って感じられるような相(姿)で(ものはueyonabaru補)実在はしていないのだ。なぜなら我々は人間としての五感でものごとを形成している素粒子を触ったり見たりは出来はしないのだから。  といって、世の中のすべての物は素粒子で出来上がっているのだから、この世なるものは、要は素粒子で出来上がっているのだと自覚することが「実相」をつかむということかといえば、決してそうではない、と編者たち(庭野さんたちueyonabaru補)はいっています。  そうした認識はあくまで究極の真理の一歩手前のものであって、その一つ向こうに在るものについてはまだ誰も明かすことは出来はしない。それを明かすということは、神仏の存在を証明するということに他なるまい。  そして、科学がやがてそれをなし遂げると、私は思わない。素粒子を発見したように、人間が神を発見して明かし出すことは絶対に出来まいし、第一、神はそんなところにいる訳がない。・・・・・素粒子の組み合わせをあやつり、素粒子よりももっと見えにくい、捉えにくい、前に「十如是」について記したようなさまざまな位相での複雑な関わりあい、つまり因縁、縁起を形づくり動かしているものが、やがてどこかの惑星で発見されるかも知れない人間よりはるかに優れた他の生物のように、ひょっとしたらハッブル宇宙望遠鏡で写してもたらされるということなどあるはずがない。

     ならば神や仏はいったいどこにいるのか、といえば、人間の心の内にでしかない、と私は思います。


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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月26日 23時54分22秒

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    石原慎太郎の法華経論 ⑥

     前回に続き、石原慎太郎の仏教の基本的なことがらについての考えを見てまいります。

    (無常とは何か)

     現代の碩学松原泰道氏はその著「わたしの般若心経」の中で、 「空はすべてのものの帰着する処であり、また一切が生まれる処でもあります。すべてこの世にあるものは、さまざまな要素がかかわり合ってできるのです。この道理を仏教の思想では「空」と呼びます。このようにして存在する一切のものは、そのものをつくりあげている無数のかかわり合いが離れると、死んだり滅んだりします。この道理もまた「空」といいます。ゆえに、「空」はすべてのものの存亡(存在と滅亡)の原理です。」と記しています。

     どうも、仏教というと世の通念では虚無的な無常観の源泉ということになっているらしい。例えば頓知で知られた一休和尚の「正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」などという狂歌も、人間はどうせ死ぬのだ、そのくせ、たった一つ年を越しただけで何をめでたいめでたいといっているのだ、という楽しみに水をかけるような虚無感のおしつけにとられがちだが、まったく違います。

     H2Oの水が、T、P、O(time、place、occasion 時、処、場合)に応じて霧となり雲となり、雨ともなるという水の変化に関する公理が「空」なのです。そしてT、P、Oが常に固定して変わらないなどということは決してありはしない。だから「空」の大事な意味の一つは、止むことのない変化「無常」ということです。だから中村師の注釈にあるように、決して単なる無(非存在)ではないのです。
    無常とか空などという文字を連ねるとなんとはなしに虚無的なものを感じ、懐疑的にさえなりがちだが、無常であるがゆえにこの世のものごとは生き生きとしているので、変化しないものは、在っても化石と同じでしかありはしまい。

     釈迦の言葉を綴った「スッタニパ-タ」に「あるがままの現実をみなさい。そして智慧を持って、勇気を持ってものごとを解決していきなさい」とありますが、その智慧とは「空」について知るということだと思うし、勇気とは、ものごとの本質は変化だという真実を心得、「無常」に耐えるということだといえます。  だから西欧の哲学では、「現実の背景に真実がある」としますが、東洋、特に仏教の哲学では、「変化の止まぬところにこそ真実がある」ということになる。

     と「空」だの「変化」だの、あるいは「無我」だのいろいろ、「実相」なる山の頂に向かう登り口について記してきましたが、その行き着く先の「実相」という宝石はいったいどんな形をし、どんな輝きをしたものか誰しも興味津々たるものだろうが、実は、それがどんなものなのかはわかりません。

     いえることは、刻一刻移り変わっていく世の中のすべてのものごとに絶対的に共通して在るものがある。すべてのものごとは目には見えないが、人間の五感では確かめることは出来ぬが、ある共通した原理によって調和しながら動かされているに違いない。それそのことが「実相」なのだ。

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月25日 12時23分08秒

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    石原慎太郎の法華経論 ⑤

     今回の発言のテ-マは法華経となっております。しかし、それでは、テ-マが大きすぎるので、石原慎太郎の書いていることから一部抜き出し瞥見するのみにとどめます。あと、仏教の根本的な「空」、「無我」などのことについての石原氏の考え方をみてゆきたいとおもっております。
     なお、法華経論は後日腰をすえて勉強するつもりです。

    (十如是とはなにか)

     法華経は全体が二十八章で構成されているがその第二番目に「方便品」というのがあります。打ち明けていうとこれは二十八もある章の中でも最も大切な五つの章の一つとされていますが、ここではものごとがなんで今のような形に成りきたって、それをどう捉えることで最も適切な方法を講じることが出来るかという手引きが教えられています。  それは、また毛沢東の「矛盾論」を引き合いにすると、まず彼のいった「従属矛盾」の捉え方について教えているのです。

     曰わくに、「いわゆる諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究きょう等」があるのだといっている。

     如是というのは、「何々のようなこと」とでもいう意味で、ものごとの意味とか実体にはこういういくつかの本質があるということです。有形無形、身の周りに在るものごとを順序だてて分析すればこういうことになる、という説明です。

     このくだりは世に「略法華」、つまりお経全体の集約とまでいわれているくらい重要な意味を持つ部分ですが、わかってみるとこうした的確で具体的な分析がお経の真髄といわれる限り、法華経というのは少なくとも、神がかりな教えでもなければいたずらに観念的な理想を説いたものでもないというのが逆によくわかります。

    Ueyonabaru: 以下十如是の各語についての石原氏の説明がありますが、長いので、本末究きょう等を除き、ueyonabaruの方で、簡略してみました。

    如是相: 桜の花を例にとると、桜の花の生来の姿
    如是性: 桜の花の姿を現す生来の性質
    如是体: 桜の花を桜たらしめている奥に内在するもの。桜の遺伝子のようなもの
    如是力: 桜が春になれば花を咲かせる力のようなもの
    如是作: 花を咲かせる力のようなものがもっている作用
    如是因: すべての現象には生ずる原因がある(ueyonabaru桜を植えることか)
    如是縁: 桜の花が美しく咲いたとすれば、気象が良かった、養分が豊富だったなどの条件
    如是果: きれいに咲いた、桜は不満足にしか咲かなかったなどの結果
    如是報: 桜がきれいに咲いたとしたら、咲いた結果から得られる心の報い
    本末究きょう等: 如是相から如是果までの九つの現象の要因はそれぞれ複合的にからみ合っていて、その按配といのは簡単にわかるものではありはしない。がしかし、この宇宙や人間社会の出来事はすべて等しくこれら九つの要因を互いにからみ合わせる、宇宙のある法則によって仕切られ按配されて出来上がっているのだということです。

     ならばその宇宙の現象をすべて支配している「法則」とは何なのか。  しかしこれは最後の最後にくる命題で、それにたどりつくために誰しも苦労するのです。中でも一番苦労したのは、その真理に突き当たるまで体を張って生きぬいた釈尊自身でしょう。

     だから他人ごとでもいいから、誰かがこれは縁起が悪いとか、いい因縁に違いないなどといっているおりには、聞き逃さずに耳をたてよく聞いて眺め考えなおすと、むしろ他人ごとの方が例の十の要因に当てはめてみてなるほどと納得されることが多い。むしろ他人ごとを眺めることでの方が、仏教の説く人生の真理に触れやすく啓発されやすいともいえます。

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月24日 22時17分47秒

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    石原慎太郎の法華経論 ④

     さらに、石原氏の際だった点(特徴)をあげてまいります。引用です。

    (夢知らせ)
     
     こんなことを書くとまた誤解されるかもしれないが、私は仕事柄たいそう神経質な人間でこと睡眠についてはいろいろ気を使います。特に一度目が覚めた後の次の寝つきについては努めながらも自分ではらはらしているのが常だが、時折夢の中で何か思いがけぬ、往々卓抜な思いつきを得ることがあります。・・・・・夢の中で思いつき夢うつつにノ-トしたようなものなどろくな発想ではあるまいとおもわれようが、私の場合は翌日読みなおしてみてもどれもかなり卓抜非凡な着想やヒントになっている。そして不思議なのは、そんな風に無理して目を覚ましての作業の後なのに、他の場合と違ってその後のほうがはるかに安らいですぐに眠りにつくことが出来る。

    ueyonabaru: ソクラテスにもあった夢知らせ現象ですね。夢で智慧が与えられるなんてホントにラッキ-な方だと思います。夢知らせのことをきいたことはありますが、こんな具合にできるのは何ともうらやましい。

    (新興宗教について)

     前章で、例に引いた霊友会にしろそこから派生したという立正佼正会にせよ、あるいは今日日本の政治にまで大きな影響力を持つ創価学会にせよ、あくまで仏教のいわば復権団体であって、その源流は釈迦が説いた教え、つまり仏教であることに違いはありません。・・・・・仏教のいわば専門家である坊さんたちが庶民にとっては仏の説いた三つの宝ものの実感には乏しく、私たちの日常生活に一向に強く触れてくることがないために、それなら他力本願ではなしにいっそ自分自身で仏教を学び行じてみようということで、出家したプロとしてではなしに、あくまで家にいたままの在家でしようというのがこうした新興宗教ともいわれる在家の信仰集団です。・・・・・プロの坊さんたちがそうしたいわゆる新興宗教をどう思いどう評価しているかはしらないが、信仰という人間にとって大切な財産の増殖―――むしろ在家で仏に帰依しようという志を立てた人たち―――を彼らがしょせんアマチュアとして蔑視するとしたらとんでもない奢りだし、そんな資格が誰にあるものでもない。・・・・・

    (苦しい時の神頼み)

     だから釈迦の哲学をあくまで哲学として学びだんだんに上りつめていくと、やはり神、仏を対象にした信仰の問題に行き当たらぬ訳にはいかない。哲学の話として聞いてきたが、なんだやはり信心の話かということになりそうだが、要するに人間としての自分を救うための哲学をしていけば釈迦の説いた哲学では最後に神仏が現れてこぬ訳にいかない。・・・・・苦しい時の神頼みでもいいのです。そんなことでもなければ普通の人間が、手で触ったり目で見たりすることの出来ぬ神や、仏を想ったり信じたりなかなか出来る訳もない。  多くの人間が、今までさまざまな形でその不可知なる巨きな力の働きについて体験してきましたが、それは人間たちの考え出した理屈、つまり理性では説明しきれぬ形で現れてくるために、人々はそれをすぐに神とか仏に結んで納得しています。しかし実はそんなものは安易な説明でしかない。それならそこらじゅうにありふれたお説教です。  しかし釈迦が説いた教えは「存在」と「時間」という、ありふれ過ぎていて実は捉えようのない、それゆえ哲学の最大の主題について解明して教えているために、並の説教を一歩二歩、いやはるかに越えているのです。

    (自己の存在を中心に)

     キリスト教やイスラム教の原理主義などでは、すべてはもともと神が今こうしてあるがままに創ったものだ、だから、進化などというものなどありはしなくて、化石にしろあれは化石として神が創り与えたものだ、ということらしい。  仏教にはそうした天地創造に関する創造者としての神を絶対化するような原理主義はみかけません。だから、一部の坊さんたちは反発するかも知れないが、私は仏教の教え、釈迦の哲学をまず自己の存在を中心に、実存主義的に理解してかかるということは決して間違ってはいないと思っています。 

    ueyonabaru: 石原氏の際だった点はこれらの引用で大体は分かるはずです。私も石原氏同様、人間自身の理解がたいせつだと思うので、今後とも自由に真理を学んでまいりたいと思います。石原氏はここで引用した以外にも数々の宗教的実体験を述べております。目に見えない、力が、仏教的縁起が、氏を導いているかのようです。このように、生活と宗教が密着している方はやはり尊敬に値します。  

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月24日 14時06分39秒

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    石原慎太郎の法華経論 ③

     石原慎太郎のこの著「法華経を生きる」は、時間、存在論をも展開しますが、しかし、この本の主旨が仏教の哲理を説くことであることは疑い得ないのです。人間は、この、時間、存在(空間)でなる人生を生きている中で、なにものかを求めてゆかねばなりません。これが、この本のテ-マなのでしょう。
     今回は、石原慎太郎の仏教論を見る前に、この方の宗教観における際だった点を見てみます。


     現に多くの伝道者たちは信仰の極意として人間を超えたものの存在への心の傾斜を前提としての無私、無我などを説いたりします。しかし私から見ればそれは実は信仰を説く側の一種の奢りであって、悩みを抱えている者、つまり自分に関する出来事にがんじがらめになってにっちもさっちもいかなくなっているような相手に、自分を捨てろなどといっても通じる訳はない。わたしはこうして救われたのだなどと有りがたげにいう人をよく眺めてみると、こちらから見ればとてもよく救われているともおもえない。 要するに救いなどというものはあくまで個人個人のことであって、そう簡単に自分の体験を他人に向かって普遍化出来るものでありはしない。つまり自分は救われたと当人自身がしみじみ想わぬ限り、誰も救われてなどいはしないのです。

     私はこの文章(=本)の中で仏教の教え、それも法華経の教えについて解説したり、私が法華経を読んでなるほどこれは真理だなと感じたことを伝えたいなどというつもりはまったくない。ただ私は私なりにさまざまな体験を重ねて自分の人生を生きてきたが、その過程にある縁で行き会った、釈迦が亡くなる寸前に説いたという、いわばお釈迦さまという人間の人生の集大成としての教えから受けたいろいろな強いヒントが、他人には知らぬが私の人生にとってどんな効果があったかについて記し、そのある部分はある人たちも多分共感を持って受けいれられるのではないか、またある人には何かの足しになるのではないかと思っているだけです。いってみれば法華経をよんだことでの私の人生のための効用体験、さらにいえば私の人生の中で被ったおかげ、御利益についての分析です。


     石原氏は法華経の教えを解説したり、感じたことを伝えたいとは思わないという言葉とは裏腹に法華経を大礼賛し、法華経体験をも大いに伝えてくれています。無理からぬことでしょう。これは、法華経を伝えるのに、一定の教団の伝道のようには語りたくないというのが主旨だと思われます。  注目したいのは、石原氏が法華経の御利益についてとハッキリと述べていることです。御利益を求めないで、宗教に入信するという方もいらっしゃいますが、このような方でもなにか求めるところあっての入信ではないでしょうか。物質的な功徳のみ求めるのは論外ですが、精神的ななにものかも含めたなにかを求め宗教入信するのは自然なことのように思います。石原氏のように、御利益をとハッキリ打ち出される方は正直な方だと思えます。知識人といわれるかたがたは、この点臆病であり、宗教信者といわれることを畏れているようにも見えます。


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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月23日 11時42分38秒

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    石原慎太郎の法華経論 ②

     時間とはいったい何なのか

     ものが在る、何かものごとが起こって人間の生き方にいろいろな影響を与える、ということの舞台は「空間」と「時間」です。いい換えれば私たち住んでいる空間、もっと大きくいえば世界全体という空間であり、すなわち地球という人間の住む惑星を含めての膨大な宇宙ということです。

     ・・・ニュ-トンは、「絶対的、真の数学的時間はそれ自体、その本性からして下界のいかなるものとも関係なしに、均一に流れる」と規定しました。そして彼は、均一な絶対的時間の上の各瞬間が、幾何学線上の点のように連続的な順序を形成していると考え、瞬間の過ぎていく速さは、出来事や変化にまったく左右されないと考えました。この考え方は、大方の人間が漠然と感じている、時間というものは始めも終わりもなく、何が起ころうと関わりなしに独立して続いていくものだという思いに近いものです。           
     しかし、この絶対的時間概念に対してライプニッツは時間の「相関性」について説きました。要するに、何も存在しない時にも時間が在るのか。時間を形成している瞬間という時間の流れの粒々が在るというのはおかしい、と。 この天地宇宙を神が造り出したとし、それが何百億年前の某月某日として、しかし神はなんでもう一年早く天地を創造しなかったのだろうか、と誰かが首を傾げたとする。ならば、神がなぜわざわざその日に天地を創造したのか、その理由は無いじゃないかといい出す人がいたとする。 そしてもし、時間がものごとに関わりなしに時間として存在するというなら。この人のいい分は正しいことになるではないか。なぜなら、ある瞬間にはものごとが存在しているのに、他の瞬間には存在し得ないという理由は無いではないか、とライプニッツはいいました。

     確かに何も存在しない時にも時間は存在しているのだというのは理が通らない。だからライプニッツは、瞬間瞬間が構成する時間より出来事の方が先、つまり基本なのだといいました。いわゆる「時間の相関説」です。つまり、前にも述べたように、「時間」は「存在」の影なのです。

     しかしニユ-トンも、力学については相対性原理を説いています。いわくに、「ある空間の中で運動している物体相互の関係は、その空間が静止していようが、一様に直線的に動いていようが変わらない」と。

     こうした先人の研究を踏まえて、後にアインシュタインはいわゆる「相対性理論」を編み出しました。力学における相対性原理を光の範疇に持ちこみ、光の速度、つまり、目に見える出来事は、それを止まって眺めている者にとっても、仮に光と同じ速度で動いている者から眺めても、ともに同じなのだという論です。
     
     ウットロウが要約しているように、ニュ-トンは「時間は宇宙から孤立存在(もの)である」といい、ライプニッツによれば、「時間は宇宙の様相である」、アインシュタインいわせれば、「時間は、宇宙のそれを眺める者との相関関係である」ということですが、これ以上の説明はややこし過ぎてこの本題から外れてしまうのでこの程度にしておきます。

     しかしいずれにせよ「時間」はいったい何なのかということについて過去にも今でも人間はいぶかしみ考えながら、それぞれがそれぞれの思いでそれを踏まえつつ自分の人生を考える手がかりにしてきたのです。 とにかく誰しも、時間というものが明らかに在るということは知ってはいても、それがいったい何なのかは知っているようで知りはしません。しかし人間である限りそれを気にしない者などいる訳がない。

     ついでに記しますとウットロウがいっているように、それぞれの解釈が何だろうと時間には明らかに二つの特性があります。これは誰も否定できません。 一つは、「時の矢」ともいわれる特性で、次々に続いて起こってくる出来事について非可逆的にその前後関係を時が記述するのです。つまり時間の流れは元には絶対に戻りはしないのだから、過去の歴史について、「もしあの時」などという仮説はまったく無用無益なものでしかない。・・・・・厳然たる時間のル-ルがあるということ。  二つは、「時の経過」です。この場合の経過とはやや短絡的にいわれていますが、過去と現在と未来はそれぞれ明らかに違う、異なる、ということを時間は歴然と教えてくれている。つまり時間が推移するということこそが人間に「永遠」という観念を与えてくれるので、時間が切りもなく流れていかぬ限り誰が永遠などということを想ったりするものか。
     
     以上ジグザグに述べてきましたが、こうした時間に関する過去の人間たちの錯誤を含めての思考のすべてを釈迦の説いた仏法の哲学は包含していて、時間と存在の関わりの上での人間の存在の意味と仕組みを解き明かし、それを知ることでしか獲得出来ぬ解脱と自らによる救済を教えてくれているのです。


    ueyonabaru: 相対性原理については、まだ理解できません。残念です。






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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月22日 18時03分48秒

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    石原慎太郎の法華経論 ①

     曲がりなりにもプラトンを読了したのですが、次に何を読もうかと考え、手にしたのは、石原慎太郎著の「法華経を生きる」という本です。この本は、数ヶ月前にひととおり読んではおりました。内容はむろん法華経が中心なのですが、彼の家族のことや新興宗教の教祖達のこと、祖先崇敬の日本人の心情、さらには哲学的なことにも話は及び、多岐にわたっての彼の思索の深さがうかがわれました。哲学的なテ-マでは時間・空間論を論じております。引いてみます。


    存在するものとは何か

     ハイデッガ-にいわせれば、「存在するもの」とは何なのかという疑問は、存在するものとしてそこに在るそのものとはいったい何なのかということ、たとえば今私の書斎の机の上に本とインクの壺とペンが在る。本は本、ペンはペンだがそれらの品の機能や役割については誰しも知ってはいるが、もう一つ進んで、その呼び名や役割ではなしに、ペンはなぜそこにペンとして在るのか、という疑問です。・・・・・つまりそれは、何億光年の彼方になんであんな星が在るのかなという疑問と実はまったく同じことなのです。 だからそれは、そこに在るものをそこにそう在らしめている「存在」とはなにかということになる。

     それにしても何億光年前の宇宙の姿を今見るということは有無をいわさず「時間」というものの継続を明かしている。今、眺める星の過去を光年という時間で計る距離として知ることで私たちは「時間」について歴然と知らされるのです。 ここでいわずもがなのようで実は基本的な大切なことがらについて確認しておくべきなのは、プラトンが、それこそが哲学する者のパトスだといった、存在の問題に関する人間の驚きとはいかなるものかということです。 ハイデッガ-の考え方と深い関わりのあった哲学者のウィトゲンシュタインは、「神秘的なのは世界がいかにあるかということではなくて、世界がある、ということなのだ」といっている。まさにそうなのです。


    「ある」とは「心にとまる」こと

     ハイデッガ-は著書「形而上学とは何か」の中で、「あらゆるものの中で人間だけが、存在の声によって呼びかけられ、ものが存在するという驚異の中の驚異を経験するのだ」といっています。・・・・・ハイデッガ-やフッサ-ルの良き解説者である中央大学の哲学教授木田元氏はその著書の中で、一つの手がかりは、「存在」とはものではない。「存在」はものをそこに在るものたらしめているのだから、「存在」そのものは在るとか無いといった一個の「もの」ではない。だから、「存在」とは何なのかを、ものたちの中に探しても見つけたり理解出来たりする訳がない、と解説しています。 そしてこの問題の鍵としてハイデッガ-は次の三つの命題を記しています。

     人間が「存在」を了解する時にのみ、「存在」は(ある)
     「存在」は了解の内に(ある)
     人間が在る限りでのみ、「存在」は(ある)と

    ueyonabaru註: 存在とは人間が心で認めたとき、「存在」となるという意味か


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    2008年06月16日 20時49分51秒

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    プラトンの対話編を読んで

     プラトンの対話編も私の本では、テアイテトスで終わりです。ただ今これを読み終えたところですが、残念ながらこれをまとめることは私にはできません。手に余ります。

     巻末には、アラン(フランスの高名な哲学者)が書いたもので、「プラトンに関する十一章」という小論文があります。これについてもやはり難解であり、腰を落ち着けて、さらには時間もかけて勉強でもしないかぎり、理解は難しそうです。

     専門的には、対話編の解説書などもあるようであり、それらを駆使して鋭意努力しなければ、プラトンの理解は進まないように思えますが、しかし、専門的に哲学を勉強しようとするつもりはありませんので、それはしません。

     直接原典にあたり、プラトンに触れることができたのは幸せであったというべきでしょう。専門家のように理解したわけではないが、私はプラトンを読んだ、そして、ある手応えも得られたということだけは誰はばかることなく言える筈です。

     プラトンは神を崇める人であり、死後世界を認め、霊の存在も認めた智者であったと言えましょう。ホントに予想通りに宗教との親和性は強いものがありました。キリスト教以前の思想家であることも注目したいところです。キリスト教では説かない、輪廻転生の思想も当時のギリシャ時代にはあったということも分かりました。

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  • from: ueyonabaruさん

    2008年06月10日 11時59分58秒

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    アルキビアデス

     アルキビアデスを読みました。私の手にしている本では、その前にラケスという章がありますが、これは特にまとめる内容があるとは思えないので、省いております。、

     アルキビアデスは前途有為な青年として描かれております。ソクラテスは例のごとく守護霊ダイモ-ンの教示(すなわち彼に会うことに反対をしない)に従い、恋するアルキビアデスに初めて会い、そして対話が始まることになるのです。ここで恋するという言葉が出てきますが、これはわれわれの使う恋という言葉の意味とは若干異なり、当時のギリシャ特有の使い方かも知れませんが、必ずしも男女の間の恋ではなく有意な美しい青年への愛であり美しい少年への愛であったりします。男性への愛であったりするわけですが、これが即同性愛とも言い難いところがあるように感じられます。

     アルキビアデスは、将来国会議員として打って出ようとしており、これに、ソクラテスが彼に対話のかたちで説教するという設定です。

     人間とは何かを知らなければ、人間を善くすることはできない。デルポイの神殿にある「汝自身を知れ」という言葉は何を意味するのか。
     次のとおり対話が続きます。長いのですが、引用してみます。


    ソクラテス: したがって、靴屋もキタラ(楽器)の演奏家も、手       や眼のような、そこでかれらが仕事をするものとは       異なるということになる?
    アルキビアデス: 明らかにそうです。
    S: ところで人間は、また身体の全体をも使用するのではない    か。
    A: ええ、全くそのとおりです。
    S: ところで、使用者と使用されるものとは違うのだったね。
    A: そうです。
    S: したがって、人間は自己の身体とは別ものであるということ   になるのかね。
    A: そうかもしれません。
    S: では、人間とはいったい何だ。
    A: 答えられませんが。
    S: しかしとにかく、身体を使用する者だということだけは言え   るはずだが。
    A: はい。
    S: ところで、そもそもそれを使用する者は、心のほかに何があ   るかね。
    A: ほかにはありません。
    S: そしてそれは、身体を支配することによってではないのか。
    A: ええ、そうです。
    S: さて、それなら、もう一つここに、誰も異論はないだろうと   思うことがあるのだ。
    A: どんなことですか。
    S: 人間は三つのうちのとにかく一つだということさ。
    A: 三つって、何の三つでしょうか。
    S: 心か身体か、あるいは両方合わせた、その全体かということ   だ。
    A: それに違いありません。
    S: ところがしかし、まさに身体を支配するものが人間だという   ことを、われわれは一致して認めたのだ。
    A: はい、認めました。
    S: すると、はたして身体は、自分で自分を支配するものだろう   か。
    A: いいえ、けっして。
    S: なぜなら、それは支配されるものだと、われわれは言ったの   だからね。
    A: はい。
    S: そうすると、これはわれわれの求めているものではないとい   うことになるだろう。
    A: ええ、そういうことになるかもしれません。
    S: しかしそれなら、心身両方合わさったものが身体を支配する   のだろうか。そしてしたがってこれが人間だということにな   るだろうか。
    A: たぶん、きっとそうかもしれません。
    S: いや、むしろその見こみは一番少ない。なぜなら、いっしょ   にいるもう一方のもの(心)が支配してくれるのでなけれ    ば、両方合わさっても、それが支配するという道は何もない   と思うからだ。
    A: それは当然です。
    S: ところで、身体も心身両方の合わさったものも人間ではない   といういうことになれば、思うに残るところは、そういうも   のは何もないか、あるいはもし何かあるとすれば、人間は心   にほかならないという帰結だけであろう。
    A: 正確にそのとおりです。
    S: それでは、心が人間だといういうことは、もっと何か明確な   証明を必要とするだろうか。
    A: いいえ、ゼウスに誓って、その必要はありません。


     人間とは心であると端的に言うのがソクラテスなのですね。非常に明快です。大川隆法もそのように言っております。こころの大切さを教える方々は多いのですが、このように端的に心こそ人間であるというかたは少ないのではないでしょうか。両者の一致は驚きであり感動もいたしました。 






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