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from: ueyonabaruさん

2009年03月12日 12時59分55秒

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偶然はない

ウォルシュの著書「神との友情」を開いてみました。一度ざっと読んだ箇所でしたが、気にかかることが書いてあります。以下「いいかな、良い出来事も「神の御業」

 ウォルシュの著書「神との友情」を開いてみました。一度ざっと読んだ箇所でしたが、気にかかることが書いてあります。以下

「いいかな、良い出来事も「神の御業」だよ。どんな人間も偶然に出会うことはないし、どんなことも偶然に起こりはしない。 
 ラリ-があそこにいたこと、ちょうどそのとき、ぴったりの態度のぴったりの人間がいたこと、それが偶然と思うか? あの日にラリ-と出合ったのは偶然ではなくて、袖で待っていた脇役が合図されて舞台に登場し、セリフを言い、退場したのだと考えてごらん。そのあとも、あなたの芝居は続いていく。いまも続き、あなたが明日についての考えで台本を書いているように、口にする言葉で、舞台を演出しているように。行為で舞台をつとめているように。」

 要するに偶然はないのだということだと解釈できます。全て神の采配であり、あるいは自身の選択だと言っていると思うのです。
この考え方は、ホントに重要なものではないかと思えます。この考え方に立つと、自分の眼前に展開することの全てに意味があるということになりますね。そうかもしれません。そうあって欲しいです。そのように考えて日々を過ごしてみようと思います。
 もしかすると、これは私にとって重要な意味を持つかもしれません。期待します。

 このような言葉は、TVのオ-ラの泉で繰り返し出てくるものでもあります。これまでただ聞き流していたのですが、そうもしておられません。昔、アメリカのニュ-イングランドの敬虔な清教徒達には、何か悩みを抱えたときとりあえず聖書を開くということがありました。開いた聖書のそのペ-ジの言葉が神の言葉として何らか示唆を与えてくれるのだという考えがあったのだそうです。

 今日、ウォルシュのこのくだりのテ-マを書いたのも、彼の著書を偶然開いたところ、偶然はないということが書いてあったことによるのです。ウォルシュの本は、たびたび開いてみる読み方をしてみたいと思います。聖書もそうです。 

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from: hiraokaさん

2009年03月15日 01時45分36秒

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「Re:Re:Re:偶然はない」
ueyonabaruさん、こんばんは。

>大川さんの初期の頃と現在やっていることの違いとは何でしょうか。

「愛と知と反省発展」をスローガンにしながら、身近な人への愛と反省が抜けているように見えます。

> 私は天邪鬼の面があるので、そうは考えません。イエス様やお釈迦様などでも人情に外れた言動は相当にあったのだろうと思うんです。もっとも、通常人の感覚での人情に対してです。また、彼らとて、弟子達が全て思うように師を理解し、従ったものだけでもなかったのだろうと思うんです。離脱、裏切りさえもあったはずです。そして、社会は必ずと言ってよいほど、これら偉大な救世主たちを攻撃したのではなかったのではないでしょうか。

いえ、天邪鬼でないぼくもそう思っていますよ。(*^_^*)
いやいや、天邪鬼でなくとも彼らを欠点の無い聖人と見るのは大いなる勘違いです。

>社会は必ずと言ってよいほど、これら偉大な救世主たちを攻撃したのではなかったのではないでしょうか。」
↑しかし、ぼくはこのような意味で批判しているわけではないことを分かっていただけないのは残念です。

> 前にもお書きしましたように、気の良いソクラテスのイメ-ジは私にはありません。気難しくはなかったかも知れませんが、時流に抗して理念に生きた、信念の人という強いソクラテス像です。彼とエマ-ソンを魂の兄弟だと思うのは私の思い込みかもしれません。しかし、そのように思えます。

「時流」・・・、いつだってそういう時流なんです。
ぼくはそういうことは問題にしていませんよ。
いつだって分からない人は居るんですから。それにソクラテスは時流を変える気概で行動したわけではなく、たんに「これって、おかしいだろ?」と言っていただけのように見えますよ。
こうしなければならないと云う気概と云うか、あるいは大いなるものの願いに奉仕するようなものは見えません。

>すみませんが、またご説明ください。「宗教運動にはなってない」と「新しき皮袋はどのようなシステムだったのでしょうか」の意味です。

ぼくは、すべての人達に「善きもの」(神性)は埋め込まれていると思っています。
ですから、それをどのようにして発露させていくかのためのシステムのことです。

>> 大川さんの言うことは現在、宗教運動になっていないではありませんか。
↑これは、宗派を超えて人に神性を再度気付かせる運動の事です。

>> エル・カンターレ宣言をしたのち、新しき皮袋はどのようなシステムだったのでしょうか?
↑これは、イエスのやったことを見てください。
怖れと天罰による秩序を説く古き皮袋から、愛と慈悲の神の実相を説く新しき皮袋の事です。

> 偶然について、哲学的なことを考えていたのではなくて、ウォルシュのいう神の言葉に心動かされたということなんです。目前に展開する事象への驚き、真摯な受けとめが大事かと思った次第です。

ウォルシュが言っているわけではないんですよ。ウォルシュとは別人格のようです。
おそらくイエスに近い集団のようです。


突然ですが、しばらくお休みさせていただこうかと思います。書き込みを止めるわけではありませんよ。

ueyonabaruさんの真摯な疑問に呼応して通信を始めましたが、ぼくの知っている事はほぼ書きつくしました。
大川さんのこういう側面も知ってほしいと云う気持ちもありましたし、大川さんの霊界についての決定的間違いなどもあるようですが、
ようは幸福の科学は大川さんの見る霊界のようです。
この段階になると、大川さんを救世主と信じるか否かの発言になってしまいます。
そしてエル・カンターレと云う存在を認めるか否かの問題になるようです。
ぼくはさんざん悩んだあげく、そのような存在はあるはずだろうが大川さんがそれであるとは思えないと思っています。
また、エル・カンターレそのものがあやしいと思います。
ひとことで云うと、大川さんは新しい宗教を創造したのではないかと結論しています。

たんなる論争はぼくの好みではありませんし、ueyonabaruさんも好まないと思います。
ぼくが普段思っていることを話す機会はほとんどありませんし理解してくださる人もめったに居ませんので、ueyonabaruさんが聞いて下さったことをとても感謝しています。
また、これで終わりなわけではありません。

もし、ぼくの住んでいるところに立ち寄る事がありましたら、ほんとうに遠慮なくわがやに泊まっていってくださいね。大歓迎しますよ。 (*^_^*)

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