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from: ueyonabaruさん

2011年04月28日 19時09分26秒

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イエスは創造神?

今月の文芸春秋誌は皆さんお読みになりましたか?博学で柔和な池上彰氏が各宗教の有識者たちと対話の形式で話されております。実際に信仰の真っ只中にある者にと

 今月の文芸春秋誌は皆さんお読みになりましたか?

 博学で柔和な池上彰氏が各宗教の有識者たちと対話の形式で話されております。

 実際に信仰の真っ只中にある者にとっては、若干表層的であり、ハガユイものがありますが、一般的な宗教観がどのようなものであるか分かるし、また、今まで知らなかった点も教えられる面があり、結構興味深い記事です。

 キリスト教について、山形孝夫氏(宮城学院女子大学名誉教授)は、神について次のとおり述べております。


 まずはこの世を創造した唯一絶対の「創造神」。ここまではユダヤ教やイスラム教と同じ。違うのは、ユダヤ教やイスラム教の神が人間の目にはまったく閉ざされた不可視の存在であるのに対し、キリスト教では、神がイエスという可視的な存在者の姿をとって、人々の前に姿を現した、という点にあります。「父なる神」と「子なるイエス・キリスト」ですね。そして第三に「聖霊」が加わり、この三つが一体だというのが、キリスト教独自の「三位一体」の神観念です。

 復活した後、イエスは天にのぼります。可視的な存在から不可視の存在への変化です。しかし地上には聖霊が残り、イエス・キリストと同じ働きを人間と世界に対して果たしていると考えるのです。


 幸福の科学では、イエスが父と呼んだ神はエル・カンタ-レ神であるとしておりますね。私は、幸福の科学の説明が正しいと思います。人格神であるとしなければおかしいと思うんです。

 エマソンはイエスを創造神としてはおりませんし、生長の家でも創造の神は五感を超越した存在と教えております。論理的に、絶対者がこの地に生活するというのはやはり無理があるでしょう。

 キリスト教で、聖霊はこの世に残り、イエス・キリストと同じ働きをするとしたのは、面白い工夫ではありますね。死してなお、イエスは生きているとしたいのですね。幸福の科学では、イエスは霊界にあり、天使たちとともに、この世の人々を指導していることになりますね。こちらの方が、私には受け入れやすいです。

 分かりにくい「永遠の仏陀」というご本ですが、同書の179pでは次のように書かれております。


 神を知らんと欲せば、
 我が教えを見よ。
 その教えこそが、
 姿なき神の実体なのである。
 おまえたちは空を見上げて、神を見んとするか。
 おまえたちは目を閉じて、神を見んとするか。
 あまえたちは想像のなかで、神を見んとするか。
 それとも、おまえたちは、
 霊的なる目を開いて、神の姿を見んとするか。
 いずれの試みも虚しく終わるであろう。
 そう、真実の神とは、姿形なきものである。
 真実の神とは、この地上をも超えた、 
 実在世界にあるところの高級霊の姿をとった、
 その霊的実在でもない。
 その霊的実在を超えたるものが真実の神であり、
 真実の神の姿は、教えに顕れているのだ。

  

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from: Ayumuさん

2011年04月30日 10時51分33秒

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「Re:Re:Re:イエスは創造神?」
1989-1991ぐらいまでの会員だったものです。大川総裁の東大での講演が最後くらいでした。こんにちは

>  論旨とはずれるかもしれませんが、エマソンのいい言葉を思い出したので書いておきます。
> -
>  祈りとは何だろう? それは、人間の願望を神に向かって表現したものである。では神とは何だろう?それは、人間精神のなかに形成し得るもっとも高い人格概念である。完全の域に達した個人自身の魂である。なぜなら、個人は、これ以外の神を考え得ないからだ。私が有限であるように、神は無限なのだ。私が有限であるように、神は罪なき存在なのだ。私が無知であるように、神は全知なのだ。私が弱いように神は強いのだ。ところで、いのりとは、人間の魂がそのすべてをあげてこの至高の理念にささげようとする努力、この大きな精神を痛感し、私たちが人びとと話すようにこの大きな精神と言葉を交わそうとする試みである・・・・・。
> -

インターネットでの議論をよく拝見いたしますが、概ね信仰に関わること、特に上記のような視点での話が多いですね。KKの会員の方にも、総裁が自分の理想の人格であるというような部分が信仰の中に入っているようなケースもあるように感じます。キリスト教もカトリックは三位一体で、それ以外の解釈は異端になってしまうのですが、(ニケーアの公会議というところで決まって異端は追放されてしまいましたから)プロテスタントは、どちらかというと聖書中心主義で、聖書の言葉を糧として生きてゆくことが、信仰の中心に据えられていると記憶しております。
 
 ここからは、自分の考えなのですが、上記は、神への道を進むときの方向を見定めている部分でありますが、信仰の結果として、畏れを感じているかどうかが大切ではないかと思います。畏れは恐れではないです。
 
 人知を超える部分を認めることと、今神から既に与えられていることに対する感謝する気持ちを持っているかということですね。

 イスラム教は、神と人間との間に絶対的な線引きを行っています。例えば未来のことを人間が決めるのは傲慢だとかという考え方があります。(アラブの人はこれを縦にとって、時間を守ってくれず苦労することが多くあります。。。)人間が予言を行うことはあり得ないことですね。
 さらに彼らの考え方では仏教は宗教ではなく哲学であるそうで、なぜかというと人間が考えたものだからだそうです。
 これは極端ですが、人間を信仰してしまうと、どこかに傲慢さができきてしまうこともありますし、例えば、因果や、縁起で理解できる世界もありますが、そこにはまってしまうと、因果や縁起の閉じた輪から抜けられなくなることもあるということも今更ながら感じています。




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