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from: ueyonabaruさん

2012年08月18日 13時19分35秒

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あの世、三途の川が信じられない

あの世の存在が信じられないと悩む方がおられます。そのような方にどのようにして、目に見えない世界、あの世のことを説明してあげたらよいのでしょうか?私とし

 あの世の存在が信じられないと悩む方がおられます。

 そのような方にどのようにして、目に見えない世界、あの世のことを説明してあげたらよいのでしょうか?

 私としては、一つ次のように提案したいと思います。色々と説明はあるでしょうが、幸福の科学の信者としては、あの世のことについて、それは存在しており、輪廻転生もたしかにあるのだと説明ができることが要請されているはずです。

(一つの説明例)

 この世は存在することはたしかですね。それでは死んだらどうなるのでしょうか? まったくの無になるのでしょうか?  死ぬとは肉体が滅びることに違いありません。しかし、人間は肉体そのものでしょうか? そうであれば、肉体が滅びれば、人間はなくなってしまうことになります。あの世というものを考える必要もありません。

 仏教やキリスト教や神道、すべての宗教はあの世があると教えております。

 仏教に限っていえば、死後、人は三途の川を渡りあの世に行くといいます。あの世では、肉親、縁者などが迎えに来てくれるという風に教えます。そして、やがて、閻魔大王のもとに行き、そこで人は裁きを受け、あの世での行く先が決められるということです。行く先は、極楽か地獄の二つに一つの二者択一なのですね。しかし、中には、閻魔大王の所へ行くことができず、あの世で迷っている者もいるようです。いわゆる、浮遊霊や地縛霊などですね。

 人間は、肉体が滅ぶときに人間自身が無くなってしまうのであれば、仏教の説く、三途の川、閻魔大王などはおとぎ話のたぐいにしかなりませんが、これは、古来仏教が説くように霊界はあり、あの世では人間は生きているのだと考えたほうがよさそうです。

 人間は肉体と霊からなるものです。肉体は滅びても、霊は残り意識も生前どおりのまま残り、霊となってあの世での生活が始まるというのが真実です。

 これらの事情については、大川先生の著書「霊的世界のほんとうの話。」をお読みになり参考にし下さい。

 有名な哲学者ソクラテスもあの世の存在を信じておりまして、彼の著書(プラトン)の「弁明」や「パイドン」には、あの世の世界の有り様や天国世界の素晴らしさや、迷える浮遊霊が墓場近くをうろついている様も表現されております。

 仏教の没落が言われておりますが、現在の仏教僧には、霊界世界を十分に理解していない者も多いようですが、これでは人間救済のお仕事はできませんよね。

 

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from: ueyonabaruさん

2012年08月26日 16時59分23秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:あの世、三途の川が信じられない」
にしき鯉さんへ



> 話の中でダイバダッタの事も出てましたが、彼も大乗経典の言うような悪人ではなかったんですよ
> 彼はあまりにも厳格に戒律と瞑想に忠実に生きようとして、仲間にもそれを強いようとしました(本人はそれが正しいと思っていました)
> 1.人里離れた森林に住み、村などで夜を明かせば罪
> 2.托鉢をして、家人から招待されて家に入れば罪。
> 3.ボロボロの糞掃衣を着て、俗人の着物を着れば罪
> 4.木の下に座して瞑想すべきで、屋内に入れば罪
> 5.魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪
> 確かにもっともな戒律などですが、これではついていけない人が数多くでてきます
> ですが短いスパンで結果を出そうとするのなら極限を目指す方法もありと言えそうです
> だから500人近くの人間が一時的にも賛同し、ついていったのです
> シャーリープトラは、ダイバダッタの考えも説明し、かつ危険性も説明し、間違いのない方法と言う事で釈迦の法を500人の弟子に伝えました
> これが後の「中道」の理論につながっています

 このご文章を読むと、ダイバッダにも正しさはあったということのようです。

 誰にも100%の悪というのはないと思いますね。ダイバダッダに寄り添いながら考えていけば、彼の弁護論もなりたちます。一部の義はあったと考えることはできそうです。

 シャーリ-プトラがあのような物言いをするはづはないと言われますが、どうなんでしょうか? 私は判断できません。仏典から見て、シャーリ-プトラは、そのような人ではなかったとにしき鯉さんは判断されているわけです。しかし、それはにしき鯉さんのご判断であり、ここでは、いちおうお受けし、参考にさせてください。

 逆の方から見てみます。幸福の科学の信者側の観点からの見方です。語られる弗舎利の言葉には十分に悟りの息吹が感じられるのですね。私は、念仏宗の法然、親鸞を論じるあたり、特に感動させられます。

 色々の見方ができます。にしき鯉さんの見方、幸福の科学の見方で異なってまいります。戒律、悟り中心の見方でいけばにしき鯉さんの見方になるのだろうと思います。

 それにしても、ダイバダッダの反逆の原因が、一方は戒律という修行の方法論の違いから生じたものとし、他方は、ダイバダッダが法につかず食料についた では大違いです。ホントはどうなんでしょう? 
 


> < 慢というのは、いい意味はあまり感じられません。>
> そうですね、ところが「慢」と「誇り」紙一重なんです

 少しずれますが、静かなるプライドは自信であり誇りのような語感を感じます。プライドは逆に慢に陥る感じがありますね。ですから、静かなるプライドはあるべきでしょうね。

 誇りは、なんらかの真実性を必ず帯びておりますが、他の人の誇りに対して、それを認めないようであれば、単なるプライドになってしまうのかな。



> 私もよく思うのですが、心の弱いとき、感情の高ぶったとき、なんと自分は傲慢なのだろうと思います

 私は、心の弱くなったときには落ち込むタイプです。感情の高まったとき、もう激情に流されないまい というのがその後の反省になります。



> たとえ、言っている事が正しくても、それは自分を守りたいがためのプライドなのでしょう
> これを、矯正するのは並大抵の事ではありません

 正しいことを言っているという自信があるのですが、それでも相手が納得してくれないとき、時として、自分の言っていることが受け入れられないことなのに、自分を否定しているように感じてしまいます。そして、怒ります。冷静に見る必要があります。人は、自分の主張に同感することができないだけなんです。

 そうは言っても、自分自身の受け入れられないという面があるのだという自覚も他方あるわけで、もっと自分を磨かねばと思わされます。
悟りを得た人が語るのであれば、反発の度合いも又異なってきます。



> 唯一あるとすれば、自分を低く見る事、「女房の言うことを聞かない」事があった場合
> 教えてもらっているんだという意識を持つ事でしょうか
> 自分は修行途中だから、総ての人から教わるんだと言う気持ち
> 自分を卑下するのではなく、壁を取去ってしまう事
> 簡単な事です

 壁を取り去ってしまえばいいというのは同感です。自他一体です。



> 相手がいなくなった時を考えればいい
> 私たちの年齢になれば「死」も近づいてきます
> 私は父も母ももういません、今しか妻の意見を聞く事はできないのです
> それがつまらない世間話でも、日々の愚痴でも「今しかないのです」
> ちょっと、内輪話になってしまいました、この辺で、、、

 内輪話も結構なことです。ホンネが大事です。一日一生、一期一会でまいりましょう。


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