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神話読書会〜女神さまがみてる〜

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  • from: エリスさん

    2008年03月21日 15時07分56秒

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    女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・1

     ヘーラーがオリュンポス社殿で王后としての政務を執っていた時、その知らせは届いた。
     「ティートロース様がお越しになられました」
     ティートロースというのはゼウスの息子のひとりだが、分け合って幼少時はヘーラーが育て、三歳の時に、当時子供がいなかった小国の王のもとに養子に出された人物だった。
     人物――と言っても、半分は神。母親は精霊であるから、だいぶ神に近い存在である。
     「おや、懐かしい。あの子が遊びにきてくれるとは」
     通信用の水晶球の向こうにいる侍女に話しているヘーラーは、本当に嬉しそうな笑顔だった。だが、それに対して侍女の方は深刻な顔をしていた。
     「それが、ただ遊びに来たわけではなさそうなのです」
     「どういうことです」
     「どうも、家出をなさったようで……しばらく、こちらに泊めてほしいとおっしゃるのです」
     「なんですって!? ……それは、泊めるのは構いませんが……。わかりました。私もすぐに帰りますから、そこにティートを引き止めておきなさい」
     ヘーラーは執務中の書類など放っておいて、アルゴスにある自分の社殿に戻った。
     すると、社殿の前に馬車が停まっていた。数人の兵隊も付き従っていることから高位の者の馬車だとすぐに分かる。
     そして、門の前には身なりのいい婦人が、まさに泣き崩れていたのである。
     「そなたは、カシミーネー!」
     ティートロースが養子に行った国の王妃だった。
     カシミーネーと呼ばれた婦人は、すぐにヘーラーに気付いて、女神の足元に駆け寄ってきて、すがりついた。
     「ヘーラー様! どうか私をお許し下さい!! 私がどうかしていたのです! あの子を――ティートロースを恐れるなど、母としてあるまじき心だと、この通り反省しております! ですから! どうか私にあの子をお返しくださいませ!」
     「なにがあったのです。私は帰ってきたばかりで、まったく事情がわからないのですよ」
     入り口の門が開いたのは、そんなときだった。
     出てきたのは、ヘーラーの次女・ヘーベーだった。
     「カシミーネー王妃。やはりティートロースはあなたとは会いたくないそうです。気の毒ですが、このままお帰りなさい」
     「ヘーベー様! せめて、せめてティートロースの顔だけでも拝ませてくださいませ! 私はあの子に詫びたいのです!」
     「お帰りなさい、王妃。今は、時を待つのが一番なのです。あなたにとっても、ティートにとっても」
     カシミーネーが再び泣き崩れるのを哀れむように見下ろしてから、ヘーベーはヘーラーに目を向けた。
     「お戻りなさいませ、お母様」
     「いったいどうゆうことなのです、ヘーベー」
     「事情は中でお話いたします」
     ヘーラーはカシミーネーのことを気にしながらも、ヘーベーと一緒に社殿へ入っていった。

     ヘーベーが説明したことは、こうだった。
     五年前、ティートロースが養子に行った王家に、それまで諦められていた王の実子が誕生した。しかも生母が王妃とくれば、当然養子のティートロースとの間で後継者問題が沸き起こってくる。
     それでも、王妃は自分の子と分け隔てなくティートロースを育てていた。すでに七年もの間わが子同様に育ててきたのである。いまさら実子ができたからと言って、愛情がなくなるような狭量の女性ではなかったのである。
     だが先日、ティートロースと、実子である弟王子とで遠乗りに出掛けたところ、弟王子が乗っていた馬が急に暴れだし(どうやら蜂か何かに刺されて、驚いたらしい)、あやうく崖から転落するところを、咄嗟にティートロースが助けたのだ。
     だがその助け方がまずかった――落ちそうになった弟の右肩を、ティートロースが右手だけで掴んで引き上げたのだが、つい無我夢中で、力加減ができなくなってしまったのである。
     弟王子の肩の骨はボロボロに砕け、回復しても元通りに動かせるかどうか分からないと、医者が判断したのである。
     その話を聞き、王妃は恐怖の目でティートロースを見てしまった……ほんの一瞬だったが、それにティートロースも気付いてしまった。
     だからティートロースは王宮を飛び出してしまったのである。
     王妃は当然、そんな自分を恥じた。だからこそ、先程のように謝罪に来たのである。今まで我が子として育ててきたものを、恐ろしいと思ってしまうなど、自分こそ人間の心を持たぬ卑しきものだと、そう戒めて。
     それらを聞き――ヘーラーは深いため息をついた。
     「ティートは? 今どこに?」
     「かつてのあの子の部屋に。お母様があのころのままにしていたから、私がそこへ通したのよ」
     「ありがとう……」
     ヘーラーは、その場所へ足を向けた。
     二階の日当たりの良い部屋が、かつてのティートロースの部屋だった。ノックをしてヘーラーが中へ入ると、まだ十二歳の少年が、目の周りの涙を拭きながら、振り返った。
     「……ヘーラー様ァ……」
     そうしていると、思い出す。
     この子は、あまりにも亡き母親にそっくりだった。
     あの悲しい目にあわせてしまったまま、死なせてしまった、可哀想な侍女に……。
     ヘーラーは、ティートロースに向かって両手を広げた。
     それを見て、すぐにも彼は飛びついてきた。
     「僕……僕、お母様に嫌われてしまった。僕が、弟を怪我させたから……」
     「……そなたのせいではない。そなたは、弟を助けようとしただけであろう」
     「でも……」
     なおも泣きじゃくるティートロースを、ヘーラーは力いっぱい抱きしめてあげた。

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コメント: 全13件

from: エリスさん

2008年05月21日 15時56分32秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・14」
 こうして、ティートロースはカシミーネー王妃のもとに引き取られることになった。
 ティートロースが旅立つ日は、アルゴス社殿の誰もが涙で見送ったのである。
 「ティートロース……涙の果てに生まれた御子よ。どうか亡き母の分まで幸せに」
 ヘーラーはそう言いながら抱きしめ、そして、解き放った。


 それから、五年が経ち――再び、ティートロースはアルゴスに戻ってきたのである。
 この五年の間に、弱弱しかったティートロースはすっかり健康になり、そのため、神族としては生きていられないと思われていた彼が、今は人外の力を発揮できるようになっていたのである。
 そのために、愛する人を傷つけてしまい……ティートロース自身も、心に傷を負ってしまった。
 ヘーラーは翌日、カシミーネー王妃をアルゴス社殿に呼び寄せた。
 謁見の間で畏まっていたカシミーネーは、ヘーラーに声を掛けられて面を上げた。
 「今まで、ティートロースのことを、よくぞ心を尽して育ててくれました。おかげで、あんなに虚弱だった子が、見違えるように丈夫になってくれて……感謝していますよ、カシミーネー」
 ヘーラーの言葉に、
 「もったいないお言葉でございます。ですがヘーラー様。そのお言葉は、まるでもうティートを私のもとに返してくださる気がないように、お見受けできるのですが」
 「察しの良いこと。そのとおりです。もう、あの子を人間界に置いておくことはできません」
 「ヘーラー様!!」
 「カシミーネー……そなたのことです。本当に、我が子同様にあの子を愛してくれたのでしょう。その愛に応えるように、あの子は本来の力を取り戻したのです――神の御子としての力を。その力が目覚めてしまった以上、あの子を人間として育てるには限界があるのです。その限界ゆえに、そなたはティートを恐れた」
 「ヘーラー様! 私はそれを心底悔いております!!」
 「悔いたところで遅いのです!」
 と、語尾を強めたヘーラーだったが、すぐに穏やかな表情に戻った。
 「カシミーネー。私も同じ過ちをかつて犯したのです。その者に罪がないのは分かっていたのに、ほんの一瞬、妬んでしまった。その一瞬を、私は今でも悔いているからこそ、そなたの今の気持ちも分るし、ティートの傷ついた心も理解できる。ですから、この先、同じ過ちを繰り返さないためにも、ティートは神族に戻った方がいいのです」
 ヘーラーの心を理解したカシミーネーは、その場に泣き伏してしまった。
 そんな彼女を、ヘーラーは玉座から降りて、優しく背中を撫でてあげた。
 「そなたのその涙を、決して無駄にはしませんよ、カシミーネー王妃。今まで、本当にありがとう……」
 「ヘーラー様……どうかせめて、一度だけ、ティートに謝罪を。懺悔をさせてくださいませ」
 それを聞いて、ヘーラーは玉座の陰に目を向けた。
 「出ていらっしゃい、ティート」
 その言葉で、玉座の陰からティートロースが姿を現した。始めからそこに潜んで、すべて聞いていたのである。
 ティートロースの姿を見つけるや否や、カシミーネーは彼に駆け寄って、抱きしめた。
 「おお! ティートロース! 許しておくれ、この愚かな母を! そなたは何も悪くないのに!」
 すると、ティートロースはカシミーネーの頬にキスをした。
 それに驚いたカシミーネーは、ティートロースから少し離れて、彼の顔を見つめた。
 「許します。だから、許してください、お母様。あなたのそばを離れることを」
 カシミーネーはそれを聞くと、涙ながらに微笑んだ。
 「あなたがまだ私を母と呼んでくれるのなら、私は喜んで、あなたの旅立ちを祝います」
 「ありがとうございます、お母様」
 こうしてティートロースは人間界を離れ、神に準ずるもの――半神半人としてオリュンポスに戻された。
 後にヘーラーの近衛として軍隊の長になるのは、また別の話になる。


                            終

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from: エリスさん

2008年05月21日 15時07分58秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・13」
 それから、三年の月日が流れた。
 イオーが産み落とした男児は「ティートロース」と名付けられて、ヘーラーが乳母となって育てられた。
 月足らずで生まれたせいか、あまり発育は良い方ではなかったが、それでも利発で素直な少年に育った。
 いずれ正式にヘーラーの養子として、ギリシアの民にも知らしめようとヘーラーが心づもりをしていた、そんな矢先。ゼウスからの突飛な話がヘーラーのもとに舞い込んできた。
 「ティートロースを養子にですって!?」
 ゼウスの領地であるとある小国の王が、自身に子が居ないのを嘆いて、ゼウスに助けを求めてきたのである。
 「ならば、そなたの妃に我が落胤を与えよう、と申してやったのだが、それだけはと、丁重に断ってきてな」
 ゼウスがそう言うと、呆れたようにヘーラーは言った。
 「誰もが子種のために、自分の妻に不貞を犯させるような愚か者だと思わない方が、よろしいかと思いますが」
 「何が愚かか。妻がわしのお手付きとなれば、男としてこれほどの栄誉はあるまい」
 「はいはい……それで、ティートロースを養子に欲しいと、言ってきたのですね」
 「あれを指名したわけではないがな。わしの血を引く者を譲ってほしいと言われただけだ。幸い、あれには母親がいないからな」
 「……私がおります」
 「そなたの実子ではない」
 「……そうですわね」
 ヘーラーは、その話をアルゴス社殿に帰ってきてから、三人の娘に話した。
 話を聞いているうちにも、三人の娘はすでにヘーラーの心が決まっていることに気づいた。
 「ティートを、譲るつもりなのですか? 母君」
 エリスが聞くと、ヘーラーは静かにうなずいた。
 「どうしてですの! あの子は私たちの弟として育ててきたのに!」
 ヘーベーが言うと、代わりにエイレイテュイアが答えた。
 「あの子の神力が弱いからですか?」
 その言葉で、しばらくの沈黙が続いた。
 そして、ヘーラーが口を開いた。
 「このまま、神として生きるには、あの子はだいぶ風下の方で生きなければならない。司るものもないあの子では、いずれ、このオリュンポスでは役立たずな者として、憂き目を見るであろう。けれど、人間として生きるなら」
 「人間としてなら、やっていけますね、確かに……」
 エリスの言葉で、また静かになってしまう……。
 また少しして、ヘーラーが話し出した。
 「その国の王と王妃は、善良な民のようです。なにより、ゼウスから〈落胤を〉という申し入れがあったのを、きっぱりと断ったところが気に入りました。普通は神王に背くことこそ恐ろしいであろうに」
 「恐ろしさよりも、貞操観念が勝ったのですね」と、エイレイテュイアも言った。「確かに、そうゆう人間のもとであれば、ティートも健やかに育つかもしれません」

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from: エリスさん

2008年05月02日 12時29分32秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・12」
 「そなたがここに来たということは……」
 エリスの言葉に、ヘーラーがハッとした。
 「イオーが!? そうなのですか!」
 するとタナトスはその場に跪(ひざまず)き、言った。
 「不死でない者の宿命なれば」
 「なりません!」
 ヘーラーはイオーのもとへ駆け寄ると、彼女を覆い隠すように抱きしめた。
 「この子はまだ十二歳です。これからなのです! こんな若いうちに死なせるなど、そんなむごいことができますか!」
 「陛下。これはわたしの務めなのです。職務を全うできなければ、わたしがハーデース様より責めを負わされます」
 「なれば、私からハーデースに取り成します。あれは私の弟。多少の無理は聞いてくれるはず。だから、イオーを助けておくれ!」
 「陛下……わたしを困らせないでくださいませ」
 「ならぬ! 死なせてはならぬ!」
 そんなヘーラーを見て、エリスもタナトスの傍へより、先ずは彼を立たせてから言った。
 「無理な願いなのは承知している。けれどタナトス、これはここにいる皆の望み。頼む、イオーの魂を連れていかないでくれ」
 「姉君、あなたまでそのような……」
 エイレイテュイアが口を開いたのは、その時だった。
 「果たして、そうかしら?」
 「エイリー?」
 「本人は、生きることを望んでいないようだけど」
 「そなた、何を言って……」
 エリスが言いかけているのも構わずに、エイレイテュイアはイオーの傍に寄り、見下ろした。
 「イオー、そなたはエリスの恋人になることを約束されています」
 それを聞き、『どこかで見ていたのか?』とエリスは思った。今まで口を開かなかったのは、その嫉妬からなのかと。
 「体の汚れなど、私たち女神の力をもってすれば、どうにでもなります。お父様の手が付く前の体に戻って、あと三年待てば、そなたは望むべき幸せを手に入れられるのですよ。それでも、死を望むのですか?」
 その問いに、イオーは首を縦に振った。
 「それでも、汚された事実は消えないから……」
 「……そう……」
 エイレイテュイアはそう言うと、エリスの方を振り返った。
 「聞いての通りよ、あなた。これがイオーの望み」
 「エイリー! そなたは!」
 嫉妬心からイオーを死なせるつもりなのかと、そう思ったエリスは、怒りをぶつけようとしたその矢先、エイレイテュイアの瞳に光るものを見た。
 「まだ分からないの!」
 そう叫んだエイレイテュイアの瞳に、涙が浮かんでいたのだ。
 「あなたは気丈な人だから、凌辱された過去を持つ女でも優しく包んでやれるでしょう。でも、それでも幸せを感じられない女はいるのよ。貞操観念の強い女なら尚のこと! イオーは、この先生きていても、約束通りあなたの恋人になれても、あなたの腕に抱かれるたびに凌辱された過去を思い出して、苦しむのよ!! あなたは、イオーにそんな苦しみを味わわせたいの!!」
 「エイリー……」
 「お願い、この子を楽にしてあげて。同じ人を愛する者として、この子の苦しみを見ていられないの……」
 エリスは深いため息をついた……。そして、ゆっくりとエイレイテュイアに歩み寄ると、彼女の右肩を軽く叩いて、イオーのもとへ行った。
 エリスが身を屈めたのに気づいたヘーラーが、イオーから離れた。
 エリスは、「我が乙女よ……」と言うと、イオーの唇にそっとキスをした。
 「約束だ。生まれ変わったら必ず、私の恋人になってくれ」
 「……はい……我が君」
 ヘーベーが察して、ヘーラーを立たせてイオーから遠ざける。
 そしてエリスは、まっすぐにタナトスの方へ歩いてきた。
 「我が弟よ、そなたの職務を果たせ…‥」
 「はい、姉君」
 タナトスは、イオーの傍へ寄ると、その足元に鎌を振り落とした。
 イオーの魂はそうして肉体から解放されたのである。

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from: エリスさん

2008年05月02日 10時50分57秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・11」


 陣痛の苦しみが増すたびに、イオーは消された記憶を思い出し、その恐怖とおぞましさで悲鳴をあげた。
 ヘーラー自らが助産し、エリスも産屋に入ってイオーを睡眠の術で眠らせようとしたのだが、まったく効果はなかった。
 数時間後、イオーは男の子を出産した。
 だがイオーは、その子のことを見ようともしなかった。――実際、それどころではなかったのである。
 それまでの体調の悪さと、出産の苦しみで、イオーの体は衰弱しきっていたのである。呼吸が細くなり、目も開けていられないような状況だった。
 少しでも体力が回復するようにと、ヘーベーが自分の管理している神樹からアンブロンシア(神食)を採ってきて、すりおろして食べさせようとしたのだが、イオーは口も開こうとはしなかった。
 「イオー……」
 と、エリスはイオーの傍らに身をかがめた。
 「少しは食べなければ駄目だ。死んでしまうぞ」
 すると、イオーは弱々しい声で、言った。
 「……死にたい……」
 「イオー!!」
 「生きて……いたくない」
 その時、赤ん坊が泣きだしたのを聞いて、イオーは両手で耳をふさいだ。
 「なぜ、あの時、死なせてくれなかったのです……」
 ヘーラーはそれを聞くと、侍女に命じて赤ん坊を産屋から遠ざけた。
 「こんな……汚れた体で……生き恥をさらすなど……」
 「違う!!」と、エリスはつい大声で言った。「そなたは汚れてない! 体など所詮は器にすぎぬ。心は――魂は少しも汚れていない」
 「そうよ」と、ヘーベーも言った。「そなたがそうゆう風に、〈自分は汚れている〉と考えられる貞潔な心こそ、そなたの魂が汚れていない証拠なのよ」
 「だから、アンブロンシアを食べてくれ。すぐに体力が戻るから!」
 ――この間、エイレイテュイアは黙って見守っていた。
 すると、窓の向こうに、黒い翼を広げたなにかが近付いてくるのが見えた。
 手に、大きな鎌を持っている。
 それが背に翼をもつ男神であると認識できた時には、彼はもう窓から部屋の中へ入ってきていた。
 その顔を見て、エリスが「あっ」と声をあげた。
 「お久しゅうございます、姉君」
 夜の女神ニュクスの息子――エリスの弟にあたる、死を司る神タナトスだった。

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from: エリスさん

2008年04月24日 15時52分46秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・10」
 その言葉を聞いてイオーの表情が華やいだのを見たエリスは、すぐに付け加えた。
 「ただし、今すぐではないよ。そなたは大人になりきれていない。そなたが十五歳になったら、私の恋人になってくれ」
 「あと三年……」
 「それまで待っているから。だから、最近疲れやすくなっているその体を、もっと丈夫にしておくれ。食事もちゃんと摂ってな」
 「はい、エリス様」
 「じゃあ、中へ入ろうか」
 エリスはイオーの手を取って、立たせてあげた。
 二人は並んで歩きだした……が、イオーがふいに足を止めた。
 どうしたのかと、エリスが振り返ると、イオーはお腹を押さえたまま放心状態で立っていた。
 「どうしたの? イオー」
 「……なにか、いる……」
 「え?」
 「私の中に、なにか、居る……」
 その言葉でエリスはハッとした――胎児が動いている! その胎動を感じ取ってしまったのだ。
 「なに? なんなの? これはなに?」
 イオーの心が乱れ始めた――咄嗟に、エリスはイオーを抱きしめた。
 「イオー、落ち着け!」
 「いやァ! これはなに! 助けて、エリス様!」
 「イオー!!」
 胎動が尋常ではない。これは間違いなく陣痛だった。
 『そんな、産み月になっていないのに!』
 エリスはイオーを抱きかかえると、大声でヘーラーを呼びながら、社殿の中へ駆け込んだ。

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from: エリスさん

2008年04月24日 15時17分35秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・9」
 その後、ヘーラーの神力の賜物により、イオーは懐妊したまま凌辱の記憶を消されて、普段通りの生活を送ることになった。
 悪阻がきても、周りの者たちは「過労からきたものだろう」と言い聞かせ、イオーが悪夢を思い出してしまわないように気をつけていた。
 そうして、イオーは十二歳の誕生日を迎えた。
 お腹は大きくなっていたが、ヘーラーの暗示により、イオーは自分のお腹が膨らんでいることには気づかなかった。
 それにより、懐妊の自覚がないイオーは、それまで通りの仕事量をこなし、いつもの食事の量しか摂らなかったため、お腹以外のところがやせ細っていった。
 ここまでくると、イオーも自分の体の異変に気付かないわけがなく、それでも、それが懐妊のせいだとまでは思い至れなかった。
 イオーは、休憩時間になると、まるで死んだようになって仮眠を取ることが多くなった。
 その日も、中庭の木の下で休んでいるイオーを見つけたエリスは、そうっと近づいて、彼女の様子を伺った。
 エリスが覗き込んでも気づかないほど、イオーはぐっすりと眠ってしまっている。このまま一人でいさせるのは危険かもしれない、と思ったエリスは、自分もその場に腰かけて、イオーが目覚めるのを待った。
 『こんなに細くなって……』
 産み月まであと三ヵ月。このまま体力がもつとは思えない。やはり堕胎させるべきではなかったのかと、エリスは今更どうしようもないことを悩んでしまった。
 そんな時、イオーが目を覚ました。
 目を覚ましたとき、目の前にエリスがいたことにちょっと驚いたイオーだったが、彼女はすぐに嬉しそうな笑顔を見せた。
 「夢の続きかと思いました」
 「おや。私の夢を見ていたの?」
 「はい、エリス様。エリス様の髪を梳いて差し上げる夢を見ておりました。髪を梳くたびに、ラベンダーのいい匂いがたちこめて、とても幸せな気持ちになるんです」
 「そう……こんなところで眠っていると、風邪をひくよ。中へ入ろう」
 「お待ちを!」
 立ち上がろうとするエリスの手を、イオーは必死に握って引き留めた。
 「エリス様の夢を見るのは、これが初めてではないのです。何度も、何度も……そのたびに、どんなに私が幸せか」
 「イオー……」
 エリスはイオーの前に座りなおした。
 「分かっているのか? 自分の言っていることが。そなたが今言った言葉は、聞きようによっては愛の告白になるののだぞ」
 「そのとおりです! 私は……」
 言葉に詰まる――とても恐れ多いと思う気持ちと、恥ずかしさが、イオーの喉を塞いでしまう。
 それでも、イオーは思い切ってエリスに抱きついてきた。
 「私を、エリス様のおそばに……」
 「イオー……」
 そのいじらしい気持ちが愛しくて、エリスはイオーを抱きしめた。
 「私は女神だ。いいのか? 女同士の恋など、世間は認めてはくれぬ。そなたなら、きっと良い殿御を見つけられるだろうに」
 「男なんていや! 考えただけで気持ち悪い。男の人と恋をするぐらいなら、今すぐ死にます!」
 そうゆうことか……と、エリスは思い至った。
 ゼウスに凌辱された記憶は消えても、体が覚えてしまっているのだ。だから男に嫌悪感を抱き、男のように猛々しく美しいエリスに恋をしてしまったのだ。
 エリスはその時、亡き妻・キオーネーを思い出していた。彼女もゼウスに凌辱されかけたことが原因で、男性恐怖症になってしまった一人である。
 だからこそ、放っておけなかった。
 「分かった……私の恋人になってくれ」

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from: エリスさん

2008年04月18日 13時13分06秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・8」
 「子供を産ませたいのなら、貴様の神力で木の股にでも産ませればいいのだ! あんな子供に手を出すなど、腐れ外道もいいとこだ!」
 エリスはそう言いながら、王妃の寝室へずかずかと入って行った。あとの二人はエイレイテュイアとヘーベーだった。
 「ふんッ。自分はまともに子も産めぬくせに、良く言ったものだ」
 「なんだと!」
 「知らぬとでも思ったか。そなたが妊娠に失敗して、何度も流産していることは知っておる。だから同性愛などやめて、まともに男と子作りをすれば良いのだ」
 「そんなこと、少女を凌辱してもいい理由に、なるかァ!!」
 エリスは再び右手に紫の炎を漲らせ、矢の形にして投げつけた。
 だかぜゼウスは、それを簡単に止めた。
 「無駄なことはよせ。そちはわしには勝てぬ」
 「黙れッ! この変態色魔!!」
 「やめておくれ!」と、二人の言い合いを止めたのはヘーラーだった。
 「もう分りました……イオーのことは、私にお任せください。無事に、あなたの子を産ませてみせます」
 「母君!」
 ヘーラーの弱腰に思わず叫んだエリスだったが、それ以上言葉が出なかった。
 ヘーラーが泣いていたのが、わかったからだった。
 こんな男でも、自分にとっては愛する夫――そういう思いが、ヘーラーに涙を流させたのだろう。

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from: エリスさん

2008年04月18日 12時55分40秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・7」
 ヘーラーはゼウスのお気に入りの愛人たちの家を回り、五軒目でゼウスの居所を割り当てた。そこは、とある小国の王宮だった。この国の王には三人の妻がいたが、それらに子供が授からないまま十年の月日が流れたため、王はゼウスに懇願したのである。ゼウス神王の子を賜いたい、と。その願いを聞き入れて、ゼウスはこの王の正妻である王妃のもとに通っていたのである。
 まだ王妃の寝室で朝寝をしていたゼウスを見つけたヘーラーは、すでに目覚めて床に平伏している王妃を部屋から追い出してから、寝台まで足音をたてて歩いた。
 それでもまだ起きないゼウスに対して、ヘーラーは往復五回のびんたをくらわした。
 これで起きない方がおかしい。
 目を覚ましたゼウスは、痛い頬を抑えながら、言った。
 「そ、そなた! こんなところまで何しに来た!」
 「あなたの昨夜の振る舞いに対して、抗議に参りました!」
 「昨夜の? ……なんだ、アテーナーめ。もうそなたに告げ口したのか。自分のところの侍女に、わしの手が付いたからと言って……」
 どうやらゼウスは、イオーをアテーナーのところの侍女と勘違いしているようだった。イオーがパルテノーン神殿から出てきたからだろう。ということは、以前からイオーを見染めていたわけではなく、完全な行きずりだったのだ。
 「あの子は――イオーは私の社殿の侍女です。昨日はたまたまアテーナーのところへ使いに出したまで」
 「そなたの? そうだったのか」
 「そうだったのか、ではございません! あなたは何をやったのか、分かっているのですか!」
 ヘーラーは今のイオーの状況を説明した。
 イオーが懐妊していることに、ゼウスは喜んだのだが、その他の、正気を失っていることと、死のうとしたことに関しては、面白くないと思ったようだった。
 「このわしの愛を受けながら、気が狂うなど、なんという不遜だ。光栄に思うのが当たり前であろうが」
 「あなたと言う方は……相手は十一歳の少女ですよ。そんな風に思えるはずがないでしょう!」
 「しかし、子を宿したとは、でかした。それでこそ我が手を付けた甲斐もあるというもの。あとは無事に生まれるように、そなたに任せるとしよう」
 「では、やはりこのまま産ませよ、と」
 「当然だ。このゼウスの子供だぞ。わしの血を引く子供は、これから先、このヘレス(ギリシア)を覆い尽くすほど生まれてこなければならぬのだ。それが、この国の発展につながる」
 「子供なら、この私が産みますものを!! なぜ、あんな年端もいかぬ娘にまで!」
 「そなたはこれ以上産んではならぬからだ!」
 かつて、彼らの祖先である大地の女神は、たくさんの子を生み過ぎて、最後に産んだ子は見た目恐ろしい奇形児だった。
 ヘーラーはその女神の血を色濃く引いている。よって、たくさんの子を産むことは可能だが、それと同時に、奇形児を産む可能性も多大に残されていた。
 「現に、そなたが最後に産んだヘーパイストスは、そなたの子とは思えぬほどの不細工ぶり」
 「ヘースは容姿の欠点など補い余るほどの才能と、誠実な心を持っています! 神王ともあろう御方が、見た目で人を判断なさるのですか!」
 「容姿の端麗さも、統率力に通じるのだ。実際ヘーパイストスは、人の上に立つ器ではあるまい」
 「今までその必要がなかったから、分からないまでのこと。あの子とて、いざその時がくれば、人の上に立つ能力を発揮するかもしれないのに!」
 「ともかくだ!」と、ゼウスはヘーラーの言葉を払いのけた。
 「その娘には、ちゃんとわしの子を産ませよ。産まれたあとなら、いつものように、そなたの好きなように制裁を加えて構わぬから」
 するとその時、ゼウスに向かって紫の炎の矢が飛んできた。
 咄嗟に、ゼウスは眼前でその矢を掴んで止めた。
 「誰だ!」
 ゼウスが怒鳴った方向――扉の向こうに、三人の女神が立っていた。
 「黙って聞いていれば、貴様という外道はァ!!」
 紫の炎の矢を放ったのは、エリスだった。

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from: エリスさん

2008年04月18日 11時26分34秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・6」
 「堕胎を……」
 と、エリスはつぶやき、そしてはっきりと言った。「今ならまだ、薬でも堕胎できるはずだ。まだ人型にはなっていない、受精卵の段階だ、そうだろ!」
 その言葉に、エイレイテュイアが反論した。
 「人型になっていないから、命ではないと言いたいの?」
 「違う! まだ十一歳の少女に出産などさせられないからだ! ましてや、イオーは自分が望んで懐妊したわけじゃない!」
 「理屈はそうね。でも、どんな形であれ、命は宿された。産褥分娩の女神である私は、その命を粗末にすることなど、許されないのよ」
 「状況によりけりだろう! このままイオーが正気を取り戻しても、胎内に憎むべき男の子供を宿していたら、またいつイオーの気が狂うかしれない。そのことでイオーが自殺でもしたら? まだ自我も持っていない命のために、十一年生きてきた清廉な少女の命が失われようとしているんだ!」
 「それでも! 私がイオーの胎内にいる子供を、殺すことなどできないのよ!」
 そう言い放ったエイレイテュイアの表情も、辛そうに見えた。それを察したエリスは、言葉を和らげた。
 「エイリー、そなたの気持ちも分らないわけじゃない。でも今なら、なかったことにできるんだ。イオーが正気を失っているうちに胎児を始末し、カナトスの泉で処女に戻し、正気を取り戻させてやれば……イオーは、悪夢を忘れて生きていけるんだ。だから、辛いだろうけど、ここは女神としての役目を忘れて……」
 そこでヘーベーが口を挟んだ。「違うのよ、エリスお姉様」
 「違うって?」
 「エイレイテュイアお姉様だって、本当はエリスお姉様の考えに賛成なのよ。でも、出来ないのよ。その胎児が、お父様の――神王ゼウスの子供だから」
 「……どうゆうことだ?」
 「お母様が今まで、お父様の愛人になった女たちに、さまざまな方法で報復を与えてきたことは、ご存知ですわね。それは、すでに妻のある男性に身を許した軽薄さを、その貞操観念の無さを思い知らせるため。でも、決してその子供の命までは奪わなかった。それは、神王ゼウスの子供を殺してはならないから――ゼウスの血を引く者は、それだけで生きる権利を与えられているのです」
 「そんな……」
 エリスは、ヘーラーに視線を向けた。
 ヘーラーは険しい表情でたたずんでいたが、やがて口を開いた。
 「ゼウスに、会わねばなりません。行方が分からないと言っていましたが、あの人の愛人の家を一軒ずつ回れば、きっとどこかに居るはずです」
 ヘーラーはそう言うと、部屋から出て行った。

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from: エリスさん

2008年04月11日 14時34分44秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・5」
 イオーは階段を駆け上り、屋上まで出てきた。
 ヘーラーたちが追いついた時には、もう屋上の淵に足を掛けていたのである。
 「イオー! お止め!」
 ヘーラーが駆け寄ろうとすると、
 「来ないで!」と、イオーは絶叫した。
 その言葉が、誰の足も止めてしまった――ヘーラーでさえも。
 イオーは、涙をためた瞳をヘーラーに向けながら、言った。
 「……お許しを……」
 そのまま、後ろ向きに倒れていく。
 二階とは言え、石畳の上に落ちれば助からない!
 だれもがそう思った時だった。イオーが落ちたところから、黒い影が飛び上がってきた。
 それは、黒い馬だった。見れば、ヘーラーの養女・エリスが乗っていた。その腕に、しっかりとイオーを抱いて。
 エリスとイオーを乗せた馬は、社殿の周りを一回りすると、中庭へ降り立った。
 それを確認したヘーラーたちも、急いで中庭へと降りて行った。
 ヘーラーが着いた時には、エリスが馬から降りて、イオーを抱えたまま草の上に座っていた――イオーと額を合わせながら。だが、イオーは先ほどのようには抵抗していなかった。夜の女神の実子であるエリスには、相手を眠らせながら記憶を見ることもできるのである。
 「おお、エリス! よくぞやってくれました!」
 ヘーラーはそう言って、すぐにもイオーを受け取ろうとした。だが、エリスはそんな養母に対して、身を後ろに引くことで制した。
 「なにを……」
 「果たして、このまま母君にイオーを渡して良いものやら」
 「どうゆう意味です」
 「この子が憎くはないのですか?」
 その言葉に、一瞬、胸が痛んだ。
 そう、イオーを離してしまったあの時、ヘーラーはそう感じてしまったのだ。それをイオーも察したのかもしれない。
 「この子は、あなたの夫を寝取った女。そんな女には、あなた様は今まで、倫理の名のもとに報復を与えてきた。この子にもそうするつもりですか?」
 「やめておくれ!」と、ヘーラーは叫んだ。「イオーは被害者です!」
 他の、ゼウスの愛人になった女たちと、この子は違う。イオーは自分の意志とはまったく関係なく、力で奪われたのだ。まだ幼い娘に、男を誘惑する術もない。この子に非などあるはずもないのは、分かっていたのに……。
 エリスは、ヘーラーの涙を見て、微笑んだ。
 「その言葉を聞いて、安心しました。非礼をお許しください、母君」
 そう言って、エリスはイオーをヘーラーに託した。


 イオーの診察は、先ほどまで大量の神力を使ってしまったヘーラーに代わって、エイレイテュイアがすることになった。
 その間、ヘーベーはゼウスをとっちめてやろうと、風の神や虹の神に頼んで、父親の行方を探してもらっていた――オリュンポス社殿にいないことだけは分かっていたが。
 「お父様ったら! 百叩きじゃ済みませんわ!!」
 「私だったら肝心のものを切り取ってやるな」
 と、エリスは好物のブドウのジュースを朝食代わりに口をつけてから言った。「とりあえず、イオーの恐怖の記憶は消してやるしかありませんね」
 「消し去れるかどうか……キオーネーの時は上手くいったが、あの時は〈未遂〉だったから上手くいったのであって、今度の場合は……」
 ヘーラーが自信なさげに言うので、エリスは、
 「母君がそんな気弱なことでどうします。もし母君が駄目でも、私の実家に頼めば、誰かが力を貸してくれますから」
 「ニュクス殿に……そうだな。いざとなったらそうしよう」
 「あとは、カナトスの泉で純潔に戻してやりましょう。心の傷は残るかもしれませんが、せめて体の傷だけでも取り除いてやらねば」
 「もちろんです。まだ十一歳の少女なのですから」
 エイレイテュイアが戻ってきたのは、そんなときだった。
 「……そう上手くいかないかもしれません」
 「どうゆうことです、エイレイテュイア」
 ヘーラーの問いに、エイレイテュイアは悲しい表情を浮かべた。
 「イオーは、身籠っています」


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from: エリスさん

2008年04月11日 13時47分17秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・4」
 立て続けに瞬間移動をしたヘーラーは、アルゴスに戻ってきたとき、息も絶え絶えだった。それを見た娘のエイレイテュイアは、すぐにも神力を取り戻させるために、神酒(ネクタル)を盃に入れて差し出した。
 「無茶をなさらないでください、お母様!」
 「無茶でも……やらねばならぬ」
 ヘーラーはそう言って神酒を飲むと、イオーをソファーまで抱きかかえて行き、座らせた。
 「イオー、そなたの記憶を見せておくれ」
 ヘーラーはそう言って、イオーと額を合わせた。そうやってイオーの記憶の糸をたぐっていくと、どうしてもイオー自身も過去を思い出してしまう。
 純潔を奪われたその瞬間を思い出した時、イオーは激しい悲鳴をあげた。
 「イオー! 誰なのだ、そなたをそのような目に合せた男は!」
 イオーは襲われている間、恐怖でずっと目を閉じていた。だからヘーラーが今感じ取れることは、イオーの恐怖心と、身体の痛みとおぞましさなどで、映像はまったく伝わってこない。
 『襲われる直前、この子はその男の顔を見ているはずだ。そこまで記憶を辿れば……』
 イオーが嫌がって暴れるのを、ヘーラーは必死に抱きしめることで抑えていた。
 そして、目の前に映像が飛び込んできた。
 激しく揺れるその映像に、一人の男が映っている。
 その揺れが、一瞬だけ止まった――イオーがその男に捕えられた瞬間だったのだろう。
 その顔を見て、思わずヘーラーはイオーから離れた。
 「なんてこと……」
 それは、ヘーラーの夫・ゼウス神王だった。
 イオーを手込めにしたのはゼウスだった――言い換えれば、それは……。
 ヘーラーのためらいを感じ取ったのか、イオーはその場から走り去った。
 すぐに我に帰ったヘーラーは、侍女たちに言った。
 「イオーを止めなさい!」

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from: エリスさん

2008年04月04日 15時05分45秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・3」
 アテーナーのパルテノーン神殿に仕えている精霊たちは、毎朝、森に入って木の実や山菜を採りに行き、アテーナーの朝食に彩を添えている。その日も、いつものように精霊たちが森へ入ると、そこに、一人の少女が倒れていた。
 かろうじて呼吸はしているが、意識はなく、衣服は乱れていた――その乱れ方からして、この少女がなにをされたかが分かった。
 そしてその少女が、昨日ヘーラーの使いで来た者だと気づいた精霊たちは、急いで彼女をパルテノーンに連れ帰ったのである。
 ヘーラーはその事情を聞くと、神力を最大限に使って、瞬間移動でパルテノーンまで飛んできた。
 突然なにもない空間にヘーラーが現れたことに、パルテノーンの侍女たちは驚いた。
 しかしアテーナーは、ただ申し訳なさそうな表情を見せるばかりだった。
 「ヘーラー様……。なんとお詫びを申したら……」
 「そなたのせいではない。イオーを一人で使いに出した、私の至らなさがすべての元凶です」
 ヘーラーはそう言うと、寝台に寝かされているイオーを抱き上げた。
 イオーは、なにごとかブツブツとしゃべってはいるが、心は完全に遠いところへ行ってしまっていた。
 アテーナーの心遣いで着替えてはいるが、衣服に隠れた数箇所に傷や痣があることを、ヘーラーは透視によって知ることができた。そして、十一歳の少女がまだ失ってはいけないものが、奪われてしまっていることも。
 「……穢れなきこの神殿に、いつまでもこの子を置いておくわけにはいかぬ……」
 ヘーラーがそう言うと、
 「なにをおっしゃられます! 穢れなどと!」
 と、アテーナーもイオーに触れようとした。すると、
 「触ってはならぬ! そなたは清廉たる宇宙(そら)の巫女です!」
 ヘーラーはそう言うと、イオーを抱えたままアテーナーから離れた。
 「これは、私の責任です……」
 ヘーラーがそう言ったとき、その目に涙が浮かんでいるのを、アテーナーは見落とさなかった。
 そして、ヘーラーは再び瞬間移動の術を使った……。

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from: エリスさん

2008年03月28日 15時17分35秒

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「女神の涙〜ティートロース生誕秘話〜・2」


 それは、「ペルセポネー事件」が起こる二年前のことだった。
 ヘーラーの朝は、侍女たちが部屋まで運んできた洗面道具で顔を洗い、侍女の手で髪を梳いてもらうことから始まる。
 その日もいつものように顔を洗い、いつものように髪を梳いてもらおうと椅子に腰掛けヘーラーは、一つだけ、いつもと違うことに気づいた。
 「イオーはどうしたのです?」
 ヘーラーの髪を梳く係である童女のイオーがいなくて、代わりに古株の侍女・ナミーネーが櫛を手にしていたのである。
 「それが……」と、ナミーネーは言った。「まだ出仕していないのです。あの子が遅刻など、今までしたことがありませんから、具合でも悪くなったのではないかと、近くに住んでいる精霊に見に行かせているのですが」
 「まだ連絡はないのですか?」
 「はい、陛下」
 「それは心配な……あの子には確か、夕べ、アテーナーのところへ遣いに行かせたのだったな」
 アテーナーのところへ、ヘーラーお手製の杏の砂糖漬けを届けるために、パルテノーンの近くに住んでいるイオーを遣いに行かせたのだった。そしてそのまま直帰してもいいと許可したのである。
 「そもそも、ちゃんと帰っているだろうか……」
 ヘーラーはナミーネーに簡単に髪を梳いてもらうと、洗面のために持ってきた水がめに手をかざして、呪文を唱えた。
 すると、水がめの水面に何かが映った――足早に急いでいる、ヘーラーの侍女の一人だった。イオーの家の近所に住んでいる者である。
 「様子を見に行かせたのは、このルルカーに間違いないな? ナミーネー」
 「はい、王后陛下……なにやら、様子が変ですね」
 「うむ……ルルカー! ルルカー! 聞こえますか!」
 ヘーラーが水面に向かって話しかけると、水面に映っていたルルカーが足を止めて、空を見上げた。
 「その声は、陛下!」
 「ルルカー、イオーはどうしました? そなたが向かっている方向は、イオーの家とは逆方向に思えるのだが」
 「今、彼女の家を見てきたところです。急いで社殿へ戻るところでした。陛下、イオーは家にいなかったのです」
 「家の中はどんな様子です? 荒れていたとか、そんな様子は」
 「いいえ。きちんと片付いていました。ただ、洗濯物が外に干しっぱなしで、夕べは家に帰っていないようです」
 「分かりました。それが分かれば、そなたは急いで帰ってくる必要はありません。ゆっくり戻ってきなさい」
 「はい、陛下」
 ヘーラーは水がめに人差し指を入れて、水面を弾くことで神力を解いた。
 ヘーラーが水面からいったん顔を上げたのを見計らって、ナミーネーは声をかけた。
 「いったい、イオーの身になにがあったのでしょう」
 「分からぬ……アテーナーのところへも確認してみなくては」
 ヘーラーがもう一度、水がめに術をかけようとした、その時だった。
 寝台の横に置いてある水晶球から、声がした。
 「ヘーラー様! アテーナーです!」
 アテーナーからの緊急通信だった。

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