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  • from: ueyonabaruさん

    2008年10月31日 23時03分25秒

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    14歳からの哲学-池田晶子

     池田さんの表題の本を読み、疑問を感じたことを書いてみます。本文からの引用です。本書48-49pより

     人は誰も、いずれは自分も死ぬ、と思っている。他人の死ぬのを見て、いずれは自分も死ぬと思うんだ。でも、こここそう-んと考えなくちゃならないところだ。「自分が死ぬ」ということはいったいどういうことなんだろうか。
     心臓や肺や脳が動かなくなって、自分の肉体のすべてが「なくなる」、こう思うことはできる。でも、そう思っているこの自分が「なくなる」、これを考えることができるだろうか。「自分がない」ということを、自分が考えることが、はたしてできるだろうか。できますよっていう君、じゃあ、一緒に考えてみよう。「自分がない」を考えてみよう。
      考えてみよう。
      考えよう。
      考える。
      考えている。
      考えている。
      考えている自分がある。
      考えている自分があると考えている自分がある。
      自分がある。
      自分がある。
      どこまで考えても自分がある。
      やっぱりどこまでも自分がある。
     あれ、おかしいね。君は「自分がない」ということを考えようとしていたはずだよね。なのに、「自分がない」ということを考えようとすると、「自分がある」ことに気がつくことになってしまう。自分のことを考えているそこには、必ず、考えている自分があるからだ。「自分がない」と考えていうるそこにすら、考えている自分があるからだ。自分が考えるのである限り、自分がないということは、絶対考えられないことになっているんだ。すると、人は、「自分がなくなる」という言い方で、なにを言っていたことになるのだろう。自分がないということは絶対考えられないのに、なぜ人は、自分は死ぬと思っているのだろうか。
     逆から考えてみよう。もし自分がないなら、そこには自分はないのだから、「自分がない」と考えている自分もないはずだね。だから、やっぱり「自分がない」と自分が考えることはできないということになる。自分がないと考えるということを考えることができないということは、ひょっとしたら、自分は死ぬことはない、自分は死なない、ということじゃなかろうか。

     この文章の意味がとれません。後段の逆から考えてみようのくだりです。

     もうひとつ、自分が消滅するとした場合にはどうなのか。ないを消滅に置き換えてみるのです。そうすると死をもって自分もなくなるの感じがでてくるように思います。人間が不死であることを暗示しようとするのに、このような言い回しでいいのかという疑問があります。どうぞ、ご教示下さい。 

     ※11/1 引用文にあやまちがあったので、一部の文章を削除します。大意に変わりはないと思います。

     

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コメント: 全6件

from: ueyonabaruさん

2008年11月03日 01時47分49秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子」
 ご返事心待ちにしていたところ、このように長い文章が届きありがたく思いました。頭脳構造も違うところはあるかも知れません。でも、おっしゃることで分かることも多いので宜しくおつきあい下さい。

 いえ、そうではありません。ホントに最近読んだんですよ。探せないのが、残念です。
> ウォーレスのこと、ありがとうございます。
> おそらく、初期の頃のリバティのコラムではないかと思います。
> 今も続いているかどうかは知りませんが、その頃、歴史上の有名人を一人ずつ紹介していた記事がありました。
> ueyonabaruさんもアウグスチヌスのことは、その記事をお読みになられたのではないでしょうか。

 池田さんの霊言という形式なので、ストレ-トに分かりそうだと期待しましたが、やはり、分かりませんでした。そのため、昨晩は眠れませんでした。
> 池田さんの霊言のことですが・・・
> 昔のぼくだったらこういう風に質問するだろうなと思いながら書きました。
> 池田さんの言葉としてあるのは、彼女ならこう答えるかも知れないなというものです。
> なるべく面白おかしく書いたつもりで、けっこう上手に書けたと自負していたのですが受けませんでしたね。(*^。^*)
> きっと、池田ファンなら大笑いしながら読んだだろうと思いますよ。
>
> さて、困りました・・・
> 女房にueyonabruさんの疑問の箇所を読んでもらい、ぼくの返答も読んでもらいました。
> 女房は「十四歳からの哲学」をちょっと前に読んでもらっています。
> 女房によると、疑問の箇所の池田さんの言っていることは解るそうです。
> 「これは高次の自分のことだと思う。霊とか魂のことでしょ。」
> と云ってます。
> ぼくも同じ考えです。(ぼくの考えではもうちょっと入り込んでいるのですが、話がややこしくなります)
>
> ぼくは、「あの世はあるはずだ。いや、なければおかしい。
> 自分と云うその実体は霊的な存在であるはずだ。」と思っていますですが・・・、そうであって欲しいと思っているのではありません。
> ぼくは霊能者ではありませんので、実体験はほとんどありません。

 そうではないとおもいますが、そのように感じられるのですか。
> ueyonabaruさんは、「霊界はあるはずだ」とご自分では思っているかも知れませんが、ほんとうは「在って欲しい」と思っていらっしゃるのではないでしょうか?

 池田さんが小林秀雄に傾倒していたとの記事も読んでいたので、小林秀雄流の言葉使いをするだろうと思っておりましたが、全く違いますね。小林秀雄が好きな人なら私はすぐに池田さんのことを好きになれるはずだと見込んでいました。しかし、池田さんの難しい論理運びに遭遇してからは、理解できないイラダチから、お写真の池田さんの顔が、夜叉のように見えたり美人に見えたりで混乱してまいりました。

 面白いですね。
> 池田さんの言い切り表現は、「絶対、こうであるはずだ」と云う信仰なんです。
> ちょうど、唯物論者が「こうであるはずだ」と信仰しているものと同じです。
> そう信じている人にとっては、そのように自分が見ている世界が展開されていきます。
>
> ではどちらが正しいかではなくて、彼らの世界も正しいのです。(ぼくは、これを言い切ります)

 死後にはあの世で迷っているという意味でしょうか。あの世にいっても自己の信じるとおりの世界を作り上げてそこに存在しているということでしょうか。
> あの世は無いと云っている人も、死後に「ほら見ろ! あの世なんて無いじゃないか。」と云っているはずです。
>
 死のことを言っているのは分かるのです。ソクラテスは死のことを言うのにもっとわかりやすい言葉使いで「多くの者は死を知らないのに恐れる」ことの無知を教えてくれました。それに比べて・・・・。言い回しのことなのです。
> >分からないものは怖いというケ-スの方が多いとおもわれますが、わからないものを恐れることができるかと池田さんは反問されます。ここは、少し強引というか飛躍という感じがします。
> しかし、彼女は「死そのもの」のことを言っているんです。
>
 イデアの件と関連するのかもしれませんね。今後の課題でしょうか。
> >質問者の方が、考えられるものには全て実体があると言っておりますが、それも理解しかねます。
> この部分は、現在のぼくが混じりました。(~_~)
>
 そうですか。私は信仰の美しさを強調する気持ちがあります。アググスティヌスが、哲学的命題が解けなくて、神様に祈るのですが、この姿は美しいと思いました。私は、実生活でも苦しいときにはエルカンタ-レに祈るようにしております。
> 「信」の世界に入ったが最後、「なぜ、そうで在らねばならないのか?」と云う疑問が止まってしまい、それ以上は進まないことを直感しているようです。
>
 頭の良さを感じますね。
> ですが、次のような結論を出しています。
> 「神が自分の外に在るという考えは限界に来ていると思う」
> これは、ほんとうにぼくも同意します。
>

 このことを以前にも言っておられたように思いますがどういうことなのでしょうか。変質とは。
> 彼を見ていると、大川さんが変質したのと同じようなものを感じてしまいます。
> 彼は弟の奔放さが許されることをとても不思議に思って、それから変わったように思えます。

 石原知事はお嫌いなのでしょうか。
> 彼はディーゼルのことをよく知らないのに、粉塵のはいった小瓶を振って見せて「こんなものを撒き散らすトラックは東京に入って来るな!」と、大衆の感覚に訴えるところはポピュリズムと批難されていますね。
> 宇宙のことは、本当にさっぱりわからないから控えめにならざるを得なかったように思えます。
> あるいは、ここまで云ってもいいのかなあ?と、ちょっと怖くなったんじゃないかなぁ。(*^。^*)
>
 池田さんのこと、このレタ-も参考にもう一度よんでみたいと思います。ありがとうございました。

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from: hiraokaさん

2008年11月03日 00時28分10秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子」
ウォーレスのこと、ありがとうございます。
おそらく、初期の頃のリバティのコラムではないかと思います。
今も続いているかどうかは知りませんが、その頃、歴史上の有名人を一人ずつ紹介していた記事がありました。
ueyonabaruさんもアウグスチヌスのことは、その記事をお読みになられたのではないでしょうか。

以前のぼくの書き込み、『ヒットラーの前世はネロ』と書いてあったのもこのコラムです。
この記事は編集子の書いたもので大川さんの公式見解ではないと思われますが、よく調べてはあるものの、歴史上の人物の評価をこのようにだれそれの前世であるとか、だれそれは地獄にいるだとか、勝手に書くのはどうかと思われます。

池田さんの霊言のことですが・・・
昔のぼくだったらこういう風に質問するだろうなと思いながら書きました。
池田さんの言葉としてあるのは、彼女ならこう答えるかも知れないなというものです。
なるべく面白おかしく書いたつもりで、けっこう上手に書けたと自負していたのですが受けませんでしたね。(*^。^*)
きっと、池田ファンなら大笑いしながら読んだだろうと思いますよ。

さて、困りました・・・
女房にueyonabruさんの疑問の箇所を読んでもらい、ぼくの返答も読んでもらいました。
女房は「十四歳からの哲学」をちょっと前に読んでもらっています。
女房によると、疑問の箇所の池田さんの言っていることは解るそうです。
「これは高次の自分のことだと思う。霊とか魂のことでしょ。」
と云ってます。
ぼくも同じ考えです。(ぼくの考えではもうちょっと入り込んでいるのですが、話がややこしくなります)

ぼくは、「あの世はあるはずだ。いや、なければおかしい。
自分と云うその実体は霊的な存在であるはずだ。」と思っていますですが・・・、そうであって欲しいと思っているのではありません。
ぼくは霊能者ではありませんので、実体験はほとんどありません。

ueyonabaruさんは、「霊界はあるはずだ」とご自分では思っているかも知れませんが、ほんとうは「在って欲しい」と思っていらっしゃるのではないでしょうか?

池田さんの言い切り表現は、「絶対、こうであるはずだ」と云う信仰なんです。
ちょうど、唯物論者が「こうであるはずだ」と信仰しているものと同じです。
そう信じている人にとっては、そのように自分が見ている世界が展開されていきます。

ではどちらが正しいかではなくて、彼らの世界も正しいのです。(ぼくは、これを言い切ります)

あの世は無いと云っている人も、死後に「ほら見ろ! あの世なんて無いじゃないか。」と云っているはずです。


>分からないものは怖いというケ-スの方が多いとおもわれますが、わからないものを恐れることができるかと池田さんは反問されます。ここは、少し強引というか飛躍という感じがします。

おっしゃるとおりだと思います。
こういった池田さんの表現が誤解される原因になっています。
池田さんも、死に至る老衰や痛みや苦しみはわかっています。
しかし、彼女は「死そのもの」のことを言っているんです。

彼女はキューブラー・ロスの亡くなる直前のドキュメンタリー映画で彼女の取り乱した姿をを見て、『これは、どうしたことか?』と疑問を呈していますので、ぼくも池田さん自身の場合はどうだったのかいろいろと調べました。

あそこまで『死そのものを怖がることはできない』と云っている人の死に様を参考にしたかったのです。

でもイエスだって、「主よ、なんぞ我を見捨て給いし!」と云ったとか云わないとか・・・・。
信者にとっては幻滅かもしれませんが、イエスがそう云ったからとてなんの不思議もありません。
そりゃ、そう云いたくもなりますよ。(^.^)

別の福音書によれば「エリエク・サバクタニ」と云ったとなっています。
大川さんの霊言によれば、「エリエル・サバイター」となってます。
なるほど、意味は通じます。
ぼくは、このことをもってこの霊言を信じていました。

もうひとつ、イエスの出生を尋ねたときの霊言です。

「これについては、秘密がありますので・・・」とありました。
これも、ぼくが信じた根拠でした。

このころ、「イエスは、マリアとローマ兵の私生児である」と云う説が出されていました。

とても、おもしろいのは漢学者の白川静さんの物議をかもした新説で、「孔子は巫女の私生児だった」と云うものです。

じつに、不思議ですね・・・、ほんとかどうかは知りませんが。(^.^)

>私は池田さんの思想に反対している気持ちはなく、彼女の言い回しが、わかりにくいことを強調しております。
わかって、おりますとも。(*^。^*)

>質問者の方が、考えられるものには全て実体があると言っておりますが、それも理解しかねます。
この部分は、現在のぼくが混じりました。(~_~)

>消滅を考えられるという主張の人があれば、その主張から生じる矛盾点を指摘してあげればよいのではないでしょうか。
彼女は、こういう人たちとさんざん論戦をくりかえしたあげくにあきらめたようです。

>しかし、自分があるから宇宙があるというところについては、もう少し控えめに語るか、順をおって逐次説明をしていった方がわかりやすいとは思います。
はい、これについてはコペルニクス的転換思想がありますので、いきなり言われたら面食らうと思います。
ホーキングの宇宙論のなかで紹介されている、物理学者たちの仲間内ではけっこう昔から云われていたことです。
物理学者だからこそ考えられる宇宙観でして、もしもこのことをガリレオの時代に発表したら、宗教裁判にかけられるようなものです。

>また、信仰を重視しない考え方はどうかと思われます。
彼女は宗教の古典をたくさん読んでいるようですが、いかんせん観念的なものにとらわれているようで、「信」の世界に入ることを自分から踏みとどまっているようです。
「信」の世界に入ったが最後、「なぜ、そうで在らねばならないのか?」と云う疑問が止まってしまい、それ以上は進まないことを直感しているようです。

ですが、次のような結論を出しています。
「神が自分の外に在るという考えは限界に来ていると思う」

これは、ほんとうにぼくも同意します。

>石原慎太郎さんは信仰があり、宇宙を語るときにももっと控えめでした。
石原さんはデビューしてすぐの頃、霊友会の小谷喜美を主なテーマに産経新聞に連載していたことがあります。
ぼくが中学生頃のことです。
そのころ、霊友会はこぞって産経新聞を購読する運動を展開していました。
彼の霊媒・小谷喜美と神審者・久保角太郎についてはマゾヒストとサディストみたいだというようなことも書いていたのが印象的です。
彼を見ていると、大川さんが変質したのと同じようなものを感じてしまいます。
彼は弟の奔放さが許されることをとても不思議に思って、それから変わったように思えます。

彼はディーゼルのことをよく知らないのに、粉塵のはいった小瓶を振って見せて「こんなものを撒き散らすトラックは東京に入って来るな!」と、大衆の感覚に訴えるところはポピュリズムと批難されていますね。
宇宙のことは、本当にさっぱりわからないから控えめにならざるを得なかったように思えます。
あるいは、ここまで云ってもいいのかなあ?と、ちょっと怖くなったんじゃないかなぁ。(*^。^*)


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from: ueyonabaruさん

2008年11月02日 05時06分28秒

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「Re:Re:Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子」
  ウォーレスの記事ですが、探しても見つかりません。すみません。内容は、ウォーレスという人はダ-ウィンと同じ結論に達していたが、彼の場合は宗教的な価値観と背馳しない考え方を持っていた。こんな内容だったと思います。肯定的でした。
> ウォーレスのことが載っているという月刊誌だったかには、ウォーレスのことをどのように書いていましたのでしょうか?
> 教えていただけませんでしょうか。

「「自分がない」と云う状態と矛盾することになります。」のくだりは、自分がないことを考えられるという風に肯定しているように思えます。
  ↓この文章のことですね。
> > 「自分がない」と云うことを考えている自分は、自分の状態が認識できると云うそのことによって、「自分がない」と云う状態と矛盾することになります。

 普通は、分からないものは怖いというケ-スの方が多いとおもわれますが、わからないものを恐れることができるかと池田さんは反問されます。ここは、少し強引というか飛躍という感じがします。
> 池田さんは、「死後のことはわからない。だから、恐れようがない。なぜなら、わからないものについてどのように恐れることができるのだろうか?。恐れるというからには、その対象物を知っているはずなのだから。」と考えています。

 ご自分の考えを先に言ってくれればと思います。
> 彼女が、「自分と云う存在は死後も続くはずだし、生まれる前から在ったはずだ」と考える推論については、
> 以下のぼくの「池田晶子の霊言」をお読みください。(*^。^*)

 聞かせて下さい。
> 「ものみの塔」などは死んだら神の最後の審判まで、ずっと眠りつづけたような状態になると説いています。
> ぼくはあるとき、その信者の女性と少し話したことがあります。
> なぜ彼女が、その宗教を信じるようになったかは彼女のかわいそうな経験と深く関係するものでした。
> 興味がおありでしたら、お伝えします。


 再度書いてご迷惑をおかけしておりますが、私は池田さんの思想に反対している気持ちはなく、彼女の言い回しが、わかりにくいことを強調しております。これは、個性の違いなど種々の要因によるとは思います。消滅を考えられるという主張の人があれば、その主張から生じる矛盾点を指摘してあげればよいのではないでしょうか。もし、そのようにすると、宗教的な説明しかないというので困るということでしょうか。
 池田さんの霊言を聞いても、まだ池田さんの言い回しが分かりません。質問者の方が、考えられるものには全て実体があると言っておりますが、それも理解しかねます。
 池田さんの考え方は私と共通する面も若干あります。しかし、自分があるから宇宙があるというところについては、もう少し控えめに語るか、順をおって逐次説明をしていった方がわかりやすいとは思います。また、信仰を重視しない考え方はどうかと思われます。石原慎太郎さんは信仰があり、宇宙を語るときにももっと控えめでした。賛成できないところもある池田さんですが、しかし、彼女は天才なんでしょうね。閃きがあるように思えます。

※ 当初の文章に書き換えあり。池田さんの評価についてです。            

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from: hiraokaさん

2008年11月02日 00時34分30秒

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「Re:Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子」
ueyonabaruさん、こんばんは。
ぼくの説明は下手ですね。(^.^)
ueyonabaruさんの、真理を知りたいという心からの欲求は、ぼくにもよくわかるつもりです。
話が長くなるかも知れませんので、先にちょっと別のことを書かせてください。

ウォーレスのことが載っているという月刊誌だったかには、ウォーレスのことをどのように書いていましたのでしょうか?
教えていただけませんでしょうか。

「聊斎志異」の事を書いたのにはちょっとわけがあるのですが、続きをまた書きます。

では、本題です。

>おっしゃる矛盾の意味が分かりかねます。池田さんが、人間は死なないんだと考えるということを最初におっしゃってもらってから、説明を続けていただいたら、もっとわかりやすいのです。

↓この文章のことですね。
> 「自分がない」と云うことを考えている自分は、自分の状態が認識できると云うそのことによって、「自分がない」と云う状態と矛盾することになります。


ぼくは池田さんを全面的に肯定しているわけではありませんので、そのつもりで読んでいただけるとありがたいです。

池田さんは、「死後のことはわからない。だから、恐れようがない。なぜなら、わからないものについてどのように恐れることができるのだろうか?。恐れるというからには、その対象物を知っているはずなのだから。」と考えています。

彼女が、「自分と云う存在は死後も続くはずだし、生まれる前から在ったはずだ」と考える推論については、
以下のぼくの「池田晶子の霊言」をお読みください。(*^。^*)


質問者 「池田さん。あんたの云ってることわからないんですよ。
あんたは自分と認識できる存在を自分だと定義している。
だとすると、自分を自分として認識できないときは、それは自分そのものではないことになる。
だってちょっと考えればわかると思うんですが、ぼくらが気絶してるときはどうなるんですか?
夢を見ていないときの、自分はどうなるんですか?
そのとき自分は消滅していると考えても、なんら差し支えは無いじゃないですか。
ぼくは、昨日だってぐっすり眠って目が覚めたときは、その夜のことなんてまったく知りませんからね。」

池田 「ほーら、見ろ!! やっぱり自分を消滅することなんてできなかったじゃないか。
それとも、あんたは昨晩眠っている間に『自分はいま、消滅しているんだなあ』と思っていたとでも云うのかい?
あんたが目が覚めたときには、昨晩の続きの自分じゃないか。
あんたが自分自身を感じるときは、いつだって自分自身じゃないか。
自分が自分でないように感じるそのときだって、そのことを感じているのは自分自身じゃないか。
いったい、どうやって「無」そのものが、自分は「無」だと感じられるのか教えて欲しいね。」

質問者 「じゃあ、あなたは『無』と云うものは無いと云いたいんですか? でも、ぼくらは『無』と云うものを考えることはできますよ。
自分が死んで何もなくなるとか、死んだらおしまいとか・・・。
現実に毎晩眠っているときは、なにも覚えてないじゃないですか。これこそ、自分にとっての『無』であるとどうして云えないんですか?
だいたい、人間が思いつくものならすべてその実体が在るんじゃないですか?
そうだったら、『無』『自己の消滅』だって、ありそうじゃないですか。」

池田 「『無』を考えてるのはあんたでしょうが! 『無』があんたを考えてるわけないでしょ。
あんたにとっての『無』と云うのは、『我関与せず』のことでしょ。そりゃ、あんたにとっての『無』でしょうよ。
だったら、知らないものは全部『無』になっちまうじゃないか。
『無』の実体って、あるよ。
でも、それは『空』って言うんだけどね。」

質問者 「それを『空』と云うかどうかは置いといて、自分にとっての『無』の時間があるのだったら、どうしてあんたは『自分と云うものは、継続する』といえるのですか?」

池田 「あんたが自分と云うものに気が付いたときは、いつだって継続しているじゃないか。
記憶喪失症になって過去をいっさい覚えていなくたって、いま自分を自分と考えられることのみは揺るがないじゃないか。
それに、記憶喪失者だって自分には過去があるはずだと思いたいもんなんだろ? 思い出せないから悩むんだろ? 
じゃ、ものごころついた時だって同じでしょ。
あんたは、そっから自分が始まったと思っているけど、それは自分が今見ている世界を自分で作り始めたんじゃないか。
だったらこれからだって、あんたが自分に気が付いたときはいつだって自分が継続していることに気が付くはずだよ。
だって、それがあんたなんだもん。」


彼女の発言は非常に過激ですので、これにて霊言を中止させていただきます。(^.^)


ご存知かもしれませんが、質問者と同じように考えている宗教も在ります。
「ものみの塔」などは死んだら神の最後の審判まで、ずっと眠りつづけたような状態になると説いています。
ぼくはあるとき、その信者の女性と少し話したことがあります。
なぜ彼女が、その宗教を信じるようになったかは彼女のかわいそうな経験と深く関係するものでした。
興味がおありでしたら、お伝えします。

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from: ueyonabaruさん

2008年11月01日 18時29分10秒

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「Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子」
 早速のご返事ありがとうございます。


 おっしゃる矛盾の意味が分かりかねます。池田さんが、人間は死なないんだと考えるということを最初におっしゃってもらってから、説明を続けていただいたら、もっとわかりやすいのです。哲学的な論理的説明で、納得を求めているようですが、これは私の頭脳構造のものにはわかりにくいですね。人間は何でも考えることはできるというのは一般的な事実です。死んで、自分がなくなると考えることはできるのです。そのように考えると、生じる矛盾はなにかというと、何で人は生まれてきたのか、死んで無に帰るとなると一生の努力は何だったのかなどの非常に自然な人間的不満、疑問が生じ、人は宗教的なものを求め、あるいは霊界通信に頼り、人間の不死性であることを求めてゆくいうのが普通の考え方です。ソクラテスはデルポイの神殿の神様を信じており、神託をまともに受けて(神託が間違っているはず)、自分以外の智者がいるはずだと思い、アテネの智者たちと論争し、真実はなにかを求めてゆくわけですが、前提は神々は存在する、あの世も存在するというものがあります。そのように前提があるので私のような凡人でも、共感し、哲学的思考にも親しむことができるのです。

 大川さんの霊言集で、誰であったかは忘れましたが、「人間たちを消滅させる」という意味の言葉を言われた方がおります。消滅という言葉(どのような言葉使いかはハッキリせず)を聞き、びっくりしたことがあります。神は人間を消滅させることができるということが可能であれば、われわれが、消滅を考えてもおかしくはありません。我々は消滅を考えることはできるのです。消滅ということは、考える主体である自分がなくなることです。無です。虚無かも知れません。自殺者は一時的にせよ、いっさいが無になると考えた筈です。このように考えるのは、間違った考え方ですよと諭すのが宗教的な説明になるかと思います。
 
 私はなにか勘違いをしているのかも知れません。非常に初歩的なことで、つまずいているのかも知れません。再度、ご説明いただけませんでしょうか。

> 「自分がない」と云うことを考えている自分は、自分の状態が認識できると云うそのことによって、「自分がない」と云う状態と矛盾することになります。
>
> 結局、自分を自分と思える意識は、それそのもので独立に存在するのですが、その意識は自分以外のなにかの対象物を感じて自分を認識するということになると思います。
>
> 「体が自分そのものではない」ということはよく言われることですよね。
> ここまでは、かなりの人たちが納得すると思います。
> 釈尊が「四苦八苦」を言ったのも、これに気づかせるための話の導入部分ですよね。
>
> ソクラテスが「あなたは自分のことをわかっていると思っているが、じゃあ、あなたが自分だと思っているものは何なのだい? よく考えるとわからないだろ?」と云うのも同じに思えます。
>
> デカルトもこのことを真剣に考えて、それでも「いま考えている自分と云うものの存在は否定できない」と結論したと思います。
>
>
> >もうひとつ、自分が消滅するとした場合にはどうなのか・・・・
>
> 消滅するということは、ありえないんです。
> 宗教的にも哲学的にも自分が消滅することがあったら、土台から崩れます。
> だからこそ、この考えがなかなか受け入れられないんです。
> ですが、自分が他と融合することはありそうです。
>
> >人間が不死であることを暗示しようとするのに、このような言い回しでいいのかという疑問があります。
>
> たしかにおっしゃるとおり、この表現ですべての人がわかるとは思えないのですが、この論理的な表現のみでしか納得できない人たちもいるんです。
> 暗示ではなくて、かれらにとっては結論のようです。
> ある意味、かれらは霊の性質を探求しているひとたちかも知れません。
> そこが、信ずるということとの違いのように思えます。
>
> 自分を見ている自分としての意識というものは、肉体を自分だと思っている意識よりも、自分の本質に近い意識だと思います。
> それをぼくらはひとくくりにして霊と呼んでいますが、実際はもうちょっと入れ子構造のようになっているようです。
>
>
>

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from: hiraokaさん

2008年11月01日 01時15分05秒

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「Re:14歳からの哲学-池田晶子」
ueyonabaruさん、こんばんは。

最初のご質問のことですが、ぼくがわかる範囲でがんばって書いてみようと思いますが、ぼくがわかっているというわけではありませんので・・・・。

たとえば、このように考えて見られてはいかがでしょうか。

風邪をひいて頭痛がする自分がいるとします。
そのとき、「じぶんは頭が痛い」と思っています。

ですが、「「”頭が痛い”と思っている自分」を、認識(観察)する自分の意識がある」と云うことだと思います。

別の例えをしてみます。
風邪で頭痛がするなかで、数学の問題に没頭している人がいるとします。
このひとは、数学に没頭するあまり頭が痛いことをしばし忘れています。
なかなか問題が解けないので、一息ついたときに頭痛が戻ってきます。
そのとき、「あぁ、自分は頭が痛かったのだな」と思い出します。
このとき、考えているとうの主体はどこも痛がったりしていません。
あるときは数学を考え、あるときは頭痛に悩まされ、そのような感じる主体があるはずです。
だとすると、どの場合もその主体は対象を感じただけと云うことに成ります。
このことをもって、自分の主体は傷つかないし自然現象を超越しているとしているんです。

上の一連の考えている主体が、じぶんそのものであることは間違いないと思えます。
では、頭が痛かった自分と数学問題を考えていた自分はどちらも同じ自分であるはずです。
そのように感じる自分と思えるものは、何かを感じたからこそ、それが自分だとわかります。

「自分がない」と云うことを考えている自分は、自分の状態が認識できると云うそのことによって、「自分がない」と云う状態と矛盾することになります。

結局、自分を自分と思える意識は、それそのもので独立に存在するのですが、その意識は自分以外のなにかの対象物を感じて自分を認識するということになると思います。

「体が自分そのものではない」ということはよく言われることですよね。
ここまでは、かなりの人たちが納得すると思います。
釈尊が「四苦八苦」を言ったのも、これに気づかせるための話の導入部分ですよね。

ソクラテスが「あなたは自分のことをわかっていると思っているが、じゃあ、あなたが自分だと思っているものは何なのだい? よく考えるとわからないだろ?」と云うのも同じに思えます。

デカルトもこのことを真剣に考えて、それでも「いま考えている自分と云うものの存在は否定できない」と結論したと思います。


>もうひとつ、自分が消滅するとした場合にはどうなのか・・・・

消滅するということは、ありえないんです。
宗教的にも哲学的にも自分が消滅することがあったら、土台から崩れます。
だからこそ、この考えがなかなか受け入れられないんです。
ですが、自分が他と融合することはありそうです。

>人間が不死であることを暗示しようとするのに、このような言い回しでいいのかという疑問があります。

たしかにおっしゃるとおり、この表現ですべての人がわかるとは思えないのですが、この論理的な表現のみでしか納得できない人たちもいるんです。
暗示ではなくて、かれらにとっては結論のようです。
ある意味、かれらは霊の性質を探求しているひとたちかも知れません。
そこが、信ずるということとの違いのように思えます。

自分を見ている自分としての意識というものは、肉体を自分だと思っている意識よりも、自分の本質に近い意識だと思います。
それをぼくらはひとくくりにして霊と呼んでいますが、実際はもうちょっと入れ子構造のようになっているようです。


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