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  • from: ueyonabaruさん

    2008年11月11日 11時48分15秒

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    イデアのこと ⑤

     プラトンのイデア論で私が私が分かり得ること分かり得なかったことについて述べてみます。

     生長の家の実相論に相当する大きなイデアともいうべきものについては、容易に受け入れることができますし、個別の事象についてのイデアについてもおおかた納得はいきます。しかし、イデアのイデアという具合に抽象的に重ねていくところは、あまりに専門的すぎて分かりがたいことを正直に告白せねばなりません。プラトンの解説者アランは、このあたりについて、「・・・・・および、考えるとは、こういう反省をたどって、イデアのイデアを常に求めながら、みずからを乗り越えてゆくことだということ、つまり物に固執することでもなければ、おそらくはわれを忘れて、物のなかに迷いこんでしまうことでもない、ということである。」言っておりますが、分かるようでしかし、ハッキリとは分からないのです。

     対話編について言えば、ソクラテスの弁明、パイドンは分かるのですが、それ以降のものからはだんだんと難しくなります。テアイトスで扱われるテ-マ「知識とはなにか」などにいたると、ほとんど分からなくていらだつほどでした。しかし、分からない文脈が多い対話編の数々の物語でも、ソクラテスが結論的な言葉を出すところがあり、これらについては理解可能ではありました。難しい哲学的対話を通じ、真理を明らかにしてゆくというのがプラトンの手法であると解説者は語りますが、そうかも知れません。これは、池田晶子さんの言葉に、言い回しにいらだつことはあっても、彼女の思想は受け入れることができることとも共通するようです。

     イデアを積み重ねてゆく思考方法は、やはり難しいとおもわれます。ウィキペディアでいうイデアの煩雑な面は否定できません。hiraokaさんがおっしゃった、すべて人の考えつくことは、霊界に行けばそのように考えたとおりの形態が現れるという、大川さんの霊界観とイデアの関係はどうなのでしょうか。



     あと、大川さんの次元構造の思想と仏教の欲界、無色界、等々の思想との対比についても良く考えてみると、似ているようで違う点があるように思えてきました。従来の仏教では、これらの階層の分別は、霊界における階層の分別ではなく、修行者の心境のことをいっているように思えます。悟りの段階のような感じです。これはかつて私が、日蓮宗の方から、天国も地獄もない心の内にあるのだという意味のことを言われ、批判されたことからも窺い知れることです。

     仏教のいう、人の境地の階層があるのだという考えは間違っているわけではありません。幸福の科学では、人の境地に応じた世界が霊界に厳然としてあるというのですから、やはり従来仏教(日本の多くの仏教)とは大きく違う面があるとしなければなりません。禅宗などの僧侶には、霊という概念を最初から軽蔑してかかるものもいるようです。 






     

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コメント: 全8件

from: ueyonabaruさん

2008年11月14日 08時49分04秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:イデアのこと ⑤」
 ご説明何度も繰り返して読みましたが、要するに全て相対的である、基準をおいた場合はどうするのかという具合に理解しました。

> >一つだけ、空間全体が曲がっているというのはどういう意味なのでしょうか。
> 一足飛びに空間のことを持ち出したのでぼくの拙速でしたね。
> 一般相対論の話には必ず出てきますね。
> それとはちょっと違うのですが・・・・、
> 家を建てるのに地面が丸いことを考慮する設計者は居ないでしょう。
> 紐を張ってまっすぐだと思う方向に突き進んでいけば、いつかは出発点に戻るだろうと思えますよね。
> 厳密な直線を地球上に引くことはできないんですね。
>
> ではレーザー光線でも使って真っ直ぐ進もうとすると大気圏外に出てしまうわけです。
> その光線は、その光線にとって真っ直ぐ進んでるつもりなのですが、さらに大きな視野から見ると曲がって進んでいるように見えると云うことですね。
> 光の屈折の原理とは、ちょっと違います。
> 屈折は媒体によって、光速度が変わるからと説明されています。
> (屈折の原理だって、いつ変わるかわかりませんよ)(~_~)
>
> 結局のところ、宇宙の中ですべてが相対的だとしたら(つまり絶対的な基準が無いとしたらと言うことです)、どんな見方も解釈もすべてそれなりに正しいことになっちゃうんですね。
> それで、光の速さと光の直進性は宇宙の基準だと仮定して、それに合うように時間と空間を補正したわけです。
>
> 空間が曲がっていると云いますが、その空間に居れば曲がっているようには到底思えないんです。
> 同じことが、地球は平らか球か?とか、天動説か地動説かと云う論争になっちゃうんです。

 そのとおり、現実生活にも生かしたいものです。どのかたちでもいいのですね。
> 孔子の説く「仁」も、イエスの説く「隣人愛」も、仏教の「慈悲」も、イスラム教の「寛容」も、同じイデアだと思っています。
>

 ここで、テ-マを揚げて若干個人的なことにもなるかも知れませんが、私の疑問を書きますので、ご意見お聞かせ下さい。スレッドというのでしょうか、新しく書いてみたいと思います。また、イデアのことは、追々考え続けましょう。

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from: hiraokaさん

2008年11月13日 23時50分57秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:イデアのこと ⑤」
>沖縄では、5月になると清明祭・・・がありますが。
ueyonabaruさん、たいへん興味深い沖縄の風習の話しを楽しく読ませていただきました。
横穴式住居みたいな扉付きの大きなお墓の前の広場で、親族一同が集まって宴会をするんですよね。
どこの地方だったか思い出せないのですが、畑で先祖の霊を供養する所がありますよ。
こういう集まりの風習はいいものです。
人と人の縁の不思議さを感じさせてもらえる特別な場ですね。
もっとも、主催者の負担は大きいものでしょうし、現代ではこういう集まりをわずらわしく感じる人も多いのですが・・・・。


>一つだけ、空間全体が曲がっているというのはどういう意味なのでしょうか。
一足飛びに空間のことを持ち出したのでぼくの拙速でしたね。
一般相対論の話には必ず出てきますね。
それとはちょっと違うのですが・・・・、
家を建てるのに地面が丸いことを考慮する設計者は居ないでしょう。
紐を張ってまっすぐだと思う方向に突き進んでいけば、いつかは出発点に戻るだろうと思えますよね。
厳密な直線を地球上に引くことはできないんですね。

ではレーザー光線でも使って真っ直ぐ進もうとすると大気圏外に出てしまうわけです。
その光線は、その光線にとって真っ直ぐ進んでるつもりなのですが、さらに大きな視野から見ると曲がって進んでいるように見えると云うことですね。
光の屈折の原理とは、ちょっと違います。
屈折は媒体によって、光速度が変わるからと説明されています。
(屈折の原理だって、いつ変わるかわかりませんよ)(~_~)

結局のところ、宇宙の中ですべてが相対的だとしたら(つまり絶対的な基準が無いとしたらと言うことです)、どんな見方も解釈もすべてそれなりに正しいことになっちゃうんですね。
それで、光の速さと光の直進性は宇宙の基準だと仮定して、それに合うように時間と空間を補正したわけです。

空間が曲がっていると云いますが、その空間に居れば曲がっているようには到底思えないんです。
同じことが、地球は平らか球か?とか、天動説か地動説かと云う論争になっちゃうんです。

>愛を強調されますが、何かその辺の背景など、差し支えなければ教えて下さい。
はい、信用のできる霊言を読みますと、「神は愛である」とどれも述べています。
大川さんの初期もそうでした。しかも、大川さんは各宗派の愛についての表現の違いを、じつにたくみに表現していました。

ぼくにとっては、「愛」とは「重力」みたいなものです。(*^。^*)
↑かえって、解りにくいでしょうか?
「けっきょくの原理は・・・」、と云う意味なんです。

孔子の説く「仁」も、イエスの説く「隣人愛」も、仏教の「慈悲」も、イスラム教の「寛容」も、同じイデアだと思っています。

>愛は時にお節介もします。その辺の話をひとつ。・・・
そうなんですよねぇ・・・。(*^。^*)
わずらわしいことや、誤解や、空回りや・・・。

でも、人間の行動原理と言いますか、行動の動機はすべて「愛」を根本に持っていると思いませんか?

>自分の宗教が人々のためになるのなら、もっと布教に対して熱意があってもいいように思いますが、そうではなく、ものわかりの良い教養人のままです。

自分の解らないことについては、「黙して語らず」と云う態度も善いと思うんです。そのかたは、霊界があるはずだとは思えない方なのかも知れません。

>(例えば幸福の科学など)が既存の仏教にとって代わるのか興味深いことです。
ほんとうにどうなるんでしょうね。
でも、きっと善い方向に少しづつでも変化していくと思いますよ。

>一方で、神道はまだまだ健在です。日本の民族宗教ですからこれが失われることはなさそうですね。
こちらはそうでもないと、ぼくは思っています。
現代の若者で、神道の教義を明確に理解している人はほんのわずかだろうと思います。
なぜ理解されないのかと云うと、教義として文章に表すことを拒否しているからなんです。
同じことを、大川さんも云っていました。
神道も旧仏教も当分は無くならないでしょうが、その影響力は衰退する一方だろうと思います。




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from: ueyonabaruさん

2008年11月13日 10時33分52秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:イデアのこと ⑤」
 下の文章、非常に分かりやすいのですが、一つだけ、空間全体が曲がっているというのはどういう意味なのでしょうか。これまでも、目にした文章ではありますが、いつも飛ばしていました。難しくなるようでしたら結構です。

> ちょっと飛びますが、お付き合いください。
> いぜん相対性理論のことを尋ねられたので、書こうかと思っていたのですが・・・。
> 相対性理論の啓蒙書にはたいてい最初に、「動いているもの二つの位置関係をこちらが絶対だと決めることはできない」と云う例が出てきませんでしたか?
> たとえば止まっている列車に乗っているとき隣の列車が動き始めると、自分の列車が動き始めたのかと錯覚したりとか、
> あるいは、「ピッチャーがボールを投げてキャッチャーのミットに収まった」と云う見方も、「ボールは止まっていて、ピッチャーもキャッチャーも含めて地球全体が後方に動いた」と云う見方も同じだ・・・と云うような・・・・。
> これは、ガリレオが最初に主張した物理学の考え方なんです。
> 相対性理論と区別して、ガリレオの相対論って言われてるんです。
> 相対性理論は、これを前提としています。
> さてさて、ガリレオは「それでも、地球は回っている」と云ったとか、云わなかったとかいろいろありますが・・・・。
> 現在のぼくらは、天動説を持ち出したらバカにされることでしょう。
> 「天動説は間違い」と云うのが、一般的常識だと思っているのが現代の知識人だと皆思っていることでしょう。
> ところが、天動説でも矛盾なく説明できるんです。
> まさに、ガリレオの相対論によってです。
> じつに、皮肉なことだと思われませんか。
> 昔の天文学では、そのようにして惑星の動きを予測していました。
> いまでも、占星術は天動説の図を使っていますね。
> ただこの方法ですと、やたらに複雑でわけのわからない誤差表を使い実測にもとづいて修正しなけければならないものだったんです。
> 惑星と云う言葉は、あちこち惑って動くのでそう名づけられたのですが、天動説のままでも、いつかはこの複雑な動きの一般解ができあがったかも知れません。
> もっとも、さらに別の系がみつかるたびに、一からやり直しになる計算ですが・・・・。
> では、ぼくらは地動説を受け入れて、「これが、正しい」と思っていることが正しいのでしょうか?
> 事は、そう簡単にはいかないようなんです。
> 「大地は丸いか平らか?」と云うのも、同じ問題ですね。
> 丸いと言う結論が出たかのように見えて、「空間全体が曲がっているかも知れない」と、こうなるわけなんですねぇ。

 愛を強調されますが、何かその辺の背景など、差し支えなければ教えて下さい。tamaさんも愛を強調されます。キリスト教も愛の教えです。 

 愛は時にお節介もします。その辺の話をひとつ。
 沖縄では、5月になると清明祭(中国から伝わった風習。墓の庭で、先祖と共に親族皆でごちそうを食べながら供養するもの。)がありますが、その際、お寺(臨済宗)の住職の息子である若い僧侶と話をする機会がありました。仏教の教えを、もっと広めるように努力した方が良いと、こちらが言ったのですが、あまり乗り気でもありません。この方の父親もそうですが、この方も美術(彫刻)の専門家で正式に僧侶となる前にはアメリカに長い間留学もしており知的な方です。自分の宗教が人々のためになるのなら、もっと布教に対して熱意があってもいいように思いますが、そうではなく、ものわかりの良い教養人のままです。

 この間弟が亡くなったのですが、葬式など全て浄土真宗で執り行いました。墓がまだ建造中であったため納骨堂に一時預かりとなりました。立派な納骨堂に案内されて、僧侶からは仏壇などの漆塗りの素晴らしさなどの説明はありますが、故人の霊界における救済など宗教的な本質にかかわる説明などはないのです。
 沖縄は檀家制度は元々なく仏教の影響は薄い土地柄であり、民間ではユタ(霊媒)信仰が昔からありました。しかし、葬式は仏教式で行われるのが普通で、その都度適当なお寺を選びます。結婚式は、神式またはキリスト教式であることは本土と一緒です。

 沖縄に仏教が根付いていたらこの沖縄、もっと良かったのかと考えたりします。仏教の思想が浸透していたらどうなのか。これには、哲学があるので、もっと考える県民性ができ上がっていたのではないかと考えたりします。現在の沖縄の政治状況には不満があります。希望があり智恵に裏打ちされた政治が行われるべきです。もっとも、国政をみても同様な感じはもちますが。

 仏教が葬式仏教としてこのままのかたちで存在していくのか、あるいは仏教自身からの大改革がなされ、これの再生ができるのか、または新興の宗教(例えば幸福の科学など)が既存の仏教にとって代わるのか興味深いことです。一方で、神道はまだまだ健在です。日本の民族宗教ですからこれが失われることはなさそうですね。

 愛について語るべきを、色々と考えてしまいました。その他、話題はたくさんありますが、色々ご意見をお聞かせ下さい。

 また、ほかの方々もご発言くださいね。アクセスされる多くの方々も気楽にご参加下さるようお願いします。ともかく自分の意見を言うことは、精神的によろしいですよ。 

> >愛は大切なことです。
> ぼくは、「この世で、一番確かで、一番大切にする価値のあるものは愛であるはずだ」と思っています。
> これさえあれば、いつ死んでも悔いが無さそうだからなんです。(*^。^*)
>

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from: hiraokaさん

2008年11月13日 02時21分55秒

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「Re:Re:Re:Re:イデアのこと ⑤」
> 日蓮宗の方の批判のこと、禅宗の僧侶の態度など書きましたが、ここには大きな問題があるように思います。

ぼくも同じように思います。
この問題は大川さんがおっしゃるとおり、「弟子はみんな始祖を真似るんですね。」、のことだと思います。

>またキリスト教も、各派が分かれ同じように自分が正しいと主張しているように見えます。
まったくそのとおりでありまして、キリスト教なんかの分派は上から下まで、むちゃくちゃにいっぱいあるんです。

>宗教論争なんてやるべきではないと結論するだけでことは終わりかというと、それもまた違うようです。
ほんとに、そうですよね。同意します。

>これまでキリスト教以外には真理を認めていなかったのですが、あるときに、キリスト教以外にも神の光は降りるとする見解を出したというのです。
このことは、最近のことですよね。聞いたことがあるように思います。
ガリレオに謝罪したとか、そういうことも含めてのことだったと思います。

ちょっと飛びますが、お付き合いください。
いぜん相対性理論のことを尋ねられたので、書こうかと思っていたのですが・・・。

相対性理論の啓蒙書にはたいてい最初に、「動いているもの二つの位置関係をこちらが絶対だと決めることはできない」と云う例が出てきませんでしたか?

たとえば止まっている列車に乗っているとき隣の列車が動き始めると、自分の列車が動き始めたのかと錯覚したりとか、

あるいは、「ピッチャーがボールを投げてキャッチャーのミットに収まった」と云う見方も、「ボールは止まっていて、ピッチャーもキャッチャーも含めて地球全体が後方に動いた」と云う見方も同じだ・・・と云うような・・・・。

これは、ガリレオが最初に主張した物理学の考え方なんです。
相対性理論と区別して、ガリレオの相対論って言われてるんです。
相対性理論は、これを前提としています。

さてさて、ガリレオは「それでも、地球は回っている」と云ったとか、云わなかったとかいろいろありますが・・・・。

現在のぼくらは、天動説を持ち出したらバカにされることでしょう。
「天動説は間違い」と云うのが、一般的常識だと思っているのが現代の知識人だと皆思っていることでしょう。
ところが、天動説でも矛盾なく説明できるんです。
まさに、ガリレオの相対論によってです。
じつに、皮肉なことだと思われませんか。

昔の天文学では、そのようにして惑星の動きを予測していました。
いまでも、占星術は天動説の図を使っていますね。

ただこの方法ですと、やたらに複雑でわけのわからない誤差表を使い実測にもとづいて修正しなけければならないものだったんです。

惑星と云う言葉は、あちこち惑って動くのでそう名づけられたのですが、天動説のままでも、いつかはこの複雑な動きの一般解ができあがったかも知れません。
もっとも、さらに別の系がみつかるたびに、一からやり直しになる計算ですが・・・・。

では、ぼくらは地動説を受け入れて、「これが、正しい」と思っていることが正しいのでしょうか?
事は、そう簡単にはいかないようなんです。
「大地は丸いか平らか?」と云うのも、同じ問題ですね。

丸いと言う結論が出たかのように見えて、「空間全体が曲がっているかも知れない」と、こうなるわけなんですねぇ。

>愛は大切なことです。
ぼくは、「この世で、一番確かで、一番大切にする価値のあるものは愛であるはずだ」と思っています。
これさえあれば、いつ死んでも悔いが無さそうだからなんです。(*^。^*)

> 論理学っておかしいですね。・・・・理解を難しくしてしている面があるのではないでしょうか。
ホントに、そうですよね。
ある意味で、この限界がこの世の限界なんでしょうね。
政治家は論理学を使い、詭弁家は論理学を使い、・・・人を説得したいと思う人は皆論理学を使い、お笑い芸人は、論理学を逆手に取り・・・・
まあ、こんな具合ですので、現代の人たちが論理の根本的矛盾に気が付いただけでも進んだのかも知れません。

「無い」と云う、その意味するところのもの自体が無いかどうかを想像できるかと云うことなんです。

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from: ueyonabaruさん

2008年11月12日 12時16分38秒

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「Re:Re:Re:イデアのこと ⑤」
 論理学っておかしいですね。佐倉哲さんも論理学で色々と思考されているようですが、、これに頼らず、分かりやすく説明できないかなと思います。理解を難しくしてしている面があるのではないでしょうか。論理学、まだ分かりません。

> 『在る』と『無い』と云う概念は、こう云った話を相互理解するうえでいつも障害になってきたと思います。
>
> ギリシャの時代にすでにこのことを考えた人が居て、「在るものは在る、無いものは無い」と云ったそうですが、この残された言葉自体が、論理学の矛盾を含んでいますよね。
>
> 「無い」ということ自体が無いのであれば、「無いものは無い」と云うのは、「すべて在る」と云うことになってしまいますね。
>
> ここらへんは、勉強中です。(~_~)

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from: ueyonabaruさん

2008年11月12日 12時02分00秒

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「Re:Re:イデアのこと ⑤」
 日蓮宗の方の批判のこと、禅宗の僧侶の態度など書きましたが、ここには大きな問題があるように思います。まず、前者のことですが、この方は日蓮宗の教義のなかで育ったので、そのような極楽、地獄観をもち、これを正しいと納得したわけです。これはこれでよろしいのですね。ですが、この方がほかの宗教的な考え方を、自分の宗派の教義に反するから間違いだとして攻撃し、折伏してゆくのです。それも良しとしましょう。教義を広めるのが宗教活動の一番大きな目標なのですから。しかしそれでも、このかたはいかにも狭量であるとの誹りを免れることはできないと思われます。
 後者の場合です。禅宗では霊とか霊界とかは修行の中でも思考の外におかれてきたと想像されます。ですから、霊という言葉を使い真理の表現がなされることについては、全く理解ができないのです。あくまで、自分の宗派の思考範囲におさまってしまいます。こちらは、外に向けての折伏などはあまりしないようですが。
 この二派に限らず、他の仏教各派についても同じようなことだと推量します。またキリスト教も、各派が分かれ同じように自分が正しいと主張しているように見えます。

 宗教が分かれ、さらに宗派に分かれていく現象をみると、人間の根本的な性質からそのようになると思われます。人間の思考も性格も多様なのですから、宗教も多様になるというわけです。ですから、この多様性であることはそのまま認めることにしなければならないというのは真実であると思われます。

 それでは、どの宗教も宗派もそのままでいいんじゃないか、宗教論争なんてやるべきではないと結論するだけでことは終わりかというと、それもまた違うようです。古い宗教も、古い宗派も時代と共に脱皮し生まれ変わっていくようでなければ、今後は存在していくことはできなくなるかも知れません。存在はし続けても小さくなっていくでしょう。

 古い宗教といえば、ロ-マ カトリックでしょう。叔母が尼僧ですから、端々から多少の情報が入ります。カトリックは、これまでキリスト教以外には真理を認めていなかったのですが、あるときに、キリスト教以外にも神の光は降りるとする見解を出したというのです。これはホントに大きな変化だと思います。カトリックという古いそして大きな教団でも徐々に変化してゆきます。

 霊界の次元構造論は、やはりおおきなインパクトがあると思うのです。先に、生長の家の信徒であった私が、なかなかこの思想になじめなかったということを申しましたが、従来の仏教者にとってもやはりなじみがたいことでしょう。これを認めてしまうと、従来の自分を失うような感じがします。それほどのものがあります。かつて生長の家の信徒であり、現在幸福の科学の信徒であるというのは結構いるのですが、彼らはスム-ズに移行できた方々です。しかし、私には難しいことでした。ちなみに、私の妻はまだ生長の家です。

 愛は大切なことです。これに認識力の問題が加わります。探求心、好奇心の有無もあるようです。

> >幸福の科学では、人の境地に応じた世界が霊界に厳然としてあるというのですから、やはり従来仏教(日本の多くの仏教)とは大きく違う面があるとしなければなりません。
>
> ぼくは、同じことを言い換えたのだと思うんです。
> どちらが、解り易いかと云う違いのように思っています。
> 人の境地をはかる簡単なバロメータは「その人の愛の多寡」だと思うんです。
> なぜなら、これさえあればすべての存在を許容できるからなんです。

> >禅宗などの僧侶には、霊という概念を最初から軽蔑してかかるものもいるようです。 
> 「論語読みの、論語知らず」とか「プラトン読みの、イデア知らず」ですね。(*^。^*)

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from: hiraokaさん

2008年11月12日 00時24分51秒

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「Re:Re:イデアのこと ⑤」
>これはかつて私が、日蓮宗の方から、天国も地獄もない心の内にあるのだという意味のことを言われ、批判されたことからも窺い知れることです。

↑この文章の「天国も地獄もない心の内にあるのだという意味のことを言われ、・・・」

『無い』と云う言葉を物質界で使っているのか、心の世界で使っているのかが、明確な分岐点になると思います。
この言葉の使い分けは、いまだ世の中に流布されていないようです。

『在る』と『無い』と云う概念は、こう云った話を相互理解するうえでいつも障害になってきたと思います。

ギリシャの時代にすでにこのことを考えた人が居て、「在るものは在る、無いものは無い」と云ったそうですが、この残された言葉自体が、論理学の矛盾を含んでいますよね。

「無い」ということ自体が無いのであれば、「無いものは無い」と云うのは、「すべて在る」と云うことになってしまいますね。

ここらへんは、勉強中です。(~_~)

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from: hiraokaさん

2008年11月12日 00時02分47秒

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「Re:イデアのこと ⑤」
>イデアのイデアを常に求めながら、みずからを乗り越えてゆくことだということ、・・・・・

昔のことですが、居酒屋である人がこのように云っていたんです。

「三島由紀夫が、『真実と云うのはたまねぎみたいなもので、これが真実だと思っても皮をむくとさらに次の皮がある。どんどんむき続けていくと何にも無かった』、うまいこと云うなあと思った。」

ぼくはたまたまこの文を読んでいたので、
『そうかなぁ・・? 最後に何も無かったら何のためにむき続けるのだろう?」と考えていました。

でも今は、
「最後が中空のように見えたとしても、その中空は一番外側の皮に繋がっているかも知れない」と思うようになりました。

>対話編について言えば、ソクラテスの弁明、パイドンは分かるのですが、それ以降のものからはだんだんと難しくなります。
どうも、師なき後のプラトン自身の思索が入っているようなんです。どうも、判然としませんよね。
でもぼくは、「中学生にもわかるように表現できなかったら、そのことを僕はまだよく解っていないんだ」、と思っているんです。

>すべて人の考えつくことは、霊界に行けばそのように考えたとおりの形態が現れるという、大川さんの霊界観とイデアの関係はどうなのでしょうか。

はい、簡単に云ってみます。
大川さんの云った「ヤマタのおろちは、実際に居たようです。」
これも、正しく。

僕の云う「ヤマタのおろちは、8人の盗賊だった。」と云うのも、どちらも正しいのだと思うんです。

ueyonabaruさんも「ヤマタのおろち」について、ちょっと考えてみてください。
いまueyonabaruさんが想像したことも、ueyonabaruさんにとっては霊界の現実になると思うんです。

ですから、大川さんの云うこともすべてを否定してしまうことは間違いだと思うんです。


>霊界における階層の分別ではなく、修行者の心境のことをいっているように思えます。
ぼくも、ueyonabaruさんと完全に同じ考えです。

参考までに、神智学のたまねぎ構造を書いておきます。
神智学は、ヒンドゥー教を下地にしています。
自分は自分のことを、どのように捉えているか?と云う分類です。

1)自分は肉体だ。

2)自分は肉体のはずなんだが、どうもちょっと合点がいかない。   (エーテル体。幽霊のことです)

3)自分は思考することができる実体だ。 (アストラル体。霊のことです)

4)自分は自分と云うよりも、他と融合した部分だ。(コーザル体。原因体と称しています。哲学のイデアに近い概念です。)

>幸福の科学では、人の境地に応じた世界が霊界に厳然としてあるというのですから、やはり従来仏教(日本の多くの仏教)とは大きく違う面があるとしなければなりません。

ぼくは、同じことを言い換えたのだと思うんです。
どちらが、解り易いかと云う違いのように思っています。

人の境地をはかる簡単なバロメータは「その人の愛の多寡」だと思うんです。
なぜなら、これさえあればすべての存在を許容できるからなんです。


>禅宗などの僧侶には、霊という概念を最初から軽蔑してかかるものもいるようです。 
「論語読みの、論語知らず」とか「プラトン読みの、イデア知らず」ですね。(*^。^*)


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