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from: ueyonabaruさん

2009年10月17日 18時49分02秒

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偶然と必然

cpsmo77さんとhikaru0827さんとの表題の議論を傍からみさせてもらっておりました。偶然があるのかないのかは結論的なことは言えませんが、お二

 cpsmo77さんとhikaru0827さんとの表題の議論を傍からみさせてもらっておりました。

 偶然があるのかないのかは結論的なことは言えませんが、お二人の議論を聞く限り双方に同調できます。宗教的な考えかたからすればすべて原因がありその結果があるというのは普通の考え方ですね。

 宗教的な観点からはは偶然を否定したいものです。しかし、ことの起こった原因が分からないというのもあります。必然論が正しければ、それにも何か原因を見つけ出さねばなりません。

 原因が分からないというものでも、知らないところで何か原因があるのかもしれません。我々が原因まで行き着かないだけかもしれません。

 「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉もあり、聖書ルカ伝12章では「五羽のすずめは2アサリンオンで売られて売られているではないか。それにもかかわらず、神の前では、その一羽さえも忘れられてはいない。そればかりか、あなたたちの髪の毛も皆数えられている。・・・・・」などの言葉もあることから、宗教は偶然を嫌うように思います。

 偶然というものはあるのかどうかを理論的に証明することは私には不可能です。因果律が厳然としてあり、しかし一方その脇に偶然のもととなる偶然の嵐のようなものがあってそこからの風がこの世にも吹いてくることがあるという考え方は可能でしょうか。

 堅苦しく考えずに、その様な考え方も容認はできませんか。因果律と偶然を両方認めてしまうのです。お二人の議論を聞いていて、難しいテ-マなのでどうなるのかと見守っておりました。

 お二人の議論はさらに発展し、次に愛のテ-マに移ったように見えました。お二人の愛のとらえかたはどちらも正しいとしか言えません。社会主義的な考えかたと自由主義的な考え方の違いのようにも思えました。

 数年前アグネス・チャンさんがアフリカの地で慈善活動をやっている姿を描いたテレビ番組がありました。彼女はクリスチャンの愛の教えの実践家ですね。黒柳徹子さんもまたクリスチャンであり慈善事業家でもありますね。アグネス・チャンさんがアフリカの困窮した家の子供達を抱きしめる姿は感動させられます。クリスチャンの愛の行為の効用は何でしょうか。愛の感情を周りの人々に起こさせることかもしれません。もちろん、具体的な助けもありますが。

 10年ほど前から、年に一度はユニセフに寄付を行っております。ほんのわずかな金子ですが、ともかく実践だろうと思っております。我々幸福の科学の信徒もこの面でも頑張らねばなりませんね。


 あと、cosmoさんから、幸福の科学の雰囲気についてのお話もありました。私か見た幸福の科学の雰囲気を述べてみたいと思います。
 
 生長の家の雰囲気とは大分違うように感じます。皆さん常に頭の中には真理のことがあるのでしょう。道を求める修行僧のような切実さを会員の方々には感じました。これは買いかぶりでしょうか。逆に冷たい雰囲気と取られるかもしれませんね。私は、最初はなじめませんでした。

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from: cosmo77さん

2010年02月26日 22時05分13秒

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「Re:偶然と必然」

hikaru0827さんへ

こんばんは♪

いやあ 議論がかみ合わず もどかしいですねえ

今回の書込みをもう一度 拝読しましたが 結局結論的に何が言われたいのか よくわかりませんでした

ヒカル哲学っていうのは 結局次のようなことを 言われたいのでは ないか
勝手ながら 私なりにまとめてみました

もしそうだとすると 仏法解釈に誤りがあると 思います

■ヒカル哲学1
自分におきることは 100%自分の責任である
こう考えないとヒカルさんご自身の精神が耐えられない
ですから どんな論理的な無理を伴っても 他人の考えを無視しても この考えを守る必要がある

大川先生はこの考えが違うというお話を何度かされてます
共業がこの例で 自分の責任外でおきることの例としてあげられています
異熟果も同様に考えられます

経験的に捉えても この考え方がおかしいというのは誰でもわかるでしょう
善果は100%自分の善因によりますでしょうか
環境や人がもたらしてくれたものというのは納得できるはずです
だとしたら 悪果も 環境要因にも影響されるのは当然の帰結ですね

ヒカルさんは ご自分によきことがあれば これは自分のおかげだー と有頂天になられてできあがるのでしょうか? V(^0^)

■ ヒカル哲学2
因果律は完璧だ
異熟果にも相当の因が100%ある と考えるわけですね
ヒカル哲学1と相補的な関係かもしれませんね

これもおかしいですね
異熟果は 共業である場合もあります
共業自体が 自己責任とは必ずしもいえないものであり そういったことに巻き込まれることがあるわけです
大川先生も相当のことを言われています

私が最近いっている 突発事件も同じですね
それ自体にも 悪因が薄い場合もあり 巻き込まれもあるわけです
相当する悪(善)因があるとは限らないということです


経験的に考えて 異熟果が突発的な 因の薄い事件である と考えれば 納得できることが多々あるはずです
これは 先に述べていた 偶然の想定と同じ状況です

つまり 大川先生の言われている 因果律とは 次のようなことであり 実際にこれは どこかで記述されてます

因果律 つまり 善因善果 悪因悪果は 中長期的には 不まいである
異熟果により 一時的には 違うようには見えるが 中長期的には 保たれている

異熟果に相当する因がある とは言われていませんね
こう考えると 人生や経験によく合致していて納得がいきますね

おきることは100%自分の責任だ なんてホントにみなさん 納得できますでしょうか

だとすると 原爆も ホロコーストも 薬害エイズも すべてその人たちが 100%原因だ ということになります

これこそ 理不尽極まりない 哲学以外の何ものでも ない と考えるなら あなたは 私と 同様の思考だといえるでしょう

因果律が完璧でははない その根拠として 共業や異熟果の存在を提示されていて 現実との適合がよくとれていると思います

因果律が完璧だ ということに固執するのは 私に言わせれば 木を見て森を見ず ということですね


次に

>>【現在から未来への因果律】

>>悪因には相当の悪果が起きる
>>善因には相当の善果が起きる

>過去現在未来を見れば、縁起は完璧だという事ではないでしょうか?

過去->現在->未来
ということですね


>>【現在から過去への因果律】

>>悪果には相当の悪因がない場合がある

付け加えれば
善果には相当の善因がない場合がある

ですね

これは 異熟果 が相当する悪(善)因がない という場合には 成り立つわけですね
異熟果からみれば 悪因善果 善因悪果が ありうるということです


>私たち地上に生きる「限られた認識力」で、
それを悪因だとしたり悪果だと判断する事は至難であるという事

これは 善悪を峻別することは 難しいというお話なんでしょうか

もちろん難しいこともありますが
殺人 盗難など 簡単なこともありますよね

それと
善因善果 悪因悪果 の 考え方なのですが

私は 次のような考え方でよいのでは と思うわけです

つまり
善因悪因とは 思いと行いです

善果悪果とは もっと表面的な 幸運 不運 のようなものです
お金持ちになるとか いい奥さんがくる とか 出世する などです

おそらく こういう意味なのではないかと 考えるわけです
むづかしく考える必要はない と考えます


>もし社長が、「私どもには過失はありません。世の中には偶然的な事象がありまして、運悪く私どもの車に不具合が発生しました。」と発言すれば、この先トヨタは存続し得ないでしょう

ご発言の意図がわかりませんが
ミスに対する責任とは ある限定された範囲内でおこなわれるものです
責任の範囲外というのもあるわけですね

運転中に地震があって 事故がおきても 責任は問われませんね

ヒカル哲学では それも トヨタの責任なのでしょうか? +▽+
ぜんぶ自分の責任ですものねえ

それと PL法というのがありますが この中には それを製造した時点での科学技術では 発見できなかった原因については 責任を問わない というものありますね

全うな 制限だと思います
すべてが本人の責任だ という考え方がどんなに 現実離れしているか というのがよくわかりますね

ヒカル哲学は現実は無視でしたっけ? (・_*)\

また 優良企業 そうでない企業 主婦や一般の方では ミスをなくすための 取り組みとそのインセンティブは ものすごく違う ということが 私はいいたかったわけです

トヨタと ヒカルさんの奥さんが 同じレベルで 管理と取り組みをしてる とまさか 考えんでしょうね (笑)


> cosmo77さんは、ある出来事を「悪果」と見、その因は「罪悪を犯した事」と考えられる傾向があるように思います

ざい‐あく【罪悪】
道徳や宗教の教えに背くこと。つみ。とが。「―を犯す」[類語] 罪
ざいあく‐かん【罪悪感】
罪をおかした、悪いことをしたと思う気持ち。「―に責められる」


悪因の悪とは 罪悪の悪と 同じではないのでしょうか
違いますか?

殺人も 姦淫も 罪悪ではないのでしょうか

思いと行いですね

それに対して 悪(善)果 とは 罪悪ではなくて 幸運不運ですね

これは 上で書きました

もちろん 罪悪の軽重があります


法律も その罪悪性の軽重によって 量刑を科すのではないのですか?

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