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  • from: ueyonabaruさん

    2010年03月17日 22時46分34秒

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    大川先生のご講話「カルマとの対決」について

     去る3月14日に、先生は、表題のタイトルでのご講話を沖縄正心館においてなさいました。その内容は皆さんにも参考になるだろうと思い、私が把握した範囲でお伝えしたいと思います。


    カルマについて

    〇 カルマとは、行為という意味がある。行為の記録のようなもの。カルマとは、心の傾向性のことでもある。

    〇 来世でカルマの刈り取りが行われるが、それでも足りなければ、再来世までもちきたすことがある。

    〇 家族のカルマ、地域のカルマ、国のカルマもある。

    〇 仏教としてのカルマもある。

    〇 カルマを超えるには、憎しみを棄てること。カルマは、仏法真理を行ずることにより越えられる。


    伝道、宇宙の法など

    〇 沖縄は、ム-大陸の沈んだときに、日本で一番最初に、ム-の人びとがたどり着いた場所である。

    〇 伝道するに当たって、当会がム-大陸、アトランティス大陸、はては宇宙人論まで展開することに対し、社会からの反作用はあるかもしれないが、10年先、20年先に世の中はどう変わっていくのか分からないのであり、今の時点で、言うべきは言って置かねばならない。

    〇 宇宙からは21種類(?)の宇宙人が来ているが、現在リサ-チを行っている最中である。

    〇 幸福の科学を批判、罵倒するものに対しては包容の心が大切である。罪を憎んで、人を憎まずの精神 



     以上が私のまとめです。ご講話終了後、例により質疑応答の時間が設けられました。

     3人の方が質問されましたが、特に注目すべきは、ある女性の方の質問に対する先生のご説明です。

     質問は、「私はこれまで主婦でありましたが、数ヶ月前に店を開店しました。商売の成功する方法を教えていただきたい」というものです。

     先生は次のようにお答えになりました。

     成功するには二つの重要なことがある。一つは、自分自身がこの仕事をすることに対する信念である。二つ目は、お客さんのことを考える、お客さんの喜ぶことをするということ。この二点目については、どの経営書にも書かれた平凡なことであるが、これがホントに実践されることはほとんどないのが実情である。ホントの意味で相手のことを考えるということを大事にしていただきたい。幸福の科学の伝道をとっても同じである。相手の幸せを祈って伝道すると思っているはずだが、実際には、教団の利益を考えていやしないかということである。ホントに相手を理解しているかどうかを、よく考えてみる必要がある。

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コメント: 全19件

from: hikaru0827さん

2010年04月09日 02時02分05秒

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「Re:Re:Re:Re:Re::Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ

> 六道の世界観は国によっても民族性によっても違います

ご紹介ありがとうございました。

転生輪廻の内容も、地域で違っていたりするようですね。

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from: にしき鯉さん

2010年04月04日 23時02分41秒

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「Re:Re:Re:Re::Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
hikaru0827さんへ
返事ありがとうございます

<それにしても、よく勉強されてます。>

そういってもらえると恥ずかしいやら嬉しいやら恐縮です
ちょっと恥ずかしい気持ちの方が多いです

<ちなみに、他人の為に、行動するのは人間だけではないようですよ。
猿が、エサを手に入れる為の道具を、他の猿に貸し与える行動が確認されています。>

はい、そうですね
盲導犬なども尊敬すべき生き物です(私にとっては)

他人のために、、と書いたのは総体的に(動物と人間の)区別するために書きました
原始仏典の中の区別ですから「犬(猿)の生の進化」みたいな部分では変わってきてると思います

<一つお尋ねします。
野原の虫が、死んだ父の生まれ変わりかもしれない、というような、種の垣根なく転生する説は、釈尊の時代からあったものですか?>

はい、ありました
テーラーワーダの仏典の中にこんな記述があります

今で言う大道芸のような事をやっている人たちがいました

釈迦に「私たちは人々を毎日笑わせている」「面白い事をやって喜ばせている」だから「喜楽」という「天」に生まれ変われるでしょう?と聞きました

釈迦は最初にそういうことは「私に聞いてはいけない」と答えました
しかし、何度も聞くその人たちにとうとう最後は答えました

あなた方は「喜楽」と言う「自由な世界」に生まれ変わります
それは動物の世界であり、自由に歩く事ができ、自由に獲物を獲る事ができる世界です、と言い切りました
(一説には「喜楽」は地獄と言う説もあります)

釈迦は質問の答えによって本人が不快になったり絶望感におそわれる時はできるだけ返答しなかったのです
しかし、どうしてもという再三の質問にはハッキリと言い切ったのです(情と真理を天秤にかけた時は真理をとる人だったようです)

チベット仏教(虹の階梯より)にはこんな事が書いてあります

目の前の虫を私がどうして殺せよう、それは一生まえの私の母かも知れない、二生まえの私の妻かも知れない

魂の連続体は縁によって形を現している、たまたま、母の魂が虫になっていたとしたらどうして私に母が殺せよう

と、いうのがあります

・・・・・・・・・・・
蛇足です

六道の世界観は国によっても民族性によっても違います
阿修羅の世界も日本では地獄と隣接していますがインドのある地方では人間の上、「天」と人間の間に位置しています

ヨーガの世界観と仏教の世界観は似通っています
ヨーガは下の世界は説きませんが上の世界はほぼ仏教と同じです

ヨーガの目的「神との合一」は「梵我一如」と同じものではないかとも思ったりします







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from: hikaru0827さん

2010年04月04日 19時27分57秒

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「Re:Re:Re::Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ


確かに、警察犬、盲導犬、サラブレッドなど、人間の近くで生活している躾られた動物は、より理性的な感じは受けますね。

ちなみに、他人の為に、行動するのは人間だけではないようですよ。
猿が、エサを手に入れる為の道具を、他の猿に貸し与える行動が確認されています。


それにしても、よく勉強されてます。
世界観も簡単には揺るがないほど、しっかり確立されています。



一つお尋ねします。
野原の虫が、死んだ父の生まれ変わりかもしれない、というような、種の垣根なく転生する説は、釈尊の時代からあったものですか?

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from: にしき鯉さん

2010年04月02日 20時43分36秒

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「Re:Re::Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
hikaru0827 さんへ

おもしろい観点ですね、そういう風には考えませんでした

<①  果たして「弱肉強食の食物連鎖」の世界は、悲しみ苦しみ恐怖の顕れなのか?>
②<  また、飼われている動物(ペットとか)は幸せなのか?>①に対する考えです

そうではありません、動物に転生する魂はそれなりの理由があります
まず「無知」、ここでいう無知とは物を知らないという意味ではありません
曖昧にすることに喜びを感じると取ってください
猫がじゃれる、犬が掻ける、単純な行動に喜びを見出します

あと、自分本位です、他のために行動するというのは人間以上の世界の住人だけです
(もちろん、そうではないように見える魂の人間もいますが、、)

仏教の転生感ではカルマは重さなんです
魂についてる重りみたいな状態です、死後、閻魔さまが裁くというのは一つの表現であって実際は違います
実は自分自身で決めているんです、

中有(死後の中間状態)にある魂が何を求めると思いますか?
慣れ親しんだ一つ前のの世界が一番自分に安心を与えるんです

そうすると一人になった時の人間の欲するものは何でしょう
セックス・食欲・独占欲・プライドいろいろ欲しいものがあります
私たちの世界では「セックスは子孫繁栄」「食欲はグルメ」「プライドは誇り」と言葉を変えて肯定されます
それを求めるんです、人間であった魂は、、、

チベット仏教では中有からビジョンを見てそこに飛び込むとそこが転生先と言っています

そうだとすれば皆人間以上に生まれたいですよね
でも、カルマの重さは非情なんです、人間世界と動物世界はすごく近いんです
人間世界の「一家団欒」のビジョンを見て飛び込んでも行ってみるとサルの世界の「一家団欒」ということになってしまうんです
(「徳」が上昇する力、「悪業」が下降する力と考えてください)

動物の世界もセックスはあります、食欲も(どの獲物が美味いか不味いか)好みはあります、ではどこで人間と動物に別れる分岐点があるのでしょうか

一つは知性、宗教性というか、哲学性というか、論理の幅を広げる心です
もう一つは「一般に言われる本能」に忠実でないという事です
人間は自分をコントロールする力が動物より優れているんです
肉体が弱い分だけ頭脳が発達しているんです

そして、たまたま、この地球上では人間が支配しているだけで
もっと「力」の強い動物が沢山いれば又違う社会が作られると思います

②に対する考えです

同じ動物で「どちらが幸福か?」はわかりません

ただ、一生を通じる行為は間違いなくペットの方が上です
なぜなら上の世界に行くことを「幸福になる道」と定義するなら
ペットは他を害する行為が野生と比べて断然少ないです

人間と一緒に暮らす事によって安心感や信頼感が養われます
気にいらない事があっても我慢する事を強制的に覚えさせられます

もちろん野生には野生の良さはありますが「転生」を考えた場合に野生は「自然界のルール」に反してはないが堂々巡りの転生だと思います
・・・・・・・・・・・

<よく聞く話ですが、食べられる野菜、動物は、「食べられる」事で、今生最後の社会貢献(功徳)をし、食べた側の感謝の念いに、満足し、喜びを感じる、と。>

野菜はわかりませんが動物はあきらめる事はあっても喜びはないと思います
ただ人生(獣生)の途中で殺された場合、当然多大なカルマの清算は起きると思います

<私達より、高いレベルで「死」を覚悟出来ているのかもしれません。>

それは「覚悟」というより「動物なりのルール」を本能で理解しているんではないでしょうか?

<しかし、動物園の檻の中に居る彼らはどうでしょう。
小さな籠に入れられた小鳥はどうでしょう。
野生を除かれ、与えられるエサをもらうだけの彼らは幸せなんでしょうか…。>

不幸です、自分の生が自分で決められない、これが一番の不幸だと思います、野生の動物はなるべくして野生に生まれた
だったら野生で戦って死なせて上げたい、これが自分の気持ちです

もちろん、「カルマの清算」を考えて修行の道に入れるためにオリならば反対はしませんがそんな事はありえません





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from: hikaru0827さん

2010年04月02日 17時12分35秒

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「Re::Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
●ueyonabaruさんへ

>「あなたもご存知のように、悔い改めというのは、あくまで予備的な段階にすぎず、それによってすべての苦しみから解放されるわけではないのです。神は、単なる口先の約束だけでは満足しません。実際の行為によって、善に戻ったいうことをきちんと証明しなければならないのです。・・・・・・」 


よく分かります。
三世を見通すと、そのようになるのですね。

引用、紹介、ありがとうございました。



●にしき鯉さんへ


> そういう意味で弱肉強食の世界は食物連鎖の輪から抜けれないんです(恐怖に覆われている間は真理は見えないんです)
> そんなところに動物の悲しさがあります
>
> まれに徳のある魂が「輪」からはずれてペットに生まれてきます


以下の2点、気になります。

①  果たして「弱肉強食の食物連鎖」の世界は、悲しみ苦しみ恐怖の顕れなのか?

②  また、飼われている動物(ペットとか)は幸せなのか?

です。

どうしたって、人間視点にはなりますが、出来るだけニュートラルな心持ちで考えたいと思います。


①について…

よく聞く話ですが、食べられる野菜、動物は、「食べられる」事で、今生最後の社会貢献(功徳)をし、食べた側の感謝の念いに、満足し、喜びを感じる、と。

これこそ食べる側のご都合主義な想像かもしれませんが……。
しかし、「食べられる」事に対して、彼ら動植物は私達よりはるかに高い耐性を持っていると感じます。

チータに追われるインパラは必死に逃げますが、捕まり首を押さえられると、観念していて、私ら人間ならあり得ない程冷静に見えます。
感情を表現する機能は低いですが、パニックになっている様子ではありません。
食べて食べられる、自然界の掟を、承知して受け入れているように見えるのです。

私達より、高いレベルで「死」を覚悟出来ているのかもしれません。

とはいえ、彼らが時折見せる「脅え」を見ると十把一からげには出来ませんが…。
死を受け入れ、覚悟を決める動物と、死や殺傷に恐怖を感じ苦しむ動物とは、何が違うのだろう…という疑問は持っております。

ともあれ、食物連鎖という大自然の調和の中に生きる彼らを見ていると、恐怖の渦から抜け出せない姿だけではないように見えるのです。


②について…

確かに、飼い主から充分な愛情を注がれているペットは幸せかもしれません。
犬や猫は番犬家猫としての、牛や豚は家畜としての歴史があります。

しかし、動物園の檻の中に居る彼らはどうでしょう。
小さな籠に入れられた小鳥はどうでしょう。

野生を除かれ、与えられるエサをもらうだけの彼らは幸せなんでしょうか…。

私は、安全が確保され飢えの心配のない生活をしている彼らより、たとえ命の危険があろうとも、厳しい自然界で生きる姿に「生きる美しさ」を感じます。

彼らの、危うく懸命な「生」を目の当たりにした時、生命力を感じ、感動を覚えたりするのです。

ですので、野生とペットを、食物連鎖の輪の内外という観点から優劣を分ける事には疑問を感じます。

それぞれにカルマがあり、それぞれに必要な学びがある、という事かもしれません。



> 今の世の中は弱い動物を殺すことに喜び、悦に浸っている人間がいます
> この者は地獄にいくのでしょうか?
>
> いいえ、間違いなく動物の食われる側の世界に行きます


私個人は、「動物の、食われる側にセッティングされた、地獄」に行くという事だと思っています。


> 仏教の「六道」という考え方はこういった「行為」の反映の世界で
> 総ては自分の中に内在してるものだと説いています
>
> 輪廻はランダム転生ではなくサイクル転生でもありません
>
> 地獄に行く要素を、餓鬼になる要素を、動物になる要素を人間皆が持ってるといい続けます


おっしゃる通りだと思います。
「動物になる要素を人間皆持っている」という事も、
一念三千の観点から、人は動物的思考に偏る過ちを犯す危険がある、という点。
動物的思考に偏った人は、その心にあった姿になってしまうという点で、同意出来ます。


> カルマは総ての魂において平等だと思います


動植物含め、全ての魂は仏性を持ち、カルマの法則というルールの下に生きているという考え方は、にしき鯉さんと全く同意見です。

ただ、基本的ルールは同じだけど、プレイしているフィールドは、互いに違うのではないだろうか、と。
種の違いや、進化の段階に応じたプレイフィールドがあるのではないか、と私は思うのです。

これは、「魂の属性」に対する認識の違いなんでしょうか。

最近、万能細胞の話題も聞きますが…。
まさに万能細胞のように魂はカルマに従い、自在に種を変えるのか?
それとも「属性」を持っているのか?
というところの違いでしょうか。

今私が思うのは、

『究極的には魂は万能だが、通常は生活修行の都合上属性を有している』

という感じです。

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from: にしき鯉さん

2010年03月30日 23時37分48秒

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「:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
hikaru0827 さんへ

素晴らしい、心が揺さぶられました

<しかし、蝶には蝶の幸せがある、と言われています。
私らには感じる事が出来ない幸せを彼らも持っています。
人と蝶の幸せに優劣という事はいえません。
私達と学んでいる課程が違うのかもしれません。

とすると、私達の精神性や世界観と同じステージに彼らを当てはめようとする事も、また私達の思い上がりだといえないでしょうか。
犬には犬の、蝶には蝶の世界がある、と考える事は、区別されながら、平等でもあるとも考えられませんか?>

その通りです
生き物は与えられた生命の中で生きがいを感じるんです

鳥は飛ぶことが喜びであり子孫を残す事が本能です
ライオンは餌をとる事と子孫を残す事が喜びです

捕食する時に善悪は考えません、いえ、善悪と言うのは人間の判断基準です、
動物にとっての判断は自分に害をなすものか、そうでないものかの二つです

そういう意味で弱肉強食の世界は食物連鎖の輪から抜けれないんです(恐怖に覆われている間は真理は見えないんです)
そんなところに動物の悲しさがあります

まれに徳のある魂が「輪」からはずれてペットに生まれてきます
しかし、能動的には輪廻からは抜けられません
死を境にしてジャンプするのがやっとだと思います

では人間はどうでしょう、皆さんの周りにいませんか?

自分に害をなす者からはひたすら逃げるという人、、、
動物は人間に食われるために生まれているんだと思ってる人、、、
自分らは人間だから何をしてもいいという心を持った人が、、、

動物の要素をたくさん持った人が何故人間に生まれる理由があるのでしょう?

今の世の中は弱い動物を殺すことに喜び、悦に浸っている人間がいます
この者は地獄にいくのでしょうか?

いいえ、間違いなく動物の食われる側の世界に行きます
(あくまでも普通の生活をしてこの部分だけが特化していた場合)

仏教の「六道」という考え方はこういった「行為」の反映の世界で
総ては自分の中に内在してるものだと説いています

輪廻はランダム転生ではなくサイクル転生でもありません

地獄に行く要素を、餓鬼になる要素を、動物になる要素を人間皆が持ってるといい続けます

そしてそこから抜け出す方法を「真理の道」と言っています
思索的に理解することを「悟り」物理的に転生をコントロールできることを「解脱」と言います
・・・・・・・・・
<犬には犬の、蝶には蝶の世界がある、と考える事は、区別されながら、平等でもあるとも考えられませんか?>

カルマは総ての魂において平等だと思います















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from: ueyonabaruさん

2010年03月30日 18時36分14秒

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「反省と償い」
hikaruさんみなさんへ


> ○獄霊と反省について
>
> どうも反省という言葉を安易に使っていたようです。
> 霊界は「念い」の世界である、と言われています。
> しかし「おもい」という言葉は、日本語でも「思い」「想い」「念い」と色々あります。
> 思い→想い→念い、という順に、その強さや指向性が強まっているものと思います。
>
> 地獄に堕ちた霊が、「悪いことしたな」と思ったぐらいでは上には戻れないでしょう。
> 言われるとおり一過性のものであったりするからです。もっともっと強い「念い」でなければならないでしょう。
>
> 自分の何がどう間違っていたのか、完全に腑に落とさねばなりません。
> そして、心底詫びる気持ちが起こり、はらはらと涙を落とすような心境になって上に戻れるのではないかと思います。
> 地獄霊が、再び光輝く魂となるには確信的な気づきと、その安定が必要です。

 アラン・カルデックの本「霊との対話」(幸福の科学出版)に次のような事例があります。



 ① この方は、数世紀前にある国の王として生まれており、暴君として生きてきた。

 ② 死後は250年のあいだ霊界でさ迷うことになる。それだけ長い時間をかけて、地上に生まれ変わる本当の目的を理解することができた。

 ③ その後、諦念、反省、祈りを通して、物質界にもう一度生まれ変わり、自分が人民に与えたのと同じ苦しみを、あるいはそれ以上の苦しみを、耐え忍ぶという試練を与えていただいた。・・・・・
天使たちに助けていただきながら、地上で、「善を行う」という決意を貫き生きてきた。



 詳しくは実際に本を読まれることをお勧めしますが、簡単にまとめ考えてみたいと思います。①は、この方のある時代(前世)における生き様ですね。悪因を重ねております。 ②は悪因の結果としての地獄における苦しみとそこでの最終的な気づきです。気づきとは、地上に生まれることの意味を知ることと言っております。 ③は、今世における償いについて述べております。苦しい中で人のためにこの方は生き抜きます。償いといいあがないをしたと言っております。


 この例からすると、罪を犯す → 地獄に行く(来世の生き方を決める) → 天国に還り、反省する → 再びの転生(償いの人生をいきる) → 天国に還る  という具合になるようです。

 にしき鯉さんがおっしゃるように、反省すればただちに救われるものではないようです。同書の、156Pで、ある霊が次のような言葉を言いますが、これは参考になります。

「あなたもご存知のように、悔い改めというのは、あくまで予備的な段階にすぎず、それによってすべての苦しみから解放されるわけではないのです。神は、単なる口先の約束だけでは満足しません。実際の行為によって、善に戻ったいうことをきちんと証明しなければならないのです。・・・・・・」 


  

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from: hikaru0827さん

2010年03月30日 01時00分44秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さん・ueyonabaruさんへ


○獄霊と反省について

どうも反省という言葉を安易に使っていたようです。
霊界は「念い」の世界である、と言われています。
しかし「おもい」という言葉は、日本語でも「思い」「想い」「念い」と色々あります。
思い→想い→念い、という順に、その強さや指向性が強まっているものと思います。

地獄に堕ちた霊が、「悪いことしたな」と思ったぐらいでは上には戻れないでしょう。
言われるとおり一過性のものであったりするからです。もっともっと強い「念い」でなければならないでしょう。

自分の何がどう間違っていたのか、完全に腑に落とさねばなりません。
そして、心底詫びる気持ちが起こり、はらはらと涙を落とすような心境になって上に戻れるのではないかと思います。
地獄霊が、再び光輝く魂となるには確信的な気づきと、その安定が必要です。

しかし、被害者の念いというものもあります。
被害者の苦しみや憎しみや悲しみが癒えない間は、良心の呵責という点からも天界には戻れないかもしれません。


○日々の反省について

一念三千という言葉がありますが、人の心は色々な方向を指し示します。
いつもいつも正しい方向ばかりではありません。

釈尊は「反省」を説かれました。
間違った事を考えても、その日のうちに自省し、修正する事をせよ、ということではないでしょうか。

反省を繰り返す内に、修正のスピードも上がってきます。一日の最後に反省していたことも、誤った次の瞬間に反省が出来るようになり、最終的には誤らないというレベルに達するかもしれません。

間違った心の針が、修正されずに長い時間指し続け、固定化してくると、同じ波長の地獄霊と同調してしまう、という事でした。


○「薫重」という言葉を幸福の科学で教わりました。
薫は燻製の薫でしょうか。重は重ねるですね。
つまり、何度も何度も繰り返し、そのうちにその身に沁み込むように身についてくる事だと記憶しています。
そして良き習慣が、薫重されれば、それは魂の実力が一段上がったという事だという話でした。たぶん。

一念三千といえど、その心の指向性や思い癖を、日々の修行にて良い方向ばかり向くように薫重していかねばなりません。



●つまり「日々の反省」という場合の「反省」と、地獄霊が改心する場合の「反省」とはどうもニュアンスが違うようです。


地獄霊の「反省」は、ぽっと思い浮かぶ程度の反省ではなく、まさに薫重の場合と同様に長い時間をかけ、徹底的にその心の過ちを修正し、不退転のレベルに達する事なのだろうと思います。



○輪廻

人間と動物は、その魂は、輪廻の過程で、区別はないとの見解ですね。
エネルギー不変の法則から、魂の存在を説くアプローチはおもしろいと思います。

確かに、映画に取り上げられるような犬は、その映画の影響力によって、人々を幸せに向かわせる事はありそうです。

人間だけが特別だとするのは思い上がりだ、という言葉も、その通りだと思います。

しかし、蝶には蝶の幸せがある、と言われています。
私らには感じる事が出来ない幸せを彼らも持っています。
人と蝶の幸せに優劣という事はいえません。
私達と学んでいる課程が違うのかもしれません。

とすると、私達の精神性や世界観と同じステージに彼らを当てはめようとする事も、また私達の思い上がりだといえないでしょうか。
犬には犬の、蝶には蝶の世界がある、と考える事は、区別されながら、平等でもあるとも考えられませんか?

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from: ueyonabaruさん

2010年03月27日 18時17分15秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ



> ueyonabaru さんのいう「永遠の時間」がどのくらいの事を言っているのかがわかりません
> 「悠久」という言葉がありますがこれとて人間の概念で計り知れない時の長さを表現したもので明確な時間単位があるわけではありません
>
> 「無限」や「悠久」はわからないものに対する一つの表現ですが
> 宗教ではこれを使いすぎる傾向があります
> だから難解といわれるものは神秘性が増すのかも知れませんが、、

 宗教は、「無限」や「悠久」という言葉をよく使いますね。

 ここで私が、無限の時を経て動物も仏になると言うときは、相当に相当に長い時間という意味で使っております。動物が悟るというのは感覚的に身近に分かるものではありませんが、生き物はすべて進化するというのが宇宙の法則であるのであれば、動物とて成仏は可能ではないかと、論理的に考えた次第です。



> <霊界の実相界といわれるところでも、そのような弱肉強食の世界が展開しているのかということを考えてみるのです。生長の家の唯神実相論では、このような弱肉強食の世界は、ホントに存在するものではない、ホントの世界、すなわち実相の世界においては、ライオンはシマウマを食わないのであると説きます。>
>
> そうなんですか、それは初めて聞く話です
>
> では仮の世界である現実界では弱肉強食はあたりまえにあって
> 実相界である霊界はライオンもシマウマも仲良く暮らしているのでしょうか?

 生長の家を仏教的側面から見れば、大乗仏教の最たるものの代表でしょう。実相の世界について、谷口雅春師は、ライオンもシマウマも仲良く暮らす世界だとおっしゃいました。これは、法華経の説く世界と同じものとしております。ライオンがシマウマを食うのはこの世だけの現象ということです。
 


> ueyonabaruさんは想念の世界だから食べなくても平気なんだというかも知れません
> しかし、心というものは常に変化しています
> 実相の世界は「物欲」も「支配欲」も「性欲」も起きてこないと考えるんでしょうか

 実相の世界とはすなわち霊界のことではありません。霊界の下次元(4次元、5次元)では物質的な、この世的な感覚は幾分か残っており、本質的に物質はないということは皆知っているが、それでも、この世の農業、製造業、操縦士のようなことをやっているという世界のようです。性欲については、肉体がないのですから、肉体を直接求める快感はありえませんが、これに似たような快感をもとめるようなことはあるかもしれません(詳細は知らず)。同じく四次元にあって、執着霊や地獄霊が三次元の人間に取り付き、この世的な性欲、飲酒欲、食欲を満足させる行為をするのとは違うようです。

 支配欲については、自分自身が霊であることは承知しておりますので、この世的な支配欲ではないでしょうが、霊であっても他のものに影響を与えられるものでありたいという願望はやはりあると思われます。競争心は消えないのではないかと思います。




> それでしたら現実界に生まれる必要は全くないのでは、、、
> それはすでに「仏」の世界であって転生する意味もなくなると思います

 実相界という言葉は、霊界的にどのあたりを指すかについては、大川先生はどこかでおっしゃっておられますが、いまは思い出せません。多分7次元の上の方からではないでしょうか。そこは悟りを得た菩薩達の住む世界であり、荘厳な世界であることは言うまでもありません。霊界でも、5次元、6次元でも、この世の世界と比べ物ならないほどの美しさがあるということです。

 他律的に輪廻転生の循環をさせられるのは、たしか6次元の住人以下の者達ではなかったでしょうか。菩薩界、七次元の者達は、意識的に修行のため、この世に下りてくるようです。それ以上の者達は、人類の救済など大きな目的を持って転生してくるはずです。





> <人間が再度の転生で、動物に生まれてくるのは例外的なものであり、カルマの法則に基づき、頻繁に、動物にも生まれ人間にも生まれるということはないと思います。>
>
> 自分の考えに一番近い見解を他のブログから引用です
>
> ↓      ↓       ↓
>
> 何が輪廻するのか、それはこころだ、とスマナサーラ師は言われる。
> エネルギー不滅の法則が示すように、物質は消えない。
> 「物質は形が変わったとしても消すことはできません。だから、私が死んでも、この身体は遺体として残る。灰になるなりして、この地球に残るのです。」
>
> 同じように、こころにもエネルギー不滅の法則が当てはまると、スマナサーラ師は言う。
> 「こころは瞬間的に変化していく巨大エネルギーです。」
>
> 「もしこころのエネルギーが地球に留まったら、そのへんにある物質を掴まえて形をとります。私たちのこころのエネルギーが天国に行ったならば天国にあるそれなりの物質を掴まえるのです。犬の身体に入ったならば、その物質をもらって犬になる。死という瞬間にこころが消えたら、どこかで新しいこころが生まれる。必要な物質はその生まれる場所からもらうのです。」
>
> ちょっとニュアンスが違いますが大筋で自分は同意します


 心をエネルギ-に例えることもできるでしょう。心は己のあるところの世界にある物質や幽体、その他をとらえて自己の活動する際のボディ-にするというのは、そうに違いありません。幽界にあっては、幽体をまとい活動するという具合にです。

 しかし、「犬の身体に入って」という表現ですと、あたかも犬に憑依するという感じがありますね。心が、物質界にある場合には、必ずしも犬ではなく、大方は人間でしかないでしょうというのが私の考えです。私は、忠犬ハチ公などは、人間が犬に憑依したかのようにも思えますし、あるいは、稀有な霊として、犬に生まれ変わった人間なのかと思ったりもします。シ-トンの動物記にあるような、犬の人間に近しい習性の表れかもしれません。

 人間に生まれたことのありがたみを知らないものが、犬などに生まれ変わり、反省させられるというのは、私には受け入れられる考え方です。それでも、短い間のことではないかという感じがありますが・・・・・。 

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from: にしき鯉さん

2010年03月27日 00時57分38秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
ueyonabaru さんへ

丁寧なお答えありがとうございます

<ある動物が永遠にそのままであるということもありうるのでしょうか?なんらかの変化が生まれることはないでしょうか?動物でも進化というのはあるのではないでしょうか>

進化は肉体の進化と魂の進化があると思います
肉体は環境の適応や生命の維持のために進化するのではないでしょうか(これは個人的見解です)

魂は精神の持っていく方向性で変化する、それを「高い世界」「低い世界」とあてはめれば「仏の世界」は進化した世界といえると思います


ueyonabaru さんのいう「永遠の時間」がどのくらいの事を言っているのかがわかりません
「悠久」という言葉がありますがこれとて人間の概念で計り知れない時の長さを表現したもので明確な時間単位があるわけではありません

「無限」や「悠久」はわからないものに対する一つの表現ですが
宗教ではこれを使いすぎる傾向があります
だから難解といわれるものは神秘性が増すのかも知れませんが、、

・・・・・・・・・

<霊界の実相界といわれるところでも、そのような弱肉強食の世界が展開しているのかということを考えてみるのです。生長の家の唯神実相論では、このような弱肉強食の世界は、ホントに存在するものではない、ホントの世界、すなわち実相の世界においては、ライオンはシマウマを食わないのであると説きます。>

そうなんですか、それは初めて聞く話です

では仮の世界である現実界では弱肉強食はあたりまえにあって
実相界である霊界はライオンもシマウマも仲良く暮らしているのでしょうか?

ueyonabaruさんは想念の世界だから食べなくても平気なんだというかも知れません
しかし、心というものは常に変化しています
実相の世界は「物欲」も「支配欲」も「性欲」も起きてこないと考えるんでしょうか

それでしたら現実界に生まれる必要は全くないのでは、、、
それはすでに「仏」の世界であって転生する意味もなくなると思います
・・・・・・・・・・・・

<人間が再度の転生で、動物に生まれてくるのは例外的なものであり、カルマの法則に基づき、頻繁に、動物にも生まれ人間にも生まれるということはないと思います。>

自分の考えに一番近い見解を他のブログから引用です

↓      ↓       ↓

何が輪廻するのか、それはこころだ、とスマナサーラ師は言われる。
エネルギー不滅の法則が示すように、物質は消えない。
「物質は形が変わったとしても消すことはできません。だから、私が死んでも、この身体は遺体として残る。灰になるなりして、この地球に残るのです。」

同じように、こころにもエネルギー不滅の法則が当てはまると、スマナサーラ師は言う。
「こころは瞬間的に変化していく巨大エネルギーです。」

「もしこころのエネルギーが地球に留まったら、そのへんにある物質を掴まえて形をとります。私たちのこころのエネルギーが天国に行ったならば天国にあるそれなりの物質を掴まえるのです。犬の身体に入ったならば、その物質をもらって犬になる。死という瞬間にこころが消えたら、どこかで新しいこころが生まれる。必要な物質はその生まれる場所からもらうのです。」

ちょっとニュアンスが違いますが大筋で自分は同意します

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from: ueyonabaruさん

2010年03月26日 19時30分17秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ



> 犬の魂と人間の魂については差別というより区別と考えます

 差別観でみるには、たしかに無理があるように思いますね。相当に違いがあるように思えます。しかし、ある動物が永遠にそのままであるということもありうるのでしょうか?なんらかの変化が生まれることはないでしょうか?動物でも進化というのはあるのではないでしょうか。進化の極は仏になることですが、永遠の時間を経て、動物でも仏になれるとしておきます。少し、論理的に考えてそのようにしました。




> 現世は「カルマと縁」によって現象化したものと考えると一匹の犬が未来において修行に入り多くの人を救う魂になる事もありうる話です

 私には、このようなことは、永遠の時間を経てしかありえないことだと思います。



> もし、人間は人間、犬は犬の魂から抜けれない状況が未来永劫続くならそれは地獄に等しいと思いますよ
> 考えて見て下さい、
> ライオンの餌となるシマウマが食い殺されたら、又生まれ変わってシマウマとなる、それなら食われるために生まれ変わるのですか?

 シマウマとライイオンの弱肉強食の関係が、この世で未来永劫にわたり継続していくことなのかどうかは分かりません。しかし、このような悲惨な現実は霊界を含めた世界観でみるとどうなのでしょうか。

 霊界の実相界といわれるところでも、そのような弱肉強食の世界が展開しているのかということを考えてみるのです。生長の家の唯神実相論では、このような弱肉強食の世界は、ホントに存在するものではない、ホントの世界、すなわち実相の世界においては、ライオンはシマウマを食わないのであると説きます。

 このような世界観について、どのようにお考えになりますか。

 


> シマウマだって恐怖はあります、ライオンだってエサを取らなければ「死」に直結です、「自然の摂理」という言葉で未来のかなた地球がなくなるまで恐怖と戦うのでしょうか?
>
> hikaru0827さんの意見に「魂の修行のために生まれてくる」とありました(それは認めます)
> そういう魂もあると思いますが多くの魂はそうではないと思います
> そういった理由で人間の魂を特別視する事に対しては反対です

 人間の魂は、動物の魂とは相当に異なるように思います。動物の魂の進化を認めますが、相当な時間を要するのではないでしょうか?


> 私は転生する時点でカルマの重さと心の傾向で動物になるか人間になるか決まると思っています
> 人間だけが特別だと思っているならそれは「思い上がり」だと考えます
> 私は「カルマの法則」においてのみ魂は平等だと思います
> ご意見お願いします

 人間が再度の転生で、動物に生まれてくるのは例外的なものであり、カルマの法則に基づき、頻繁に、動物にも生まれ人間にも生まれるということはないと思います。

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from: にしき鯉さん

2010年03月25日 20時02分15秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
ueyonabaruさんへ

平等観と差別観について

<人間は仏の子として共通という平等観があり、また高い境地にあるものとそうでないものがあるという差別観があります。>

日本では「仏の子」として平等と確かにうたっています
しかし、それは大乗の表現としての言葉です

仏教を広める段階で釈迦の説いた事とあまりに現世の状況が違いすぎるので「仏の子」=平等となったのではないでしょうか

正しくは「仏と同じ仏性を内在している」というのが伝統的な解釈であり私も正しいと思います

・・・・・・・・・・・

犬の魂と人間の魂については差別というより区別と考えます
確かに犬が「今の生」で釈迦と同じ悟りを得る事はできません

それは犬の脳の仕組みと人間の脳の仕組みの違いでもあり
思考能力の差であると考えます

現世は「カルマと縁」によって現象化したものと考えると一匹の犬が未来において修行に入り多くの人を救う魂になる事もありうる話です

もし、人間は人間、犬は犬の魂から抜けれない状況が未来永劫続くならそれは地獄に等しいと思いますよ
考えて見て下さい、
ライオンの餌となるシマウマが食い殺されたら、又生まれ変わってシマウマとなる、それなら食われるために生まれ変わるのですか?

シマウマだって恐怖はあります、ライオンだってエサを取らなければ「死」に直結です、「自然の摂理」という言葉で未来のかなた地球がなくなるまで恐怖と戦うのでしょうか?

hikaru0827さんの意見に「魂の修行のために生まれてくる」とありました(それは認めます)
そういう魂もあると思いますが多くの魂はそうではないと思います

そういった理由で人間の魂を特別視する事に対しては反対です

私は転生する時点でカルマの重さと心の傾向で動物になるか人間になるか決まると思っています
人間だけが特別だと思っているならそれは「思い上がり」だと考えます
私は「カルマの法則」においてのみ魂は平等だと思います

ご意見お願いします

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from: にしき鯉さん

2010年03月24日 23時51分35秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
> そして例に出した「秋葉原事件の犯人」は地獄にいったとしたら殺した人間の数だけ殺される苦しみを追わなければ清算(刈り取り)されないと思います(たとえ、心から反省していても)

 それぐらいの言い方をしても良いかと思います。しかし、これも絶対にそうなると固定的に考えるのも真実ではないのかもしれません。その人の内面の心の状況と密接に関連するように思います。.

その通りです、
しかし内面というのはうつろいやすく薄っぺらなんです

犯人がどれほど反省してると言っても拘置所の中で守られている状況での反省です
警察官に責められ世間に責められれば私だって反省します
しかし、犯罪を犯した時の状況に追い込まれれば又、同じような精神状態になります
犯人を責めているんではありません、人の心はそれほど脆いということなんです

だからこそ宗教では教学を大事にします
「正しい分別」を自分で何度もくりかえす事によってのみ自分の心に根付いていきます
その「正しい分別」のデータがない状況での反省など一過性のものです

だから何度も明確な教学の必要性を説いているんです
一日の内「大川さんの教え」を一時間聞いていても煩悩の世界の情報を23時間受け入れていたら絶対に心は変われません

自分の中で「地獄」をイメージできたら、なにゆえにそこに行く魂があるのか、いかなければならないカルマとは何なのか?

キチンと自分の中で組み立てが出来ていないと「そんなものかな」で終わってしまいます

悪いことをしたら悪いことが帰ってくるという漠然とした言い方では想像の領域を超えられません


ゴールという目標があっても途中の目印がなければ迷うことはたくさんあります
宗教の指導者は弟子が迷わぬように常に弟子を見ていなければならないのです(その点でも政治進出はあまり賛成はできません)

「布施」よりも「崇拝」よりも優先して弟子を高めることがトップの義務です
この宗派に入れば救われるなんて事はありません
教えを受けて自分自身を変えていくのは自分なんです

仏教の三宝帰依はその初歩の段階です
その後に四向四果の流れに入って行きます

http://www.weblio.jp/content/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C
・・・・・・・・・・・・・
平等観と差別観のついては次回にまわします






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from: ueyonabaruさん

2010年03月22日 20時55分23秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ


> < 地獄で「罰」を与えるものは、似た傾向を持つ他の地獄の住人ではないでしょうか。>
>
> そうだと思います、
> 誰かが罰を与えるということではなく同じ傾向を持つ魂が集まる場所だと思います
> 私がなぜ、こういう質問をしたかと言うとあまりにも心(思い)だけが転生を決めるような言い方を感じたからです

 思いだけが転生を決めるという風にお取りになったようですね。そうではないと思います。思いが行為に転じたときに実体性をもつのだろうと思っております。ただし、霊界においては思いがたちまち実現するということですから、思い=行為と考えられそうです。



> 原始仏教では行為について言及しています
> カルマの発生は心から始まり、口の行いで発展(?)して行為に及ぶと考えられています

 私もそのように考えております。



> そして例に出した「秋葉原事件の犯人」は地獄にいったとしたら殺した人間の数だけ殺される苦しみを追わなければ清算(刈り取り)されないと思います(たとえ、心から反省していても)

 それぐらいの言い方をしても良いかと思います。しかし、これも絶対にそうなると固定的に考えるのも真実ではないのかもしれません。その人の内面の心の状況と密接に関連するように思います。



> <地獄の様相を実感として知りえませんが、自分が毎日きりきざまれるとした場合には恐怖と痛み以外の何ものでもありませんね>
>
> これは簡単です、屠殺される家畜のイメージを瞑想すればいいんです
> 又は、保健所に捕獲された犬などでもいいでしょう
> 保健所は安楽死ですが実際に何日後に殺されるかは彼らはわかっているようです
> その恐怖は人間が死を目の前にして何も出来ない状態と似ています

 地獄に行った思われる夢を見たことがあります。ホントに現実感がありました。恐怖心の中で聞こえる、ヤクザの撃つ銃声も現実のものでした。地獄は悪夢のようなものともいいますが、同時に現実感あふれるものではないかと私は思っております。



> 「幸福の科学」では犬は犬の魂、人間は人間の魂と考えているようですが、、、
> 私には哺乳類の仲間内での単に能力の差でしかないと考えています
>
> もし、犬に人間並みの「口を使う知能(機能)」があれば人間のくだらない生き方よりも数段素晴らしい生き方をするかも知れません

 平等観と差別観というのが仏教にはありますね。人間は仏の子として共通という平等観があり、また高い境地にあるものとそうでないものがあるという差別観があります。

 動物と人間の魂の違いにもそのことは当てはまりませんでしょうか。

 

> 真実を知るということは自分を知るということ、自分が「貧」「怒」「痴」に覆われている魂だということを認識できること
>
> そしてそれを遮断する道を知っていること、歩く速度は遅くともかまわない、自分で守れる戒は増やし、守れない戒はなぜ、守れないか思索し自分の意識を変えていく
>
> これが原始仏教の教えであり自分の進む道でありたいと願っています(すこしテーラーワーダから引用しました)


 賛成できます。

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from: にしき鯉さん

2010年03月21日 22時57分12秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
ueyonabaru さんへ

< 地獄で「罰」を与えるものは、似た傾向を持つ他の地獄の住人ではないでしょうか。>

そうだと思います、
誰かが罰を与えるということではなく同じ傾向を持つ魂が集まる場所だと思います
私がなぜ、こういう質問をしたかと言うとあまりにも心(思い)だけが転生を決めるような言い方を感じたからです

原始仏教では行為について言及しています
カルマの発生は心から始まり、口の行いで発展(?)して行為に及ぶと考えられています

そして例に出した「秋葉原事件の犯人」は地獄にいったとしたら殺した人間の数だけ殺される苦しみを追わなければ清算(刈り取り)されないと思います(たとえ、心から反省していても)


<地獄の様相を実感として知りえませんが、自分が毎日きりきざまれるとした場合には恐怖と痛み以外の何ものでもありませんね>

これは簡単です、屠殺される家畜のイメージを瞑想すればいいんです
又は、保健所に捕獲された犬などでもいいでしょう
保健所は安楽死ですが実際に何日後に殺されるかは彼らはわかっているようです
その恐怖は人間が死を目の前にして何も出来ない状態と似ています

「幸福の科学」では犬は犬の魂、人間は人間の魂と考えているようですが、、、
私には哺乳類の仲間内での単に能力の差でしかないと考えています

もし、犬に人間並みの「口を使う知能(機能)」があれば人間のくだらない生き方よりも数段素晴らしい生き方をするかも知れません

・・・・・・・・・・・・・
私たちは苦しみの原理を知っています
悲しみの原理も知っています、でも、それは転生において何の役にも立ちません
本当の「悟り」は他の魂を救う行動を起こさない限り始まりません

私たちは怒った時、我を忘れて周りにあたります
そして後で怒ったことを後悔します、でもそれは転生において何の役にも立ちません

私たちは愚痴をいって自分を慰めます、ストレス解消だといって小さなカルマを積みます
でも、それは転生において何の役にも立ちません

真実を知るということは自分を知るということ、自分が「貧」「怒」「痴」に覆われている魂だということを認識できること

そしてそれを遮断する道を知っていること、歩く速度は遅くともかまわない、自分で守れる戒は増やし、守れない戒はなぜ、守れないか思索し自分の意識を変えていく

これが原始仏教の教えであり自分の進む道でありたいと願っています(すこしテーラーワーダから引用しました)




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from: ueyonabaruさん

2010年03月21日 16時10分55秒

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「Re:Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ


> < 今世で相当に他人を苦しめた人がいたとした場合、この人は地獄に赴き相応の苦しみを他人から受けることになります。地獄で苦しみを与えられて(刈り取り)後、反省がなされれば、やがて彼は天国に移ることになります。>
>
> そうでしょうか?
> 地獄に行く人は苦しみを与えられたら「仕返し」をする事しか考えないのではないでしょうか?

 地獄に行くと、そこでは自身と似たものがその人の周りにはいるはずです。そして、そこで、相手を苦しめたり、苦しめられたりの繰り返しをするのだと思うんです。それが長く続くと、そのような自分の行為が嫌になり、反省することが始まると思われます。意味のないことをしていたと思いはじめるんですね。そこからは向上の方向へ、心の向きは変わるようです。



> そもそも現世には「教え」のたぐいはたくさんあります
> それらに耳をかさないで行動を起こした人が地獄に行くのでしょう

 それはそうです。



> そうすると地獄で「罰」という形で苦しみを与えられたらやはり「怨み」しか心に発生しないのではないのですか
> 現世でも小さい頃から精神的に痛めつけられたら良い方向に心を持っていくのは困難だと思いますよ

 地獄で「罰」を与えるものは、似た傾向を持つ他の地獄の住人ではないでしょうか。

 現世でも、精神的に痛めつけられるばかりの人は、心が曲がり、将来地獄へ堕ちる可能性すらあると思います。



> まして思いの世界(霊界)はもっとダイレクトな気がします
> 想念の世界で苦しみをぶつけられている魂がいつ反省できるのでしょう?
> 拷問に等しい苦痛を受け続けている状態で「天国の心」を持つチャンスがあると思いますか

 苦しみをぶつけられている魂がいつ反省できるかということですが、真理を知るということがないといけませんね。真理を知り、反省もするということでしょうね。反省という行為は、真理を知ること、仏法真理を知ることを前提にしてしか有効ではありません。



> ueyonabaruさんが毎日「針の山」や「血の池」又は「切り刻まれて殺されて行く」状態が続いた時、反省などという心が生まれると思いますか?

 地獄の様相を実感として知りえませんが、自分が毎日きりきざまれるとした場合には恐怖と痛み以外の何ものでもありませんね。これが毎日、毎日繰り返されるとしたときに、地獄でもある気づきがあるのではないかと想像しております。すなわち、切り刻まれるのに死なないという不思議な現象に疑問を感じるというか、何か心中変化が生じそうです。今繰り返されていることはホントのことなのだろうかという疑いというか、気づきのようなものです。

 霊界関係の本を多く読んでいて分からないことばかりですが、自分なりに地獄界脱出のメカニズムなどを考えております。



> 何故、こんな意地悪な質問をするのかと思うでしょう
> それは大川さんの世界観があまりに綺麗ごとづくめだからです
>
> 例をあげます、東京秋葉原の殺傷事件を覚えていますか?
> 交差点で通りがかった人たちを無差別にナイフで刺し殺した事件です
> 犯人は心から反省しているようです(おそらく極刑にはなるでしょうが)
> この犯人が地獄に行って「現世の反省」を持ち続け後悔や反省をしていたら天国に向かうという事でしょうか、それでは「カルマの法則」は成り立たないと思います

 わたしの見立てですが、この犯人はそう簡単に天国へいくということはないと思います。反省はしているということですから、その点は良いのですが、今後犯した罪の償いはこの世でも、必要あればあの世でも果たさねばなりませんね。しかし、仏法真理に目ざめるならば、償いは順調になされ、善因果の機会が今後ないとはだれも言えないと思いますよ。



> 地獄に行く「原因」があるならば徹底的に探求するべきです
> 地獄から天国に移行するならば心がどういう状態になった時、心がチェンジするのか説明して欲しいと思います

 私も勉強中の身ですので、今はこれぐらいの説明しかできません。



> 釈迦がいった「カルマ(業)」というのは身・口・意の行いの事で心の思いを「意」悪口や嘘などの行為を「口」肉体を使ってする行動を「身」としています

 大川先生は、行為といい、行為の記録とおっしゃいました。また、心の傾向ともいっておられます。伝統仏教の分類もあるかと思いますが、大意では同じではないかと推察しております。




> 従って大川さんのいう「国のカルマ」ですが私はこう考えます
> 個人のカルマが「縁」によって集まって表面化している事が現実で血統や民族性がカルマを作るものではないような気がします

 私は、大川先生は、そのような、同様のことを言われたと思っております。私の表現がまずかったのでしょう。
 民族性がカルマそのものという一面もあるのかなとは思います。



> そして今の時点で「幸福の科学」の教えは本当に正しいのだろうか?という疑問を持てなければ他の教えには入っていけないと思います

 他の教えに宗旨か替えをするつもりはいまのところありません。しかし、他の教えに入ることは十分に可能です。他の宗教の教えに同感できるんです。

> ここにいる真摯な方々が「一つの与えられた教え」を追求する気持ちを失わないことを願っています
>
>
>
>

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from: にしき鯉さん

2010年03月21日 13時56分49秒

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「Re:Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
ueyonabaru さんへ

まっすぐ質問に答えていただきありがとうございます

< 今世で相当に他人を苦しめた人がいたとした場合、この人は地獄に赴き相応の苦しみを他人から受けることになります。地獄で苦しみを与えられて(刈り取り)後、反省がなされれば、やがて彼は天国に移ることになります。>

そうでしょうか?
地獄に行く人は苦しみを与えられたら「仕返し」をする事しか考えないのではないでしょうか?
そもそも現世には「教え」のたぐいはたくさんあります
それらに耳をかさないで行動を起こした人が地獄に行くのでしょう

そうすると地獄で「罰」という形で苦しみを与えられたらやはり「怨み」しか心に発生しないのではないのですか
現世でも小さい頃から精神的に痛めつけられたら良い方向に心を持っていくのは困難だと思いますよ

まして思いの世界(霊界)はもっとダイレクトな気がします
想念の世界で苦しみをぶつけられている魂がいつ反省できるのでしょう?
拷問に等しい苦痛を受け続けている状態で「天国の心」を持つチャンスがあると思いますか

ueyonabaruさんが毎日「針の山」や「血の池」又は「切り刻まれて殺されて行く」状態が続いた時、反省などという心が生まれると思いますか?

何故、こんな意地悪な質問をするのかと思うでしょう
それは大川さんの世界観があまりに綺麗ごとづくめだからです

例をあげます、東京秋葉原の殺傷事件を覚えていますか?
交差点で通りがかった人たちを無差別にナイフで刺し殺した事件です
犯人は心から反省しているようです(おそらく極刑にはなるでしょうが)
この犯人が地獄に行って「現世の反省」を持ち続け後悔や反省をしていたら天国に向かうという事でしょうか、それでは「カルマの法則」は成り立たないと思います

地獄に行く「原因」があるならば徹底的に探求するべきです
地獄から天国に移行するならば心がどういう状態になった時、心がチェンジするのか説明して欲しいと思います

・・・・・・・・・・・
釈迦がいった「カルマ(業)」というのは身・口・意の行いの事で心の思いを「意」悪口や嘘などの行為を「口」肉体を使ってする行動を「身」としています

従って大川さんのいう「国のカルマ」ですが私はこう考えます
個人のカルマが「縁」によって集まって表面化している事が現実で血統や民族性がカルマを作るものではないような気がします

そして今の時点で「幸福の科学」の教えは本当に正しいのだろうか?という疑問を持てなければ他の教えには入っていけないと思います

ここにいる真摯な方々が「一つの与えられた教え」を追求する気持ちを失わないことを願っています



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from: ueyonabaruさん

2010年03月21日 01時08分33秒

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「Re:Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
にしき鯉さんへ


> <〇 来世でカルマの刈り取りが行われるが、それでも足りなければ、再来世までもちきたすことがある。
>
> 〇 家族のカルマ、地域のカルマ、国のカルマもある。
>
> 〇 仏教としてのカルマもある。>
>
> これをもっと具体的にお願いします

 先生のご講話を完全に理解できるとは言えませんが、私が理解した内容で書かせていただきます。

 まず、カルマの刈り入れのことです。刈り入れとは償いのことですね。償いとは、悪因があれば悪果を得るということだと思います。

 今世で相当に他人を苦しめた人がいたとした場合、この人は地獄に赴き相応の苦しみを他人から受けることになります。地獄で苦しみを与えられて(刈り取り)後、反省がなされれば、やがて彼は天国に移ることになります。

 その後、天国にあって修行があると思います。そこで、ある程度の心境の高まりが達成された段階で、再び地上での勉強をするためにこの世への転生をすることとなります。

 今回の転生でも、彼の前世のカルマが解消されたかどうかが試されます。もしかすると、同様の種類のカルマを再びつくり上げることも考えられます。

 悪いカルマの例で話しましたが、善のカルマもあるわけで、同様に因果律に従って善果を現してくるわけです。

 家族のカルマ、国のカルマ、仏教のカルマとなんでもカルマがあるというのですね。このような見方は、大変に興味をそそられます。意外な視点です。先生は、カルマとは、行為の意味がある、行為の記録であり、傾向性のことでもあるとおっしゃっておりました。

 ueyonabaru家に生まれた者すべての行為、思いが記録され、集積した結果、ueyonabaru家にはある傾向性が生じてくるということでしょうか。国家にしてもそうであり、仏教というものをとっても同様な原理が働いているということではないでしょうか。



> 一番目の刈り取りの話は輪廻転生的な考えから始まっていると思えます

 そうです。



> そうすると「現世」と「霊界」の二元性の世界観からは遠ざかるような気がしますが、、、

 現世と霊界の往来が輪廻転生の姿ではないでしょうか?



> 二番目と三番目の、特に地域と国のカルマというのは何から始まっているのでしょうか?

 そこに含まれる人間の行為、思いから結果が生じ、その結果からまた更なる結果をもたらすという具合に運動(行為)は生じていきます。これをマクロの視点からみて、結果的にある傾向性をもつということではないでしょうか。地域でも、国家でも。




 これまで書いてきたことは、全て私の現時点での理解でしかありません。皆さんのご批判を仰ぎたく存じます。

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from: にしき鯉さん

2010年03月19日 09時29分54秒

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「Re:大川先生のご講話「カルマとの対決」について」
ueyonabaru さんへ

<〇 来世でカルマの刈り取りが行われるが、それでも足りなければ、再来世までもちきたすことがある。

〇 家族のカルマ、地域のカルマ、国のカルマもある。

〇 仏教としてのカルマもある。>

これをもっと具体的にお願いします

一番目の刈り取りの話は輪廻転生的な考えから始まっていると思えます
そうすると「現世」と「霊界」の二元性の世界観からは遠ざかるような気がしますが、、、

二番目と三番目の、特に地域と国のカルマというのは何から始まっているのでしょうか?
カルマは自己の「思い、言葉、行い」の果報が縁によって具現化したものと解釈していましたが、、、

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