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  • from: ueyonabaruさん

    2008年11月03日 13時42分34秒

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    14歳からの哲学-池田晶子 ② 

     池田さんの「自分はある」のことで、色々と悩んでまいりました。池田さんの思想は正しいことは分かります。表現が、言い回しが邪魔したのでしょうか。しかし、ホントの原因はこちらの認識力の問題でしよう。

     池田さんのことを、理解しがたい私なのですが、真理の探究の方法として、また別のものがあるのでそれについて考えてみたいと思います。生長の家にいたときに学んだものです、仏教的な知見があるかたはご存知のことかも分かりません。こちらは「ない」の方向へ詰めてゆきます。

     物質はない。肉体もない。現象もない。考えている自分もない。考えている自分もないと考えている自分もない。心もない。という具合に詰めて詰めてゆく。そうすると最後にはホントのものがでてくるのだ。それが真我であり、仏性であり神なのだという思考方法です。 この思考方法は私には分かりやすいのです。「ない」を詰めてゆき、「ある」に到達するやり方なんですね。

     池田さんはこれとは逆方向に「ある」の方向で詰めてゆくように思われます。その詰まりは、「ないと考えている」自分があるのだということなのですね。 両方の思考法ではともに「ある」に結論するということになるでしょう。

     この「ある」という結論は正しいと思っております。しかし、別の考え方をしてみましょう。このように思考する主体そのものが、消滅するという考えです。消滅の可能性があるかということです。
    これをあるとする考えを私はもっています。人間が神の創造に依るのであれば、これを消滅させることもまた可能であるとするのは、論理的には正しいと思われます。
     ここで、信仰のことが主なる命題として浮かび上がってくるのではないでしょうか。愛である神は人間を消滅させることはなさらない、という信仰。また、悟りの境地で知りうる仏の意志は何なのか。等々。西田幾太郎が到達した「主客合一」の境地などもそうなのかと想像します(西田幾太郎は未読)。

     信仰者は、神を信じることにより、また仏教者は悟りにより、この消滅という恐ろしい概念から脱却できるのではないでしょうか。
     神をないということを信じたものは、そのような世界(地獄界)にゆきそこで迷うのでしょう。

     哲学的な観点から、消滅を考える者を間違っているとして論を展開するのは当然の作業ではありましょうが、これで多くの人々を救うことは難しいと思えます。効率的な救いの方法は、やはり正しい宗教理論で、誤った恐れ(消滅を考えて明るい生活ができない)をもつ人々を救いとってゆくことでしょう。

     まとめると、神は人間を消滅させるとはできるが、そうなさらないという信仰が大切だということです。神をおそれるということは、大切な考え方だと思います。神は人間を消滅させることができるのですから。
     

     

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コメント: 全4件

from: ueyonabaruさん

2008年11月05日 14時04分17秒

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「Re:Re:Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子 ② 」
論理学となると勉強もしておりませんので、良く分かりません。メタ構造という言葉など初めて聞きますが、追々教えて下さい。論理という言葉は、理屈のことなのだと考えているだけです。
> 最初に考え付くのは、論理学の根本的な欠陥のことです。
> 上の命題は、そもそも論理学的には決定できないものかも知れません。
> ぼくとしてはそうであって欲しいのですが、これはメタ構造の論理とでも云うような考えを構築しなければ解決できそうもありませんね。

 あの世のことも分からないことですね。分からないとして放ってもいけないので、どのようなかたちだろうかと、推測はしたくなります。天国も、地獄も少しは身近に感じられるように、この世の言葉で表現できるだけでもいいから表現したいと思います。過去に、リアリストさんとの議論で、地獄について、それは悪夢ようなもので、それでいて実感のあるものと表現をしたことがあります。この点についてもいずれご意見をお伺いしたいと思います。
> この世のパラダイムは時系列の論理でなりたっているようですが、なんでもありのあの世をこの世の論理で理解するのはほんとうにややこしくてかないません。

 イデア論ですが、仏教の自性論というものがありますので、これを調べてから、話し合いたいと思います。
> 池田さんがしつこく言っている「その言葉の意味」と云うのもイデアのことですが、夢の中では言葉は要りませんものね。
>

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from: hiraokaさん

2008年11月05日 00時41分46秒

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「Re:Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子 ② 」
ueyonabaruさん、こんばんは。

とても、安心しました。
やはり、ueyonabaruさんはすごく進んだ方だと思います。

>絶対神が直接世界をつくったのではなく、混沌としたものがあった(創った)ものからつくったとか、複雑な過程を想定してます。

プロティノスが流出説と云われるものを主張していますね。
ものすごく考えつくした上での結論だったのだと思うんです。
一般的に「神が万物を創りたもうた」でみんな納得しちゃうんですが、「あれっ、これじゃおかしいぞ?」って思う人もいるんですよね。
だって、神は完全無欠なはずだから、それだけで自己満足にひたっていられるはずだ。
だとしたらなんで人間生命みたいな不完全なものを創造したんだろう? って・・・・・

それで、自然界は神からあふれ出てきているものだと云う考えを思いついたようです。
これは、あくまでぼくの解釈です。

>三位一体の考え方など、カトリックの教義の基となっていったのでしょうね。
この三位一体の解釈も教会がどうしてもわからなくて、結局わけのわからない教義になってしまったように思います。
イエスが「父はすべてを許したもう、だが聖霊はゆるしてくれない」と云ったからです。
これこそ時代の制約による言葉の限界だと、ぼくは思います。

イエスの時代には今のような自然科学の概念が無いので、自然現象をすべて聖霊のなせることと思っていたのだと思います。
だとすると、父と子と聖霊」ではなくて、「父と子と自然法則」がより正しいと、ぼくは思っています。

> 論理的に正しいと思います。可能ではあると思います。これを言うのには躊躇しました。こんなことを言うようでは悟りからほど遠いと言われるかも知れません。

まさか、ぼくがueyonabaruさんより悟っているなんていうことは、ぜったいにありません。ぼくも、よくわからないんです。
わからないけれど、きっとこうなんじゃないだろうか・・・と思っているだけなんです。


さて・・・、
>論理的に正しいと思います。可能ではあると思います。
このことなんですが・・・、

1)「神が私を消滅することもある」と言う『意味』は正しいか?」と云う命題と、

かたや、
2)「神が私を消滅することもある」と言う『事実』は正しいか?」と云う命題の二つに受け取れますね。

さあ、ぼくも困りました。
経験的に普通に考えれば、生殺与奪権は神にあると一般的には考えられると思います。
ですが、その意味によれば、それはありえないと思うのですが・・・。

ぼくはこれまで、「人が思うことなら、それはすべて在る」と云う立場を取ってきましたので、ぼくの云っていることと矛盾することになります。

最初に考え付くのは、論理学の根本的な欠陥のことです。
上の命題は、そもそも論理学的には決定できないものかも知れません。
ぼくとしてはそうであって欲しいのですが、これはメタ構造の論理とでも云うような考えを構築しなければ解決できそうもありませんね。

この世のパラダイムは時系列の論理でなりたっているようですが、なんでもありのあの世をこの世の論理で理解するのはほんとうにややこしくてかないません。

池田さんがしつこく言っている「その言葉の意味」と云うのもイデアのことですが、夢の中では言葉は要りませんものね。

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from: ueyonabaruさん

2008年11月04日 12時54分45秒

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「Re:Re:14歳からの哲学-池田晶子 ② 」
 いえ、そういうことはよくあることなのですから。
> >そのため、昨晩は眠れませんでした。
> 申し訳ありません。<m(__)m>

 デカルトの言葉は、私を支えてきてくれた哲学者の言葉としていつも私の中にあります。佐倉哲さんは、デカルトも否定しております。人間はいろいろの考え方ができるのです。そういう意味で、自分がないと考えることも可能ではと思った次第です。ホントに自分がないと主張するつもりはありません。池田さんも間違っているとは思いません。
> 霊の存在を信じない人にわかってもらうのは、ほんとうに難しいですよね。
> これと同じように、「自分を意識できる自分と云うものは否定しようがない」と云うことをわかってもらうのも、ほんとうに難しいです。
> デカルトが達した結論は、「もうこのことはちょっと置いといて、自分たちはわかることだけを話し合おうじゃないか」と云うことのようにぼくは解釈してるんです。
> 大川さんも、そう解釈しているようです。

 そのように思います。
> だれだって、罪の無い人はいないはずです。
> 釈尊であろうが、イエスであろうが、大川さんであろうが、受肉したもので罪を犯さずに生きられる人はいないでしょう。
> これは、大川さんもそう云っていたはずです。

 hiraokaさんと同じような気持ちです。でも、心配もあります。大川さんがおっしゃるように、夜、天界を旅するような夢をみることもありませんし。
> ueyonabaruさんは、自分の死後の世界は楽しみでしょうか。
> ぼくは、怖さ半分、わくわく半分です。(*^。^*)

 同じように考えております。
> > 死後にはあの世で迷っているという意味でしょうか。あの世にいっても自己の信じるとおりの世界を作り上げてそこに存在しているということでしょうか。
> ぼくのばあいは、「あの世にいっても自己の信じるとおりの世界を作り上げてそこに存在している」のほうです。
> ですが、さらに上の霊から見れば、迷っているように思うはずです。

 アウグスティヌスもいろいろのことを考えており、全てが理解できたわけではありません。絶対神が直接世界をつくったのではなく、混沌としたものがあった(創った)ものからつくったとか、複雑な過程を想定してます。三位一体の考え方など、カトリックの教義の基となっていったのでしょうね。全て理解するには、専門的に学ぶ必要がありそうです。パウロのことも好きです。親鸞上人との類似性はhiraokaさんのおっしゃるとおりでしょう。
> >アググスティヌスが、哲学的命題が解けなくて、神様に祈るのですが、この姿は美しいと思いました。
> いま、ぼくも「告白」を読んでるんですが・・・。
> ぼくも、確かに美しいと思います。
> キリスト教会の伝統なんですが、パウロがキリスト教会の基をつくりましたので、「パウロの改心」と言われる経験をとても強調しています。
> 親鸞上人の回向にも、同じものを感じます。
> これも、大川さんを信じる根拠の一つでした。
>
> 40年以上くらい前のことですが、ノーベル文学賞を受賞した「クゥオ・ヴァーディス」と言う本があるんですが、
> なぜこれが賞を取ったのか、ぼくはとてもよくわかるような気がします。
> 彼ら西洋の人たちの精神的出発点が、パウロの改心なんですね。
> 「自らの過ちに気づき、その過ちを許されてきた恩寵に心から感謝し、悔い改めて新たな自分を作り上げようと決心する」、と言う経験なんですね。
> ぼくもありました。
> 大川さんも、こう云ってました。
> 「皆さんの今生では、ここまでは経験していただきたいとおもいます」、と・・・

 男子好き嫌いを言うなかれ、ですか。まあ、いいじゃないですか。石原さんも嫌なところがありますね。そちらあたり私も嫌いですよ。彼のいいところは、信念があり、哲学があること、遠慮がないこと、タブ-に挑戦すること、アイディアがあることなどでしょう。日本をよい改革の方へ行くために力を尽くしてくれるよう願っております。
> 大川さんのことも、嫌いではありません。
> それどころか、ぼくを飛躍的に悟らせてくれた人として感謝しています。
> 石原さんのことについては、このひとは力があるだけにとても危険な人だと思います。
> ぼくの居た学校で、石原さんを招いて公演をしてもらったことがあります。
> 新渡戸稲造のことを話して、日本にもこういうすばらしい人が居たのだと云っていました。
> 「こうでなきゃ、いけない」と言う断定的な意見のように思えました。
> 質疑応答の時間になって、勇気のあるひとりの先輩が質問をしました。
> ですが、彼はまだ高校生ですので質問の趣旨をなかなか旨く云えません。
> しどろもどろにしゃべる先輩の言葉をさえぎって、石原さんはこういいました。
> 「君ね・・・。質問するときは自分の考えをきちんと整理してから云うのが礼儀だよ」
> 相手は頭のいい社会人。かたやなんの経験もない高校生が一生懸命表現しようとしているのに、どうして「君の云いたいことは、こういうことかい?」と云ってあげられなかったのでしょうか。
> こういうところに、かれの切って捨てるところを感じます。
> また、彼の弟は湘南ボーイの代表で当時のムチャクチャをやった人です。いまでは、そのくらい普通になってますが。(^.^)
> 彼の膨らんだ顔つきを見れば想像できるように、「俺がボスだっ!」と云う性格のようでして、それは今も生きているある芸能人によれば「あの人は酔うと人をイジメる癖があって、人間としては感心しません。」と云っていたのも、そうだろうなあって思います。
> 石原さんが総理大臣になりたいなりたいと思っていたような節のある頃、ぼくは「このひとが総理になったらたいへんな事になる」と思っていました。
> その後、都知事になって最初にやったことは、都の官僚幹部を数人呼んで一緒に会食をしました。
> そこで話したことは、
> 「みんな、政府の困ることを考えてくれ。」
> それが、東京都のためになると説き伏せたのでしょう。
> 税務担当の官僚が提案したのが、企業の規模によって税率を決める外国の手法です。
> これを、すぐにぶち上げるところがこのひとの、すばらしいところでもあり、危ないところです。
> トラックの東京都乗り入れ規制や、通行税の発案も官僚の提案だと思います。
> 官僚たちは、知事が全責任を負ってくれると思うから提案するのでしょうが、彼はけっして責任を負わないでしょう。
> 都銀行の破綻も、彼は責任を負おうとはしないでしょう。

 この思考方法は良いと思います。神想観と必ずしも同じではありません。仏教的な詰めのように思います。悟りに至る為のひとつの方法だと思います。これは、方便であるかもしれません。心もないというところは、大川さんも疑問を示されておりますね。
> >「ない」を詰めてゆき、「ある」に到達するやり方なんですね。
> >両方の思考法ではともに「ある」に結論するということになるでしょう。
> 神想観と言うのでしょうか。
> これについては、だれでもできる方法があります。
> ただし、ほんの一瞬なんですけど・・・。
> たいてい、そのまま眠っちゃうんです。(*^。^*)
> そのまま眠りに入ると、100年やっても瞑想三昧の境地には到達できないんだそうです。
> そのほか、曼荼羅華の種子などを食べたりとか、薬草を食べたりとか、ぶっ倒れるまで踊りつづけるとか・・・。
> さまざまな方法があるのですが、どれも危ないですね。(*^。^*)
> 疲れたころ横になって一眠りするときに、そのまま自分の意識を持ちながら、あれこれ連想するがままにまかせてみてください。
> ふと、自分の体の感覚が消えうせて思考しているだけの自分に気が付いたりすることがあると思います。
> そういうときは、天井があるはずなのに青空が見えたりするかも知れません。
> 大川さんが、ある公演の最後に言っていたことですが、「自分を手足も無い、まあるい球体のような思考するだけのものと思えるかどうかがポイントです。」
> そうだろうなって、ぼくも思います。
>
 論理的に正しいと思います。可能ではあると思います。これを言うのには躊躇しました。こんなことを言うようでは悟りからほど遠いと言われるかも知れません。これを恐喝に使うのも良くはありません。人間は神の子であるということを疑うわけでもありません。hiraokaさんのおっしゃることを否定しているわけでもありません。
> >人間が神の創造に依るのであれば、これを消滅させることもまた可能であるとするのは、論理的には正しいと思われます。

> どうして正しいんですか?
> ueyonabaruさんは・・・
> 畏れ多くて自分ではないと思える神がueyonabaru自身を作って、
> なおかつ「お前はできが悪いから、云うことを聞かなかったら殺すぞ!」と言うかもしれないと思われているんじゃないんでしょうか?
> 神が自分だと考えるのは畏れ多いと思ってらっしゃるんではないでしょうか。
> 大川さんの講話で、「無門関和尚」の公案「大力上人」の話がありましたよね。
> 大川さんは「わたし、これがわかるんです。」と云っていました。
> 上述のことが、このことなんですよ。
> 「成長の家」では、人はみな神の子と言ってるじゃありませんか。
> 神が神の子を消滅させたら、子殺しになりますよ。
> それに、神自身の一部を切り捨てることになりますね。
> 完全無欠のはずの神が、自分の欠点を見つけて、「ああこれで、自分もやっと完全無欠になれた!」てなことは笑い話でしかありそうもないです。
> 前の書き込みで、「消滅させるかもしれんぞ」と云う霊言のことを仰ってましたが、そういうのを「脅しの手口」と言うのですよ。
> ヤクザとおんなじ言い回しです。
> 別の言い方をします。
> 神は愛そのものであるならば、切って捨てることなどなさらないでしょう。
> 聖書のなかにも、「神は汝らの滅ぶことを欲し給わず」ともありますね。
> ぼくの云っていることは、大罪に値することでしょうか。
> 昔だったら、宗教裁判にかけられることでしょう。
> だからこそ、これが秘教のなかの秘密中の秘密とされてきたようです。
> または、この考えでは世の中めちゃくちゃになるかもしれないと思われるかも知れません。
> だって・・・、「だれでも神なら、みんな何をしてもいいんだね?」と子供なら思うかも知れません。
> しかし、「自分も神であるように、あなたも神である」と思えるなら、話は別になってくると思います。

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from: hiraokaさん

2008年11月04日 01時22分47秒

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「Re:14歳からの哲学-池田晶子 ② 」
>そのため、昨晩は眠れませんでした。
申し訳ありません。<m(__)m>

霊の存在を信じない人にわかってもらうのは、ほんとうに難しいですよね。
これと同じように、「自分を意識できる自分と云うものは否定しようがない」と云うことをわかってもらうのも、ほんとうに難しいです。

デカルトが達した結論は、「もうこのことはちょっと置いといて、自分たちはわかることだけを話し合おうじゃないか」と云うことのようにぼくは解釈してるんです。
大川さんも、そう解釈しているようです。

>そうではないとおもいますが、そのように感じられるのですか。

大川さんの本の中に、「死後も自分が続くと云う、まさにそのことによって一生を善く生きた人は善き自分が在りそのことを享受し、一生を善くない人生を過ごした人はそのことによって苦しみを享受するのです。」と云ういみのことがありました。
そのとおりだと、ぼくも思います。
もちろん、善き人生というのは、「いい人生」のことではありませんよね。

だれだって、罪の無い人はいないはずです。
釈尊であろうが、イエスであろうが、大川さんであろうが、受肉したもので罪を犯さずに生きられる人はいないでしょう。
これは、大川さんもそう云っていたはずです。

ueyonabaruさんは、自分の死後の世界は楽しみでしょうか。
ぼくは、怖さ半分、わくわく半分です。(*^。^*)

>> ではどちらが正しいかではなくて、彼らの世界も正しいのです。(ぼくは、これを言い切ります)
カントの哲学は、まさしくこの事だとぼくは思います。

> 死後にはあの世で迷っているという意味でしょうか。あの世にいっても自己の信じるとおりの世界を作り上げてそこに存在しているということでしょうか。

ぼくのばあいは、「あの世にいっても自己の信じるとおりの世界を作り上げてそこに存在している」のほうです。
ですが、さらに上の霊から見れば、迷っているように思うはずです。

>イデアの件と関連するのかもしれませんね
はい、そうなんです。

>アググスティヌスが、哲学的命題が解けなくて、神様に祈るのですが、この姿は美しいと思いました。

いま、ぼくも「告白」を読んでるんですが・・・。
ぼくも、確かに美しいと思います。
キリスト教会の伝統なんですが、パウロがキリスト教会の基をつくりましたので、「パウロの改心」と言われる経験をとても強調しています。
親鸞上人の回向にも、同じものを感じます。
これも、大川さんを信じる根拠の一つでした。

40年以上くらい前のことですが、ノーベル文学賞を受賞した「クゥオ・ヴァーディス」と言う本があるんですが、
なぜこれが賞を取ったのか、ぼくはとてもよくわかるような気がします。
彼ら西洋の人たちの精神的出発点が、パウロの改心なんですね。
「自らの過ちに気づき、その過ちを許されてきた恩寵に心から感謝し、悔い改めて新たな自分を作り上げようと決心する」、と言う経験なんですね。
ぼくもありました。
大川さんも、こう云ってました。
「皆さんの今生では、ここまでは経験していただきたいとおもいます」、と・・・

>このことを以前にも言っておられたように思いますがどういうことなのでしょうか。変質とは。
>石原知事はお嫌いなのでしょうか。

ぼくは、だれかの事を嫌いだと云うのは、ちょっと恥ずかしいんです。 (^.^)
大川さんのことも、嫌いではありません。
それどころか、ぼくを飛躍的に悟らせてくれた人として感謝しています。
石原さんのことについては、このひとは力があるだけにとても危険な人だと思います。
ぼくの居た学校で、石原さんを招いて公演をしてもらったことがあります。
新渡戸稲造のことを話して、日本にもこういうすばらしい人が居たのだと云っていました。
「こうでなきゃ、いけない」と言う断定的な意見のように思えました。
質疑応答の時間になって、勇気のあるひとりの先輩が質問をしました。
ですが、彼はまだ高校生ですので質問の趣旨をなかなか旨く云えません。
しどろもどろにしゃべる先輩の言葉をさえぎって、石原さんはこういいました。
「君ね・・・。質問するときは自分の考えをきちんと整理してから云うのが礼儀だよ」

相手は頭のいい社会人。かたやなんの経験もない高校生が一生懸命表現しようとしているのに、どうして「君の云いたいことは、こういうことかい?」と云ってあげられなかったのでしょうか。

こういうところに、かれの切って捨てるところを感じます。

また、彼の弟は湘南ボーイの代表で当時のムチャクチャをやった人です。いまでは、そのくらい普通になってますが。(^.^)
彼の膨らんだ顔つきを見れば想像できるように、「俺がボスだっ!」と云う性格のようでして、それは今も生きているある芸能人によれば「あの人は酔うと人をイジメる癖があって、人間としては感心しません。」と云っていたのも、そうだろうなあって思います。

石原さんが総理大臣になりたいなりたいと思っていたような節のある頃、ぼくは「このひとが総理になったらたいへんな事になる」と思っていました。
その後、都知事になって最初にやったことは、都の官僚幹部を数人呼んで一緒に会食をしました。
そこで話したことは、
「みんな、政府の困ることを考えてくれ。」
それが、東京都のためになると説き伏せたのでしょう。
税務担当の官僚が提案したのが、企業の規模によって税率を決める外国の手法です。
これを、すぐにぶち上げるところがこのひとの、すばらしいところでもあり、危ないところです。
トラックの東京都乗り入れ規制や、通行税の発案も官僚の提案だと思います。
官僚たちは、知事が全責任を負ってくれると思うから提案するのでしょうが、彼はけっして責任を負わないでしょう。
都銀行の破綻も、彼は責任を負おうとはしないでしょう。


>「ない」を詰めてゆき、「ある」に到達するやり方なんですね。
>両方の思考法ではともに「ある」に結論するということになるでしょう。
神想観と言うのでしょうか。
これについては、だれでもできる方法があります。
ただし、ほんの一瞬なんですけど・・・。
たいてい、そのまま眠っちゃうんです。(*^。^*)
そのまま眠りに入ると、100年やっても瞑想三昧の境地には到達できないんだそうです。
そのほか、曼荼羅華の種子などを食べたりとか、薬草を食べたりとか、ぶっ倒れるまで踊りつづけるとか・・・。
さまざまな方法があるのですが、どれも危ないですね。(*^。^*)

疲れたころ横になって一眠りするときに、そのまま自分の意識を持ちながら、あれこれ連想するがままにまかせてみてください。
ふと、自分の体の感覚が消えうせて思考しているだけの自分に気が付いたりすることがあると思います。
そういうときは、天井があるはずなのに青空が見えたりするかも知れません。
大川さんが、ある公演の最後に言っていたことですが、「自分を手足も無い、まあるい球体のような思考するだけのものと思えるかどうかがポイントです。」
そうだろうなって、ぼくも思います。


>人間が神の創造に依るのであれば、これを消滅させることもまた可能であるとするのは、論理的には正しいと思われます。

どうして正しいんですか?

ueyonabaruさんは・・・
畏れ多くて自分ではないと思える神がueyonabaru自身を作って、
なおかつ「お前はできが悪いから、云うことを聞かなかったら殺すぞ!」と言うかもしれないと思われているんじゃないんでしょうか?
神が自分だと考えるのは畏れ多いと思ってらっしゃるんではないでしょうか。

大川さんの講話で、「無門関和尚」の公案「大力上人」の話がありましたよね。
大川さんは「わたし、これがわかるんです。」と云っていました。
上述のことが、このことなんですよ。

「成長の家」では、人はみな神の子と言ってるじゃありませんか。
神が神の子を消滅させたら、子殺しになりますよ。
それに、神自身の一部を切り捨てることになりますね。
完全無欠のはずの神が、自分の欠点を見つけて、「ああこれで、自分もやっと完全無欠になれた!」てなことは笑い話でしかありそうもないです。

前の書き込みで、「消滅させるかもしれんぞ」と云う霊言のことを仰ってましたが、そういうのを「脅しの手口」と言うのですよ。
ヤクザとおんなじ言い回しです。

別の言い方をします。
神は愛そのものであるならば、切って捨てることなどなさらないでしょう。
聖書のなかにも、「神は汝らの滅ぶことを欲し給わず」ともありますね。

ぼくの云っていることは、大罪に値することでしょうか。
昔だったら、宗教裁判にかけられることでしょう。
だからこそ、これが秘教のなかの秘密中の秘密とされてきたようです。

または、この考えでは世の中めちゃくちゃになるかもしれないと思われるかも知れません。
だって・・・、「だれでも神なら、みんな何をしてもいいんだね?」と子供なら思うかも知れません。
しかし、「自分も神であるように、あなたも神である」と思えるなら、話は別になってくると思います。

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