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「哲学〜真理〜探求について」

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  • from: 沙羅さん

    2014年02月06日 00時11分12秒

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    自己投影・・・何に、反応するのか?であり、反応した上での個人感情に 安易に呼応しない





    http://www.systemicsarchive.com/ja/a/japanology.html


    4,5年前、まだ、めるろ~さんが、生存されていた頃、世界に存在する宗教や信仰で、怨霊信仰は、存在するのか?という議論をしたことがあります。
    天災、人災 ? 病災、不幸が降りかかった時の解釈の仕方が、「何々の祟り!」という解釈の仕方
    よって、その何々の対象を祭る、人でも自然でも、とにかく、怒ったから、叱られた<仕返し?>された・・・・という考えは何処からくるのか?・・・
    また、日本独特の考え方なのか?外国の信仰や宗教には類似な考え方をしながら、普遍させてきた信仰があるのか?・・・・
    色々な議論に至ったと思う。
    例えば、神道、大宰府の道真ですが、何故?「菅原道真の祟りだ!」というような考えがうまれ、大宰府に、道真公が祭られるようになったのか?
    平将門の首塚もそうだけど、・・・・・なんというか、何かをされる<受身>という事が、なんらかの対象からの怒り<祟り>と直結するのは、人間世界の感情や情動を産む原因と同じ青写真を、霊界、神々もしていると思い込んで、教義を綴ってきているのだろうか?と思う。
    たとえば、旧約の出エジプト紀21章には、目には目、歯には歯・・・という、仕返し、復讐を意図を肯定するような内容になっているけど、そのような教義と類似に訳していいのだろうか?。
    世界の信仰教義の中で、何かの祟り・・・とか何かが怨む・・・・とか、つまり負の感情に呼応するという動き<メディア>が、どこかに神域を建てる事で、怒りを治めるという行為・・・・そういう事はあるのだろうか?
    道真公の存在は、朝庭の人間にとっては、もうあの世の人・・・もし、生きていて、同じような、天災だか、病災が降りかかったら、菅原道真公のところに、討ち入りでもするのだろうか?いや、あの世に葬ったからこそ、生存している人間の心に、消せない不安や恐怖が、残ってしまっているのだろうとおもう。つまり、生前の人間関係で、誰かを権威的に、苛めたり左遷したり、力で、他者とそのような関係を自分でつくっといて、自分の心に益々、死者の存在を大きくさせてしまっているのでしょう。存在・・・・というのはそういう事なので、
    目に見えない存在の力が一番こわいと、心を脅かされる世界を自分に造っているのでしょう。そのような次元層の同じ恨み感情に過敏反応する人達が同じ呼応をするので引き合うのでしょう。
    生前の人間関係の質が、結局残された人達が生きる世界ですから・・・・そういう宗教観にあって、どうしたらいいんでしょうね?と本当におもいます。
    以下は、めるろ~さんのブログで話題になった永井氏のブログの中身に
    ―――6世紀になると、日本は、男性宗教の一つである仏教を輸入するが、当時の日本の為政者たちは、仏教を、自分が解脱するための宗教としてではなく、現世に対する執着を捨てない怨霊を成仏させる技術として導入した。
    無念の死を遂げた敗者が、怨霊となってたたりをなすーという怨霊信仰は、日本だけでなく、世界中にある。しかし、怨霊を神として崇める伝統があるのは、少なくとも先進国では、日本だけである。世界の仏教圏においても、「誰でも死ねば仏になることができる」と信じているのは、日本の仏教信者だけである。=====
    と説明されていますが、どちらにしても、自分が生きれるか、死ぬか?の時代で、自分が生き残る事ができるのは、相手<他者>を倒す・・・・という事しか頭の中にはなかったのでしょうかね?ま、仕方ないです・・・・
    日本人の未熟思考の一つには、この他者との関係恨む<愛す>というプリミティブな感情は、信仰、宗教の存在の仕方にも現れているとし
    =============================
    この怨霊崇拝とその仏教的変形も、「甘え」で説明できる。===としています。
    土居は、日本人が「甘えの葛藤の彼岸にある者を神と呼んでいる」と言うが、敗者となっても、怨霊としてたたりをなせば、神あるいは仏として崇めてもらえると期待することも、甘えの一つである。==============================
    と述べています。敗者になってしまったから、怒りを放たないといられないのでしょう。ところが、放つ対象、怒りや不満をむける対象がないと、向けられない。、一番てっ取りはやい、対象が、いつも、一部<部分>という狭義部分に執着してしまっているという事でしょう。自分がやられたのは、あの人のせいだ!と考えるのが一番簡単だし、自分自身はいつも、罪をつぐなう、自分の過ちは自分自身の心が為した・・・という自分自身は、裁かれる壇上には決して立ちませんから・・・・必ず、他のせいであり、けっして自分自身のどうしようもない、人をやり込めたいというカモフラージュした本音は、世間に知られることはない・・・・そのような、恐れや不安を常に感じている・・・聖母思考や、女神信仰、あるいは、極端なアマテラスオオミ神信仰は、そういう地点に立つ人達の、潜在意識なのかな?ともおもったりする。
    =========================================
    旧約聖書では、イスラエルの民が、出エジプトの後、カナンへ向かう途中、神が邪魔になる住民を大量に殺戮しているが、殺された人々が怨霊となって報復したり、イスラエルの民が鎮魂のために怨霊を神として崇拝したりするということはない。イスラエルの民にとって、ヤハウェは唯一絶対の神であり、他の神を崇拝することは許されない。
    =========================================と、永井氏は述べています。

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