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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: めるろ〜001さん

    2009年10月31日 12時08分19秒

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    人間哲学

    仮に「人間哲学」というものを考えてみたい。

    人間は「ただ生きているのか」
    「生かされているのか」
    「生きてしまったのか」
    「生きなければならないのか」
    「生きうるものなのか」

    「ただ死ぬるモノなのか」

    「ただ死ぬるモノである」ということは、
    動かないか動けないかのどちらかであり、
    見かけ上の植物の動きに似ている。
    人間としての行動をとっていると言い難いですね。
    これは「ただ生きている」と同義語です。

    この地球にご両親がいて、生まれたので「生かされている」のか、
    これもあまりに自分の行動が意志を持たないで動いている
    特殊な例である。

    「生きてしまったのか」人間が過去を振り返るだけで行動が成立する場合がありますが、どれだけ過去を見ていても、時間はその過去のみに生きることを許さない。

    「生きなければならない」そういう使命感を持って生きることは
    自己の行動の中で他者の意志も含みながら、自己の行動を決めていく、見習うべき人間である。

    「生きうるものなのか」自分で自己の行動を決め、他者との共存の中で生きることが可能である。

    人間は、時間というものが人間の意志とは関係なく、
    そこに存在する限り、時間の経過は避けられない。
    そして、人間が物体である限り空間を所持し、
    他の存在とともに関わりあっている。(好むと好まざるに関わらず)この二つの事項は、生まれた瞬間に必ず備わっている。

    人間が地球に存在するということは、自然にとって、
    罪悪でもあり好ましいことでもある。
    人間がいないと地球は、自然が繁栄するからといって、
    その繁栄が地球にとって良い結果を齎すとは限らない。
    悪い結果も同じくそれのみを齎さない。

    良い悪いという判断は人間がするものであり、地球がするものでも
    自然がするものでもない。
    人間がいようがいまいが生物の栄枯盛衰は起こり流転する。
    人間がいるから生物の流転がおかしくなっているのではなく、
    そもそも流転し続けているのです。

    しかし、人間の中には、そこにあるべきでないゴミやコンクリートを存在させ、自然の一部を占領しようとしている。
    いや、占領している。
    そうなると、一方的に自然を破壊しているという論理は
    一見正しいように思える。

    アフリカのサバンナでライオンが絶滅しそうになっている。
    これは、すべて人間の仕業でしょうか?
    人間の仕業である時もありますが、自然の変化がそうさせている場合もある。

    「地球温暖化は、人間の仕業だ。」ということはある程度いえますが、それですべてでしょうか?
    地球というのは<全球凍結>したり温暖化したりを繰り返し、
    生物を絶滅させたり、生物がそこに耐える生き方をしたりして、
    変化を遂げている。
    同様に、人間も生物なので絶滅される側ですが、そこに耐えたり、
    自然自体のトータリティコントロールの中にいたりする。
    決して破壊ばかりをしているわけではない。

    人間はそこに生き方の選択をしているのです。
    それが個々人の生き方であり、自然という大きな対象に関わりあっているということである。

    例えば、猫は、山猫であったものが、人間と寄り添うことで生き延びるという選択をした者である。
    人間のつくる栄養を糧に生きているものもいる。
    山は、何かを生かすために人間が整備伐採をする。
    木を切るから自然に反しているのではなく、木を切ることによって
    山の変化を助けることだってある。

    それは取りも直さず、人間の選択であり、人間の意志を自然との対話の中で生かしているのである。

    オニヒトデが珊瑚を食べる。人間はそのオニヒトデを駆除する。
    オニヒトデには迷惑でしょうが、動けない珊瑚にとっては朗報である。また、珊瑚の移植もする。

    深層海流がどうして起こり、地球にどういう影響を与えるか解明する。そういう中で、それを守ろうとする。

    人間個人の行動の中でも、同様に、その行動は、自然にとって
    活性化するものか破壊するものか二通りある。
    要は、あなたはどういう選択をするか、
    どういう意志を持つかということになる。
    このことを離れて、人間の行動の意味はないですし、
    それがどういう意味を持つか明確にはならない。

    人間が生きている限りエネルギーを消費しますが、そのエネルギーを逆に注入することも出来る。
    人間とはそういう存在ではないか。

    一概に「人間は自然を破壊する者である」という意見には、
    疑問を呈する。

    また、人間は知らない人間と関わりあうことによって、
    違う角度からの観点を知ることとなり、個人の知恵が限定的であったと確認することが出来る。
    論理が正しいからすべて同じ論理が適用されるとは限らないのです。

    人間は、少なくともどちらかを選択することによって、
    自然を破壊し、人間自らを生きにくくするか、そういう場合と
    自然に働きかけ人間のみならず自然を守っていくことが出来る場合と選択することが出来るのである。

    砂漠を緑化する。農地化する。水を通す。
    いろんな形で自然を生かすことが出来る。

    大事なのは、その個人の選択ではないか。

    そう思う。


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  • from: 沙羅さん

    2009年10月30日 21時47分40秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

     近所に住む、レモンおじさんがいらした。
     
     いつも突然に現れる。今朝、わたしはシャワーを浴びてる最中だった。

     濡れた髪をタオルで拭き拭き・・・バタバタ、階下に走って扉をあけた。
     「イヤ〜・・・ゴメン、変な時だったかな〜」RAYMONDレモンさん
      「良いわよ・・・はやく上がって?玄関寒いわ!」・・と私。

      もう、フランスは、早朝の気温は、4,5度・・珍しくない。

     冬の足音が近づいたのを感じる、、朝だった・・・


     レモンさんは、不思議な事を言いに来たようなのだ。
     
     彼は、ラジオを聞いてて、フランス人の、INCINERATION火葬
     に対する意識が変っている・・・・と話して来た。
     ラジオでは、フランス人の3分の1は、火葬にすると言って
     いた・・・と、私に述べてきたのだ。

     『エ?ほんと?・・・それは驚くわ。わたしが今まで参加したフランス人のお葬式で、火葬にされた方は一人もいないの。20階くらいしかお葬式参加してないけど・・・・』私
     
     信仰心をもたないフランス人は、大変多いが、それでも、生きていた人間を火葬する・・・という考えは、野蛮な人間のする事だと感じるフランス人は多い。
     ヨーロッパに住んでる日本人達が、日本は普通火葬する・・・という事を聞いて、回りの外国人がギョッと、「信じられない!」と、未開人のする事のような目差しで、日本人を見る時もある。

    もちろん、そんな事は言わないですが、あのギョッとした、驚きは、いかにも「野蛮な考えのする人よ」・・・・と言いたそうである。
    このような経験を外国でしてみると、他者というのはどういう存在なのでしょう???、身体で観じて見えてくるのですね〜。
    体験は、必要ですね〜・・・・^^

    そして、大概、ギョッと、した驚き、違う他者への目指しをする方は、何故か?信仰をもたれている人が多い・・・という類似した反応を示す・・・という体験も、たくさんの日本人が、外国に住んでみると同じような体験をする・・・という事が見得て来る・・というのも実に興味深いのですね。
    火葬をする、しないの問題ではない・・・というのも分ってくると思うのです。信仰を持つ・・・という事は実際どのような意識を生じさせるか?という人間が信仰を持つ・・という事はどういう事なのか?・・・という疑問であって、

    その信仰が、どうのこうの・・・・という地点にいて、話そうとしている事とは違うと思うのですね。

    その信仰がどうのこうの・・・という地点は、他者との意見の食い違いばかりを指摘する事になりかねない対峙
    世界を繰り広げる世界なのはもう分かりきっているようなんでね。
    きっと、そのような争いばかり目の前で見せられて辟易しているのが、一般の人達なんでしょう、一般の人達の心は、感じとる事が不可能みたいですから、自分のしている事に、のめり込んで、多くの他者の心が何を感じているか、分らない・・・・多分孤立してしまっているのだと思うのですね。
    普遍性以前の問題なんでしょう・・と思います。

     話しを元へ・・レモンさんは
     
    「そうだろ?僕も驚いたんだ・・・聞き間違い?かと思ったけど、、、 UN SUR TROIS アン、スール トロア 2回繰り返言ってたなあ〜〜それがさ、その後・・・
     MOYENNE NATINONALモアイエンヌ、ナショナル 平均は3分の1のフランス人なのに、。。2分の1INCINERATION火葬に、 SAVOIE 県も入っているんだ、驚いたなあ〜・・・」とレモン

     「ちょっと、待って?わたしは、日本人のFRANCESのお母様の火葬の時には、パリの火葬場は、PERE LA CHAISE ペーラ、シェーズしかない・・・と大使館に言われたのよ。しかも、火葬場はアジア人でごった返しという感じなの。
    誰一人もヨーロピアン系は見なかったわ。あの情景を見たら、誰でも、フランス国民の3分の1は火葬にする・・という状況は想像しがたいのよ」・・・・とわたしは、レモンさんに話してみた。

    彼自身もラジオの言った事は間違いではないか?と疑っていたから、わたしの感じは同意できる位置にいるようだった。

    ところで、フランスは火葬が多く行われる状況、どのような火葬の仕方とどのような死者に対する、生きた人間側のエゴが、問題と起こるのか?
    というところにあるらしかった。レモンさんは

    「それで、CENDRE 遺灰をね、別けちゃいけない法が成立したらしいんだ、一人の人だけが死者の遺灰を所有したり管理したりする事
    ができるのであって、数人で死者の遺灰を別けては、いかん!という法律が出来たそうだ。』レモン

    「ああ〜なんとなく、分るわ・・・死者に失礼よね?物じゃないのよね。どうして、一緒にいたいからといって、皆が、別けてもいい〜と思う事が出来るのかしら?死者が願っているのならともかく、そのような遺書がなくて、生き残った人が、希望で死者の残った遺灰にしろ骨にしろ、別けているのを見ると、死者は存在していたら出来ない事ではないか?という感じがする。

    あのジロジロ、みせものみたいなの・・
    他者から物みたいに扱われているみたいで、わたしはどうも、好きになれないの。」わたし

    「 そうなんだ、、、それで、フランスの法律は、たった一人だけの管理が任されるのであって、遺灰を分けてはいけない・・というのは、どうも、遺灰を分けたい人同士で、争いが起きる事があるらしい〜笑・・・とラジオでは。いっていた。」レモン

    『アア〜、そうねえ〜〜・・・・物じゃないのよね?。魂は〜・・
     だれの物でもないものね、魂は・・・
     死んでも、 TRAITER DE MANIERE DES HUMAINE トレテー、デュ、マニエール デ一  ユーマン、、、人の人間(魂、心)と扱われる、接する、行いや物腰や立ち回りを求められるのかも知れないけど、

     遺灰を管理する一人のその一人が誰に皆が合意するのか?合意しなくても・・・
     問題が全く起きないとも限らないけど・・・法が何処まで死者の魂の人間側からの自分勝手な接し方から、守ル事ができるのかしら?死者への尊厳や尊重は決して、愛しているから自分の思いどうりにしていい・・という事とは違うものね?」私
     
     『ウン、多分、火葬にした後のDELAI(期限)があるのかも?、ラジオでは、自分と故人の思い出の土地に巻くことが許されるといってた。、市のコミューン、共同墓地にも、遺灰の骨壷を保管する霊塔が、必ずあるだろう?」レモン


    「そう思うと、棺に入って、土葬という形が安全だなあ?』レモン

    『ウン、まさか、死体を、掘り起こして、骨だけ持ちかえって拝みたい・・・というのは、変質的だし〜そこまで至らないと思うけど、
     目の前の小さな、骨壺だったら、{さあ〜皆で仲良く分けましょう}笑・・・・という気持ちに簡単にならされる・・・と言う人間達の弱さの思考の傾向の違いがでるものね。これはおかしいと思うべきかも・・・死者はどこまで、関係をせまる存在の仕方をしているのかしら?』



    レモンさんは、SAVOIE県地方が2分の1の火葬をおこなっているという事に納得のいかないようだった。しかし、サヴォア公国は、イタリアとスイスの県境に存在する。イタリアは、ローマからキリスト教で、スイスは、かたやプロテスタント教、2大宗教の交差する地域として、1000年の歴史をもった。
    県旗は、縦横の長さが同じギリシャ正教会の、十字架と同じ県旗を維持している。十字架を県旗にするのは、フランスではこのSAVOIEを名前とする2県しかない。だからといって、信仰者は他県と変らないであろうと思われのに、、、何故?

    火葬が多いのかしら?

    レモンさんは、「土葬より安くすむ・・・という理由もあるかもなあ〜」と言っていた。

    出費の事は、よく分らないけど・・・なんだか不思議な事をワザワザ話に今朝来た、レモンおじさんなのです。







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  • from: 沙羅さん

    2009年10月30日 07時14分35秒

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    「Re:Re:Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

    例えばですが〜
      言葉が放たれ後解釈するのと、
      放たれた言葉の意味を解釈し、その言葉が、何を?、
      意味するのか?・・・・という地点でコミュニケートするという事は、大変重要な違いがあると思うのです。

     例えばですが、実際あったニュースの内容を述べてみますと・・・

    20時の主要チャンネルのニュースで、このようなニュースがキャスターの声によって流れました。

     19歳の男性、TOXICOMANE 薬物中毒患者 が、別件で取り調べ中、取調室の4階の窓から、飛び降り自殺しました。

     というニュースです。

     さて・・・・この内容のニュースの意味は国民に何を伝えたいのでしょうか?

     ただ、薬物中毒者が自殺した?・・・いえいえ違うと思います。
     
     たとえ、そのようなニュースだけ述べたくても、ニュース性の重要度から外さないとならなくなります。
     何故なら、薬物中毒者の自殺はそれほど、国民が驚く内容のニュースではないからなんです。
     
     まず、取調室は、すでに警視庁の中・・つまり、国、国家的なテリトワールの中で起きた事ですよね。
    早く述べれば、国家権力が個人<麻薬中毒患者>より、強い立場に立たされていますよね?

     別件で取り調べ中だったとキャスターはのべていました。、起訴されているのではなく、取調べ中なんですね。・・・という事は、国は、麻薬中毒患者であれば、
     ある精神病患者とみなすのが普通ですし、極力情緒不安な病人を罪人として同じに扱うような事は、気をつけなければいけないはずなんです。
    健康な精神状態ではもちろんありません。つまり、最初から弱者を国<強者>がどのように接するか?、精神不安定である事は当然予測できるはずなんです。

    そこにニュースキャスターは、弱者への接し方が何かしら迫害されていたのではないか?踏み込むんです。

    もちろんそのような事は、ニュースは共時態の結果しか放つことはありませんから言葉としては放たれないんです。

     しかも19歳という年齢の若さです。
     しかも、4階で?取調べを受けたんです。
     しかも、4階の取調べ質に、金網も張っていなかったんです。
     <この時、取調べ室は一階にもあり各階にもあるのに、何故?金網の張っていない、4階で行われるのか?という疑問をキャスターは何故?何故?ですね〜
     述べていました。
     
     <取調べ室での、取調べを受ける人はまだ罪人と決まっているわけではないので、精神状態、心理状態を国家警察機関は、心療専門スタッフがいるのですから間違いがないように接するべきだったんでしょう。。麻薬患者だから自殺しても仕方ない・・・なんていう人間の接し方は許されないんですね。しかも国家機関のパリ警視庁の中で、取調べ官が席を少し外した時だったと放送されいました。


     これはメディア情報を流す側が、国に落ち度があったであろう・・・
     自殺に追い込んでしまった・・国家権力の落ち度を問題にするという隠喩で、ニュースが、放たれ、国民ももちろんそのような意味を含んで、「国に疑問がありますね?」・・・・と反応するのだと思うのです。
      報道の姿勢は、誰が悪いとか、善いとか無罪だとか・・
      判断はするべきではないですから、分ることだけ・・・
     ニュースとして流れるのですが、後は、国民が、どのように反応するかなんですね。
      つまり、ある一人の麻薬患者が取調べ中パニックを起して、
      4階の窓へ駆け込み、自殺しました・・・
      とただ、結果を述べて、「あ〜〜そうですか」・・・
      と皆で納得する・・・という次元にいてはいけないと思うのですね。
      報道する、、、真実を報道する・・・
      というのは、虚偽を暴くという姿勢ではなく、平等であるべき人間が
      、他者<強者>からどのように扱われるのか・・
      という、心をもつ人間への接し方に、正義<法、JUSTICE>が
      機能するというのが純粋な法の存在の仕方ではないでしょうか?

      という事で・・・・
     ・

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  • from: 沙羅さん

    2009年10月29日 21時33分18秒

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    「Re:Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
    > MSG641の続き
    >

    また、まちがいましたね〜・・
    三十三間堂は、1001体仏像達ですね・・あ!それと28部衆もすごい。
    しかし〜なんど観てもすごいですね〜、、、あの講堂の中は、、

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  • from: 沙羅さん

    2009年10月29日 20時25分37秒

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    「Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
    MSG640の続き

    Tous les moyens de l'esprit sont enfermés dans le langage et qui n'a point réfléchi sur le langage n'a point réfléchi de tout Alain Dans propos sur l'education
    >
    > 精神のすべての手段は、言語のうちに閉じ込められている。
    > そして、言語について、熟考{反省}したことのないものは、何も熟考しなかったのだ。 アラン『教育について』
    >  

     それで、この日本語の熟考に括弧して反省という記号を付け加えなければ、 アランの述べる、REFLECHIR レ、フレシー
    良く考える、熟考するという、彼がほんとに思う言葉の意味
    これを感じる事はできないと思うのです。


     再三思うのですが・・・

     反省する・・・・という記号には、なんだか自分が過った、誤った考えがあって、それを認め、<相手が存在すれば>対象相手に何がしかの謝罪の意識が含まれて、反省する・・・・
    という音素が、放たれていませんか?

    と・・・・いう事は、

    反省=熟考

     という記号の並びに置き換えられないと思いませんか?

     何故なら、対話者が相手に「反省しなさい」という語句には、何故か、熟考しなさい・・・という音素より、放つ相手がすでに他者を支配しはいしようと、人間関係の質を、牛耳ようとさせる横柄な雰囲気を仄めかしませんか?

    どちらにしても、「〜〜しなさい」という音素じたいは、汚いです。、、、、^^
      自分の心の状態をそのまま、表していると、そのまんま・・・
     相手に、放ってしまっていると思うのです。

     孤立するというのは、世間の心の興味の対象になくなる・・・
     という形而上の世界の事でして、
     なにも、哀れみ<つまらない虚栄心に支配された>を他者に感じさせて、なんとか、他者と関係を結ぶという後ろ向きの関係のあり方は、時間が停まっているのだと思うのです。

      人と人の関係作り、人と人の心の接し方に、不快感や、横柄な人間関係を結ぼうとした地点で、言葉は、その人の心の姿勢をまる写しにすると思うのです。

     同じ言葉を、砂漠で一人で放っているのと同じだと思うのですね。

     砂漠も、銀座のソニービルの前でも、同じだと思うのです。
     自分自身の放つ言葉が、複数他者の鼓膜を通してどのように
     感じ取られているか?
     その他者の心を介してでしか、自分が観得てこない・・・・
     という事だと思うのです。

     砂漠で一人で心の言葉<魂>を放てば、何処からともなく、
     不思議な現象を経験したりするのでしょう?
     居るはずのない、蛇にあったり、突然らくだにのった、放浪者と逢ったり・・・・・

     しかし、銀座の雑踏で、観得ない他者の心にも届かない言葉ばかりを放っていては、せいぜい、回りの人達は『何処の誰?」という音のボリュームの高さにだけ、反応しただけであって、何も心に反応したのではないでしょう。

    すぐ、忘れる存在だ・・という現れをしているだけだと思うのですね。
    人間関係心の築ける、人間関係、心の関係を築けるに至らない、叉は愛す、愛される存在云々以前の事だと思うのですね。

     存在する・・・・という事は、存在しようとする・・・
     その流れの方向だと思うのですね。時間を越える・・・という
     事の意味だと思えます。過去に戻る方向は、後ろ向きでしょうと思うのです。この方向は、SENSサンスですし、感じるSENTIRサンティーの感覚、SENSサンスです。

     この感覚 SENS は、感覚としてやくすのですが、認識力<認識ではない、念のため>、勘、センス、分別、判断力<判断ではない、念のため>  考え、観点、意味、

    話しが又流れました・・
    もとい
    、何故?
    アランが放つ音素、REFLECHIレフレシー

    これ、弓を弾いた時に、弓の弾力を、身体で感じると思うのですが、引いて<ピンと張る、緊張です>、、そして、 緩める<弓の弾力性が持つ緩慢と緊張の間を身体が弓を弾くとき感じると思うのです。
    REFLECHIR熟考も同じ感覚を頭でしていると思うのですね。

    RE+FLECHI  の RE は、再び、立ち帰りの観念を現す
    沢山の動詞の前に RE がつくと、又返るという状態を表すんですね。
    ボンジュールという今日はを、
    REをつけて、レボンジュールというと、
    又返ってきてボンジュールを言う・・という現れなんです。

    という事は、 RE+FLECHI の、後綴りフレシの意味は、

    たわめる、曲げる、和らぐ、等々です。、

    再度、曲げる???=反省という意味を含む熟考

    という意味なんです。

    全然意味つうじませんね〜、フランス語・・・ちんぷんかんぷんですねぇ〜〜笑

    ですから、フランス人が日本語で、熟考と言われても、
    熟考してない事をREFLECHI・・・と呼ぶようなのだ・・・
    という違和感が生まれるんです。

    面白いですね〜・・・・
    REFLECHIレフレシーは、
    思考対象への精神の継続的な傾注と解す・・・・と、難しい解釈するのです。
    これが 再度、再度の反復の RE が前綴りにあるので、
    反省・・・という意味を含むのがREFLECHI つまり熟考する・・・という風になるのだと思うのです。

    それは、いつまでも一つの事を吟味するということは、・・たとえ、絶えざる注意は不可能であるとしても、不十分な仕方でなされるにすぎないとしても、、、よく、外部の複数他者との関係における反応を観、見極めたことを確信するために、何度も、何度も
    立ち帰ることを前提とする・・・・・
    という行為を、熟考 REFLECHIレフレシー・・・・・という音素でコミュニケートするのだと思うのですね。

    それで、弓 を放つ時、矢 が必要ですね。
    あの、後ろに鳥の羽がついた 矢 ですね。

    何故?、矢の後ろに、鳥の羽つけるんでしょうね?

     矢は、YA で や という音素ですので、関係が観得ないのですが、
      矢は、FLECHE はフレシュと呼びまして、

        RE+FLECHI 熟考の、FLECHI(たわめる、曲げる)の派生 ですね。

     そう考えるとですね〜、
    京都の三十三間堂、100体の夥しい千手観音像のが祀られてる前で、
    通し矢 という古来の弓妓が、未だに存在しているのは、

    千手観音仏像達の、
    「タンと熟考せなアカン!」<何故か関西弁 @@>

     という、声(音)があの、矢を放った時に、空層に響く・・
     ・・・遠く、遠く円を広げて、広く宇宙に通じているんじゃないでしょうか?




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  • from: 沙羅さん

    2009年10月29日 08時37分15秒

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    「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

    寝る前に、何か書こうかなあ〜るんるん♪・らんらん♪

    ハ!   やけに、一人で浮かれていますが〜

     そうだ、ランガージュ言葉・・・・言葉・・・・

     アランがいいわぁ〜・・・・


      でも、このブログは、仏語で書きこめるのに、送信して画面を見ると
      アクサンが、文字化けするのです。変でしょ?


    Tous les moyens de l'esprit sont enfermés dans le langage et qui n'a point réfléchi sur le langage n'a point réfléchi de tout Alain Dans propos sur l'education

    言えねえ〜・・・・厳しいアランですね〜・・・・
     
     末尾に DE TOUT  まで、して語調、強調してますね。
     「全く貴方達は、考?・・・頭すこし、働かせなさい」・・風ですねえ〜・・

     でも、何となく分ります。言葉に精神が、閉じこもっているっていう表現よくわかります。だから、単語やテキストを区切るという事は、言葉の流れを、勝手に切ってしまいますから、失礼なんですよね。・・・流れの中に述べたい事が含まれているのに、受信者がトッカエ、ヒッカエ、、気がつかないかもしれありません、
    好きなテキストだけ、引きちぎられて引用されて、これまた自分の思い通りの流れを作るのは失礼なのですから、最初から、一字も他者の言葉は、引用しないで、100パーセント自己想起文の方がいいと思うのですね。



    精神のすべての手段は、言語のうちに閉じ込められている。
    そして、言語について、熟考{反省}したことのないものは、何も熟考しなかったのだ。 アラン『教育について』
     

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  • from: 沙羅さん

    2009年10月28日 23時40分14秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:滝について」
    MSG625
    の続き

     なんだか、江ノ島弁才天と五頭龍の縁起説に、一人で受けているのですが〜・・・・この龍なんですが、

     ハテ?・・・・どこかで観た記憶が?

     と思ったら、そうでした。戸隠神社も、龍が祀ってありましたっけ??
     と思ったしだいなのでした。

    戸隠といっても、いくつか神社が固まっている。そのうちの一つは九頭龍社という神社で、奥社に向う道のりは、自然の宝庫で、実に幻想的な空間なのです。


    九頭龍社(くずりゅうしゃ):祭神は九頭龍大神。奥社のすぐ下にあり境内社のようになっているが創建は奥社より古くその時期は明らかでない。地主神として崇められている
      
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

     「それがどうかしましたか?沙羅さん?」

     「うぅぅ〜ん・・・・いえねえ〜・・・・分りませんですねえ〜」
         沙羅の一人問答なのでした。

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  • from: 沙羅さん

    2009年10月28日 21時11分38秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんようこそ。」
    タカギさん

     拝読しました。

     色々考えて〜・・・・
     生きる欲望ってなんでしょう?
     生きたい・・・と思わされる欲望ってなんでしょう?
     とか思うのです。
     それと、
     ただ死なないから生きてる・・・
     ただ、、普通に来たら、生きてるから生きてるってなんでしょう?・・・・・と、考えるんです。

     生きたい
     と
     生きてる

     というこの二つの言葉は、違う意味を含んでいるのじゃないか?
     と色々考えるんです。

     生きたいから生きてる
     生きたくないけど生きてる
     どうでもいいけど生きてる

     この3種類の表現の違いは何処からくるのかしら?とかわたくし考えるんです。

      そうすると、多分人間は、生きてるから生きてる・・・という
      表現じゃなくて、生かされてるから生きてるというのも違って、生きたいから生きてるという、、、という感情を感じさせられる何か目的みたいなものが、ないとドンドン、時間を後ろから追いかけていくようになって、ドンドン現象を受動的に感受するだけになって、ドンドン自分の生まれた存在性が見えなくなって、
    ドンドン、現実社会に生きる人々へ、執着しなくなって、
    人間と話していても、仕方ないからと思うようになって、何か自分が一生懸命面白いと思えるものを探そう・・・と思って
    AMAZONのブックの検索などしたりしますよね〜?

    これも、一つの哲学している・・という行動のパターンではないか?と思うのです。

     哲学という記号だけ理解すると、
     哲学は、なんだか難しい言葉ですが・・・

     知職や認識ではなく、
     哲学は日本語ですから てつがく・・・という音で 哲学を想像して、あ〜〜むつかしそうだなあ〜・・と一般人は考えるみたいですが、
     アルファベットは、フィロ+ソフィーという音素を聞いて
     あ〜〜フィロ、ソフィー・・・ね・・と判断するんです。
     
      フィロという音素は、ラテン語では 友 という意味を含む  
      PHILOSフィロ から来ているそうなんです。ソフィーという音素は、 SOPHIE,ソフィーで、ラテン語のサピエンティア(智慧や賢者)で、SAPIENTIA と記すようなんですが、

     日本語でも通用する、ホモサピエンス という音素の
     サピエンス(知恵、賢慮) と フィロソフィーのソフィーは、同類言語だそうです。

     P の音素が、カタカナのパピプペポになるので、関係性が見えないのですが、P の音素は、ハ行の音素なので、アルファベットを母国語にしている民族は、それほど、哲学フィロソフィー(智慧の友だち)と聞いても、難しい認識・・という感じをもたないんです
    むしろ、ソフィーという音素の名前の女の子はワンサ、、笑と
    いますから、なんだか、「ソフィーちゃんのお友達」

    という意味が  日本語では、哲学・・・@@ という音素によって、普遍化されるのですから、
    一般性、大衆化の波に全然、追いつきません。

    哲学というイメージが悪すぎるのだと思うのです。
    哲は 鉄、徹・・・ですしね?
    誰が、こんな堅苦しい名前を、最初考えたのでしょうね?

    実際思考はすでに哲学思考しているのに、自分では哲学してないと、思っていたりするらしいんですよね。
     智慧、叡智の友 という意味がフィロソフィーなのですから・・・

     という事でして、なんだかややっこしい説明になったのですが、
     中学生の学校の授業の科目にはないですけど、
     何故?
     人々は、あの人は美人だとか、あの人は、かっこ悪いとか
     あの人は、堅実そうだとか、あの人は、意地悪そうだ・・とか、
     あの人は横柄だとか、・・・・・


      判断するのでしょうか?・・・・という疑問は中学生達を相手に話すと質問がでてくるようです。
     本棚に、中学生達と、ある哲学教授の対話形式でおこなう哲学の授業の様子が記録として書かれている本があるのですが、
     対象年齢は中学生です。

     どのような議題が中学生という年齢の子供達の頭にあるのか、議題のテーマだけ少しひろってみます。

     一人で生きる事はできるのか?

     友だちって何?

     何故?どんな理由があって、愛が必要なのか?

     死は、本当に最後、全ての事の終わりを示す事なのか?

     戦争って何?

      わたし達は、ほんとに自由なの?

     何が?真実なの?

     何が?正義なの?

     何が美で何が醜なのか?

     何故?夢を見るの?

     科学は、本当に、全てを説明できるの?

     わたし達は、欲しいと思ったら、本当に何でも買えるの?

     読むと、熟考するの違いは?    ETC

      
      何ですが〜・・・・学校授業の科目に哲学はないのですが、

     実際、彼らの思考には上記のような疑問があるらしいんですね。

     その疑問にたいして、子供達だけで、ダイアローグさせて、
     先生は、方向性だけみて、あまり派生的にすすむ時だけ
     説明を加えるのですが、あくまでも、主役は子供達なんです。
     
     それで、こういう話を、友だち達との間でするのが、おもしろい・・・という反応が得られるんですね。

     上から知職ばかりを勉強させられて、植えつけさせる他の科目授業より
     自分で思っている事を話して、皆がそれなり応えてくるのが、面白いらしいんですね。先生はほとんど、聞いてるだけですし、
     皆が、皆で思っている事、考えて入る事を、放って、それに自分なりに考えている事を放ってみる。そのようなやり取りの場が面白い・・・と子供達は感じるようなんです。

     そういうコミュニケートの場つくりを提供したり、また参加するのも、知の友
     フィロソフィーだと思いますし、そのように、他者達と自分の関係が観得て自分という人間の存在、、他者に関わっている自分は、
    「何故?
     こんなところで、パソコン叩いているねん?」笑

    疑問を持つ事も、フィロソフィー、哲学していると言えると思えます。
    フーコーという哲学教授がまだ高校教師のころ、
    「ボクは、何も君達には教えないよ・・・哲学は知職じゃない・・・哲学は全てを問題とする、、反省の方法だ』・・・と言って、哲学授業は何も、先生は話さないそうですよ・・・・・・笑

     まあ、そんな状態で、誰も何も教えてくれないので、自分で回りの友だちと、色々関係を結びながら、友情や喧嘩や、恋愛や別離、試練、苦悩などなど、、、成長過程で、出会う全てのことは、人間的成長の糧になると思うのです。多分それは何か?具体的な知職や敬虔をするという事ではなく、そのような行動によって、対象を広く、深く知る・・・・というあらゆる思考手段の応用や柔軟性を身につけるという事だと思うのです。
    そうこうしている過程の上においては、あまり、死なないから生きている・・・と言う考えはあんまり浮かばないような気がするんですね。
    でも、タカギさんの仰る内容の意味は分りますし、ある意味大多数のタカギさんのような年代の方が持っている考えに思えます。

    まあ、哲学ではなく、「知恵ちゃんのお友達」・・・みたいな感覚だと
    それほど、かしこまって、何かするという考えにはならない・・というのが、哲学を考えるとか哲学を身につける・・とかいう表現になるのだと思うのです。



     


     


     
      

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  • from: タカギさん

    2009年10月28日 13時51分55秒

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    「Re:Re:Re:Re:タカギさんようこそ。」
    >沙羅さん

    人間の肉体が永遠ではなくて皆死ぬということは、もしかしたら全てが嘘かもしれません。私は、人間があるときになったら、キリスト教でいわれる最後の審判の時がやってきて生き返るのかもしれないと思っています。

    ここが難しいところで、「人間は死んだらどうなるのか」わかりません。天国へ行くのか、地獄へ行くのか、無になるのか、いろいろな人がいろいろなことを言っています。他人の死は幾度となく見てきていますが、私の死はどうなるのか、肝心なところがわからないのです。

    生きることへの喪失感は豊かさが生み出した産物ではないでしょうか。たしか統計によると、戦争中は自殺率が低いです。また、貧しい国の人々の自殺率も低いです。しかし、衣食住が満ち足りて豊かになり先進国になると、自殺率が高くなるようです。私はこれは贅沢病ではないかと思います。毎日の生活に何不自由なくなると、現代医学でも克服できていない「死」が怖くなります。そして、この恐怖に打ち勝つために宗教が顔を出してきます。しかし、日本人の場合、仏教、キリスト教、神道、新興宗教が好き放題に混じり合っていて、特定の宗教のみを信仰している人はほんの一握りです。死んだら漠然と、いいことをした人は天国へ行き、悪いことをした人は地獄へ行き、天国では先人と会うことができると何気なく思っているのが多数派の日本人ではないでしょうか。あまり深刻に死後のことを考えない人が多いです。

    子供を産むことは人間至上主義に加担することです。よく、「エコ」という言葉を聞きますが、本当のエコは人間が地球から滅びることだと私は中島先生から指摘され、その通りだとうなずいてしまいました。地球から人間がいなくなれば、豊かな自然が復活することでしょう。

    私は、哲学は方法を間違えなくても大変危険なものだと思っています。反社会性を濃密に含んでいると言ったらいいのでしょうか。哲学はどんな不謹慎なことであっても問い続けることを止めようとはしません。親しい家族を殺された人の前であっても、「なぜ人を殺してはいけないのか」と議論するのです。自殺社会である日本においては、毎日100人近くの人が命を絶っているのに、果たして自分だけが幸福に浸っていてもいいのか、とも哲学は問います。もし、100人のうち、10人だけでもいいから、彼らが自殺する様子を複数のモニターで見ることができるとしたら、私達はその様子を見ていながら耐えられるでしょうか。ましてや、私は幸せだと思えるでしょうか。

    ニーチェが亡くなったのが1900年ですから、当時の精神医学では助けることは無理だったという知り合いの方がいうことについては賛同できます。1950年にクロルプロマジンという薬ができるまでは、統合失調症患者(旧名:精神分裂病)は精神病院内に閉じ込めておくしか対処方法がありませんでした。発狂してしまったらお終いという時代でした。それが現代医学の発展により、ハロペリドールなど新しい薬が次々に開発され、極端に重度でない限り、また、自分及び他人に危害を加えるおそれが無い限り(精神保健福祉法)、今では統合失調症患者を入院させずに、外来で薬物療法で対処できるまでになりました。統合失調症は脳内の神経伝達物質の病気と位置付けられるようになりました。ニーチェの時代と比較すると雲泥の差です。

    「幸せになりたい為に、この世に生まれて来た」という願いや希望は、私の中では消滅したようです。ただ、毎日があり、ただ死なないから生きている、そんな感じです。

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  • from: めるろ〜001さん

    2009年10月28日 13時45分03秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんようこそ。」
    >タカギさん

    この「最高の智慧」は「知恵」でもないし、最高という定義も書いてあるのですが、中々、一言ではいえないというところが問題ですね。
    段階を追って下さい。と書いてあります。

    > 「最高の智慧」を獲得する方法を対機説法で説いているのが仏教だと受け止めたらいいのでしょうか?
    > もし、「最高の智慧」があるとしたら授かりたいものです。

    ご指摘はその通りです。

    また、このサイトは、相手を認める立場で書く人であるならば、
    どのような信仰を思った人でも構いません。

    コミュ二ティが、違う立場の人を認めないと、
    ただの引きこもりの集まりになります。

    勿論、僕と沙羅ちゃんも違う立場です。
    しかし、お互いにそれを認め合うからお互いが存在する。
    中島先生の考えには、同意していないということですね。(笑)

    私たちが、沢山いて、沢山の思考がある限り必要なことだと思います。

    「文字の先」「言葉の先」については、先人のいい言葉を発見したら、紹介いたします。

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