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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: yeshangさん

    2011年01月31日 12時03分40秒

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    閑話です

     貧富の二極化が言われています。
     二極化の一端は、「働く」ことに「イ(にんべん)」の付かないはたらきかたをしている人が増えたからではないかと考えています。

     「イ」のつく技術も哲学も宗教心もつくような働き方をしていないと、動いてお金を頂いて命をつないでいるだけになるのではと。

     ニート、派遣切りで宿なし、あげくに生活保護の様子を見ていると、働いて、考えて、想って、神仏に感謝の生活のできる社会について政府も教育界、宗教界、人文科学者も一般人ももう一度考えなければならないと思っています。

     極楽蜻蛉の私は、さて、何を考え、なにをすべきか?悩むところですが。

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  • from: 沙羅さん

    2011年01月30日 17時17分38秒

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    「Re:Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
    > ふと思ったのですが > > 人知を超越している神が存在するというのと > ブッダの存在を信じるというのは、 > 根本的に違うと思うのですね。 > > ブッダは人間であり、お腹も空くし、 > 旅もする。その足跡を辿るということが信仰に基づかないでも > 可能ですね。 > > しかし、神の存在は違いますね。 > 「神が存在する」という信が無いと、 > その存在を探求できない。 > > 神の仕業という自然物や創造物が多数存在しますが、 > それが神の仕業であるとは断言できない。 > > 信と真は、 > 信から神は存在するし、 > 真からブッダは存在した。


    哲学する上で、この形而上の問題についての議論はある意味、興味深い問題ですが、

     どちらにしても、私達は人間であるという肉体を有す、、、
     という人間としての立場においての言説を放っている・・・・という実態を意識にとどめておかないと、
     それこそ、議論を続けているのを見ていると、日本の議論場でよく感じるのは、「病院に行った方がいいかもしれない・」・・・

     と回りの複数他者達が思うような言説を無意識に真剣に放ってしまうようなんですね。

     昨日、フランステレビ、9時からの番組で、パトリック、セバスチャンという芸能人で、バラエティー番組の司会をする55歳くらいの男性の方が出ていました。

     「僕の場合は、母親が他界した時も一筋も涙を流さなかったんです・・今でもそうですよ。あまりにも、母親が近くにいるのを感じるし、本とに居るんです。お化けの話や幽霊の話をしているんじゃないんですよ。母親が彼女の存在の仕方で、僕にコミュニケートをとって今までの人生の迷いの地点で、助言をしてくるのが、ありありとわかるんです。」
         とこの番組の司会者と話していましたが、

     これを聞いて、パトリック、セバスチャンの言説をただの妄想と判断するか?それとも、ある心霊世界のコミュニケートを体感できる人には、なるほど・・・・と思わせるエレメントがあるので、彼の体感が、個人的な妄想に過ぎないか?あるいは、ほんとに、なんらかの死者とのコミュニケートであるかの判断は、やはり同体感、類似体験という体験者でしか分らないとおもうのです。

    彼が、放った言葉で、
    FACONその人独特の流儀、仕方、流儀
    DE 〜の
    SA MANIERE 彼女のやり方、彼女の特徴がでる仕方

    という言葉が放たれる。

    これは、言い換えれば、親密な家族関係、生活を共にして初めてわかる、個人的な生活に対する流儀とか癖とかいうものですし、
    その個人的な流儀が、どうして、その人にそのような考え方や仕方、立ち振る舞いをさせるか?
    という理由を家族は分っているのだと思うのです。

    死者が残された、遺族にコミュニケートをとってくるとしたら、やはり、個人的な生前の癖や流儀や立ち振る舞いや、個人的な関係にしか分らない仕方で伝えてくるようなんです。

    ですから、そのような事を突然言われた、他者は闇雲に、自分に類似体験がないからと言って、理性的でないとか、信憑性がないとか、つまらないものを、信じて、、、というような唯物論、又は?無神教?的な人たちが持つ価値観を、押し付けたり、個人的な判断を諭すとい野蛮なコミュニケートを取る事は、他者<人間>とのコミュニケートをしようとするその意欲や欲望までも壊すのだと思うのです。この人間の心の接し方にまず、問題があるように思うのです。自分に感じられないから又は、数字に現れないのは全て間違いであるという考え方ではなく、
    何故?
    そのような体験をするのか?
    何故?
    予知体験をするのか?
    何故?
    そのような声が聞こえるのか?


    形而上の世界の現象の事を、形而下の世界の思考の仕方で、何かを証明するという事じたいが、もうおかしな話に思えます。

    むしろ、最初から、表現は短直ですが
    「自分は唯物論者です」・・とはっきり 述べてくれる方が誠実でしょうし、それに対して、議論場での皆の反応も「ア〜そうですか。」ですむのですから、

    個人的な価値観がどのようなエレメントにゆだねているのか、
    それは個人の問題なのですから、
    自分自身で決めればよいと思うのです。そのような事は自分自身で決めるべきに思いますし、他者がそこまで関与するべきでもないように思えます。
    それくらい自立した個々の考え、思考を象るものは自己、個人の経験に因るのはごく自然におもうのです。

    その個人の発する 言説は個の身体も含む言説であると思えますから、他者への尊重であるとか、他者への存在のあり方を認める・・・・という方向にいくと思うのです。
    どちらにしても、平等とか愛といった言葉を放つ以前には、個の自立や個の独立といった、精神的な個への尊重や個の存在性を、存在させる意識が能動的に働かないと、真の個の平等という意識へと展開するべき流れは滞ると思われます。

    哲学での形而上世界を議論する場合は、

    まず、私達にとって、神とは何か?<信じる、信じないという点に意識を固定させるのではなく>
    神の概念の源は何か?(無信仰者の家庭)又は(信仰者の家庭)
    神の本質的性格ー>体験によって知る。神秘的霊感者の世界
           ー>神の認識と類推によって知る

    神の存在証明ー>論理的で古典的証明の方法は、
    ア、ポステりオリ(充足理由)
    又は、ア、プリオリ(矛盾の原理)という地点から議論を展開できますし、又、出発を世界<宇宙論から>から、又は人間<心理学的>から、ア、ポステりオリ充足理由によって、議論な成すとおもいますし、神そのものから出発する、つまり神の性格の絶対性を明示する何らかの基礎的事実を複数他者達の同一意見から出発する証明は、ア、プリオリ的です。
    次に物理的世界から出発
       合目的性による証明つまり目的論的論証、また、因果性によってまたは動力因によって・・・・

    それから、神の否定
     これは無神論<ATHEISME>とは何か?現代の無神論、哲学的意味(例えば、マルクス主義の無視論であり)実存主義の無神論であり、

    そして、宗教に関係なく神秘体験を体験される人たちに興味深いのはLE PANTHEISME汎神論でしょうかね?
    神の否定と単調に表現しても、それまでになす議論や展開の流れがありますし、、、、、近代汎神論の発展の仕方には、普遍性を見抜くという哲学意識の底辺にあるSENS は多いに触発される問題なんです。

     ま!神の存在についても否定についても、やはり個々人の人格が成す、経験や意識そしてその精神が存在する次元というものを察知し、他者との心のネットワークによって、すこしずつ 価値観を共有体感できるか?出来ないか?・・・・・
    そのような、複数他者達との間における実践でしかないと思うのです。




     

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  • from: めるろ〜001さん

    2011年01月30日 14時25分03秒

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    「Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
    ふと思ったのですが

    人知を超越している神が存在するというのと
    ブッダの存在を信じるというのは、
    根本的に違うと思うのですね。

    ブッダは人間であり、お腹も空くし、
    旅もする。その足跡を辿るということが信仰に基づかないでも
    可能ですね。

    しかし、神の存在は違いますね。
    「神が存在する」という信が無いと、
    その存在を探求できない。

    神の仕業という自然物や創造物が多数存在しますが、
    それが神の仕業であるとは断言できない。

    信と真は、
    信から神は存在するし、
    真からブッダは存在した。

    仏教の場合は、この修行をしたらブッダと同じように
    <智慧と慈悲を得ることが出来る>ということを信じるのですね。

    仏像を拝むというのは、その仏像の姿や謂われ、意味づけから
    ブッダの言説の意味に辿りつくということです。

    ただ、拝むというのはアニミズムの名残りだと思います。

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  • from: 沙羅さん

    2011年01月30日 07時01分01秒

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    「Re:Re:地球 ひとりある紀」

     
    むか〜し、父の運転する車に乗っていて、前方から来る車がパッシングをするのを見つけたとき・・・・

     「どうして?ライト上向きにするの?」と聞くと
      父は
      「おまわりさんが、そこらへんにいるんだろう?」という応えが返ってきて、このパッシングというコミュニケーションがとてもうれしかった覚えがある。アレ?

     当時から知らない人とのコミュニケーションにすごく嬉しくなるという性格だったらしい。<自己分析>

     フランス語は、ウインク目ばたきを意味する時
    、CLIN クラン
     と言う音素を放つ
    、ウインカーもウインクが語源だから、
     点滅という漢字は、ウインク、やはり目のサインを現すんでしょうね?

     光が一瞬放つ、という現象は、目のウインクという交差でコミュニケーションするあの空間を貫く閃光にお互いの同時に感じている事がバシッと交差する瞬間なのかもしれない。

     フランス人の日常会話を聞いていると、年齢が高くなるほど、しかも男性にこのウインクで何かを、伝える行為をする人が多い。皆集まっている会話の中で、自分の立場や自分の欲している事を、主張したくなる時、実にうまい具合に時を選び、例えば、奥さんが見ていない時に、他の人達にウインクをしたり・・・という具合なのだ。
     これが実にかわいい・・・・・
     目の前の男性は60歳以上にも関わらず・・・

    「 あ〜・・やはり魂に年齢はないんだ・・・」と思わせるほど、

     なんというか、子供みたいなかわいさというか、やんちゃな子供が、母親の言う事を聞きたくないけど、あまりにも母親のいう事が理にかなっているので、反発できない・・・あの我慢させられてる子供の心理状態にそっくりに見える。

    それが、ウインクという形にでてしまうのでしょう。

    「 自分は一応、貴女に同意するけど、本音はいやだもんね〜」
    という思いが、皆にウインクする事で、他者とコミュニケートを取り合う時がある。

    その様子を不意に見せられると、時たま、おかしくて、ひとりで爆笑してしまう時がある。
     
     魂には年齢がないという事は、あのスピリチュエルの江原浩之の霊視をみていても、やはりそうらしい・・・・・という感じがする。YOUTUBEで見た録画で、
     赤ちゃんを事故で亡くされた 遺族全員が、赤ちゃん、死者からのメッセージを知りたくて救いを求め、江原氏に手紙を書く。

     遺族内の人間にしか知らない、おじいさんの最近の健康問題を、江原氏が述べるのだ。
     一歳半の赤ちゃんがあの世から見ていて心配する遺族への思いらしい・・・

     「病院に行きなさい!」といつも言っているのに、おじいちゃんは行かないんです。
    と家族は、おじいちゃんが積極的に病気を治癒しようとする気持ちが孫の無残な死によって、打ち消されてしまった。
    遺族、家族の不安な気持ちは、赤ちゃんにも伝わってしまっている。
    赤ちゃん自身が心配しているんです・・・とメッセージを述べてくる。
     孫の死は、祖父母にとっては大変な心の打撃に違いない・・・

     生きる長さは後、どれくらい?残っているのかな???
     年を重ねれば、重ねるほど、、未来への長さは短くなっていくの???・・・
    先の時間いや残された時間?
    短くなるほど、何か、とてつもない永遠の未来へのつづくであろう存在をさがすのだと思う。
    身近の人間からあふれる生への根源というものを、感じ取る事で残された生、人生は活性化するのでしょうね。、
    希求運動のモーターは、アクセルが入る。

    存在しようと、存在し続けようとする・・・

    あのくったくのない笑い声、あの透き通る瞳孔の奥の深さには、世間の口先きだけの心無い嘘八百など一瞬に見抜くのであろう・・・という感じを受ける、
    赤ちゃんや子供のあの限りない生命力というのは、本とに驚く。

    何をしても探求欲の塊で、なんでも食べたく口に入れ、なんでも知りたくなり、何でも試してみる。怪我するとか病気するとかいう知識がないので、そのまま、生の塊という感じが伝わってくる。

    そのような毎日が赤ちゃんの突然の無残な死によって突然、消えるのだ・・・・

    わたしも、時々、言葉でとても拾えない 悲しい不幸な体験をされた人と話さないとならない、、なんとか心の重荷や苦しさを、軽減させてあげたい気持ちにさせられるけど、心の篭る言葉というのは、それほど、簡単にでてくるものではない・・・

    言葉は要らないから、背中を抱いてあげてさすってあげる方がよほど、その人にとっては安らぐ時もあるのでしょう・・・と思う時がある。

     I さんが、去年の待つ、新聞で知人の訃報の記事を読み、お葬式に行った。
     それほど、近しいとはいえない、お客さんの一人だったけど、ご主人はすい臓がんで、あっと言う間の他界をされた方だと言って来た。
     お葬式では、その奥さんに泣きつかれて・・・自分の存在性に驚いたという。
    彼女は、よく、このような立場に立たされる事を述べてくる。
    Iさんにとっては、突然の他者の行為なので、一瞬言葉が放てないという時を経験する事になる。

     この人の心の近さというのは難しい、自分の存在をどのような近さで相手が思っているか?というと、大変難しい。

     コミュニケートというのは実際は言葉を交わす事ではなく、知らない他者達が、言葉を交わす事ができる近さに辿りつく・・・
     その途上のコミュニケートではないか?と思ったりする。
     

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  • from: 沙羅さん

    2011年01月29日 17時00分45秒

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    「Re:地球 ひとりある紀」

     コミュニケーションそれは、 人との対話、人と話す、人と笑う
     人と一緒に悲しむ、人と怒りの思いを共にする、人と失望感を共 にする・・・・・・・・・そして、人を愛す、
     そして愛される  ・・・・・そして、そして・・・・愛される存在として、永遠に存在し続ける・・・・・

     ほんとうは、このような思いが、転生する目的としてサイクル
     しなければいけないのではないか?・・・・・・

     能動化させなければならないとしたら、後ろ向きに時間を追い検証したり審議したり、そのような実態の結果ばかりを、ア〜だこ〜だ・・・他者達とのべていても、誰も振り向かない事をしているのではないか?

     人々は何を?
     求めているのかしら?

     人々は、何を?
     見つけようとしているのかしら?

     それは、やはり

     何故?

     ここに自分がいるか?
     であって、

     決して、両親の存在による、男女の行為の結果というような低次元での笑いを誘おうと、大衆の共感を得ながら自己の存在性をアピールするのもそれはそれで一つの生き方なんでしょう・・・

     しかし、それでは、いつまでも、いつまでも、現地点、現状肯定する事のみに安住の地を見つける・・という事になりませんか?

     お腹が空いたら、お腹に物を詰め込めばいい・・
     というような動物と変わらない位置にいる事?

     お金が足りなかったら、お金を稼げばいい
     足りないものを埋める???????????

     足りないものは、物(質)ではなく、

     今の 私達の世界に足りないものは、他者の心とか他者の愛

     そのような、他者との心の繋がりを感じる事が出来ないからでは
     ないでしょうか?

     わたしは、寂しい・・・・・
     貴方がいなくて寂しい・・・・(孤独感)

     この日本語の表現は、主体発信なんでしょうか?

     わたしは、寂しい と感じるー>わたしという自我の完全性は、いったいどのような世界なのかしら?


     わたしは、寂しい  という日本語は仏語では、
     わたし という主体が感じる表現としては放たれない。

     コミュニケートの不通はどうもここら辺にあるような感じがして仕方ない。

     寂しいのは、何かが 足りない・・・寂しいと感じるのは、
     自分が、存在しようとする世界、自分の充足感を得るのに、不足している何かの存在を感じるから、寂しいという表現になるから、

     仏語の表現は、 寂しいという感情を表現をするのに、

     足りない manquerマンケー という自動詞を使う。

     何かを購入したいという欲望があり
     自分に十分な金銭的余裕がない時の表現は、
     ただ「お金 がない」という単純な結果表現に過激に結びつける
     ような言葉を、空にバトルのように放つのではなく、

     MANQUE不足する、欠けている DE〜の MOYENS手段、資力、能力

     財が不足する・・・・というようなもう少し抽象的な表現で、人々は会話や対話うぃ心がけてもよいのではないでしょうか?

     人々の意識は、お金(物) そのものに意識を捕らわれ、それ<お金、物>が一番大事だと思い(信じる傾向にあり)それ(お金、物)しか、視野に見えなくなりがちになりになりませんか?・・・・・

     無意識というのは、無意識なので、自分自身が気がつく事が出来ないというところに、意識を向けられるのは、第三者・・・つまり他者の言説しかいないんですよね?

    無言の他者達なんです。

     無言の他者達とコミュニケートをとる事が出来るのは、もちろん目の前の人達ともコミュニケートが出来ていると思うのです。

    ところが対峙する相手が言葉をたくみに使う人だったり、難しい言葉ばかりを並べる、なんとか対峙者を言いくるませる、認識や知識だけを、対峙者に放つ(権威的)等々・・・・

    このような、紋切型のコミュニケートばかりでは、物見見物か?ただ一瞬の快楽のつもりで眺めているだけの第三者達の心には全然届かない言葉ばかりに思えます。

     何故?

     知らない他者達が、自然とどこからともなく集まるという現象はどうしてなのか?わかりますか?

     自分の放つ言葉の音素に理由がある・・・という事を
     ちゃんと体感できますか?

     わたしは、あなたがいなくて寂しい・・・・・・・

     という表現は、

     TU ME MANQUE あなたが、わたしには 欠けている

    という表現なので、わたしという主体発信ではなりえない

     あなたという存在がわたしを完全にするのは欠けているという意味ですよね?

     あなたとわたしがいなければ、完全な形の世界が造れないという地点に立ち、言葉を放つという事は、

     言葉が、あなたとわたしのコミュニケートに必要だから言葉が生まれて、今まで続いて、これからも続いていこうとしている・・・・・という、明日への架け橋の途上にいる・・・

     という事ですよね?



     

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  • from: 沙羅さん

    2011年01月27日 08時02分35秒

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    「Re:Re:地球 ひとりある紀」

      他者の言葉をず〜〜と聞いていると、最近本当に多いとおもうのは、
     何故?
     言葉をバラバラに切り、知覚するに至ってしまうのかしら?
     と思うのです。
     川のような流れが底辺にあると思うのです。
     人生を導く、川の流れ・・・

     ところが、過去、現在、未来へと流れる、川の根底にあるSENS<矢しるし>方向を感じ取ろうとしないと、
     何故か?
     結果すべてバラバラに捉えているのを感じるのです。
     文章も、行、単語、シラブル<音節>、文字など・・・

     正常な精神状態では気つかない、例えば、文学を読む時でも読書をするとき、文字やシラブル<音節>が、語を形成していることに気がつかないのですが、行から行への移行の際の中断は、観察されえないのです。
    しかし、文を読む時、又は自分で語る時も、前意識の過程は、それらの後続<時間軸でいう未来>に続くつづりの理解のために、過去
    の語の知覚の記憶材料を、必要な時に意識内に導入し、活用するという事を自然にしていると思うのです。

    これが行われないと、思考のスタンスの長さに大変影響があると思うのです。

    先見の眼があるという事は、視線は目の前の事物にFIX固定しているのではなく、なるたけ、遠く、遠くに視線を放つという事ですよね。

    つまりそこには自然と複数他者の存在が含まれてくると思うのです。
    そのスタンスの長い視野の途上のいったんには書き込み行為があるという事ですよね?

    書き込み行為だけが独立しているのでもないはずなのです。
    そしてサイトやコミュニティーがあり、そこでの人間関係があり、仕事の友人関係があり、近所のお付き合いがあり、家族の人間関係があり、他者の存在があり・・・・・・・エトセトラ・・・

    すべて関連づけられると思うのです。
    ですから、例えばです、
    今さっき書き込みした、誰それの格言の言葉が、パソコンから離れ応接間のいすにすわり、パラパラ目前にある家族が置いていった雑誌をめくっていたら、同じ格言が載っている。

    ハテ?

    時間は、応接間で読んだ雑誌の内容を記憶したから、書き込みをするという時間軸上の行為とは、逆になっていたりする。

    こういう事が生じるのは、スタンスを長く、長く、目前の事物の情動バタバタさせてもいけませんし、他者の文章の行間を切って、コピペをして、質疑応答を機械じかけのロボットのように永遠にしていては、超越には程遠いと思いませんか?

    また、こういう事もよく起こります。時間の流れの中での継起という事が次々生じますよね?
    その人物そのもの(現実)と、その人物に関する思考(観念)という二つの相異なる水準間の境界(これは自我境界です)の崩壊によって、
    同一水準におけるひとつの因果系列として体験されてしまう事もあります。

    長時間話すとだいたいわかるのですが、言説の内容が、抽象性を失う・・・という事は、共同体を維持しようと仲良く機能させていこうとする世界にとっては、あまりよい傾向ではないんですね。

    目の前に見えるもの、事物はすべて、因果関係で成り立っているという重なった部分を感じる事ができず、どうしても、判断するには境界線を引かないと、表現出来にくい、現れないようなんです。

    時間を追うという反応もそうですし、根底の流れの方向SENSを感じると、 だいたい次ぎに起こる事が観えてくるのだと思うのです。
    これは超能力とかそのような特別な能力とも思えないんです。人間に備わってる感性が少し発達したくらいではないか?と思うのです。

    自分が抱く思考つまり自我状態とは、自我は、刻々、時間、場所の変化における各状態を意味するのだと思うのです。

    その時、意識内へ過去の記憶材料、、つまり自我備給をその都度行いながら、他者とコミュニケートをしていると思うのです。
    この備給が欠乏すると、前意識的な自我機能が減退し、

    結局、目の前に現れている現象のみ・・・つまり、過去、現在、未来のつながりを感じられず、時間の切断面に自己投影してしまうという感じなんですね。
    つまり、対象に意識がFIX<固定>されてしまうらしいのです。

    対象がひとりの異性・・・という事であったり、例えば、ストーカーという現象も結果がストーカーという単語でメディアは情動を動かすのですが、ちゃんと、分析をすれば、対象に自己投影し過ぎという事だと思うのです。

    この対象はオブジェは、人間の場合は物として扱ってはいけないのですよね?

    メディアの流す画像の特徴をみるとわかりますが、部分に集中する。例えば、芸能人の足だけ、腿だけ、あるいは、胸だけ、、
    つまり、視野に入る物がオブジェtとして、網膜に映るという事はどのような事か?わかりますよね。
    性欲を煽られる・・というような結果に繋がっていきますよね?

    ですから、一点や部分または派生的な事のみに集中するということではなく、全体像を観ないと、物と物の因果関係が見えないと思うのです。

    全体像は、現れ方・・・・つまり存在の仕方・・・なんです。

    なんだか、話があちこち飛んだみたいですが、パソコンの画面の字だけに自己を過剰投影するという事ではなく、何故?
    パソコンの画面にそれが現れるか?

    その時、電話が鳴ったりしますよね?

    何故?
    パソコンで昔の写真を見ていると、その人から電話がかかってくるのか?

    そうすると、今度は、家族がその時帰ってきて、何かを言説を放つとしますよね?その言説の内容も、
    何故、その時に放たれるのか?
    と考える<ま!あまりしつこく考えてると、いつまでも行動に起こせませんけど・・>

    すべて繋がっていると思うのです。自分の存在は、孤立していないというか、自然の一部として生かされているという感じだと思うのです。

    花束は、2009年、7月18日、結婚なされた智ちゃんとR君の結婚式で、花嫁、智ちゃんが持っていた、ブーケ。お母様が他界された3週間後の結婚式だった。

    何故か?

    娘が帰り際にいただいてきた。

     パリに聖母マリアが出現した1830年の7月18日と同日に知らない間に決まってしまって、後から私に言われて気ついたという。

    ルルドの聖母マリア出現の前にあたる。

    弓恵ちゃんもパリについたし、不思議のメダイュを最初にわたしに関係づけた、Iさんもパリでの仕事の為にパリについた。
    智チャンも、弓恵ちゃんに会いに、うちに泊まりがけで来るという。波動の強い人達がうちに集まるといったいどうなるのかしら?

    先に酔った方が勝ちかもしれない!アレ?



     

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  • from: 沙羅さん

    2011年01月27日 00時05分49秒

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    「Re:地球 ひとりある紀」

     それでです・・・
     10月15日、2010年に
     3年ぶりに、超能力者のWさんに電話をし、予約がとれるか聞いてみた。
     九州の旅のスケジュールを組んだのだ
     それと、R子さんのご主人の命日はだいぶ過ぎていたけど、
     ご主人のお名前がプレートとして壁に埋め込んであるある、
    フレンチレストランにわたしは、彼女を食事に招待したかった。

     R子が、わたしに初めて「一緒にそのレストランに行ってくれる?」
     と聞いてきたのは、2006年初めて彼女の家に招待された時だと思うのですが・・・・
     亡くなられてから一度もいけなかったと述べてきた、
    ご主人との思い出が詰まっているレストランなのだ。それで、わたしと亡くなられてから初めて二人でまた食事をしに行った。

    そのレストランに今度は私が、招待しようと思い、10月16日・・つまり戒壇院を訪問したあと、福岡に帰り、R子さんとそのレストランで食事をする為、予約をいれてあった・・・という展開だった。

    そのレストランは二人にとって思い出のレストラン。
     ご主人は九州に赴任されて、そのレストランが開業出来る様に、色々お手伝いをしたらしい。日本人経営者のフレンチをたべさせてくれる、おしゃれなレストランが福岡にあるのです。

     それで、、R子さんとご主人がいつも予約する席に、名前が彫られているプレートがテーブルの横にムッシューOOOOさん居られた席と、フランス語で書かれたプレートが埋め込まれている。

     それなのに、何故か?

     戒壇院の和尚様は、「あ〜〜〜おそば食べたいなあ〜!」と、午後の4時頃なのに、お蕎麦屋さんのご主人に田中さんの事を3人で話している途中に仰った。

    ま!手つくりおそばを4時に食べられて、お夕飯は大丈夫なのかしら?と心配するのをよそに、お蕎麦やのご主人は、わたしにも二つ、お蕎麦を作ってもってこられて、これには、大変困った。

    わたしは食がそれほど太くない。

    こんな中途半端な時間に食べたら、今夜R子と一緒にフレンチなど全く入らない・・・とひとりで大変困った、

    目の前のお蕎麦をどうしたらいいか?

    困った。困った・・・・

    と思って・・・仕方ない・・・

    せっかく、作っていただいたので、お腹は全然空いていないのに、無理して食べた。
    この時、亡くなられた、田中さんの事を、お蕎麦屋さんのご主人は不思議な体験を話していた。

    しかもあまりにも不思議な出来事なので、記録に残されているので、その記録をわざわざ、わたしに見せに来た。

    戒壇院の和尚様は、別に不思議でもなんでも無い・・・風にご主人の田中さんの話を聞いていらした。わたしは外で待たせているタクシーの事も心配しているのに、

    いきなり「お蕎麦食べたいな〜」と仰られたので、目点になったのは、言うまでもない。

     田中さんが亡くなられたのは、2月3日だそうなのです。

     そしたら、今朝、台湾に出張している 
    年末にフトみつけた昔の恋人からメイルが来て、
    「2月3日が、今年は、中国の正月になるらしい。」

     と書いてあった。

    http://www.youtube.com/watch?v=25LRZdbyZXg


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  • from: 沙羅さん

    2011年01月26日 02時11分38秒

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    「Re:Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
    MSG977の続き、

    なんだか、今977を読み返したら、日本語の文章ではないわね〜と思いながら・・・・
    何を述べたいのか?というと、

    神の問題なのですが、

    J ラシュリエの本に、「心理学と形而上学」1933年

    という本があるのですが、

    その中に、或るものを知るためには、いわばそのものになり切らなければならない。従ってそのためには、まず自分自身、他のものであってはならない。

    という事が書かれているんですね。

    これは神の問題だけでなく、

    あるものを、知る・・・・という事は、

    その人やそのものの、次元に立つ、その人の心域に達する
    という意味だと思うのです。
    ある人の言説がわかる、例えば、記述、聖書や経典にしてもそうなんですが<経典や聖書は、キリストやお釈迦様の実筆ではないのですが・・・・>それにしてもです。

    知るという事は、少なくとも、放った人になり切らなければ、心をはわす、という事がなければ、いつまでも、自分自身独自の解釈に留まると思うのです。
    つまり他者を介していない事につながり、普遍性をもたないという問題が付随してくると思うのです。

    そのような事を考えると、神の存在を語るというのは・・・・・・・・人間側にとって、いったいこういう事を話そうとしなければ、ならない人間のおこがましさみたいなものだけが、クローズアップされてくるみたいで・・・・・どうにも、積極的に話そうという気持ちが沸かない。

    不思議な事は、確かに日常茶飯事に生じるんです。

    友人R子と観光していた、観世音寺で、突然知らない田中さんと名乗る男性が話しかけてくる、あれよあれよ・・・・戒壇院の公開してない、昔のお茶室などに通されて<入り口は這うように入る感じだった。よほど昔の人は小さいのでしょうね?156CMのわたしでも天井に頭がつくくらいなんですね。>
    空海も入ったのかしら?

    空海がお経を読んだら、池のカエルが泣き止んだ、泣かずの池の前で田中さんは、突然わたしのカメラを撮って、池を背景にわたしを撮った、R子は入っていない。

    それから、戒壇院の本堂ここも普通は僧尼しか入れない。

    田中さんは、結界を仕切ってある棒を外し、階段を登ってと背中を押す。田中氏は、自分は登らず、大日如来<ル遮那仏>の前に腕だけだして、床をドンドン叩く。「ここまで来て、ここまで来て」

    とまるで何かにとり付かれたような感じだった。

    「ありえない!」・・・・・

    何か外界のものがいて、強制的にそのよう展開するようしくまれているように観えるのだ。

    ・・・・それだけではない・・・田中氏は翌年、急死されてしまう。
    それを知ったのは、R子が自分のお誕生日、6月7日に突然弟さんから電話があり、「おねえちゃん、お誕生日だから、どっかにドライブにつれてってあげる」とかかってきてR子自身が、そんな事一言もいわない弟だし、誕生日を覚えて、電話をかけてくる・・という行為にたまげた・・・・から、「どうしたの?雪でも降るのかな?」と弟さんに話したそうなのだ。

    6月7日は、わたしはフランスの聖母マリア出現のルルドに居た。

    もちろん、R子の誕生日を思い出す事はなかったが、その時、ルルドからR子と、6月15日に他界されたJさんと数人に絵葉書を投函するために、観光局のはす向かいの郵便局に並んで立っていた。
    ルルドの郵便局には、窓口に並ぶ時間、飽きるのでテレビのモニターが天井から吊るされている。

    だからそれを見ていた。そしたら、見たことのある風景が写った。
    SAVOIE県のアルクARC川の渓谷の風景だった。

    何故?ルルドで???ARC渓谷の風景を見なければいけない事になっているのかしら?

    ルルドはスペインとの国境沿い。

    SAVOIE県は対がわ、イタリアとスイスの国境沿いに位置している。

    そのテレビは、観光局の発信の画像を流しているらしく、フランスの観光地の画像を流していた。

    空間はない!

    あの世に空間はないのでしょう?と思わされた実に不思議な経験だった。

    それはそうと、その6月7日にR子さんは弟さんの運転するドライブで、大宰府にドライブし、前年に田中さんに連れて頂いた、3人で食べた、自家製蕎麦のお蕎麦屋さんに行ったという。そこで、お蕎麦やのご主人に田中さんの近況を聞かされて、急死された・・と聞かされた・・と後でメイルに書いてきた。

    これは困った。

    わたしは、次回日本に行ったら、連絡を取るつもりでいた、何故なら、田中さんが翌日も「大宰府を私達に案内したい・・と後ろ髪を引かれる思いを感じながら、わたしは、翌朝早朝関東に帰らないといけなかった。

    田中さんを、あそこまでさせるなんらかの、霊的何かの存在を知りたかった。そしたら2月に急死されてしまった。ご家族も急な事で、特に高齢のお母様にとって、大変なショックな事であるらしかった。

    そういう事を、R子さんはお蕎麦屋さんのご主人に聞いた・・・とメイルをしてきたのだった。

    仕方ないから、3年お会いしていない、博多の霊能者W氏に会って話しを聞いてもらおうと思いそれで、去年日本に滞在中連絡をとった。そしたら、わたしは、田中さんの名刺も忘れ、田中さんのフルネームを覚えていない。

    この時、W氏に田中さんの姿が現れないのなら・・知る時期ではなかったのか?それとも、何も意味がない出会いだったのか?

    色々考えた。とりあえず、10月16日、翌日は戒壇院の和尚様から2日前に携帯に電話がはいり、「午後自由になるから戒壇院にいらしてください」・・とお声をかけていただいた。

    しかし、その時、戒壇院の和尚様と二人で、田中さんの自宅にいきお焼香をしたり、般若心経読まれたり、宝満山の最澄の銅像の前にあるお寺に訪問したり、最後には午後4時なのに、田中さんと行ったお蕎麦屋さんにタクシーを外で待たせて、お蕎麦を和尚様と食べる事になろうなどとは思ってもみなかった。

    何処かの檀家でもなんでもないフランスに住むマダムの大宰府の一日だった。しかも娘の誕生日にあたる。

    本とに、この宇宙には人間と表現していいのかしら?その人間しか人格をもつ魂の存在はいないのかしら?










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  • from: 沙羅さん

    2011年01月26日 00時04分27秒

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    「Re:Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」

    msg974の続き、

     しかし、生きるというのは、どの時代に生きても、前に進まないと、前を見ないとならないという意識の姿勢を問われているんでしょうね?

     哲学の形而上学部門の中には、テオディセー神を義とする…神を問う、分野ももちろんなければならない。

    何しろ、声 VOIX声、ヴォアというフランス語の単語からして、非常に、神的な言葉なのですね。

     しかも神の声を聞く・・・という超越人も実際存在し、そのような人達が敬虔なキリスト教信者なのか?というとそういう事でもないらしい。
     哲学的にこの神の問題を議論するという事は、かなり微妙な立場の人達がちゃんと公衆や大衆の前で向かって話せるのでしょう・・と思っていた。

    何故なら、神を信じる人達が神の存在を説いたり、話したりすることは不思議でもなんでもない。

    お釈迦様や仏陀の存在を信じている人が、仏教を説明したり、仏教の教義を説明したり、勉強したり・・・不思議でもなんでもない。

    むしろあまりにも当然過ぎて、それがどうかしたのですか?という地点にいる世界の無関心一般人が、幾億も回りに存在するという事実を客観的に見れば、個人個人の言説がたとえ、多少過激な表現に思えても、結局判断が下されるのは、回りの複数他者達の存在にかかっている。

    長い目でみれば、何世紀も何世紀も存在感があり、その存在が受け継がれ、忘れない存在で存在し続けるは、何世紀にもわたる他者達の心作用でしょう。
    もちろん、この他者には死者の存在も含まれている。そのような手ごたえを実際感じられるのが、超能力者達なのかも知れません。

    話がそれましたけど、
    久しい間、形而上学の分野においても神の存在は控えめな議題として語られてきたようなのですね。

    哲学は智を愛するという途上においての何らかの探求行為なので、

    最初から、神は存在している。なぜならば、わたしは神の声を聞く・・・という言説を最初から放たれる・・という場面を懸念してしまうのではないでしょうか?

    信仰を持つ・・
    又は、何らかの信の意識が、目的として、探求の行為の途上の先に固定されてしまうと、

    人々は、興冷めするのですよね。

    「真」を探求しているのに、信 の意識は、真そのものではないのですから・・・取り違い行為なのかも知れませんね・・・・

    ですから哲学の分野では控えめな議題として存在するのだとおもうのです。

    しかしです。そんな事を皆で話していてもまったく前に進みません。
    「キリスト教文学は確かに存在します。、ただし、信仰を持たない者達のキリスト教文学が」
    というアイロニーなども盛んに聞かれますが、なにしろ、フランスにいると、アイロニーこそが、人々の価値観をなしてるエレメントなのでしょう?と・・・感じる事もある。


    個人の言説が、気取りや着飾った上辺の言葉、また立場上、世間体であるとか、そのようなもろもろの感情
    例えば他者に、よく思ってもらいたい、
    他者に正しいと思ってもらいたがりの心情<これも当たり前すぎてフランス人には興味はわかないらしい>


    これこそが、社会的な立場での、自己中心的で、これもつまらん行為と判断するのですね。
    大概、そのような光景は、アイロニーとして人々の笑いを誘う、また笑う話題としてユーモリスト達のカッコウの話題になる。

    彼らが見抜きたいのは、潜在意識からの言説なんでしょう。

    ただ、ここ最近は、哲学も神の取り扱いについては、神は存在するという命題に対し、その是非を論じることはできないのですから、、
    そうすると、私達にとって神とは何か?

    という視点で話し合わなければならないと思うのですね。

    どちらにしても、わたしたちに神を知る事ができないのは、いかなる限界もいかなる無ももっていない・・・しかし私達はこうやってパソコンなど叩いている・・・
    いったい、この関連事をどう理解すればいいんでしょうか?

    森羅万象がその存在を意味している?
    その意味では、神はあらゆる物の中に内在している。実際超能力者は何故?未来を予言したり、パワーや波動や気といった、ものを感じ取るのでしょうか?もちまえの絶対的な性格からすれば、神は世界にたいしても、人間にたいしても、ひとしく超越している。
    こういった超越している神の存在の命題論議するのはナンセンスに近い。
    それでも、世界や宇宙という世界と個の関係や因果関係の手応えを体感できる人達にとっては、神の存在は無視できないし、明らかに、なんらかとの対話をしているのでしょう・・・というのが、わたしにも体感できる。

    ただし、それが、神であるのか?守護霊とか先祖霊なのか?又は、なんらかの人を惑わす、他者を支配したがりのなんらかの霊的な存在の声を無意識にきいているのか?それとも、そのような非科学的な感覚世界の事ではなく、ただ自分中心で他者にちやほやされないと、不安でしょうがないという感じなのか?よくわかりませんが・・・・・
    心や魂の霊格というのは、やはり高次になれば高次になるほど、その同次元の波動の人達が自然に集まってくる・・・自然に知らない間に知り合いになる・・という波動の法則は、自然界で動いているようなんですね。

    しかし、それだけで満足してても仕方ありませんから、なんとか、彼らが何ゆえに人間以外の被造物にひとつの人格を持っていると信じそれらのものとなんらかのコミュニケートをする内容が、いったい、どのような普遍性をもつのか?やはり探求欲は膨らむ。

    既存の字を読んでの認識だけでは全く納得できない自分がいる。
    納得できなければ、自己の言説はいつまでたっても疑問形の形でしか放てない。

    このような懐疑論者の姿はわたしも含め
    フランスにあちこち存在しているらしい。

     しかし〜・・・・超能力者にも色々存在するらしいけど、彼らと接してて興味はつきないのですよね。

    うぅぅぅ〜ん・・面白い・・・・・

      世界は色々あって面白い・・・・生きてて面白い。

     

     


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  • from: めるろ〜001さん

    2011年01月25日 21時44分14秒

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    「Re:哲学での形而上学<Meta ta physika>」
    ギリシャ哲学時代の形而上学は
    現世の反映としての世界であり
    現世と独立さえしていました。
    理想郷への道だったのです。

    現代の形而上学という語には
    フィシュカの意味づけ
    つまり「物理現象を意味づける背後の・・・」意味づけを
    担っています。

    推しては、自然現象、人間関係などの意味づけにも
    使われます。

    色即是空でいえば、色が自然現象で空がメタフィジカです。
    どちらかが欠けても、理解されることのない概念です。

    物理現象だけでは意味づけはままならず、
    意味づけの言葉だけでは何のことか明確にならない。
    切っても切れない仲ですね。
    空海流にいえば、
    不二の思想ですね。

    この現象の二層を確認しながら
    それが双方で影響し合っているそういうことが分かれば、
    「色即是空、空即是色」の逆転の繰り返しが理解できますね。

    色と空は容態は違いますが、互いに影響し合っていて、
    切っても切り離せないという意味だったのですね。

    色と空が同じと教えられた人は、その存在形態のことを
    理解していないものと思います。

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