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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: 沙羅さん

    2009年06月30日 13時39分45秒

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    「Re:Re:Re:Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」
    MSG
    316
    の続き

    伏見稲荷神社のあの、赤い鳥居がず〜と並んでいる廊下は、
    確か1000本鳥居があるとか書かれた記事を何処かのパンフで見たのだけど、、、

    神社も、1000 つまり 「千」という数字に意味あるのかしら?
    その鳥居の中で、フト人通りが途絶えるンです。

    その時、鳥居の足元に、動かない岩があって、「何かしら?」と近づくわたしがいるんですね。

    つまりあれなんです。

    意識が惹かれなければ、気がつかないで素通りする方もたくさんいらっしゃるんです。

    観るが見るになっていらっしゃるんですね。

    視線が他のところに向っているいるので、岩に見えるんでしょうね。

    通常の人達の反応を観察したくてず〜と、遠くから、
    人通りの人達の反応を外から眺めて痛かったけど、
    鳥居じたいがかなり狭いんです。道幅が狭いんですよね?

    現象を外からながめるのに、必要な空間の幅がとれないので、とりあえず、修学旅行の子供達に足で蹴飛ばされてあそばれても、可哀想なので、「どっこいしょ、」、結構重い亀さんなんです。

    移動させたのです。

    鶴は千年だったか?、亀は万年だったか?

    なんかそんな日本語の諺を思い出していたんです。

    その赤い鳥居に入る入り口で、30歳くらいの感じのよいカップルがちかくに居て、わたしの方から、
    『二人並んだ写真とってあげましょうか?』
    と声をかけたんです。

    そのカップルさん達は、喜んでくれてわたしが撮ったカメラの中におさまって、
    じゃ、さようなら、、したんですね。

    ところが、それからしばらくした先で、その般若心経を真剣に唱えている一人の男性がいらっしゃる異様な雰囲気の漂う神社につくんです。

    そして、わたしは後方に立って、聞いているのです。
    観光客は、誰ひとり、ちかづこうとしない神社でした。

    異様なんですね。その方の真剣さが回りの人に与える空気がよめないんです。

    そしたら、さっき写真をとってあげた、カップルは、まるでその方の存在は気にしないで、自然とちかづいて、神社の前の取り水?<手を洗ったり、するところ>で手をあらって、その異様なおじさんの、横にならんで、お賽銭をいれて、なんでもない風にそれこそ、何の恐怖感もかんじないで、二人で、回りを眺めてちょっと、言葉を交わし、そして通りすぎてゆくんです。

    つまり、何から、なにまで、行動が自然なんです。
    どのような異様な方の存在にもたじろかない、自分達が惹かれるところに行くんですね。

    このような現象を外から眺めているんです。

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  • from: めるろ〜001さん

    2009年06月30日 11時43分29秒

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    とうとう、7月になりました。

    『秘鍵』の発表も近づき、不明のところを補う説も登場し、
    複合させているのですが、これが大変な作業です。

    さあ、少し前進しよう。

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  • from: 沙羅さん

    2009年06月30日 07時56分26秒

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    「Re:Re:Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」
    皆様こんはんは

    すこし、間があきました。

    日本へ帰国し旅行も兼ねて色々な事が、色々な人と会う事で、思わぬ展開をするので、ちょっと、心の整理に時間がかかって書き込みの時間はとれないんですね。

    めるろ〜さん、管理人さんと、東寺、と神護寺にも行って来ました。

    実家から近い鎌倉、成就院が管理されてる虚空蔵菩薩、、、
    気になりました。
    空海さんに引っ張られていたのでしょうか?
    よくわかりません。

    西洋も東洋もない、、
    そのような拘りがあるうちは、何も感じることは出来ないのではないか?
    わたしの存在は?

    この2カ国間を往復し、2ヶ国語をもって、物の観方の普遍性に応えたい、、、

    わたしという人間が他者を交えて起る現象、
    わたしひとりではなく、他者と一緒に居る時である。

    その時に起る不思議な現象をどのように説明すればいいのだろうか?

    例えば、わたしは京都に滞在している時、伏見稲荷を初めてたずねてみたのです。

    伏見稲荷神社からあまり遠くないところにお住まいの女性
    が、フランスのわたしの家に下宿をされてた。

    この方が、時たまコミュでも登場させてもらった、弓恵さんであるのです。

    名前の漢字は弓がつく。

    ARC の 弓 なのです。

    それはよいのですが、

    伏見稲荷を見学中に、あの赤い鳥居がたくさん並んでいるわたり廊下みたいなところに、
    突然目の前に亀が現われた。

    そういう事ってよくあるのでしょうか?

    3,4キロはあるのではないか?
    かなり大きいので、最初岩かと思ったのです。

    しかもあの人通りの多い、鳥居の中にいるのです。

    不思議に思えましたので写真をとって、めるろ〜さんにもお送りしました。

    時間がありましたら、こちらのブログにも貼ってみます。

    回りに池でもあるのかしら?と思って、鳥居の外をあちこち眺めましたけど、水がためてそうな池はどこにも見当たらずでした。
    誰も移動させてあげないので、わたしは、亀さんを抱えて、鳥居の外の静かな日陰に移動させたのです。


    そんな事があったかと思うと、
    ある神社につくと、50歳くらいの男性の方が、お経を唱えてらっしゃるんです。
    普通の格好をされて髪型も普通なので御住職ではないとおもうのですね。かなり大きな声で、なんと般若心経を唱えられているんです。

    直立不動で真剣にお経をとなえられる方が、一般の観光目的で来られる何人かの中に存在するというのは、異様な雰囲気が漂うんですね。
    伏見神社で、大きなお声で般若心経を唱えるのがおかしいという現象の捉え方ではなく、
    回りの方がたがなんとなく、ソワソワと、遠ざかっていっているという、他者の心とのコミュニケートが空に存在するか?というとないのですね。

    つまり、自分のしている行動は他者から見ると、どのように観えているのか?
    そしてその場の雰囲気を察知するという事は皆無らしいのです。
    それはそれでよいので、誰もこの方に近ずこうとされないので、わたしは、ひとりで、後ろに居て、ず〜と、その何回も繰り返されて般若心経を唱えられてる方と
    何故?
    この時、時を一緒にしているのか?
    聞きながら考えていました。

    処は、伏見稲荷神社なんですよね〜?

    まあ、そのような不思議な事が色々起るんですね。、、ということで、、おやすみなさい。







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  • from: 沙羅さん

    2009年06月25日 18時16分49秒

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    「Re:Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」

    わたしは、この前日本の実家に帰るのに、あるJRの駅で降りました。

    近くの地元中学生の生徒会クラブと書いてあるパンカードを持っていて、

    駅で乗り降りする乗客にむかい

    「世界の子供に笑顔を・・・・・・、ユニセフ募金、よろしくお願いしま〜す」

    と15人くらいのグレーの制服を着た学生が募金箱をもって、募金を募っていた。


    そしたら、隣に居られた、ご婦人2,3人が、

    「世界〜といってもねえ〜〜〜?.世界の子供より自分の国の子供助けないとね〜?」

    と言って、隣にいる中年のご婦人の同意を得るために、話しかけてた。
    隣のご婦人も

    「そうよねえ〜?世界より、やることがあるわよねえ〜?」
    という会話を、たまたま、聞こえてしまったのです。


    これって、外国では普通の感覚でしょうか?

    つまり
    世界の定義が自分と対峙しているところに、実は不思議でならなかった。

    わたしは不思議に感じると、すべて仏語に訳してみてフランス人にこのような会話が仏語を母国語とするフランス人の日常会話で成立するのか確かめてみる。

    世界というのは、どのように解釈しているのでしょう?

    自分達の立つ位置は、世界の一部なのか?それとも、世界と離れた自己の世界であり、世界と自分の国はまったく別の世界と解釈するのか?


    今、一度、海外に出られる語学堪能な方は、他者と自分の位置関係、を外国の方たちはどのように捉えているか?
    確認してみる必要があるように感じます。


    前に、

    I さんがフランスのある地方の教会の中を見学したくて、中に入ろうとしたら、扉が閉まっていた。・・・という話をしました。

    地元の人に、

    「教会の扉が閉まっていて、見学できないのですが?」と聞いた I さんは、

    「貴女だけが、入れないのでは、ありません。私たち皆が入れないのです」・・・・という返答に目からうろこであった・・・・・


    と感想を述べてきた。
    地元のおばさんは、いかにも日本人にしか見えない I さんを
    私たち、、つまり  WE とみなしている。しかもごく自然に、
    むしろ無意識に、日本人とかアジア人であるとか、そのような判断がされていないのである。

    「そんな事ありえる訳ない」、、という反論があるかもしれないけど、これは、確かに、彼らの空間を見る層の視点はそのような、人間の外見的な特徴に向かっていない、、というのがわかるはずなのです。

    「彼らには、日本人としての、わたしは見えていない。」

    見えているのは

    人間が動いている、、、くらい
    人間が居る・・・・・・くらいの感覚なのです。

    他者と自分の関係は、自分自身が空の世界ではどのように
    他者から観られているのか?

    という感覚をつかむのに、他者の存在性は絶対不可欠なんです。

    普遍性はこのありとあらゆる他者の中に自分を介す事で、
    自分自身の真の姿が観得て来ると思うのです。


    色々な形で、観得て来る。
    つまり、
    皆が皆、
    自分を同じように解釈したり理解したりしているのではないというのも分かってくる。

    同じ人ばかりの対話でおなじ層でのコミュニケーションばかりするというのも、
    類は友を呼ぶでしょうが、

    最後は、普遍性を観るという視点からいえば、広がりはないと思うのですね。

    どちらにしても、普遍性というのは、同じ事をしていても仕方ないと思うのです。

    万が一その人に普遍性の言葉を放つ力があれば、おのずと、知らない世界やしらない人達の間でさ〜と、扉が開くようにして、違う世界が現れるはずなんです。

    別に何か難しい言葉を放つから、、という行為上の事ではなく、
    空間に存在するというのは、その人が立っているその場所だけが、
    さっと、違う異次元の世界のような、不思議な感覚を持つのです。


    電車に遅れるとか、何か買わなきゃいけないとか、
    子供に頼まれた事をしなきゃいけないとか・・

    そのような日常茶飯事の目的事で頭がふりまわされているのではなく、
    また、挙句の果てにそのような義務感がうっとうしくなったりしてくると思うのです。

    怒られそうですが、電車に遅れたら、次のに乗ればいいし、
    買わずにいれば、他のもので代用すればいいし、
    子供に頼まれたのを忘れたら、忘れた・・と正直に言えば言いし。。。そしたら、子供はもう親に頼る事はないのです。
    頼られる前に築かないとならない関係、人と人との間、、間を感じる事ができれば、
    むやみやたらに、親に簡単に頼る子供はいないとおもうのですね。

    人と人との間の空を察すれば、どの人も一生懸命なのだから、自分で出来ることは自分でしようと、思うと思うのです。

    人と人との間を察する事、、、

    が重要だと思うのです。

    記号や、字を読む事だけではないと思うのですね。

    般若心経の最初の部分には
     
     五蘊 という字がでてくるのですが、

    宮坂氏の解釈では
    蘊 という漢字は、「たくわえ」「あつまり」を意味し

    サンスクリットでは「スカンダ」だそうです。本来の意味は、
    木の幹だそうです。

    この五つは

    般若心経にでてくるのは、「色」「受」 「想」 「行」 「識」
    で、五蘊があるから、自分という存在は確かめられるそうなんですね。


    深遠な般若波羅蜜多の修行をしているとき、観自在菩薩は五蘊があ
    り、それは自性空であると見極めた、、と書いてあるようなんですね。
    ところが、
    たとえば、考えると手足や髪の毛が自分なのでしょうか?というと、これもおかしい解釈になってくると、宮坂氏は述べています。


    私には、足がある、、とは言っても、私は足であるとは言いません。

    体は自分を自分たらしめている根拠に違いないのに自分そのものとかんがえるのは無理であるようなんです。
    感覚も同様で、
    私は苦しい という時、
    わたしは苦しみである・・とは言わない。

    宮坂氏はもちろん日本語で表現されているのですが、
    これを仏語になおすと、実に
    フランス語には便利な CA 抽象代名詞 が頻繁に使われているので、
    このような日本語文体にはなりにくい、、という言語の仕組みの違いが観得てくると思うのです。

    どれが正しいとか、どれが誤りであるというのではなく、その言葉言葉で、受動態、能動態、主体、客体色々な変化をさせながら、コミュニケートされるという幅広い理解の仕方が身についてくるのです。

    般若心経に関しては、宮坂氏の言葉を借りると、五蘊自体は日常レベルにおける自己の総体に違いないのですが、
    感覚器官のわたしには足がある
    私は苦しみがある
    ・・という表現をしても
    髪はわたしである・・
    または苦しみは私であるとはのべないところからみると、
    やはり5蘊はあるでも、
    体もない
    感覚もない、
    意識もない
    なにも判断しない、、、どこに自分があるのでしょう?

    途中から般若心経は、、無、無、無、無〜のオンパレードなんですね。

    まるで、述べている事は理解に苦しむと思うのです。

    いきなり、「お前は存在しないのだ!」といわれるとまるで、主体性のない人間ができあがってくるような感じもする。
    色々考えると、やはりさっぱり分からない、、というのは、

    これは日常レベルでの、無我の類ではないと思うのですね。

    つまり、さらに段階を上り、記号や字という唯物の解釈をしているというのではなく、むしろ記号や字を超える層での体験や体感を、なんとか近似値にちかい記号に訳されているというのが観得てくると思うのです。
    しかもそのようなある体感を経験されている方の表現力もまちまちです。

    般若心経の「照見する」とは、言語では「観る」と同義だそうです。

    ただ、やみくもに、漫然と観ることではなく、山の上に立って眼下を観るということなので、先に生じる事がちゃんと観えていれば、自分自身の行為じたいに没頭してしまい、その行為が、周りからみると、普遍的ではなく、一部の世界での出来事に観得たりするとおもうのですね。
    全体世界の出来事というのは、
    自分も含む、世界の出来事流れが観得るという事だとおもうのです。
    時間を後から追う発信ではなく、
    時間を越える発信行為の中、またその発信行為の思惟を見抜く力、または洞察力をもたれる方たちとの世界での交信は、と、その体感や体験がなされてない方達との交信というのは、
    コミュニケートがなされないはずなんです。

    そのうち高次の方は、抽象表現での発信するのみになられますし、普遍性に欠けてくる
    、先が観得るので、低次世界の記号解釈のみの方達にとっては、なんとなく不安になる存在と化す

    抽象表現をああでもないこうでもないと、型はめしながらなんとかコミュニケートを取ろうと、徒労に終わるのですねえ〜・・

    記号を超えるところでの抽象表現に対する応答は、型はめは出来ないと思うのですね。
    むしろ、型はめ」しないとコミュニケートがとれない思考の癖があるという事を他の方に分からせてしまうというような空の無言の動きが生じてしまうと思うのです。
    心というつかみどころのないものを表現しているはずなんですね。
    心は時間と空間のない世界にいるからこそ、昔の人間の活字を書いたり、すでに亡くなった人の世界から観ている自分
    つまり、観る対象と見る自分が同一になる経験から放つ事ができるのだと思うのです。
    それは決して、観る対象と同一になることは、自分がそう思うという主体発信ではない時の発信であるという事、
    も分からないと
    コミュニケートが全く通じないようなんですね。

    難しいけど、実にわかると複雑怪奇ですけど、
    結局心は自由自在になりたがっているというのを感じる事、、、
    そこの地点だと思うのです。

    なんだかとりとめないことツラツラ書きました。


     

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  • from: めるろ〜001さん

    2009年06月21日 10時54分50秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:感想文『仏説 摩訶般若波羅密多 心経』」
    沙羅ちゃん

    > 段階がレベルがあるのだと思います。
    > だいたい4段階あるのだそうです。
    >
    屋上があるのを知っていますか?

    『大品般若経』によるとそうなるのですね。

    龍樹もこの『大品般若経』から『大智度論』を
    書いたそうです。

    しかしながら、小本の『般若心経』の方が、
    多くの人に読まれている。
    いや、読まれることを前提として書かれている。
    そこに、空海がいうように心経全体がマントラである。
    という説も成り立つのですね。

    4段階は、サンスクリット原典に主語と述語を付け加えながら読んだらそうなってきたのですね。



    > 体験、体感を伴いながら一段階づつ、上の段階にいけるそうです。
    >
    > 体感、体験というのは、言葉の働きや意味合い、各人各人使い方も感じ方も違うので縦横無尽にあちこちから眺め、時間軸をはずさないと、観得てこないと思うのです。
    > 原因、結果が逆になる事など、頻繁にあるので、
    > 何が因果になっているのか最初は見えないようなんです
    > 深層心理、潜在意識を読むことは表層意識でかかれる記号の解釈以上に重要であると思われます
    >  
    >
    >
    >

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  • from: 沙羅さん

    2009年06月20日 20時47分08秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:感想文『仏説 摩訶般若波羅密多 心経』」
    > 舎利弗という位置、
    > 説一切有部、アビダツマの代表たる舎利弗は、
    > 観自在菩薩からもう一段上がりなさいといわれる。
    >
    > 一段上がったら、更に一段上がりなさいという。
    > そこが菩薩道の位置なのですね。
    > そして、その様子を眺める釈尊が陰に隠れている。
    >
    > そんな感じです。

    、めるろ〜さん

    わたくしも、そのように思え感じます。

    段階がレベルがあるのだと思います。
    だいたい4段階あるのだそうです。

    体験、体感を伴いながら一段階づつ、上の段階にいけるそうです。

    体感、体験というのは、言葉の働きや意味合い、各人各人使い方も感じ方も違うので縦横無尽にあちこちから眺め、時間軸をはずさないと、観得てこないと思うのです。
    原因、結果が逆になる事など、頻繁にあるので、
    何が因果になっているのか最初は見えないようなんです
    深層心理、潜在意識を読むことは表層意識でかかれる記号の解釈以上に重要であると思われます
     


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  • from: 沙羅さん

    2009年06月20日 19時23分15秒

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    「Re:Re:Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」

    R子さんに、久しぶりに会った。

    R子さんは、わたしがフランスに住んでいる町に1996年にフランス人と結婚されてこられた日本女性。

    しりあって2年後には、わたくしの住む町を去ってご主人と日本に行かれた。
    残念な事に、ご主人は日本に着いたとたん、癌の病に冒されて他界されてしまいました。
    わたしはあまり親交を深める事がなかったこの旧友の近況を聞いたのは、もう亡くなられて、から2年以上たった頃、、

    なんだか、遠くても会いに行かなくては、ならない思いがしてきた。
    かといっても、普通の昔のお友達に、いくら実家に帰ったといっても、R子さんにあうのには、800キロくらい離れているのではないかしら?それに日本に帰ったR子さん自身から何も便りがなかったのだ。

    しかしかれこれ色々な事が生じて、わたしは日本に帰国する度に、Rさんがわたしとの温泉旅行を楽しみに待つようになった。
    彼女は40歳代で未亡人になられてお子さんもご両親も他界されて、今お一人で日本に住んでらzつしゃる。

    そういった環境もあるのだと思うし、亡くなられたご主人のフランスの義理のお母様が、高齢にもかかわらず
    「わたしの、愛する義理の娘」と呼んで。毎年R子さんのお誕生日にお誕生日おめでとうを言う電話をかけてきたばかりだった。

    すでに息子を亡くされたお母様はもう90歳超えてらっしゃる。
    はるか遠い日本に住む義理の娘の健康をキズかって止まない。


    去年9月、R子さんは、卵巣摘出の手術をした。

    卵巣のポリープは良性だった。

    しかし痛みは依然と消えなかった。
    今度は、腎臓に影がみえると言われて、腎臓も手術をして検査しないとならない、、がっかりした彼女だった。手術したばかりの後の事でナーバスになっていた彼女は、T子さんに、その事を話したのだった。T子さんは15歳くらい年齢は若い女性で、R子」さんの亡くなられたご主人の秘書されてた方で、以後ず〜とお付き合いがあるらしい。
    実は、W霊能者の話をしてきたのはこの亡くなられたご主人の秘書をされてるT子さんである。


    そのT子さんもわたしは知らないし会ったこともないのですが、
    わたしが、またR子さんに、「W霊能者に会いにいこうかな?」と言ったの覚えてて、このT子さんにわたしの事を話している。

    T子さんは、「W霊能者がすでに、一般の方を見ないので、すでにそこには居られないようなので、貴女のフランスのお友達が来られても、W霊能者には会えないから、前もってお伝えしようと思って電話したの」

    と態々、知らないわたしの事まで気を使って情報をR子さんに伝えてくれる。
    こういうところがわたしは非常に不思議に思うのだ。

    普段なにも共通点がない、知らない人達同士なのに、前もって、前もって、気を使ってくれる知らない人達の強力な心の存在を感じないではいられない。

    このT子さんは、

    大宰府の近くに、自然のハーブを調合してくれる表向きは5,6人しかはいれないコーヒー喫茶店なのだけど、知る人しか知らない、自然治癒力を高めるためのハーブ茶を売ってくれるお店があるらしいのです。
    そのハーブの売り方もちょっと変わっているのです。
    表向きに売っているのではなく
    その前に、何か紙に名前や色々書くらしく、その調合される方は霊感らしきもので、何がどのようになって身体の機能がおかされているのか、メッセージをお聞きするらしい。。。とR子さんはそのT子さんが紹介してくれて、一緒に足を運んでくれたお店での出来事を話してくれた。

    R子さんが書いた紙の上に手をかざしながら、、

    「あ〜、、貴女、今、お守りを身に付けているでしょう?」

    とその調合師に言われた、、とR子さんは言ってきた。

    ハテ?お守り?

    お守りと聞くと、よく京都のお寺にうられている、安全お守りだとか派手な色のオレンジ色でできたお守りを思い出して、
    ああいうのは、嫌いなので持つことはない、、のだけど、、

    と言いながら、
    「いや持っているはずだ、、」
    言われて、ハンドバックの中を探したそうなのだ。

    ハンドバックの中にはお札入れがあり、開けると、カードがはいるポケットがいくつかついている。
    そのうちの一つに、
    R子さんは、ご主人の小さい頃の身分証名証に使われていた、黒白の写真をしまっておいてその同じポケットに、わたしが去年の3月に頼まれたフランスの食材と一緒に、、日本に航空便で送った小包みの中に、フト思って、パリの不思議のメダイュも一個ついでに送ったのです。R子さんもあげた本人のわたしもそんな事はすっかり忘れている。

    R子さんは、その小さなメダイュを出したら、
    「あ〜それだ!それは貴女を守っていますよ」、、と言われて、
    それから、こうやって首にかけている、、とR子さんは話してくれた。

    しかもその時調合してくれたハーブティーを2週間飲み続けたら、
    あれほど痛かった痛みがすんなり消えたと話してくれた。

    わたしは、こういう話を聞かされると、実は大変困る。

    前に書いたのだが、

    霊能者のブろぐに、千手観音とミカエル大天使は同じであると書かれたブログをいくつか目にしたのです。
    何で?
    同じなのかしら?

    よく判らない。
    ミカエル大天使のエレメントは火<炎>だと書いてあった。
    まあ、よくわからないけど、4大元素、は天使達の支配エレメントらしいのですね。
    水をかけたり、護摩を焚いたり、日本も似たような事をするのではないかしら?

    大天使は必ず ARCがつく、虹 ARCアーチ弓 EN CIEL空

    ARCHANGEL アーチ<弓>のエンジェルなのです。

    わたしは、Iさんがパリの不思議のメダイュ教会で買ってきてくれたメダイュを、
    ARC川のすぐ横の家の暖炉の前に火を組み、
    Iさんが持ってきた、自然石だとか、不思議のメダイュを前に並べてみて試しに炎<火>の効果をみてみた。、炎で真っ赤になって熱くなって、持てないほどになった。

    その一つのメダイュを、頼まれたフランスの食材の小包みの中に一つ入れて郵送したのです。
    それを彼女はるんるん気分で、お財布にいれておいてすっかり忘れていたらしい。

    わたしというと、半信半疑でこういう事は楽しみながらやっている自分がいる。

    だから、実は

    彼女に会ったとき、首にしっかり不思議のメダイュがぶら下がっているのを見ると、
    心の中では、大きなため息をついてしまっている。

    わたしが自分で買ったりしていろんなそれこそ、つまらないお守りを買うのは自分の責任範囲なので構わないのだが、

    これが他人に影響を及ぼすとなると、こちらとしては、責任は取れないんだけど〜〜・・マジ〜?とか聞いている自分がいるのです。

    こんな事を書いて、パリの不思議のメダイュを宣伝していると思われてもこまる。

    あ〜でも、あれは、無料で一個、頼めば配布しているんだったかな?^^・・・あ〜そういう事が問題ではなかったかしら?、とにかく、まあ〜どうでも良いのですが、
    バタバタ情動をなびかせる事はやめましょう。
    でも
    こういう不思議な事が次々起こるのです。

    とりあえず、他力本願はしない、、
    自分次第の心構えというか、他者がどういう事を信じていようがしんじてまいが、とにかく、そういう他者のプライベートに顔をつっこむような事はしない方がいいですね。自分自身には関係ない事でし関係するべき事ではないんですね。、他者は他者、自分は自分、、そのような個人的なプライベートで共通点をみつけるような事はやめましょう。
    自然と
    おどろおどろ感、、漂います


    もっと高次の世界で他者と関係を持とうとしましょう。


    めるろ〜さん?
    神護寺には、五大虚空蔵菩薩が保管されているようです。











     

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  • from: 沙羅さん

    2009年06月20日 17時54分00秒

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    「Re:Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」
    実は、隠すつもりはないけど、今日本横断中です。

    いろいろな事が沢山、沢山起こって、色々な知らない人が、偶然に知り合えた。

    前にわたしは、山口県の下松という瀬戸内海に面したところで生まれたから、、
    という事を話したのですが、

    この下松<くだまつ>という名前が、百済、の国から皇子がくるという伝説
    下松の歴史

    下松市は、名前の由来にもなった星が降ったという伝説があります。推古天皇の頃(西暦595年頃)鷲頭庄青柳浦の松に大星(北辰星ともいわれている)が降り、7日7夜光輝き「百済の皇子がこの地へやって来る」とのお告げがあったそうです。それから3年後に百済からやってきた皇子が琳聖太子といわれています。人々は社を建て、大星を祭りました。このことから「星が降った松」が「降り松」となり後に「下松」となったといわれています


    という伝説の推古天皇と聖徳太子が気になったのです。

    聖徳太子のおばさん、、
    つまり
    推古おばさん???なのです。


    うちには、仏像を飾るという高尚な趣味はないですし、仏壇も神棚もない家にすんでいますし、
    神道出身の母親は、父親と夫婦喧嘩をすると、
    ときたま、「うちは仏教ではないわよ」と感情吐露を放つという日常会話の会話を聞いていましたので、

    父親のご先祖は1702年OO右衛門という人の名で彫られたお墓があるお寺は極楽寺という小さなお寺なんですね。

    父親は次男でしたから、長兄の息子も、他界しても、生まれた事も住んだ事もない、はるか遠いちいさな町のお墓になにも馴染みがない息子達にとって、結局あたらしいお墓を各自身近な場所に建てたようでした。

    ま〜あれですね?
    夫婦喧嘩でさえ、つまらない喧嘩の原因にそのような違いを引っ張てきて、対峙したがるんですね〜、、、、
    「どうでも、いいじゃん〜?そんなこと〜」と小さい頃から思う私が居るのです。
    人間って何故?
    そういう些細な違いが気になるんでしょうね?

    夫婦の間でもそうらしいので、
    なんの繋がりもない他者同士が、宗派の違いが気にするな?と言っても無理なんですね〜・・・・

    疲れるのですね?
    ほんまに〜・・・・・・・

    そうそう、、それで推古おばさんと聖徳太子です。

    その詰まんない夫婦喧嘩をする、父母が建てた 家のサロンに、百済観音の写真が額入りで飾ってあるんですね〜・・・

    わたしは、いままで、すっかり忘れていました。

    それも百済観音が虚空蔵菩薩と呼ばれていたというのを知ったのは、つい最近ですね〜〜・・・・

    宇宙の菩薩なんですよね〜虚空菩薩



    わたしは、R子さんに会うために新幹線にのっていたんです。

    新横浜から乗るのですが、
    ハタ!と見ると
    座席予約した号車に乗ると、

    おとな4人だけが前に纏まってしか乗っていない。

    私は、前から2列目の通路側だったのですが、私の後ろはガランドウなのです。
    そしたら、なんと、修学旅行の学生達が号車を埋めるように、
    ダっダッだと乗り込んできたのです。


    先生は、私達、外部者の旅行客、4人に「すみません?多少うるさくなります」と、謝られてた。

    多少どころか、結局すんごくうるさかったのです。

    それはいいのですが、わたしの臨席にズルズル、おおきな旅行かばんをひきずって乗車されてきた65歳くらいの男性の方は、すごくこれまた、わたしと話しかけられてきて、
    この方は、一周忌に田舎に帰る為に新幹線に乗っていると話してこられた。
    わたしが何もきかないのに、山口県の光に帰郷すると言われてきた。
    正直、横浜から乗った私達の間に光という駅の存在は、あまり重要に思えなかった、、というより、わたしは、下松という駅の隣が光という駅名が山口県にある事は、知らなかったのです。

    臨席の方は、
    「僕は光に行くんだ!」と、 言われても、、
    ハテ?

    光?

    「生まれは下松なんですが、、3歳で、東京に引っ越してきたから、、、わからないんですが〜」。。。だいたい、わたしは何も知らないのです。

    臨席の方は、今度はいきなり、ひじをついて、
    「下松は光の隣だよ〜」とスキンシップを試みて、わたしの記憶を蘇らそうとするらしい〜・・・???

    どうも、故郷が一緒、、というのは、仲間意識というか、「僕たち仲良しこよし感覚」が一気に芽生えてしまうらしい。

    まあ、それもいいのですけど〜、、、

    人間心理というのは、わたしがフランスに住んでいようがいまいが。故郷というか、生まれが同じと言うことで、わたしはとうとう、名刺をあげなくてはならないような、話の発展だったのです。
    まあ、どこかの会社の顧問さんらしく、ヨーロッパに何回か奥様と旅行されているらしいので、旅行先のトラブルや情報があれば、、という事なんですけどね?

    しかし〜、、その方の肉親の方の一周忌に帰られるらしいんですが、
    新幹線の中の4人しか一般者しか居なくて、そのお一人なんですけどね?一周忌、、というのがねえ〜〜〜???

    まあ、いいわ!

    しかし〜〜〜・・・修学旅行車は、実にうるさいのです。

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  • from: 沙羅さん

    2009年06月20日 16時53分50秒

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    「Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」

    主体と客体

    これすごく大事ですよね?

    現象学では大変重要ですよね?

    人と話していると、不思議に思うのに、

    こちらの述べたい事.明らかに誤解しているであろう。。。というのが
    対話者の返す言葉によってわかるんですね....

    こちらの述べたい事、、
    つまり客体思考の発言を、
    対話者は、主体発言だと思って、「貴女は、間違っている」とか
    言ってくるんですね〜・・・・・

    客体という事はどういう事なのか?
    よく理解していないようなんですね。

    ひどい時には、
    貴女とは、話になりませんとか、もっと酷い時には、対話者を誹謗中傷する事なんですね〜・・・・

    客体に立っての発言と
    主体に立っての発言・・・全然」違うはずなのに、

    まるで、わたしがその対象者をそのように思っている、そのように判断していると思うらしいんですね。

    まず、日本語にフランス語のCA<指示代名詞>と同じ使い方をする日本語がないからだと思うのですね。

    対峙世界ばかり作り上げて、他者が自分の中に存在せず、いつも敵対者のような扱い方や他者と関係をっ簡単に切ったり、他者を遠のけたり、、、他者を嫌ったり、自分の家の中に上がるのは、気に入ったひとだけ、、とか安心できる人だけ、、とか信用置ける人だけという選択しないとならない、、という行為じたいもすべて他者は自分の中に存在していないのでしょうと思うのです。


    フランスに渡った20年位前の話、小さな山の村に住んでいて、道行く人が、顔を会わす度に、

    [CAサ VA?ヴァ?]と
    聞くのです。

    日本語の辞書には「元気ですか?」という訳になってる。

    これは、間違いなのです。

    CAは、指示代名詞なので、私を指しているのではないのに、

    「元気?」と訪ねる時、 「CA VA」サヴァ?と聞きなさい!という風に、フランス語授業では教えるらしいのです。

    しかし、普通に考えたら、
    元気ですか?と誰に聞いているのか?というと
    その対象人物がいるのだから、
    貴方、君、YOU
    なのです。

    誰もいない、空気に向かって CAサ VA ヴァ?「元気?」

    と聞く人がいたら、まちがいなく、日本では、頭が少しおかしい人と思われるのです。
    別に思われるのはどうでもいいのですが、
    ちゃんと言葉を考えるということは、他者が使っているからとか、普遍的に使われてコミュニケートできるから、考えなく使うという事は、あまりにもなさけないのです。

    自分だけで判断して他者との合意を得る確認も怠るというのも、よくない事だとおもうのですね。
    一人で、判断して一人で怒って、一人で他者とスッタモンダしているのです。

    それなら、
    判断はよせばいいのにと思うのです。

    何故?

    そのような事を他者は放つのか?
    という疑問を投げかける方が、

    他者自身も無意識からの発言に違いないですから、
    発言の元、、つまり、因果<CAUSALITE>を観る方が良いとおもうのですね。


    そうそう、それでこのCAです。
    独身だった頃、インターネットなんてない時代ですから、家にいても暇なので、しょっちゅう外に散歩にいくのでした。

    朝、8時パンを買いに、、出かける。そこで、近くの八百屋のおじさんに「CA VA?]

    と声をかけられる

    11時頃、お昼の買い物をしに出かける
    そこで、また近くの八百屋のおじさんもパン屋のお姉さんも
    金物やのお兄ちゃんも、顔見知りになるとp、みな「CA VA?」と聞いてくる。
    午後は、コインランドリーに行って、洗濯物をあらうのに、また外にでて
    同じ顔見知りの人たちに、同じ言葉 「CA,VA?」をかけられる。
    毎回同じ、毎回同じ、、

    正直、あまりにも、サヴァ?元気?、サヴァ?元気?

    と聞かれるので、辟易する。
    なぜなら、真冬など、マイナス20度にはなる寒さが厳しいところに住んでいたのです。

    「CA VA?」元気?

    と聞かれたら、

    「元気じゃなかったら、マイナス20度以下の外を、闊歩しているわたしはいないでしょうに〜?」

    と、言い換えしたくなる自分がいるのです。

    かと思うと、あまりにも頻繁に出あう度に、「元気か」「元気か?」聞かれると、終いには、

    「元気 CA VA?」フランス人

    「さっき、20分位前に、ここ、スキップして通った私を見たでしょう?
    マイナス25度の外気温の中をスキップしながら行く人は、20分くらいでは倒れたり、死んだりしない。」

    と、言いたいのを。抑えている、、というか、言葉がその感情を伝えるほど、細やかな表現力が身ついていないので、適当に
     「だいじょうぶ〜〜
    CA,VAだから、だいじょうぶ〜〜」と単純な表現単語、でごまかす。



    これは、私に聞いているようだけど、わたしを包んでいる空の中にいる私は、調子いいの?という意味合いなのです。

    決して、私自身が、病気をせず、元気にしているのか?と聞いているのではないのです。

    たとえば、お腹が痛くて、お医者さんに行くとする。

    お医者さんが最初にきくのは、

    日本のお医者さんみたいに、「どこが具合が悪いのですか?」という質問はしないのです。

    「ケスキヴザリーブ?」ナノデス。直訳すると、

    「何か、貴方に、辿りついたのですか?」
    とか、「何が、貴方に到着しましたか?」
    「何が、貴方にやってきましたか?」
    「何かが貴方に起こりましたか?」

    という風にお医者さんは聞くのです

    何故?
    辿りついたとか到着なのか?というと、
    英語でいうARRIVAL
    と同じ動詞、ARRIVERを使うからなのです

    お腹がいたいとか
    頭が痛いという表現は患者さんの主体発信であり、
    その前に私たちが存在する世界、、
    その世界が、私達に何かを起こされる、何かが私たちの身体上に生じる、、
    そのような客体思考が必要だと思うのですね。

    ただ、「お腹いたい」
    ただ、「頭痛い」と自分の感情を一方的に相手に発信するのではなく、
    自分が存在している世界を、ゆっくりと、周りから自分の外から360度。自由自在、縦横無尽に眺めてみるという事だとおもうのですね。

    言葉と思考、、
    思考は言葉を超えないはずですから、同じ言葉を使う人たちは同じ言葉の使い方や判断基準からは離れられないはずなんです。

    何故ならそれがコミュニケートが頼っているからなんですね。

    普遍というのは、世界に通用する言葉を超えたところでの、本質、真理に近いところのものだと思うのですね。

    言葉は、過去形未来系、時間軸の一致も必要ですし、時間軸をめちゃめちゃに現すと、論理もなにも無くなってしまうと思うのです。
    だからといって、3次元での世界でしか通用しない時間や空間の存在する、決まりごとの表記の仕方にのっとり、コミュニケートするという事は、昔のギリシャ哲学の人達はこれを聞いたらどのように
    応えるのでしょう? 

    ネットも何もない、字も書けない人達はそれでも人々との会話や対話の中に何かがある事うを感じ取ってきた。

    他者の放つ声には、死者の声を代弁していたりする。
    ハ!と思わされる。

    何故?

    この人
    すでに死んでしまった、あの人の口癖や、言葉のセンテンスやイントネーションまで、似て放つのであろうか?・・・・・と知らない人が放つ言葉に、思わされる言葉が、確かに存在する。

    死者は生きている。

    私達の周りに居る。

    私達を守る為に?
    私達を苦境から助けるために?

    その人、その人自身の心構え、心の持ちよう、
    他者の心の接し方如何で、どうにでも感じたり、感じなかったり、するのであろうと思うのですね。




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  • from: めるろ〜001さん

    2009年06月20日 06時33分44秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:感想文『仏説 摩訶般若波羅密多 心経』」
    舎利弗という位置、
    説一切有部、アビダツマの代表たる舎利弗は、
    観自在菩薩からもう一段上がりなさいといわれる。

    一段上がったら、更に一段上がりなさいという。
    そこが菩薩道の位置なのですね。
    そして、その様子を眺める釈尊が陰に隠れている。

    そんな感じです。

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