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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: 延命五行さん

    2011年10月31日 22時26分33秒

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    「Re:参照願います」
    ブッダの死後、我こそはブッダの教えの継承者である、といって争っているということですね。いちばん嘆いているのはきっとブッダかも知れませんが、ブッダは悟っているので、なんともないのでしょうか、ちょっと想像が出来ません。

    ブッダ以外の誰が判定を行うか、という状況で、最終的に拠り所になるのが最初期のいちばん古い経典である、というのはよいとして、その後がいけないですね。解釈者と解釈があり、教えを行う者、悟りを求める者、など、たくさんの関心事がありますね。ま、頑張ってください。

    信仰告白などは大いに結構、私は読みませんがね。

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  • from: アナンさん

    2011年10月31日 21時38分56秒

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    大乗仏教=ヒンディー教?は、男女差別宗教?

    大乗仏教の経典

     大乗仏教徒は多くの経典を作った。経典であるので、当然、その内容は釈尊の説法集である。如是我聞であれば、釈尊の説法をじかに聞いたことの記録でなければならない。しかし実際には、釈尊はすでに数百年前に亡くなっているのであるから、大乗仏教徒がじかに説法を聞いているわけがない。それをいかにも説法を聞いたかのように、あるいは仄聞(そくぶん)したかのように記述したのである。
     そこに出てくる釈尊は、肉体を持った釈尊ではなくて、真理、あるいは教えの集まりとしての身体をもった幻影の釈尊である。姿をもたない釈尊が経典の主人公となっている。
     このような大乗仏教の経典は釈尊の説法を記録したものではなく、瞑想の中で聞き取った釈尊の説法を記録したものだと考えていいだろう。従って本当のところ、大乗仏教の経典の内容は、作者の言葉で思想を述べたもので、現実の釈尊の言葉を伝えたものではない。
     総じて、大乗仏教の経典は偽経、つまり創作の経典である。これら大乗仏教の経典には釈尊に託して作者の意見が、考えがふんだんに語られていて、実際に先の経蔵にないような思想を、いかにも釈尊が述べていたかのように記述している例は数え挙げればきりがない。たとえば、変成男子説は明らかに大乗仏教特有の思想であるが、経典の作者たちは皆こぞって釈尊の説法にもとつ゛く思想だと記述しているのはその典型である。

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  • from: アナンさん

    2011年10月31日 20時25分37秒

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    大乗仏教=ヒンディー教?は、男女差別宗教?

    ★人口の男女比不均衡で結婚事情に変化 インド

     [ムンバイ 3日 ロイター] 古くから大胆不敵な戦士たちの土地とされてきた
    インドのラジャスタン州。しかし、そのラジャスタン男性たちも、くるりと
    カールした口髭と宝石の装飾が施された短剣だけでは、結婚相手を見つけることは
    難しい時代になっているようだ。
     しかし、もし彼に幸運にも姉か妹がいたら、安心していい。
     ラジャスタン州では男性に対する女性の人口比が落ちている。
    そのため、女の子の親たちは、相手の家族に自分の息子と結婚できる娘がいない場合、
    娘への求婚願いを断るよう促されている。
     「ラジャスタン州のシェカワティ部では、昨年の結婚のおよそ30%はこの
    交換システムによるものです」と、地方議員ラジェンドラ・ショーハン氏は言う。

     前回の国勢調査によれば、ラジャスタン州の大部分で、若年層の男女比は
    少年1000人につき少女922人にまで落ち込んでいる。それが500未満に急に下がった
    村もひとつふたつあるそうだ。
     この共同結婚条約は、「アータ・サータ」もしくは「ダブル・カップル計画」と
    呼ばれている。こうした状況で、伝統的に女子より男子のほうが喜ばれていた
    インドにおいて、若い女性の需要が上がっているようだ。
     インドのいくつかの地域で、人口の男女バランスの歪みが著しくなっている。
    妊娠中の親たちが息子を望み、違法の超音波技術検査によってそれを
    実現させてきた結果だ。

     最近行われたインドとカナダの共同研究によれば、インドで、性別が女だと判明して
    堕胎されている胎児の数は、一年あたり50万人にのぼる可能性があるそうだ。
     報道によれば、女子の不在が村の力学を変えつつあるということだ。(以下略)

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  • from: アナンさん

    2011年10月31日 19時00分57秒

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    参照願います

     約二千五百年前にインドにお生まれになったお釈迦様が、悟りをひらかれ、その教えが現在まで伝えられてきたのが仏教です。 お釈迦様は八十一歳でお亡くなり(入滅)になるまで、色々な所で大勢の人々に教えを説かれました。 その教えを受けて、お弟子が次々に伝え、それがまとめられたのがお経です。 一口に八万四千のお経があるといわれていますが、これは直接お釈迦様の口から説かれたもの(小乗経典)ばかりでなく、お釈迦様の教えに従って、その教えをより深く説き明かしていってつくられたお経や、その注釈書など(大乗経典)がたくさん含まれています。 ですから、お釈迦様直接のご説法を伝えたものではありませんが、お釈迦様のお心を誤りなく伝えているということから、お釈迦様のご説法と同じように受け継がれてきているのです。 お経の始めは「如是我聞ーこのように私は聞きました」という言葉で始まっているのはこのためです。
    お釈迦様が入滅されてから、しばらくしてお釈迦様の教えを文字通り忠実に守ろうとした人々と、説かれた教えの心を生かしていこうとする人々に分かれていきました。 前の人々のことを部派仏教あるいは小乗仏教とよび、お釈迦様の教えの心を中心にしていこうとする人々の仏教を大乗仏教とよんでいます。
    大乗・小乗の乗というのは、「乗り物」という意味です。 私達の迷っているこの岸から、悟りの彼岸に渡してくれる教えを、大きな乗り物に例えて「乗」というのですが、大乗は大きな乗り物・優れた乗り物、小乗は小さな・劣った乗り物という意味になります。 大乗に対して小乗というのは、大乗の人が小乗のことを軽蔑して言っているので、現在では、小乗という言葉を使わずに、部派仏教あるいは長老派仏教・南方仏教などとよんでいます。 大乗というゆえんは、人々はみな迷っている存在ではあるが、しかし、必ず仏になる種子を持っており、そして自分よりもまず他人の幸せを願って、共に仏様の教えに従っていこうとする菩薩の道を説くところから、「大きな・深い・より優れた教え」と名づけられたのです。 これに対して、小乗では、仏様はお釈迦様だけで、他の者は声聞とか、阿羅漢という位にしかなれないとする考え方です。 
    小乗仏教では、綺麗に咲いている花を見て美しいと思うのは迷いであると説くのに対して、大乗仏教は美しい花を見て美しいと感じるのは迷いではない。 しかし、その美しさに心をうばわれ、とらわれてはいけないと説くのです。 このように、小乗仏教は、人間の欲望などは迷いのもととして厳しく自分を律していくのに対して、大乗仏教は、物事にとらわれない、おおらかな心と、まず他人のことを考えようという、目を外に向けての立場をとります。 現在では、セイロン・ビルマ・タイなど東南アジアの仏教国はだいたいこの小乗仏教系で、中国・日本などは、大乗仏教の教えを奉じています。 大乗と威張っていても、自分を律することを忘れた行のない仏教では困りますし、個人が精進努力している東南アジアの人々を小乗といって蔑視するのもよくないことです。
    ご参考までに・・・。

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  • from: 延命五行さん

    2011年10月31日 18時02分48秒

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    「Re:Re:Re:訂正」
    >ところが、日本などの北伝仏教圏では、この教えに反発して、大乗仏教を作ってしまいました。 > > 信教の自由ですので、個人がどんな宗教を信じようと、信じまいと自由なのです。

    私はお釈迦さんが好きですが別に自分が熱心な仏教徒とは思っていませんので、お話の内容にはあまり関心もありません。しかしこの文章から察するに、南伝仏教はオーソドックス=正統であり、北伝仏教は仏教ではない、と言いたいのですね。しかもまず結論が書かれ、そして根拠は示されることがない。こういう信仰告白スタイルの文書を読むと、私はどうぞご自由に、といって後は忘れてしまうことにしています。お疲れ様で御座います。

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  • from: 延命五行さん

    2011年10月31日 17時48分53秒

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    「Re:Re:木を見て森を見ない」
    沙羅さん、お久しぶりです。地球を股にかけてのご活躍ぶり、相変わらずのご様子で何より。

    感情分析や書記のスタイルなど、相変わらずのポリシーで頑強に貫いているタフなおばちゃん(笑)、が見えます。私は霊能者ではありませんけれども、あれからずっと変わりなく、書き続けていらっしゃったということに、感動すら覚えます。

    私はなるべく時間があるかぎり覗く様にしたいと思っていますが、沙羅さんがこのコミュの管理人になれば、めるろ〜さんも安心されることでしょう。こういっては何ですが、書いている内容などはさして問題ではありません。書き続けることに意義があるのです。(笑)、では、よろしくお願いします。

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  • from: アナンさん

    2011年10月31日 17時45分26秒

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    「Re:Re:訂正」
    > こちらこそどうぞよろしくお願いします。

    私こそ、宜しくお願いします。

    >釈尊はお亡くなりになる前に、自らの肉体をして検証できる事柄を信ぜよ、と仰いました。自らを川の中州のような拠り所とし、また誰かに発してもらうのではなく、自ら発するともし火の光のようであれ、と言われたと伝えられています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     そうですね。
    ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経(中村 元氏訳)には、次のように訳されています。

    「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

    つまり、結局、ブッダは、『法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。』と遺言してしまいました。

    その為、今でも南伝仏教圏ではこの教えを厳守しています。

    ところが、日本などの北伝仏教圏では、この教えに反発して、大乗仏教を作ってしまいました。

    信教の自由ですので、個人がどんな宗教を信じようと、信じまいと自由なのです。




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  • from: 沙羅さん

    2011年10月31日 17時27分47秒

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    「Re:沙羅ちゃんのブログ」
    今回の日本旅行は、
    少し、特別な能力を持たされる人達との接触をしてみた。

    霊能者と呼ばれる人達と、かなり接近してみて、私なりの分析を試みてみたのだ。

    なにしろ、彼らは、霊視を得意とする。

    相談者が、口を 開く前に 「あぁぁぁ、、貴方は 難病の奥さんを抱えていらっしゃるのでしょう?」と言った按配で、相談事の内容など、とっくのとうに分かっている、、、、という 現われ方で存在する。


    わたしの場合も、 名前や何処に 住んでいるか?など言わなくても、

    突然、「、貴女 書く事ばかりしているでしょう?」であった。


    わたしの後ろに、机に突っ伏して、何か書いている姿が観えると言う。

    そして、霊能者が、相談者に、何がお悩みですか?と聞くのは、

    僕の場合、ありえません。と言う。

    相談者が、何故?

    会いにくるのか、

    記号や言葉が放たれる前に すぐ分かる、、、

    とおっしゃられた。

    W氏の存在を最初に わたしにしてきたのは、友人の R子だった。

    R子の場合も、会って直ぐに、「亡くなられたご主人の事で、いらしたの?」であったと言う。

    霊能者というのは、いったいどうしてそのような現われ方なのか?

    色々考えて、、わたしは、W氏と個人メイルや 携帯電話の番号をお互い交わす仲になっている。頻繁に交友する事はないけど、縁は切れないように又の再会を約束する。

    しかし、哲学的に考えると、

    霊視が出来 観えるという事が?何かになるのか?

    という意識が働くので、

    意地悪な表現になるけど、

    他者の現問題の解決策に一役かったり、不安や恐怖を 取り除いて、癒し系の存在に徹しても、いったいそれが、将来何かに繋がるのかな?という疑問がぬぐえない。

    霊視が出来ると言ったって、当たったから?

    せいぜい、人間関係が、信用できる霊感の優れた人という判断をするにおちつくだけであるのではないか?

    わたしが知りたいのは、未来への 存在の仕方であり、

    相談者の問題を次々霊視によって、当てる事ではないのですよね。

    決して霊能者を認めていないというのではなく、存在する意味が見えないで、お金儲けだけに そのような能力をつかったり、世の人々の心を繋ぎ止めたり、してては自分が惨めにならないかしら?というような余計な心配をしたりする。

    冷たい言い方になるけど、その人の魂や心が存在しようとしている、次元を洞察できないと、霊能者と相談者の関係も 隠蔽化されてしまうのではないか?
    今回、そのような問題がすごく わたしの心を動かした。

    佐藤愛子の本には、

    メディアでかなり有名な霊能者が、佐藤愛子の背後にいる 男性の存在を話してきたそうなのです。その男性は、若い頃、好きな女性と自殺された方で、佐藤愛子の 母親の違う兄だという。そこまでは、よいのですが、その兄の好きな、お団子だったか?お供えをして 兄の霊を弔ってくださいと、そのテレビで有名な霊能者は 佐藤愛子に言ったそうなのです。

    ハテ?

    いったいどのような、死者でも、あの世にいけば生者を守っているのか?

    守る、、という意識はどういう事なんでしょう?

    精神分析や心理学では、意識には、必ず2面の作用がある、

    自殺と他殺は 同じ人間に生じる 裏表の意識であるとか、

    愛憎の問題も 似た作用があるのですね。

    守ると守られたい<依存>も同じ両極端の心模様だけど、

    佐藤愛子は、自殺した人間に 生者を守るという事が出来るのですか?
    という問題定義をする。この時、本には江原浩之だったと思うけど、その問題に関しては、直接な応えは書かれていなかった。

    よくよく考えると、すごく まともな思いに思えるのですよね?

    死の世界の出来事が解明できていない以上、我々はどうしても、死者の魂全員崇めなくてはいけないような気持ちにさせられている。

    しかし〜、、、考えれば、あの世に逝っても、生者の魂に依存するから、霊能者には その存在が観えてしまうのではないか?と思ったりする。

    彼ら<霊能者>は、成仏出来てるとか、浄化してない、、とか言うのだろうか?

     突然、このような 話しになって申し訳ないけど、
    実践するわたしにとって、人々が 何かに頼る、依存する、、という意識は、

    あの世に逝っても 変わらない、、、という事は、私自身が納得できる個人体験をしている以上、

    自殺者の魂が、生者を守っている、、という解釈はすごく 無理があるように思えるのですよね。霊能者の力量と霊能者の魂が存在する次元、、つまり何処の 層でコミットしてくるのか?という事は全く違う問題なのでしょう。という事が色々観ていると分かってきた。不思議に思えるのは、過去の霊視を当てる事は世洋、東洋どこの国にもいらっしゃる別に珍しい事ではないのですが、未来、、つまり将来の予見の解釈の違いが同じ映像が見えても個々の経験によって解釈が違うらしい、、、

    これは、すごく興味ある発見です。

    とりあえず、自殺者をこれ以上出さないという事に、何らかの言説を放ちたい、、という意識をもつのですよね。

     それでは、自殺者の魂はどのように、どのように接すればいいのか
    これは、その方面の人達に任すしかないと思うのです。

    そういった事を、最近色々霊能者達の取るスタンスから 感じてみたかった。
    霊視が出来ると云っても、未来については、どうしなければならないか?という解釈は違うと思う、

    観えた映像だけを、言うというのは、その人の心模様や想念に違いない。その映像の理解の仕方には、やはり、その人の魂の人生経験が、加味されている。

    私の、訪日は、フランスを経つ前から告げてあったのだけど、日本に着いた途端に、携帯が鳴った。

    懐かしいW氏の声だった。1年ぶりに聞く声だった。
    日本に着いた、翌々日に 東京で会おうという事だった。全国からヒーラーさん達も集まっているので、その後皆で呑み会しましょうよ!という事だった。
    時差ぼけは治らないであろう、、と思ったけど、了解した。



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  • from: 沙羅さん

    2011年10月31日 16時05分57秒

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    「沙羅ちゃんのブログ」

     この サイトの 命名は

     哲学 真理 探求  なので、

     自分が日本人だから、日本の宗教だけを 扱う、、というアンバランスな意識ではなく
      世界<宇宙>から 見て、自分あるいは、自分のアイダンテティーが、宇宙の存在と微妙に 繋がっているのではないか?

     という方向だと思うのですね。

     自分だけに関係する、自分だけが知っている 自分だけの専門分野の事だけに 熱してしまう、、、

     ま〜、、気持ちは分からないわけではありませんが、

     哲学<PHILOSOPHIE,フィロソフィー>とくれば、普遍<UNIVERSEL,ユニヴァーサル>は 切っても切れないでしょうから、

    哲学的に 考えるという事は、

    いかに、ひとつの分野に拘らず、多くの因果関係で関連する 分野を 自由自在に 視差し放てるか?

     という事に尽きると思うのですね。

     いかに 多くの分野の認識や知識を語るという事でもなく、哲学と人間も切り離せないのですから、何故?
    人間は、欲を 持たされているのか?

    何故という日本語は、フランス語では、何の為にPOUR QUOI?

    になるので、全て 何の為に、、、という疑問を放っていることになると思うのです。

    例えば?

    「わたしは、あの人が好きではない<嫌い>」、、と放つと


    「何の為に?」という会話になる。

     同じく、

     「わたしは、あの人が 好き」と放つと

    同じく

     「何の為に?」という会話が、日常普段の会話として成り立っている。

     フランス語の直訳が、日本語の会話として不自然に感じるのは いたし方ないですが、それは思考の仕組みが違うというところまで理解を深めないと、いつまでも他者理解には至らないと思うのです。

     他者は いつまでも、自分ではなく他者だから仕方ない。という事では、なく、他者は自分を存在させてる 存在であると感じれば、
     知らない振りをしているわけにはいかなくなると思うのですね。

    哲学という言葉が、普遍< UNIVERS,宇宙>と語源を同じくするのは、やはり、
    全ては、UNI ユニ<一つ>という、動きの中での思考錯誤なのだと思うのです。

     哲学フィロソフィーの ソフィーという名前の女性は多いですね。

     ソフィーSOPHIE 智慧 という意味なんですよね。

     フィロPHILOは ラテン語の愛するでしたか?

     そういえば、普遍性という事考えていたら、現存する 本で、

     世界で100カ国後以上に翻訳されていて、聖書とマルクスの資本論についで、世界のベストセラーとして売れているのは、サンテクジュぺリの あの星の王子様 だそうです。

    聖書は、わかりますが、資本論は ちょっとびっくりしましたけど、、
    多分、日本人的な偏向視なんでしょう?
    話し変わりますが
    例えば、マルクスの本を読んでいると 語ると、いきなり あの人は左派だ!とレッテルを張り判断するといった、いわゆる瞬間に受信した情報への過剰反応、自己投影型の人達の反応が多い世界にありがちな?、、、という考えです。実は、時間の繋がり、時間の流れ、底辺にある一貫性を見抜くのが苦手な人がすごく多いのです。
    霊感が強いと霊視ができるから未来が視えるという事になるようですが、
    心理学的、科学的に表現すると、時間の流れ、底辺の流れにある方向が視えるから ある程度先の予見出来るという事なんですが、、

    時間の繋ぎの流れを見る、あらゆる違う人達との応対を判断する、多くの接触を必要とすることで、その人の存在性が観えてくるのですよね、、、
    そのような事を色々考えるのですよね。

     それで、サンテクジュぺリ、、星の王子様が出た時、ルノアールの息子ジャン、ルノアールは、星の王子様の本を読んで、

    「 天才と誠実さは、似てます」と、サンテクジュぺリの誠実さに惚れ込んだという。

     「天才」 と 「誠実」  確かに、、、

     誠実さは、心作用だし、、、

     天才  普遍性に不可欠であろう 能力は、誰にでも与えられるものではなく、やはり 天上のなにものかに選ばれた、、、という神秘的な説明出来ない力が、作用するのであろう。それはやはり、この世に、星の王子様を世界に普遍化されるのに、必要だった人間として生まれて来た

     それは、やはり 彼の 「心」 そのものだったのではないか?

    彼の、苗字に SAINT 聖 がつくのは、偶然ではなかろう、、と思う。


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  • from: 沙羅さん

    2011年10月31日 13時36分48秒

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    「Re:木を見て森を見ない」
    ベルちゃん?、、

    こんにちは、、


    めるろ〜さんも、ベルちゃんと呼んでいらした頃は、

    随分昔の頃に感じます。

    人と会って、何がしかの会話がなされ、感情が生じ、それによって、好きとか嫌いというような判断がなされるのだと思うのですが、、、

    自分が、ある個人にたいして、ある感情をもった場合、

    例えば

    何故?

    わたしは、この人に対して好きという感情を抱くのか?

    何故?

    わたしは、この人に対して 嫌いという感情を抱くのか?

    という自分自身への視差が向ってしまいます。

    自己の分析などです。

    自分の判断が、何故?

    この時、この時期になされているのか?

    という回りの人達との因果関係などなどなんですが、、、

    言い換えると

    自分が、ある個人へ 何か?特別な感情を持たされた時、

    その感情に 自分の心を依存してしまうというのではなく、

     自分は皆の中に居るのですが、 その自分を 自分の外から観る

    という意識を強め、客観的に 自分を 外から観る、、

    と言う意識になっています。

    人を嫌ったり、人を好きにならされるのは、ある意味ごく自然の事なので、
    その感情が無ければ、とてつもない長さの時間や空間を潜り抜けてきて この地点に置いて、自分を存在させてきた 意味や 理由、が存在すると思うのですね。

    その存在の意味が、自分の中にある今までの沢山の人との交わりの経験<もちろん別れに至ってもです>は無駄ではなく、未来の人と出会う なんらかの足がかりに 繋がっていっている、、、、

    そのような、人間が出会わされる全ての縁は、、螺旋状に繋がって切れていないのであろう、、子供の中に流れる DNAも きっと私の死後、何百年後か、自分の先祖に、日本の何処そこから 来た日本女性の 先祖の一人がいるという事さえ知らなくても、、、

    知らない 無意識のうちに、 京都を訪ねていたり 何世紀変わらない 神社仏閣を 訪ね同じような感情をもったりするのではないか?

    そういった不思議な 感覚、知らない他者達との同感や共感により、わたしを 今このような 形として この時代に現れてしまっている、、
    そのような、全体の中の一部、、、という感覚を持たされるんです。

    もちろん、そういう事は、仏教をお勉強なされば、不思議な事ではないでしょうけど、

    問題は、自己体験を綴るのに、どのように他者達と、コミュニケートや伝達をするのか?

    他者に教義を教えたりするのではなく、どのように 普遍的に他者達とコミュニケートが出来るかに 私自身の課題があると思うのです、

    他者の文のコピーをなるたけする事はせず、自分自身の想起文を記す、、という方が、うまくいくように思うのです。
    人の文を引用するという行為自体、<本当なら、その本人に断らないとならないと思うのだけど>、
     
    言葉<記号>の解釈を個人的に述べるという行為を永遠に続けている世界というのは、

    その人の心や魂といった思惟が宿るであろう、、時間途上の行為の繋がりが見え難いのです。


    ですから、個人に対して好きとか、嫌いといった個人感情を持つ事より客観的に その人が何故?
    そのような形で自分の目前に現れているのか?
    と、いった意識で、自分の視野に写る 世界を見る、、といった感じでしょうか?

    カメレオンの 目の動きは、動くものを、追っている、

    つまり対象に視線が 追っているという感じですよね?

    何故?

    追うのか?というと、 捕獲したい<手中>、という欲があるのでしょうし、 何故?

    欲が生じるのか?というと、

    空腹なんでしょう?

    人間の目<意識>も 似たところがあると思うのです。

    対象<目的>がないと、生きられない、、

    何かを追う、、というのはやはり生かされる理由でもあると思うのです。

    ただ、人によって、価値観は違いますから、同じ対象を追う事はないようですけど、、

    その対象<目的>は 全体の一部であり、回りと繋がっていると思うのです。
     、、ですから、何か 一つ<目的、対象>を追う、獲得したい、という見方は、求心的ですけど、 世界<宇宙>の繋がりを見えなくしていると思うのです。

    これが、存在性、普遍性を失くしていると思うのです。孤立する存在ももちろん、宇宙からしてみると、一つの存在ですけど、

    色々歩いて 人々と話すと 心の問題は、自分の殻に閉じこもってしまっている人達、自分で苦しみを探しにいっているように見える人達が沢山いるように思えるのですね。他者や自然との繋がり、分子ではなく分母や最大公約数を自分の中に手応えとして感じる事が出来れば、

    何か 特別な一つの信仰や宗教といった、事を述べる必要なないと思うのです。

    実際の体験や共感が、自分と違う 他者達との間になければ、普遍性を持つ 言葉が 放てない、、、そのような世界ではないか?と思っているのです。徒然に書いてみました。

     


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