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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月30日 05時29分52秒

    icon

    「Re:Re:地球 ひとりある紀」
    今、フランスでは毎日、欧州陸上大会の中継が、放送されている。

    ココ15年くらい、100メートル、短距離は、ほとんど黒人選手でしめている。
    長距離になると、白人選手やアジア選人達の活躍が期待できる、
    でも、100メートル競争を見るたびに思うのは、あの跳躍力や瞬発力は、もともと民族が生まれながらに持たされているに違いない。
    私達民族が彼らの何倍練習しても、とうてい同じような跳躍力を持つ事は無理なんだ!と思わされる。
    サッカーの黒人選手がゴールを決めて、嬉しがって、飛び上がり、いとも簡単に、宙返りばく転を披露するのである。
    サッカーしなくても体操選手でも通用しそうな、運動神経の抜群な良さを見せる

    100メートル、スタートラインに並ぶ、筋骨隆々の、黒人達の存在感、威圧感、すごいわねぇ
    彼らの太もものサイズはわたしのウエストよりありそうだ。
    しかも、身体にピッタシ、フィットした、ピカピカ蛍光色の、ウエアーをまとっているので、筋トレで鍛えた、プロフィールが裸のシルエットとして、カメラに映し出される。
    肩や腕やお尻の筋肉も、スタート前のアドレナリン集中と共に
    ピクピク動き、静脈瑠かな?と思えるような血管まで両腕の力瘤に浮き出ている。

    もう、おそろしい〜、、、、、の一言です!

    「体脂肪はいくつですか?」なんて聞こうもんなら、
    「バシ〜ン! 」片手で、はたかれて、軽く100メートルは 吹っ飛ぶのです。

    彼らはスタートラインに並んでいる時からすでに、肩をいからせて、
    洗濯モノをいれるような籠<うちにも同じ籠がある>が、スタートラインの後ろにある。
    その籠と、スタートラインの間を、行ったり来たりしているところをカメラは捉える。

    ますます、黒い肌に、大きな目の白いコントラストが浮き上がって、その大きな目は、既にゴールを凝視している。
    それ見ただけで、恐ろしさでひっくり返りそうな、100メートル、欧州決勝戦なのです。

    しかし、毎回彼らを見るたびに

    いったい、世界一早く走るのに、あのムキムキ筋肉は、必要なのかな?
    といつも思っていた。

    マ!よく分からないけど、、いいや、、、

    オリンピックも、アメリカやイギリスや南米や、8コースの100メートル世界一、早い男を争うスタートラインには、全て黒人が
    そろって並んでいた光景ばかり見慣れてしまった。

    昨日のバルセロナで行われている、欧州陸上大会の100メートルも、ほとんど黒人だった。
    ところが、家人達が、

    「なんでも白人では、世界ではたった一人の9秒台で走るSAVOYARDサヴォアヤー だそうだ」

    と話していた。SAVOYARDは、SAVOIE人と言う意味で、決勝に残る白人のルメートルさんは、SAVOYARDだと言っているのだった。

    そういえば、逞しい、筋骨隆々の黒人達に混じって、1,2人白人が混じっていた。

    「めずらしいわねぇ、、」

    と思いながら、マ、!欧州大会だからね?

    フランス人は、決勝に二人。
    そのうちの一人は、ルメートル、クリストフ と呼ばれる、白人だった、
    エキセレバンのアスレチックのクラブだとコメンターがしきりに述べる。

    フランスは、世界の選手権に出場する選手は、地方にある、各クラブに所属する。
    日本のように、日本体育陸上連盟とか呼ばれる組織が、日本の優秀な選手を育てるのではなく、
    ほとんど、地元のクラブで、地元のコーチの元で練習し、タイムがよければ、世界大会にでる、、と言う感じらしい。

    ルメートルさんは、エキセレバンのクラブの選手だと、家人が話す。
    此処らへんの組織もフランスはチーズと同じで、大変地方の特色を大事にする。
    どこそこ出身というのが事の他強調されるのだ。
    それで、テレビのコメンターも仕切りに、エクセレバン、、という音を放っていた。
    エキセレバンは、SAVOIE県にある。
    あのSAVOIE家の霊寵の僧院がある、ブルジェ湖がある、エキセレバンという町なのだ。

    見ると、筋骨隆々のヘラクレスのような筋肉美ばかり見せられていていたわたしは、そのルメートルさんを見て拍子抜けする。
    なんというか、まるで、どこにでも見かける20歳の青年なのだ。筋肉などどこにもついていない風、、、

    家人が、「おどろくねえ?、、、」と言いながら、アルプスのハイジのボーイフランド風のクリストフ君は、100メートルを9秒台で走る。

    で、スタートは悪かったが、最後の追い込みでみごと、一位でゴールする。
    びっくりするのは、
    大概、ゴール添いには、フランスの国旗を持って、喜んでいるチームがいる。
    彼は、トリコロールのフランスの国旗を、身体にまとって、これまた、麦わら帽子を誰かから渡され、、、

    麦わら帽子を被り、フランス国旗をまとって、トラックを走って、観衆に笑顔を振りまく。

    まるで、アルプスの牧場で、何処にでも見かけるクリストフ君、、という感じで、

    今までの、何度もテレビで見た、100メートル、世界一はやい男、、カリスマ性のイメージが、麦わら帽子で、、なんだか崩れる。

    一緒に走った、視覚障害者のスミスさんもすごく驚いた。バルセロナ欧州大会の100メートル男子は、
    一位フランス、2位、イギリス、3位フランスだった。


    _______________------------------------------------

    ルメートルは10秒11でV 欧州陸上男子百メートル
     【ロンドン共同】陸上の欧州選手権は28日、バルセロナで行われ、男子100メートル決勝は白人選手で世界初の9秒台をマークしたクリストフ・ルメートル(フランス)が10秒11で制したが、9日のフランス選手権で記録した9秒98に続く9秒台の再現はならなかった。

     ルメートルは準決勝の10秒06よりも記録が伸びなかったが、2位のマーク・ルイスフランシス(英国)ら10秒18のタイムで並んだ後続の4人を振り切った。ロイター電によると「決勝はいいスタートが切れなかったが、途中からうまくスピードに乗れた」と話した。

     北京パラリンピックの100メートルと200メートルの覇者で視覚障害のあるジェーソン・スミス(アイルランド)は準決勝1組で走り、10秒46の4着で決勝進出を逃した。







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  • from: 沙羅さん

    2010年07月29日 07時39分43秒

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    「Re:地球 ひとりある紀」

     M さんから電話がかかってきた。

     M さんは、頻尿感があると、ご主人に訴え、医者であるご主人からお薬を服用しても治らないので、血液検査をし、2週間後には癌らしき疑いが発見され、一ヶ月後には、癌の進行は相当進んでいるとわかり、手術をし、大腸癌を30センチほど切除し、腹膜にも癌がかなり転移していた事が分かった。

    わたしが話を聞かされたのは、頻尿感を持った時から3週間後くらいの頃だった。
    、彼女が動転し、信じられないショックを隠せない様子がメイルの文面にありありと分かった。

    なんと応えていいのか、あまりに次々と悪い結果を知らされて、私自身も言葉を失った。

    「元気だして!」とか
    「絶対治るから!」とか

    上っ面な言葉など、彼女の身に起きた事を思うと

    彼女の心の痛みを和らげる事が出来る言葉は、何もないのではない?のではないかと思わされた。

    それでも、わたしは、死を宣告させられて動転している彼女の真正面に立たされる。

    何とかしてあげたい、、、という気持ちをもたされる。

    正直、彼女には信仰が必要ではないか?
    と思わされて、今の自分は、何かを放つ事が出来るのに相応しい立場なのか?、、、、色々考えて、

    それで、ルルド地方に行ってみたい、、、と初めて思わされた。

    今まで、i さんが行きたいと言われた時も、
    あんまり乗り気がしない私だったけど、、

    初めて、ルルドなら?なんか見つかるかも知れない、、、

    正直、キリスト教徒でもないわたしが、何故?
    ルルドに行こうか?
    と思ったのか?
    分からない。

    ただ、同時期には、j さんの事もあった。
    jさんも癌だった。
    しかもかなりの末期癌だ。

    ルルドに向う前にラスコーの近くで一泊した。
    ミディ、ピレネー地方には、友人のSさん夫婦が、トゥルーズに住んでいる。前から遊びに来てね?と言われていた。

    S夫婦の事も思い出し、ルルドも兼ね、8日間旅行を企画したのだ。

    ルルドは、病気を治してくれる聖母マリアがいるではないか?

     とにかく、突然数人の知り合いが癌に苦しんでいる様態を、見せられて、自分の言葉が、その人達にとって無力でいる、、、という事に堪えられない何かを感じて、急だったけど、ミディピレネ行きを決行した。

     しかし、今考えると、
    なんとなく、自分で決めたと思っているのだけど、
     なんだか、何かの流れにのっているとしか思えない、、、

     どうして、2週間前に、4年前に洗礼を受けた子供が、いきなり不思議のメダイュをしながら、わたしの前に現れて、
    わたしが首にしている、iさんから頂いた、不思議のメダイュの
    聖母マリアとドッキングなどして、喜んでいるのかしら?

    いったい、この他者達の反応はどうして、タイムリーみたいな形で目の前に現れてくるのか?
    コレが実に不思議だ。

     M さんには、手術されて入院先の病院に実は、この不思議のメダイュを郵送して手紙を書いた。

    何故なら、R子さんの事を思い出した。

    彼女は、卵巣摘出した後も、痛みが止まず、再度医者にみせたら、腎臓に陰があるから、細胞摘出手術をすると、術後3週間目で、再度の手術をすると言われて、かなり堪えてしまった。

    亡くなられたご主人の秘書をされてた、Tさんに話したら、
    太宰府に、自然治癒力をハーブを飲んで高めるお店があるから、言って見ない?と言われて行ってみた。

    その無農薬のハーブを処方するご主人は、霊的な予知能力があり、身体の悪いところを、霊視して、その治療にあったハーブを処方してくれる、、という話だった。

    ところが、お店に入って、すぐ、R子さんを見て、

    「貴女、何か?お守り身につけているでしょう?」と言われたという。

    R子は、何もそのような物を持ち歩く人ではないので、持ってません、、
    とそのご主人に言ったと言う。

    「イヤ!絶対何か身につけていますよ!、
    探して下さい」とご主人に言われたという。

    ハンドバックを色々さがし、

    お財布のお札入れのカードを入れる仕切りに、亡くなったご主人の写真と、わたしが、何気なくあげた<この不思議のメダイュもiさんから、もらったものだった>不思議のメダイュを入れていたのを、出してみせたら、

    「ア!それそれ、、」、と、手に取ってみようとせず、直ぐ
    「それだ!」と言ったという。

    この不思議のメダイュは、冗談でグリコのおまけとか言ってる失礼きわまりない私なのだが、本当に、小さいメダイュなのだ。

    R子は、それから、不思議のメダイュを首にいつもつけている。

    だから、去年日本に帰国して、R子と会った時に、最初に目についたのは、首にしっかりつけてた、不思議のメダイュなので、ちょっとびっくりした。
    わたしは、つけているといっても、あまり人に見えるという感じでは、身につけるのは苦手。


    しかも他にも知り合いから色々頂く。心が篭っていると思うと、イスラム教徒の方から頂いた腕輪や首飾りやパワーストーンとか、しまいには、ジャラジャラ、皆の心を無駄にしたくないので、沢山、つけてしまう格好になって、そのわたしの格好を見た、iさんは呆れていた。

     なんというか、よくわからないけど、、、

    実は、arc河の上方に住まれている、magnetiseur民間療法氏 のムニエ氏の処に行った時、

    彼が、わたしの首にかかっている、メダイュや、ヴェズレーのマドレーヌ寺院の帆立貝や、ダヴィンチの天使の横顔が描かれてペンダントを黙って手にとって、ジーと何も言わずに触っていた。

    ムニエ氏はあまり喋らない、、ほとんど何も喋らない。
    フランス人には珍しいのですが、しかしこのような、お役目を毎日されている方というのは、どこか?ミステリアスな感じを持つ。

    それで、Mさんには、メダイュが効くかどうか?分からない、、、
    、R子さんは、それから健康の問題はないと言っているし、
    自分自身がこのようなメダイュに願いや祈ることが、懐疑的なのに、、、、、と思いながら、iさんに頂いた、メダイュをMさんにわたしてみた。
    R子さんは、フランスにまだご主人と住まわれていた頃、何回かMさん面識がある。
    、、
    わたしは、R子さんに「、Mさんが大腸癌で大変なのだ!」という事をメイルで話し、もう、気の毒で、やむに止まれず、病院に不思議のメダイュを送ったの、

    とメイルに書いたら、R子さんは、退院した頃を狙って

    日本から、Mさんに電話をしたらしい。

    R子自身が、急にみつかったご主人の癌が、もう手遅れだと言われた事、彼女自身もおととし卵巣癌の疑いで、卵巣をとった手術をしている事、、、
    私以上に、身につまされる思いであったに違いない。

    経験者にしか、辛さは分からない、、、と思ったのかも知れない。

    それで、日本から、Mさんを励ますために電話をかけて、R子はMさんに
    「不思議のメダイュは必ず助けてくれる」、、、と言ったそうなのだ。



    この話も最近、Mさんから聞いた。何故なら、MさんはR子さんに言われて、腕に不思議のメダイュを一時も放さず身につけていると話して来た

    正直、わたしは、、、大きなため息をついてしまった。

    何と言うか、、、責任重大な事を無意識にしているみたいな感じになってしまった。

    死を宣告された人達、の心
    わらにも掴む思いでいる人達の心、、

    その人達の助かりたい、、、と思いの重さ、、、

    不思議のメダイュは、本当に、心の支えになってくれるだろうか?


    聖母マリアに思いをたくす人達の心、心、心、、、、

    こういう人達の心が安らぐなら、どのような形の信仰があってもいいのではないか?と思っている。

    そのような人達が信じている信仰を、何故?私のような、健康に不安がないお気楽なわたしのような人間が、その人達の信じている信仰を、批判したりできるのだろうか?

    他者の心の痛さを、分かち合えれば、それほど、信仰の扱いは決して単純な事ではない、、、と思う。

    そのような、他者の心の痛みを、ほんとうに分かってあげられる人達は、安易に自分本意な事を述べないであろうと思うのですね。

    哲学にしても、宗教にしても、結局、他者の中に自分が存在できない限り、普遍性をみつける事は出来ないと思う。

    自分が正しいと思うから、存在できるのではなく、他者達の心の中に、存在出来るか出来ないか?であって、病気が治る、ミラクルが起きる奇跡が起きる、、、、という問題ではないと思う。



    、、


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  • from: 沙羅さん

    2010年07月28日 23時10分57秒

    icon

    「Re:ラン ♪ ラン ♪  ラテン語  」

     言語は、構造をなす重要なエレマントと言われるのは、

     思考する支配言語によって、思考の仕方の型がある程度固定化する、、、という事だと思うのですね。

     この支配言語は母国語と訳してもよいのですが、

     私自身の事を考えて、母国語は確かに日本語なのですが、思考する時、文態を造る時に仏語に変わっているというのは自覚でしるので、どちらが支配言語なのか?よくわからないでいるという状態なのです。
     
      文態のつくりSOVの順番も時々違う。
      主体発信の時に特に、日本語の表現に直すのが億劫になるのはどうしてなのかしら?

     話は違いますが、

     エベレスト、ヒマラヤ山脈の名前、、
     ダウラギリの事が書かれていた、知人T氏の本を読んで、

     若い頃、何気なし、無意識にはなっていた、

     ダウラギリ、、という音素は、サンスクリット語
     だと知って、驚いた。


     昔、10代の頃にサンスクリット語よ、、と言われても

     「何?それ』的に感受したと思うので、

     ダウラギリ、という音素がサンスクリット語の音素を維持しているという事に新鮮な発見をして、

     じゃ?エベレストは?
     チョモランマ、とかローツェとか、山の名前は何処から来たの?

     と探求心がわいた。

     考えたら、何故? インドの上方に、世界最高峰の山脈が何故?存在するのかしら???

     とk神様も答えられない、疑問を自問自答していたりする。


     般若心経を聞いていると、どうしても、音韻学とか考えてしまう。

     母音と子音のフォルマント、やRIME <韻>と呼ばれる
     つくりを考えさせられる。

     何故?

     この音で、放たれるのか?

     が、

     何故、このお経が、国民的に誰でも知っている普遍化したお経として、堂々と存在しているのかしら?

     ただ短いお経だから、、、という理由では、納得させられない
     何かが?
     あるような気がして仕方ない。

     大概の人は、般若心経は知っていると応える人はいるけど、
     菩薩って何?
     と聞いてくる、一般人は多い。

     可笑しかったのは、

     テレビで、三輪明宏 が出演している番組で、
     司会者の若い男性が、

     三輪明宏の過去世の事を、話されていて、

     菩薩、、という言葉がでたら、

     「菩薩?マ、そのようなよく分からない話はよこにおいといて、、」
     
     と話されていたので、一般人の菩薩という言葉の普遍性のなさは、
     日本だと、だいたいこの程度と理解された方が無難だと思うのです。
     結局ごくごく一部の自己満足の為の分野の争い事を、開示するという現れ方をしているより、普通の人達、一般の人達が悩む、
     社会がもつ問題、自殺の数の多さや、いじめや、心理的な問題は、自分自身が興味がある分野の問題よりも、何万倍、何千万倍と広い分野にわたって放漫してしまっている。

    まず、そのような環境に置かされている自分や他者を客観的に観て、他者や自分の』生かされる世界への影響を考えて、言説や言葉を選ばなくてはならない、、、という広い意味での、哲学<生き方>とでも言ったらいいのか?

    まずは、自分の信じている信仰や宗教に、一生懸命勧誘するという事より、一般の人達が存在している複数他者達との世界を共有するというのが重大だと思うのですね。

    実践は、菩薩やキリストやモハメッドとは関係ないはずですから、

    彼らの心とは?、、、だと思うのです。

    ですので、般若心経の意味を知りたいと思う人は、一般的興味からかけ離れているという感じですから、、、、

    わざわざ、知りたいと思わない人達に向って、

    『般若心経とは云々、、」の説明をするという

     現れ方をするから、

     結局、知識や認識があるのをいい事に権威的にふるまって、押し付けがましい人達、、、、、

     と、思われて嫌われる存在と化しているのだと思うのですね。


    現れ方、、、というのは、大変大事に思えますです。

    何々がいけないという判断ではなく、

    何故?

    そのような行動にでるのか?

    と、他者を理解するという視点に気つき、断定的で権威的な表現をもって、他者と関係を結ぼうとなさるのは、音による、支配的な関係を強めているのだと思うのですね。

    そのような支配的な関係を求めれば、自分も他者から支配されるという順繰りは決して、健康的な世界観とは思えないです。
    自由を放任するというのではなく、自由は自発意志であって、最終的には選択がなくなり、それしか善、真、美をかたどっているものは、ない、、、という感じではないでしょうか?

    そこまでの長い道のりの上での自由の解釈は個人個人全く違うと思うのですね。

    それで、他者を理解したいと思う時、

    どうしても、他者の放つ音に気をつける。

    スイスジュネーブの言語学者、ソシュールが、インド、ヨーロッパ
    語の造りに類似点を見つけたのは、偶然の発見だったのか?

    ヨーロッパの緑色の分布、、これはラテン語系民族と、インドは、確かに同じ緑色の分布図になっている。

    印欧祖語には、フォルマンと、息継ぎ、不発音による隙間、RIME韻、繰り返し、、
    などなど、まるで、音楽でも聞いているような気分になる。

    何故?

    途中で切るの?

    音楽を、小節分解して
    シンフォニーや、コンツェルト を何故?
    理解できるのでしょうか?

    曲がはじまるあの一瞬時、指揮者が、指揮棒をあげた時

    さーっと、鳥肌がたつ、、

    あの沈黙による空気の凝縮はなんなのかしら?

    音が反響する場というのは、この沈黙にも、なんらかの鳥肌を感じさせる何かを発している
    ソシュールはジュネーブ出身なので、支配言語は、フランス語だったのかしら?
    思考するもとの言語はいったい何語だったのか?
    色々考える。


    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%AA%9E



     
      

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月28日 18時55分32秒

    icon

    「Re:Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」
    >
    >  人と、話しをしていて思うのですが、
    >
    >  「心の接し方、 心の扱われ方に 気をつけて、
    >
    >  音を 放たないと いけませんよね?」
    >
    >  と何度も、何度も、述べるのに、
    >
    >  この心の接し方、、、、という意味が、分からないようなんですね。
    >
    >  今まで誰も、それに関しては、確かな返答は返って来ない。
    >
    >  いつも、表記上の漢字や単語やテキストの個人見解だけを
    >  述べる、、、、、という関係のみ、、、、という現れ方<記号優先、唯物論的>になっている、、、、
    >
    >  という事、感じられないようなんです。
    >
    >  自分がしている事を、
    >
    >  自分の外側観る、、、、という感じです。
    >
    >  自分の外側から、自分と他者が話している光景を感じるという感じです。
    >
    >  他者が、好意をもって関係してきているのか?(能動)
    >
    >  他者が仕方なく、しょうがなく返事をしているのか?(受動)
    >
    >  という他者の心を介し、自分に対する意識の姿勢を感じる事が出来ると思うのです。
    >
    >
    >  他者は 他人と解釈しないで下さいね?
    >
    >  他人と解釈するという事は、自分と関係をもたないと、おもっているのか?存在を自分の中で感じられないのか?
    >
    >  よくわからないですが、、、
    >
    >  他人ではないんです。
    >
    >  他者は自分の中に存在するから、
    >
    >  自分は他者にとって、どう思われているか?
    >
    >  という他者と自分のコミュニケーション層が成立するんです。
    >
    >  他者<その人>が好きとか嫌いであるとか、、、、、、
    >
    >  そのような情動運動云々の事で生じる、他者を遠のけたり
    >  他者への、好感や情動運動によって、極端に近づくという事ではなく、、、、
    >
    >  それは、形而下の肉体をもつ出来事ですから、それはそれでも良いのですが、、、
    >
    >  心の接し方、心の扱われ方、、というのは、そのような意味で述べているのではないんです。
    >
    >
    >  I さんが、お母様が買って積んであった本を手元になにげなく取ってみた。
    > ホスピスを最初に日本で造られた、日本人の神父さんの書かれた本だった。と述べてきた。
    >
    > その本の中に、神父さんは、
    >
    >  願望と希望は、全く違うものです。
    >
    >  の述べてあって、仏語勉強中のI さんは、
    >
    >  フランス語の文態を作る時、誰かと対話する時、すごく気をつける文態 が、 希望 と願望 の文である、、、
    >
    > とメイルで書いてきた。
    >
    >
    >  時々会う、小さな4歳の男の子の首にしてあった、洗礼の時に曾おじいさんから頂いたと、お母さんが説明されてた、パリの不思議のメダイュをかけていた、M君。
    >
    > わたしが、彼の目線に立って、
    >
    >  ごそごそ、胸から、I さんに頂いた、不思議のメダイュを見せながら 
    >
    >  「 わたしも、同じのもってるよ〜ん!」
    >
    >  と、見せたら、その後、会う度に、
    >  彼は、ゴソゴソ、自分の不思議のメダイュを、わたしに
    >  最初に見せて、わたしの意識を引っ張るので、
    >
    >  その度に、わたしも、胸から不思議のメダイュを、身につけてい る行為をしなくてはならなくなった。
    >
    >  なんでしょうね?
    >  3,4歳の子供に、自分が持ってる同じ物を持っている人がいる
    >  という存在は嬉しいと感じる事が出来るのでしょうかね?
    >
    >  この年令で、信仰云々の意識もないと思いますし、むしろ、
    >  この年令が若いほど、何故?何故?質問を親にしますから
    >  どうして?
    >  何故?
    >  何で?
    >
    >  ですよね。
    >
    >  判断がないから、何故?何故?質問を両親にするんですよね。
    >  判断をしない年令というのは心がなんらかの世間の常識とか通念や規範とされるような、価値観の物差しがなく、心で観ているからむしろ純粋な視線で観るところに疑問が湧くんですよね。
    > つまり、大人になるに連れて、子供の無垢な心を忘れるから質問も何故何故?質問が無くなってくる。
    > 何故?
    > という意識が生まれないのは、
    > 純粋な心ではありませんです、、、笑
    >
    > 死ぬ時あの世に持っていけるのは、認識や知識や貯金通帳ではなく、
    >    心 だけです。、、、、
    >
    > と何度も述べてますよね。?
    >
    >  あの世にいって、心 そのものしか、ないんです。
    >
    >  肩書きやら、日本語の読み書き能力や、難しい専門書や、
    >  職種による、専門知識や、家や財産管理に必要な登記書を読む認識などなど、、、あの世にいけば、全部なくなって、
    > 生きていた聞感じた 他者との触れあいで感じた 「心」 の思いだけなんです。
    >
    >  そういえば、子供は、よく
    >  気に入らないと、「アレが欲しい」とか「コレが欲しい」
    >  という。
    >  時たま、大人も言うかも知れない、、@@
    >
    >  フランス語では、「コレが欲しい」、「アレが欲しい」
    >
    >  という文態 は存在しないのですね。
    >
    > 「 私は欲しい、」という文態が出来、
    >  必ず、JE という主体表現が必要になってくる。
    >
    >  例えば、お菓子屋なんで、子供が、
    >
    >  「 この飴欲しい〜」という文態は、何故?
    >  主体が落ちてるいるにも関わらず、
    >  何処かの子供が、何かを 欲しがっている、、という欲望を現しているコミュニケートだと理解できるのかしら?
    >
    >  日本語の会話には、かなり主体の文字が欠けている文態で意志が通じてしまっているという不思議な言語システムになっている。
    >
    > ですから、外国語<英語>にする時、
    > 人に何かをお願いする時に、 
    >
    > PLEASE を文頭に持ってきて、
    > PLEASE GIVE ME〜、、、という文章を放つという意味が、実は、相手に対して、使役の働きを含む、返って失礼な文章を放っている事になっている、、、
    > というのは、感じられない<分からない>というのは、このような主体、わたし が抜けてしまう文章で通じているという言語の仕組みの違いが、観じられないんではないか?
    > と昔から思っていたのですね。
    >
    > いくらPLEASEをつけても、
    > GIVE ME という文態の音素はかなり支配的に聴こえる。
    >
    > 対話者が何かの行為に至るのは、対話者の自由意志に任されているのですから、その行為が万が一行われるとしたら、わたしはとても嬉しいのですが、、、という文態<コミュニケート>で象られるというアルファベット言語を日常生活にしている言語の民族は、この微妙な心作用を理解していると思うのですね。
    >
    > 万が一、人に何かを頼む時は、他者に強制する立場をとらず<意識的、無意識的両方>
    >
    > 平等の関係が精神世界では、成り立ってしまうのですから、
    >
    > たとえ、上司が役職上下の位置にいるからといって、
    > 何言っても言い。
    > 何放っても言い
    >
    > 皆、そうしているのだから、自分もそうすれば言い。
    > 皆、同じ事言ってるから、自分も右へならえ、、で、同じ事言えば良い。
    >
    > みたいな、言葉は乱れた音素を、むやみやたらに放っているのだと思うのです。
    >
    > 三輪明宏が、テレビで、親殺し、子殺しが似合う世界を自分達みずから造っているのは、親しい人だからと言って、タメ口ばかりを放って、むやみに親しい関係を動物の関係の質へと低次へ転がる関係へと結ぼうとするからです。
    > 言葉<音>使いに、品格がないからです。
    >
    > と述べたのは、本当にそう思います。
    >
    > 礼儀というのは、何も知らない人、親しくない人に良く思われたいから礼儀礼節に気をつけるというのは、反対で、むしろ 知りすぎた、近い人達の人間関係の心作用にもっと気をつけ、既存の関係にを自分勝手に乱用したりせず、金銭的に責任を負うのだから、相手はやって当たり前だというような動物的な、支配的にならず、
    > あくまでも、相手は自発性による行為、ポジティブな意志で行為にいたるという感謝n気持ちから、関係を維持したいと思わす関係つくりが大事だと思うのですね。
    >
    > 「ここまでやってあげたのだから、貴方もこれくらいやるのが、当たり前でしょう」という関係はすべて後ろ向きの会話でしかないと思うのです。
    > お互いを、義務<社会規範?>や権利で縛る???
    >
    > 心を縛って、心や魂の本来の希求運動は、自由であり平等であり、自発性こそが、能動性を生み、自己の外への超越への足かけになると思うのですね。
    >
    > 同じ行為に観得ても、心の状態如何によると思うのです。
    >
    > そうそう、それで、
    >
    > コレ欲しい、 アレ欲しい という日本語を仏語になおすと
    >
    > 「 JE VEUX CA」
    >
    >  ジュ  ヴゥ   サ
    > という音になるのを、
    >
    > 母親が、JE私 VEUX欲しい
    >
    > という文態を、
    >
    > CONDITIONNEL<条件付>の文態
    >
    >  JEジュ VOUDRAIS ブドレ
    >
    >  「わたしは、欲しいのですが、、、」と主体JEの発信でも表現は柔らかい、、、文態で放ちなさい、、、と小さい子供を叱る。
    >
    >
    > 母親に対する尊重の意識を持ちなさい、、、という子供のしつけ、注意とも言えると思うのです。
    >
    > 品格というのは、格はTONEトーンなので、音のTONEと同じ。
    > 音によって、人間関係の品格が近しい関係にもある事を覚えなさい。。。。という家庭のしつけはやはり大事に思えるのですね。
    >
    > 何でも相談できる、話しやすい家族の絆が、
    > 結局、音素の乱れた、どう考えても、他の外国語に翻訳すると、人間の存在の崇高性を目指す、関係つくりとは思えない、ナーナー関係で、気兼ねしない関係が居心地がよい、、という感覚が分からないではないけど、、、
    >
    > そこに子供、年長の両親の存在、そして、近所、友人 仕事仲間、、という多種多様の人間関係の関連性が、みえないところで、繋がっている。
    >
    > そのような見えないけど、そこに存在しえいると想像しながら音をつむぐ、、、という意識は、空に、綺麗な音を放つ、、、という事につながるのではないか?と思うのですね。
    >
    > 友人に借りた本、RENCONTRES AVEC GUERISSEURS 
    >
    > 民間療法者との出会い
    >
    > という本の中に、患者さんを前にした時
    >
    > 天使とコミュニケートとる MAGNETISEURマニエティズーの人の話が載っていた。
    >
    > 「わたしは、治せるのを欲している、、、」、という願望の言葉は放たない、、、、
    >
    > 「わたしは、〜出来れば嬉しいのですが、、」という言葉を、こころの中で唱えるんです。
    >
    >  書かれている。
    >
    >  心を接する、
    >  こころの接し方というのは、
    >
    >  言葉つかいに、影響すると思う。
    >
    >  万が一、天使が存在するとしたら、
    >
    >  そのような、心の接し方を、感じて相手を尊重できる態度や意識を感じる事のコミュニケートが出来る人達の心に接近してくるのではないか?と思うのですね。
    >
    >  音が大事、、、という事はそのような事に思えます。
    >
    > http://www.youtube.com/watch?v=P2D8epuXla8
    >   
    >

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月28日 08時03分55秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:ラン ♪ ラン ♪  ラテン語  」
    > > デカルトさんはそれなりに、大変な功績を残しましたよね?
    > > でも、哲学は停止できないんですよね。
    > > いつも生きてる時代の普遍性を追い続ける、、
    > > 追い続ける、、、追い続ける、、、、
    > >
    > > 哲学は目的を持たされ生かされる人間の生の意味にも似ていますよね?
    > >
    > > 終わりがないと言うか、、、、何故?
    > >
    > > 生きてるうちに、これが真実だ!と断定的に 何かを述べれるのでしょうか?
    > >
    > > といつも思う。
    > >
    > > 実践にうつっているのかしら?と思うと、ただの机上の議論の途中経過でないのを、結論らしく述べたりするらしい。
    > >
    > > で、実践には全く至らず、他者への影響も全くないから仕方ないしに、お金をだしたり、プロモーションして、広告しないと、自分の言説に誰も意識を引っ張られない、、、
    > >
    > > これは違いますよね?
    > > といつも言うのですが、、
    > >
    > > 本当の普遍性は、因果関係が分かりますから、天空の出来事で情報が伝わっているので、人ビトの足が近づくんですよね。
    > >
    > > 電話もメイルも不要なんです。
    > >
    > > 普遍というのはそういう意味で、広告料を払ったほうが、人に知られ、有名になり、何かが売れたり、知名度が高くなるという事が普遍性を持つと、勘違いしないで下さい。全然違います。
    > >
    > > 記号に頼るから、記号で、他者の身分や職業や、学歴などが知りたくなるんですね。
    > >
    > > 記号に頼るからなんですね。
    > >
    > > 記号要りません。音だけです。心に想い、思う事でつうじていますです。
    > >
    > >
    > > そうそう、それで、フッサールという哲学者は、
    > >
    > > コギトが問題ではなく、
    > > コギト、コギタータCOGITO COGITATA
    > > <私ハ思惟ノ対象ヲ思惟スル>と言ったのです。
    > >
    > > この場合の思惟は、意識と同義語ですね。
    > >
    > > これが現象学者のいう、
    > > 意識はつねに何ものかについての意識である、、という文体で表現されるところの意味あいなんですね。
    > >
    > > 又感覚も同じですね。
    > >
    > > 必ずなにものかについての感覚であり、なんらかの実在についての感覚にほかならないのですね。
    > >
    > > 志向的は、INTENTIONNEL インタンショネル
    > > という語源から分かるとおり、感覚は志向的なんですね。
    > >
    > > 自分自身に閉篭もっているのではなく、感覚は進んで対象の方へ
    > > 志シ向ッテ逝く <TENDIT IN>なんですね。
    > >
    > > 知覚は、PERCEPTION ぺーセプションという音素ですから、突き抜けるとか、貫く、穴を抜ける等、、という動詞
    > > PERCER ぺーセーが語源なんです。
    > >
    > > 決して、知覚は
    > >
    > > ボーっとしてて、外部から働きかけられて、気がつく感覚ではないんです。
    > >
    > > 前にも書きましたけど、収税吏を、同じ突き抜ける、貫く、の動詞PERCEPTEURぺーセプテゥール
    > >
    > > ですから、感覚的に収集し集める、、という感じなんですね。
    > >
    > > 税金を快く好意的に自発的に払うというのと、
    > > 何処かの障害者の施設に寄付するというのと、
    > > 同じ出費にも、意識が違うのは分かりますよね。
    > > PERCEPTEURは、前者の税金を、集めるのですから、
    > >
    > > 当然鋭く隠れている情報を察知する、簡単には観えない情報をサッと知覚する、洞察眼がするどい、、という感じの
    > >
    > > 単語が知覚、PERCEPTION という音素に含まれているんです。
    > >
    > > ボ〜っと、皆も感じる事が感じるという知覚という意味とは違いますよね。
    > >
    > > デカルトの「私ハ思ウ」、
    > > COGITO から出発し、人間の本質、思うは広い意味での想念から想念、つまり想念から思い浮かべるという架け橋が外界の対象へと結びつくは如何にして行われているのか?
    > >
    > > という連続性の思考による行為は、いかにして行われるのか?
    > > という心理学上の問題へと展開しなければ、普遍性が観えなかったんですね。
    > >
    > >
    > > 普遍性が見えないのは、消えてしまいます。
    > >
    > > そしたら、魂は他者に自己が存在する事を感じてもらいたくて、色々な手段で、自己の存在を確認したく、他者に関係すると思うのですね。
    > > そこで、自分一人の一方通行のコミュニケーションばかりしてても、これこそ、他者はぼーっと聞く事に務めるので、知覚の働きになりませんね。
    > >
    > > いかに多くの、心や魂の感じるひだに、問いかける、、、というコミュニケート又は、応答の仕方に限られてくると思うのです。
    > >
    > > 最終的には、普遍性は、心 が心地よい驚きを感じる、、というコミュニケートの仕方だと思うのです。
    > >
    > > 支配的なコミュニケートばかりしてても、知らない他者は一向に振り向かないですし、普遍性の波も全く起こらないと思うのです。
    > >
    > >

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月28日 06時14分23秒

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    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:沙羅ちゃんのブログ」


    MSG 476の続きですが、、、

    あ〜「、くうかいさぁ〜ん 」


    この書き込み、変でしょ?


    最近沙羅、洞窟ばかり書いて変でしょ?


    そうだった、

    空海さん自身が、

    室戸岬にある洞窟、御厨人窟に 住まわれて 虚空蔵求聞持法を授かったんでしたね。


    <以下、WIKIから転記>

    沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり



    御厨人窟と神明窟は国道55号沿いの室戸岬東側に位置する隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である。御厨人窟の向かって右側に神明窟がある。それぞれ祠が祀られており、御厨人窟には五所神社があり祭神は大国主命、神明窟は神明宮があり祭神は大日孁貴となっている。

    御厨人窟は平安時代初期、当時青年であった弘法大師がこの洞窟に居住したと伝えられている。この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の法名を得たとされる。 また、神明窟で難行を積んだと伝えられる。難行の最中に明星が口に飛び込み、この時に悟りが開けたと伝えられている。

    洞窟の中で聞こえる豪快な波の音は「室戸岬・御厨人窟の波音」として環境省の残したい「日本の音風景100選」に選定されている。

    写真は、空海が住んでいた<というより、空海さんもクロマニヨン人と同じですか?、洞窟神聖域に求めてしまう>
    左は御厨人窟の洞窟。
    右は、神明窟の洞窟

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月28日 03時56分55秒

    icon

    「Re:Re:Re:Re:Re:Re:沙羅ちゃんのブログ」
    > >
    > >  般若心経を、音として放ち、音による響音だけに、鼓膜に神経を集中させると、とにかく、一番最初に、気つかされるのが、
    > >
    > >  ム
    > >    という音が非常に頻繁に放たれる。
    > >
    > >  この
    > >
    > >  ム は漢字だと もちろん無ですが、
    > >
    > >  音 としての発音記号は、どうなのかしら?
    > >
    > >  フランス語だと、MOU か ME かどちらかの記号を使うと思うのだけど、
    > >
    > >  ローマ字表記は、 MU 表記は、U という音は、
    > >
    > >  ウ ではなく、 ユとウの真ん中の音なので、
    > > むしろ、OU で現す方が、 ムに近いであろうと
    > >
    > >  考えるのです。
    > >
    > >  すると、母音は、OU(ウ) か E(ウ) が一番無という音の近似値かもしれない。
    > >
    > >  母音はフランス語は16音存在するので、自然界というのは、反響する母音の音は、記号に現せる以上にある事がわかるのです。声をだすのは人間だけではないですし、
    > > 動物達の鳴き声にも母音がかなり含まれている。
    > >
    > >  RIME リームというのがあるのです。
    > >
    > >  フランス語の詩はこのRIMEがよくあちこちに並べられている。
    > > 同じ音素の繰り返しによって、何かに気づいてもらいたい、、、というコミュニケーションの方法なんですね。
    > >
    > > アルファベットの単語の意味というより、RIME<韻>を含ませる詩には大変美しい音素の流れの詩が多い。
    > >
    > > 音が美しい
    > > と
    > > 詩が美しい
    > >
    > > が一緒になっているような詩なのだと思う。
    > 詩というのは、音で理解するというのが、文字でコミュニケーシヨンをしない時代の人達のコミュニケートの手段、つまり音を鋭く分析してみると、感情と音が一致しているのが分かってくると思うのです。
    > >
    > > ベーダは、この音、美しい反響する音のつづりを、河のように
    > >
    > > 区切る事無く、歌のように歌っているのではないか?と思わされる。
    > >
    > > そこには、音響によって観じる、何かの一致、天空界の願いや思いや祈りの一致を感じているように思えるのです。
    > >
    > >
    > > 先月のルルドへの旅行、ミディ、ピレネ地方で、ラスコーの洞窟を訪ねた。
    > > ラスコーに限らず、この地方にこんなにも鍾乳洞や洞窟が多かったのか?<22箇所あるらしい。>
    > 思わされて驚いた。>
    > ラスコー洞窟はその中でも一番知名度が高い。、
    > 15000年前、、クロマニヨン人の存在によって、描かれた壁画が20世紀に発見されたのだ。
    > 発見するといっても、森林に覆われた場所。
    >
    > > もちろん最初から穴がある訳ではなく、
    > >
    > > 洞窟の入り口も15000年の間、地表が変化して、森林や石灰質の土壌で覆われたりして中々、気つかない。
    >
    > 15000年の時間が、真実を隠してしまう。
    > >
    > > そんな時、20世紀にはいり、たまたま、野山で遊んでいた、子供達によって、飼い犬が落とし穴に落ちた事によって、発見されたりする。
    > >
    > > 本とに不思議だ。
    > >
    > > ラスコーの洞窟は、クロマニヨン人が、火を使い出した、人間が火を使い出した歴史とだいたい一致するそうなんですね。
    > しかも、地球上で一番最初火が使われた
    > 記憶では3箇所ある。フランスのミディピレネ>地方と、ロシア大陸と南アメリカ大陸だった?かな。
    > だからラスコーの洞窟に住むクロマニヨン人は、比較的頭脳が発達していたのではないか?
    > ラスコー
    > > 洞窟は、大変長くて広い、、、
    > >
    > > しかも壁画からすると、当時この洞窟は、SANCTUAIRE
    > > サンクテゥエー 聖域の場所として、使われたらしい。
    > >
    > > 何故?
    > >
    > > 外で、祈らないのかしら?
    > >
    > > 何故?
    > >
    > > 明るい、場所の岩にでも描けばいいのに、
    > >
    > > 電気も何もない、深い洞窟の中で、何故?
    > >
    > > 動物の脂を使って、蝋燭をこしらえて、牡牛や馬や暗号みたいな模様を描いて、神聖な聖域として、クロマニヨン人達は集まったのかしら?
    > >
    > > 何?洞窟でするのかしら?
    > >
    > > 外で祈ればいいのに、、、
    > >
    > > とか思うのです。
    > >
    > > ふと思った。
    > >
    > > 洞窟で、声を出せば、必ず、音 は 反響する。
    > >
    > > 霊を呼ぶ、、、壁画には、鳥のお面を被って、寝ているシャーマンみたいな人間も描かれている。
    > >
    > > 何かの霊を呼び起こし、病気を治したり、祈ったり、、、
    > > 洞窟は確かに、聖域だったのかも知れない。
    > >
    > > ルルドの聖母マリアも、もっと川辺とか、木々のしたとか、橋の上とか、気持ちがよさそうな、出現場所は選ばず、なんだか、ジメジメした、くら〜い洞窟を選んで出現する。
    > >
    > > その30年前には、パリの雑踏に近い、パリ6区のチマチマした狭苦しい<失礼>不思議のメダイュ教会の中、出現した。
    > > その30年後は、パリ6区のあの雑踏の中の教会近くは、煩くてカナワンと思ったらしく、今度は、スペイン国境沿いの、洞窟に突如現れたりする。
    > >
    > > 聖母マリア様も時間と空間の中を飛び回って、色々な場所で、執着心<信>のない無垢な心の持ち主と接触して、聖域の存在を示そうと、一生懸命なのでしょう。
    > >
    > > 接触された方ガタは、大概、最初皆に話しても信じてもらえない。
    > >
    > > 仕方ないから、神通力を発揮する。
    > > 怖いですね〜。。。。。
    > >
    > > ARCの苗字を持つ、ジャンヌ、ダルク Jeanne D'ARC
    > > が、ミカエル天使と接触した事が、嘘ではない事を伝える為に、シャルル7世の戴冠 を実現させる、、という事実上のイギリスからフランスを救うというシナリオが出来上がっていたのか?と思われる程の、世にもまれに見る歴史の出来事が一人の少女の出現によって生じるのだから驚くと思うのです。
    > >
    > > シャルル7世のランスでの戴冠を実現させない限り、その後に続く歴史上の出来事の展開に至らないではないか?
    > >
    > > フランスがイギリスにオルレアン地方を占領されたままになっていたら?
    > > ダヴィンチを擁護したフランソワ一世の存在はあったのだろうか???、
    > > ロアール河域に点在するかずかずの城の中には、アンボワーズ城ももちろん存在する。
    > >
    > >
    > >  そういえば、おとといテレビで、世界の不思議な出来事を紹介する2時間番組があった。
    > >
    > > ノルマンディーに住む、40歳くらいの女性の画家の話を述べていた。
    > >
    > > フランスはあちこちの観光地に、その地域にある歴史建造物や風景やら、守護聖人の絵や、教会や大聖堂の写真の絵葉書が売られている。
    > >
    > > 旅行に行くと、皆その土地の絵葉書を知人に送る習慣があるのですね。中には、1800年時代のその土地の風景や白黒写真の大聖堂の形を写したものもあり、絵葉書きと言えども、なかなか、かんがえ深い。
    > >
    > > よく、日曜日にはマルシェという市場があちこちの広場に出店が立ち並ぶ。古典商 という商売と言っていいのか分からないけど、
    > > 何処かの、家の屋根裏部屋に保管されていた、何千枚、何万枚もの地方やPARISの昔の絵葉書が売られている。
    > >
    > > わたしも、当時住んでいた小さな村の1700年代の白黒の絵葉書きを見つけて購入した。丁度教会の隣に住んでいたので、その教会の昔の姿と、裏通りの雰囲気は確かにその当時の面影を残した風景で、記憶にある教会の裏通りの道りを映した写真葉書になっていた。
    > >
    > > 誰かの筆記跡はなかったから多分売れ残りの絵葉書きだったのかもしれない。結構高価な買い物だったけど、記念に買った。
    > >
    > > そのようなお店で、この女性は画家でもあり、何枚かピンと来る葉書きを、のみの市で、買ったという。
    > >
    > > その絵葉書きは、
    ミカエル天使が描かれてい絵葉書だった。
    、読んでる本の、しおりのつもりで使っていた。
    、読んだところに挟んであったという。

    > > ある日、その読んだ本のしおりが落ちて、ご主人の目に留まった。
    > > 表はミカエル大天使の絵が印刷されているのですが、
     ご主人は裏面に目がいった。

    、裏側に、茶黄色くなったインク字で、誰かが旅行中に知人に出した絵葉書らしく、簡単な言葉が2,3言、書かれてある。

    > > あて先の人の苗字が、その画家の女性の曾おじいさんと同じ苗字だったという。

    しかし、フランスも同じ苗字名前の人は、珍しくない。
    むしろ、苗字によって先祖の職業や住んでいた場所が判ったりする。ので、表記ではなくそれが何を意味するか?という探求の仕方の方が賢いですし、ワクワクするでしょ?
     
     ご主人の方が、不思議に思って奥さんに聞いたそうだ。

    > > その苗字と名前のあて先も良く見た。、<のみの市で古典商が売ってた近所の場所から程遠い>600キロ先の離れている住所があて先の住所。


    > > 調べたら、確かにその曾おじいさんが当時住んでいた場所らしい事がわかった。 > > つまり彼女の曾おじいさん自身に中てられた絵葉書を、たまたま、曾孫とする人が、選んで購入し、読みかけの本のしおりとして使っていた事になる。
    > >
    > > という不思議な話、ミカエル大天使の絵葉書を見せて、テレビで話していた。
    > >
    > >  フランスは田舎の家に行くと、GRENIER屋根裏部屋というのが必ずあり、一見ガラクタばかりなのですが、本とにエ!?と思わされる物、大変高価なものが、掘り出されたりする、
    > > 何百年も、屋根裏に眠って誰もきつかない、、、、
    > >
    > > 絵葉書もそのような天空の何かの想いがそうさせるのかも知れない。
    > >
    > > 「此処にいるよ!気ついてね?
    > > 君は会った事ない先祖の一人の僕だけど、、、
    > >
    > > 君が生まれた事を知って、ずーと、見守っているよ!」
    > >
    > > みたいな想いを伝えたくて、
    > >
    > > のみの市で、魔法の術を、かける。
    > >
    > >
    > > テクマクマヤコン、テクマクマヤコン、、、
    > >
    > > 写真はパリのノートルダム寺院にある、ジャンヌダルク像。

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月27日 00時04分52秒

    icon

    「Re:Re:地球 ひとりある紀」
    >
    >  小学生の頃から、地元がオーガナイズするキャンプや
    >  学校が、学年事に毎年林間学校を企画するのに、必ず毎回参加する子供だった。夏休みにある、プール教室も、毎日休まず通う子供だった。 外遊びが、好きで好きでしょうがない、、、という子供だったようで、でも回りも似たような友達と毎日遊んでいたから、特別わたしが変わっていたとは思えない。
    >
    > 今考えると、やはり良い時代に生まれ育ったと思う
    > ファミコンがある時代ではないし、塾やおけいこ事がなかった時代ではないけど、別に塾など行く必要はあまりなかった。塾の必要性という価値観が漂っていなかったような感じなのだ。
    > そういえば、小学校の時、なんで?塾に行くのか?
    > その意味が分からなかった、、、という感じだった。
    >
    > 放課後から家に帰る途中でどれだけ、面白い遊びが出来るか?
    > それのみ皆考えてる感じがあって、、、
    >
    > もう夏休みに入ると、「一日中、好きに皆と遊べる〜」と狂乱舞い嬉しくて、嬉しくて、しょうがなかった、、、という感じだった。
    >
    > という記憶があるのだけど、最近の子供の顔を見ると、違う。
    > 本来の子供の姿は、遊びに夢中になるというのが、自然だと思うのですが、、、
    >
    > それで、キャンプや林間学校の経験は、家から離れるという事で、もっと色々な発見があった。
    > 顕著なのは、友人達の様子が、家から離れると、性各が変わったようになる事を発見する事だった。
    >
    > よくいませんか?
    >
    > 教室で、あまり目立たなくて、大人しい子が、キャンプの時の飯ごうの炊き方をよく知っていて、驚く発見があったり
    > 、反対に、学校では割かし仲間の統率力に秀でた人が、自然の中での生活では、自分の好きな事ばかりを優先してしまう人、他人に一言断ればすむ事ような事をせず、さっさと自分がしたい事を他者の行動のバランスが見えなくて好き勝手に行動してしまう人。
    >
    > 自給自足という生活スタイルをエンジョイするどころか、他者<仲間達>達との連絡が途絶え、何故か自分一人の世界で、世界は回っていると思っているらしい、、、、
    >
    > 当然、友達の間では不満が起きる。
    >
    > 放課後の掃除当番をサボって、先に帰るという規範を破るというレベルとは違い、自然の中での団体行動が、いかに不便であるか?という視点にしか意識がいかないような人が必ずいた。
    >
    > 反対に学校の教室では感じられない、わからない、、、
    自然に対しての勘の鋭い子供が必ずいた。
    >
    > 疲れても、愚痴は言わず、いただきを見つけると、自分から水を飲みに行って、飲めそうだと皆に教えてあげたり、
    > 学校では目立たない子供の方が、自然に対する忍耐力があるのではないか?、、、というか、何か、生きる目的が学校の勉強ばかりをするという生活には全く興味がなかったような感じだった。
    > そのような目立たない存在の人達が、オヤっと見せる
    魅力的な能力を持っている事に意識が惹かれるのだ。

    > いつも、学校の教室で見られない人格の違いというか、その差にびっくりした。
    >
    > わたしはいつも、観察側にいたような子供なので、他者とは?
    > という感じでいつも友だちの言動を見ていたようだった。
    >
    > 教室で、決して目立たない子供なのに
    皆で薪を探しに行くような役割を自分から心よく引き受けたりする。薪といっても、経験がなければ、どのような材質の木々を拾えばいいのか、普通は分からないのですね。
    >
    > 、思いがけず、驚き、心地よい驚きの発見と言えばいいのだろうか?隠れた秀でた能力を見せられると、わたしも、
    >  空の飯ごうを洗っている彼に近づいて、話しかけたりする。
    >
    >  何と言うのだろうか、、、
    >
    >  自然に対する 感というものだろうか?
    >
    >  去年キリギスタンから来た、マキシム青年もそのような青年だった。だれも教えなくても、フランス語など喋れなくて、導かれる聖域の場所に自分で無意識に近づいていってしまう、、、という
    >  直観の持ち主だった。
    >
    >  自然の山に入れば、この勘の良さは運やツキやチャンスをものにする、、、事が出来る。
    >
    >  むやみやたらと、自然の変化を読めず、人の心を読めないというのは、あまりにもマテリアルな生活にどっぷり使っているからなのでしょう。
    自然の世界は、自分一人で、好きな事をする、、、という行動が取れなくなる、他者の歩調を自然に意識するという手段を持たされるというのが、自然なのだと思う。
    >
    >  小さい頃、このような野外生活経験から、人というのは、目に見得ない能力や、反対に、一般受けするように、表向き規範や礼儀規則正しい生活で暮らしているのかと思いきや、、、自然という環境に、順応出来ず、自宅での生活の快感さを、自然の中でも堪能できると勘違いしてしまうのでしょう。それで、仲間との無言での心使い、気使いという心情や情動が欠如している、、、という事が見えたりする。
    >
    > 自然 というのは怖ろしい。
    >
    > 私が、フランスに来た頃は、日本から団体旅行のお客さんが、あちこちパリ以外にも、訪ねてらした。
    >
    > わたしの友人達の話では、突然、かかりつけのお医者さんや、噂を聞いて知己関係のないお医者さんから電話がかかる。
    >
    > 旅行中に、病気や怪我をした日本人観光客が、担ぎ込まれたけど、何を言いたいのか、分からないと言う。通訳をして欲しいという。
    >
    > 困った時の人助け、、、と思い、大概、知人達は気持ちよく病院に向う。
    >
    > ところが、添乗員さんは残してきた何十人のお客さんの世話もあり、一人ぼっちで、病室にいるという。
    >
    > 気が動転しているのか、信じられないが、横柄な態度の方が多いという。しかも、あまり関係ないと思うのに、
    > 会社の肩書きやら、仕事の事を話し、初対面のしかもボランタリアで、通訳をする彼女達に話す事は、ほとんどの会話の内容は、フランスのサービスの悪さだけをあげて、「日本の病院ではこんな事は考えられない、、、等々」しか言わないそうなんですね。
    >
    > 外国の批判をしなければ、自分が一緒に来たツアー客から、一人置き去りにされて、自分の身体に生じている健康や怪我の完治への不安という感情に、押し潰されてしまっているのでしょうね。
    >
    > 大概が、日本ではご立派なお仕事をされて人望もあついとおもわれる立場にいらっしゃるようなのですが、如何せん、、、
    > 外国にでると、
    > 自分の言葉が通じないという場所に居るという不安は、とんでもなく自分をコントロール出来ない恐怖を生じさせるらしいんですね。
    >
    > 検温にくる看護婦の態度まで気に入らないらしく、、、
    >
    > わたしの知り合い達は辟易してしまって、通訳どころではない、、、と私に話してきた。
    >
    > しかも気が動転していて、現状把握は出来ず、突然病院先に、知らない日本人の通訳さんが現れたのは、旅行代理店が自分の為に、派遣してくれたとこれまた、すべて自己中心の世界で考えているらしく、彼女達が、仕事の合間に、お気の毒だからと思って、自発的に自分の時間も惜しまず他者の為の人助けの為に、病院に来ている事などとは想像も出来ないようだ。。。。と述べていた。 
    >
    >  わたしは、もっぱらそのような彼女達の愚痴の聞き役だった。
    >  心理分析をして、なんとか患者さんの情動が不安をコントロール出来ない位置にある事を説明してたりする。そうすると彼女達の怒りも治まるのです、、、、、、、<笑>
    >
    >
    >  ま!そのようなお客さん達だけではないと思うのですが、外国で病気になったり、怪我をされて、病院に運ばれ、誰も知ってる人が自分の回りにいなくなると、皆さん、お変わりになるらしい。
    >
    > 自分の好きな事が言える場所というのは、どうも自分のテリトワール内に限るという感じらしい。
    >
    > このテリトワールというのが、人間の自己内と自己外に関係するのだろうか?テリトワールは、まず言葉 が通じないとテリトワールとは言わないはずなので、言葉 が通じる範囲、通じない場所は、自分の意識や性各を象っている境界線に思えるのですね
    >
    >
    > 小さい頃のキャンプや野外活動の体験は人間観察能力をつけるというより、元々が現象学的に外側から観察するという地点に居た様な感じだった。
    >
    > それはよいのですが、
    >
    > この、ダウラギリのような8000メートル以上の山を登る山岳家の人達の間で、とても興味深かった事を聞かされた 。
    >
    >
    > 私が、手術と同時進行に採血してもよいと思って、関係を結ぶ子供は、生まれた時から心臓が奇形で生まれたらしく、当時は6,7歳だったと思うが、手術を受けないと、生き延びられないと言う話だった。
    >
    > AB型の血液を探している、、、という話だった。
    >
    >  そして何故?
    >  心臓奇形が生まれたのか?
    >
    >  という理由が当時、この高山を登る時に起る人間の高度の順応と関係あるのではないか?と皆で話した事があった。
    >
    > 8000メートル級の山を登るのに、べースキャンプは、だいたい5000メートル台になると思うのですが、この5000メートルまで順応するのも大変な時間を要す。普通はキャラバンを
    > 組んで、ネパールだとポカラあたりから行くのではないか?
    > 一ヶ月以上も食料やシェルパの用具や装備、無線機器等々、大変な荷物になる。
    >
    > それでも慣れたアルピニストはそれほど問題なく5000メートル地点まではいけると思う。
    > 問題が、頂上アタック隊員としてそれ以上に標高をあげる人達の赤血球の数の変化ではないか?という事だった。
    >
    > 今はきっとその問題は解決しているのではないか?と思うのですが、当時は、6000メートル以上登って、下山して一ヶ月以内に出来た子供に、心臓奇形の子供が生まれる可能性があるのではないか?という噂が立った頃だったのだ。
    >
    > 酸素の薄い高地へ移動すれば当然身体もそれに順応しようと、身体の生命維持装置が指令をだすのでしょう。
    >
    > ところが、下山し、平地に戻ったからといっても、そう簡単に、身体戻らない。血管の中の出来事、酸素が薄い高地で長期間暮らした人間の身体はそれほど簡単に戻らない。
    >
    > その間に出来た子供に、心臓やその他にも器官に問題を持って生まれる赤ちゃんが多かったそうなのだ。
    >
    > わたしが、自分の血液を輸血して助けたいと思った子供は何回も手術を断念しなければならないほど、病弱だった。
    > 手術に堪えられる体力を待って手術のスタッフを待機しても、突然微弱熱がでたりするのだと言う。
    > 結局それから2年くらい後に、お父様から亡くなられた報告の葉書を受け取った。お父様とは会った事はないが、本を先週送ってこられたT氏の友人だったのだ。
    >
    > 思えば、色々な事があったもんだ!と考え深かった。
    >
    >  写真は、キリギスタンから来たマキシムと二人で、近くの山に登りに行った時の写真。クーデターが起きたキリギスタンではどうしているのかしら?、、、連絡が取れないだけに気になる。でもあの逞しい程の勘の強さだったら、何処でも生き延びる事が出来ると思う。
    >
    > http://www.youtube.com/watch?v=325y6gzTda8&feature=related
    >

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月26日 18時31分19秒

    icon

    「Re:Re:一人言コーナー」
    >
    >  そういえば、山の頂上に着いた時や、見わたしの良い、場所に居る時、なんとなく、
    >
    >  「ヤッホー」と言いたくなる。
    >
    >  山を登らなくても、なんとなく
    >
    >  空間に、ヤッホー、と音を放ちたくなる。
    >
    >  何故かしら?
    >
    >
    >  自然に囲まれるとか、自然と一体になるとか、、、
    >
    >  そういう感じではなく、、、
    >
    >  自分の目の位置に、人が、誰もいない、、、というのは、
    >
    >  実にスガスがしいなあ〜、、、、笑
    >
    >  と思っているうちに、、、
    >
    >  もしかしたら?
    >
    >  自分の目には見えなくても、何かと交流したくなったりする。
    >
    >  ヤッホーと向こうの山に放てば、こだまが返って来る。
    >
    > 「 なあ〜んだ! やっぱり、誰かいるじゃ〜ん 」
    >
    >  と、昔の人は思ったに違いない。
    >
    >  ヤッホーは、「ヤハウエ」が派生したと言葉だそうだ。
    >
    >
    >
    > 写真は、ヒマラヤ山脈のダウラギリ、8167メートル
    >
    > ダウラギリは、サンスクリット語で、白い山と言う意味らしい。
    > 世界で7番目に高い山だそうだ
    >
    > フランス語だと、モンブラン MONT(山> BLAN<白>とをモンブランという音素で命名するのと同じなのかも。
    >
    > モンブランはフランス<シャモニの町>と、イタリアと二つの国にまたがって位置している。
    >
    > 先週、昔の知り合い T氏が日本から突然本を送って来られた。
    > 出版は随分古い。今は廃盤になっている、、と、T氏に頼まれて代わりに郵送を請け負った知人の一筆があった。
    >
    > T氏は、6月15日他界されたJさんのお葬式でバッタリ再会した。
    >
    > この本は、T氏の生い立ちが書かれてあった。事業を3坪しかない間口の貸家で初めた頃の話。
    >
    > それから、私が初めて会った時は、、、そうだった。
    >
    > 一枚の紙を渡されたんだ。
    >
    > 何方かの娘さんが生まれた時から心臓病で、手術に新血が必要で募っているという、父親はダウラギリを登頂したTさんのお仲間だったか?当時そんな事を述べていた。
    >
    > 本を読んで、父親の名前が書かれてあって、思い出したのだ。
    >
    > わたしはAB型なのですが、娘さんの手術にはAB型を探しているという。
    > Tさんが参加していた、山岳関係のリストは1OO人以上名前が書かれてあったが、何故か?AB型は、3人いるかいないかだった。
    >
    > ヨーロッパはAB型は多いのですが、日本だと11パーセントくらいはいるのではないか?と聞いた覚えがあるのです。
    >
    > 問題は、娘さんは6歳くらいだったと思うけど、手術をすると同時に血を採血するので、手術日と、わたしが実際その日に身体が自由にならなければならず、しかも、子℃もの様態は直ぐ急変する。明日手術が出来そうだと予定していても、当日熱がでて手術は駄目になったりした。よって、新血提供者は、いつでもスタンバイン状態なので、結構大変なのだ。
    > また相当の血液が必要だったと聞いていた。
    >
    > 同じ血液型といっても、もちろん前もって検査をしなければならないし、感染症などのリスクをなるたけ少なくする為振るい分けられる。
    >
    >昔の記憶が蘇って そんな事があったわねえ、、、と本を読んで思い出した。
    >
    >  
    >  http://www.youtube.com/watch?v=gUr89hc7X18&feature=related

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  • from: 沙羅さん

    2010年07月25日 00時41分07秒

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    「Re:Re:Re:Re:沙羅ちゃんのブログ」

     本を読む時にいつも思う事。

     この文章を書いた人の心が独立<自立>しているのか?
     
     という点にいつも意識が向いてしまう。

     思うに、コーランを日本語に訳す人は、アラブ語で生活できる仏教徒の人・・・であったり、経典を例えばイタリア語を話すサンスクリット語が理解できるキリスト教であったり、そのような各種の言語の介在が必要なのではないか?最終的に自分にどれがマッチするか?読者が決めれば良いという市場の拡大や市場の広さを目指した方が良いと思うのに、なんだかいつも、自分以外の他者の指摘や批判を受けたり、応答したり、どれが正しいでもどれが間違っているという対峙世界での応対に時間を捕られたり、いつまでも狭い了見の言語の解釈の個人見解をつついているという事ではなく、

    もっと観方そのもの事態が派生的な事に意識をむけるのではなく、もっと全体把握に向かうと良いと思うのですね。

    日本では、シェークスピアを訳す翻訳家、
    実際の訳本は44名の翻訳家によって翻訳本が出ているそうです。

    日本語で、シェークスピアを読もうとしたら、44種類の訳本から選べるという環境だそうです。

    それを聞いた、イギリス人は、

    「いいなぁ〜〜・・・日本人はうらやましい〜。、僕なんか、オリジナル<原本>しか読めないもんね」と言った。

    西洋思考はここにあるでしょう。

    原本を正しく訳す・・・という意識<価値観>に捕らわれるという価値観は、外国にはないのでしょう。

     訳す・・・という事は必ず、訳す人<心>のフィルターがかかる。

     原本を書いた本人ではない・・・のですよね。

     しかもその原本の内容は、これまた、その本人の気持ちや感情や体験が書かれているのではなく、何百年も後に、口伝で伝わってきた、すでに書かれる時代、その世に存在していない人が言った言葉が書かれてある。結局本人キリストにしても、お釈迦様にしても<死した聖人>が書いた書物ではないのですよね。

    実はこの本を読む時もかなりそのような点が気になった。



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