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「哲学〜真理〜探求について」

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from: めるろ〜001さん

2010年05月27日 22時05分33秒

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信念と確信

信念というのは、誰かに教えられて自分で信じること。確信とは、信念の強固なものという捉え方もありますが、確信は、それ以上追う必要の無い事実のことですね。

信念というのは、誰かに教えられて自分で信じること。
確信とは、信念の強固なものという捉え方もありますが、
確信は、それ以上追う必要の無い事実のことですね。

それに比べて、信念は<自分の中のロゴスをその信念の中に
押し込める>意味合いのものであり、
哲学的には頂けないものである。

この信念は、人を信仰の中に引き込む時に良く用いられる。
僕はそういう時に、「仏法は分かりますか?」と問う。
人に信念を押し込む人の中には、その言葉だけが先行し、
その経過を忘れている人がいる。

大事なものはその信念ではなく、物事の経過の方である。
この物事の経過が、正確なものであればそれを形作る
現象学的なものを確信と呼ぶ。
英語で言えば、確信は、fact ですね。
信念は、believe です。

信念は、pray の対象でしょうし、
確信は、thoughtの対象でしょう。

未知のものへの信念は、そもそも止揚の対象であり、
次ぎの思考により、克服すべきものです。

仏教では、信念や信仰による仏教説話を軽んじますが、
そういう経過があるでしょう。

<経論書>の次ぎの「説話」なのですね。
<経論書>は確信により書かれますが、
「説話」は信念により書かれますね。

似て非なるもの。
日本語は難しいですね。

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from: 沙羅さん

2010年05月29日 00時13分11秒

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「Re:信念と確信」
めるろ〜さん

 ほんとうに、日本の教育に本腰として哲学をカリキュラムに高校または中学に入れて欲しいんですよね。

 「義務との単なる一致は、宇宙の運命に無関心になる事によって、コンシアンスconscience 意識が自らに与える満足である」 

と云ったのは、価値論のラヴェルですが、

低く評価されているいくつかの倫理的態度のなかには、

LEGALISME レガリズム法律至上主義
や、叉は本能的に自分を反対の立場に身を置く人
否定主義です。
「わたしは反対だ」<EGO CONTRA>
叉は、倫理至上主義例えば、ASCETICISMEのようにあまりにも、手段を目的にしてしまう禁欲者にとっては、禁欲の実践と、その結果増進する克己への逸脱が生じるような時です。手段は目的ではなく、神叉はその類とみなす何かと、私達の隣人とを、よりよく愛する為の手段であるはずなのに、隣人との関連や又その他との関連を、盲目的に排他する傾向にあるような倫理至上主義モラリズム考えです。モラリズムを行動する人の完徳と区別される理想に対して、
仕えることとは、無関係に、徳をそれ自体として目的にしてしまう傾向にある事です。

一番、日本人の混乱しているのは、LEGALISME 法律至上主義に思えます。

ですから、よく、ヤクザに絡まれた時に、
「あやまって、すむんなら、警察は、いらないんだよ〜」とか、怒鳴りますね?
結局、一般の人達が警察<法>至上主義に頼っていると、このように、言葉に、意味をもたして、人を脅す・・・・という手段をヤクザの主張を世間に波紋させてしてしまうんですね。

ですから、一般の人の放つ言葉 なんです。

どちらにしても、イズムISMEが示唆していますから、至高の価値とみなされた法律をほとんど、盲目的に信某することから成り立ちますから、この意味では、信仰もある意味同じように捉えられます。

法律の存在理由を考慮せず、法律が法律だから法律をまもらなければならない・・・となんでも、単直思考なんだと思うのですね。
法律に服従する段階だけにとどまり、主張したり、法律だけしか視野に置かないとすると、法律は個々の人の思考または意志の代わりとなると、一種の疎外の危険を冒す事を生じるのだそうです。

法律は人間が造ったもので、空から降ってきたものではないので、経典も聖書も他の教義書もすべて、扱う人間側のフィルターと人格、教養、人間性・・・すべて訳し方、理解の仕方に差が現れると思います。

賢明な方は、、他者の言説の欠点や違いばかり判断ばかりしませんし。そのような否定主義によって、他者の足上げばかり、他者を履排他に追い込む事で、自分を正当化したり、いつも対峙世界を造り上げる事はしません。他者(自己)の欠点を押えつけることに全力を挙げる場合よりも、すぐれた長所に拠る場合の方が、ずっと人の心に訴えるはずですし、優しいです。
何かを禁止することは、私達が望むべきことを探究する場合、わたしたちに、熟考しないでもすむようにしてしまう、安全柵でしか、ないと思います。

どちらにしても、哲学的思考を実際身につけ、実行するという事は、記号や数字表記だけに、頼れるほど単純な事ではないはずなので、紋切り型表現で権力的に何かを通用させようとする現れ方はマフィアとかヤクザとか呼ばれる方の言動と類似に思えます。

日本の教育課程に哲学をもっと本格的に組み入れて欲しいと思うのです。










信念というのは、誰かに教えられて自分で信じること。
> 確信とは、信念の強固なものという捉え方もありますが、
> 確信は、それ以上追う必要の無い事実のことですね。
>
> それに比べて、信念は<自分の中のロゴスをその信念の中に
> 押し込める>意味合いのものであり、
> 哲学的には頂けないものである。
>
> この信念は、人を信仰の中に引き込む時に良く用いられる。
> 僕はそういう時に、「仏法は分かりますか?」と問う。
> 人に信念を押し込む人の中には、その言葉だけが先行し、
> その経過を忘れている人がいる。
>
> 大事なものはその信念ではなく、物事の経過の方である。
> この物事の経過が、正確なものであればそれを形作る
> 現象学的なものを確信と呼ぶ。
> 英語で言えば、確信は、fact ですね。
> 信念は、believe です。
>
> 信念は、pray の対象でしょうし、
> 確信は、thoughtの対象でしょう。
>
> 未知のものへの信念は、そもそも止揚の対象であり、
> 次ぎの思考により、克服すべきものです。
>
> 仏教では、信念や信仰による仏教説話を軽んじますが、
> そういう経過があるでしょう。
>
> <経論書>の次ぎの「説話」なのですね。
> <経論書>は確信により書かれますが、
> 「説話」は信念により書かれますね。
>
> 似て非なるもの。
> 日本語は難しいですね。

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