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「哲学〜真理〜探求について」

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from: 延命五行さん

2011年10月31日 11時03分45秒

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木を見て森を見ない

有象無象の想念などを記述するためにスレッドを立ち上げました。部分ばかり見て全体を見ない、ということを意味したい時に、「木を見て森を見ず」は使われます。

有象無象の想念などを記述するためにスレッドを立ち上げました。部分ばかり見て全体を見ない、ということを意味したい時に、「木を見て森を見ず」は使われます。全体と部分はどのような関係にあるのか?ということを私的に探るために、ツラツラ書いてみることにします。もちろんはいつでも乱入OK。スレッドと関係ないではないか?などといった野暮なことも言うことはありません。この宇宙に、「関係ない」ということが存在するのか?という別の問いが潜んでいるのである、というメッセージを作ることがこのスレッドの目的です。

例えばあの人は悪い所ばっかりで、いい所は一つもない、というようなことをいう人がいるとします。そんな人が本当にいるかどうかを探る前に、ちょっと考えてみるのです。

一人の人間は全体として、いい所も悪い所もある。だけれどもその人の悪い所しか見えないのは、見る人に力がないからだ、とはよく言われることです。こういう場合に、よい所も悪い所もそれぞれが部分であって全体ではないということができるでしょう。

人が他人のよい所を見出そうと努力するためには、まず自分自身のよい所を見出そうとしなくてはいけません。しかしその命題は本当でしょうか?「人の振り見てわが振り直せ」とも言われます。

他人の悪い所はよく見えますが、自分自身のはどうかという諺です。人間は神様ではないので、欠点のない人間など存在しない、という観念を抱くことは人間を謙虚にします。

熱い思いから他人を批判する時は、結局、共に真実を見出そうという努力をしているということが言えます。自分自身の問題として、他者と協働しようという意志があるときに、成長への意志があるといってよいでしょう。

話を戻すと、他人の悪い所しか見えない人は、自分の悪い所に固執しているのである、ということになるのではないでしょうか?

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from: 沙羅さん

2011年10月31日 13時36分48秒

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「Re:木を見て森を見ない」
ベルちゃん?、、

こんにちは、、


めるろ〜さんも、ベルちゃんと呼んでいらした頃は、

随分昔の頃に感じます。

人と会って、何がしかの会話がなされ、感情が生じ、それによって、好きとか嫌いというような判断がなされるのだと思うのですが、、、

自分が、ある個人にたいして、ある感情をもった場合、

例えば

何故?

わたしは、この人に対して好きという感情を抱くのか?

何故?

わたしは、この人に対して 嫌いという感情を抱くのか?

という自分自身への視差が向ってしまいます。

自己の分析などです。

自分の判断が、何故?

この時、この時期になされているのか?

という回りの人達との因果関係などなどなんですが、、、

言い換えると

自分が、ある個人へ 何か?特別な感情を持たされた時、

その感情に 自分の心を依存してしまうというのではなく、

 自分は皆の中に居るのですが、 その自分を 自分の外から観る

という意識を強め、客観的に 自分を 外から観る、、

と言う意識になっています。

人を嫌ったり、人を好きにならされるのは、ある意味ごく自然の事なので、
その感情が無ければ、とてつもない長さの時間や空間を潜り抜けてきて この地点に置いて、自分を存在させてきた 意味や 理由、が存在すると思うのですね。

その存在の意味が、自分の中にある今までの沢山の人との交わりの経験<もちろん別れに至ってもです>は無駄ではなく、未来の人と出会う なんらかの足がかりに 繋がっていっている、、、、

そのような、人間が出会わされる全ての縁は、、螺旋状に繋がって切れていないのであろう、、子供の中に流れる DNAも きっと私の死後、何百年後か、自分の先祖に、日本の何処そこから 来た日本女性の 先祖の一人がいるという事さえ知らなくても、、、

知らない 無意識のうちに、 京都を訪ねていたり 何世紀変わらない 神社仏閣を 訪ね同じような感情をもったりするのではないか?

そういった不思議な 感覚、知らない他者達との同感や共感により、わたしを 今このような 形として この時代に現れてしまっている、、
そのような、全体の中の一部、、、という感覚を持たされるんです。

もちろん、そういう事は、仏教をお勉強なされば、不思議な事ではないでしょうけど、

問題は、自己体験を綴るのに、どのように他者達と、コミュニケートや伝達をするのか?

他者に教義を教えたりするのではなく、どのように 普遍的に他者達とコミュニケートが出来るかに 私自身の課題があると思うのです、

他者の文のコピーをなるたけする事はせず、自分自身の想起文を記す、、という方が、うまくいくように思うのです。
人の文を引用するという行為自体、<本当なら、その本人に断らないとならないと思うのだけど>、
 
言葉<記号>の解釈を個人的に述べるという行為を永遠に続けている世界というのは、

その人の心や魂といった思惟が宿るであろう、、時間途上の行為の繋がりが見え難いのです。


ですから、個人に対して好きとか、嫌いといった個人感情を持つ事より客観的に その人が何故?
そのような形で自分の目前に現れているのか?
と、いった意識で、自分の視野に写る 世界を見る、、といった感じでしょうか?

カメレオンの 目の動きは、動くものを、追っている、

つまり対象に視線が 追っているという感じですよね?

何故?

追うのか?というと、 捕獲したい<手中>、という欲があるのでしょうし、 何故?

欲が生じるのか?というと、

空腹なんでしょう?

人間の目<意識>も 似たところがあると思うのです。

対象<目的>がないと、生きられない、、

何かを追う、、というのはやはり生かされる理由でもあると思うのです。

ただ、人によって、価値観は違いますから、同じ対象を追う事はないようですけど、、

その対象<目的>は 全体の一部であり、回りと繋がっていると思うのです。
 、、ですから、何か 一つ<目的、対象>を追う、獲得したい、という見方は、求心的ですけど、 世界<宇宙>の繋がりを見えなくしていると思うのです。

これが、存在性、普遍性を失くしていると思うのです。孤立する存在ももちろん、宇宙からしてみると、一つの存在ですけど、

色々歩いて 人々と話すと 心の問題は、自分の殻に閉じこもってしまっている人達、自分で苦しみを探しにいっているように見える人達が沢山いるように思えるのですね。他者や自然との繋がり、分子ではなく分母や最大公約数を自分の中に手応えとして感じる事が出来れば、

何か 特別な一つの信仰や宗教といった、事を述べる必要なないと思うのです。

実際の体験や共感が、自分と違う 他者達との間になければ、普遍性を持つ 言葉が 放てない、、、そのような世界ではないか?と思っているのです。徒然に書いてみました。

 


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