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from: 沙羅さん
2009/08/10 00:30:16
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たまには、哲学でも・・・・@@
>数年前>いえ、10年以上前になるのでしょうか?いえいえ、オーム事件の事です。>>松本で起きた事件から、数えると>>大変なロングランの記録を誇る事件だ
> 数年前
> いえ、10年以上前になるのでしょうか?
いえいえ、オーム事件の事です。
>
> 松本で起きた事件から、数えると
>
> 大変なロングランの記録を誇る事件だったのではないか?
>
> しかも、そのどれも、一つ、一つの殺人事件が全て
> 繋がっていた・・・・・というのは、後になって分った・・・・
> というのが、気味が悪い。
>
> 検察が何処まで観えていたのか?知る由もないのですが、
> 大概、メディア情報というのは、事件が起きて、それを報道する。
>
> そこで、任務が終ってしまって、次の新しい事件に向って追い求める。
>
> 事件と事件の間には、空 が存在する。
>
> この空を感じられるのは、一般でしょう。
> 普通の国民ではないでしょうか?
>
> オーム事件が次々解明されていった時に
> わたしが、フト思ったのは、ニーチェの「善悪の彼岸」の言葉で
> す。
>
>
> 狂気は個人にあっては希有なことである。
> しかし、集団、党派、、民族、時代にあっては通例である。
>
> ニーチェ「 善悪の彼岸 」
>
>
> 多分、自分達が、行っている事が、回りから見ると
> 異様に見えるという人達との共感が感じられないのだと思うのですね。
>
> しかも、オームの組織人の言表行為を分析すれば見えるのですが、
>
> 大概の人達は、真面目、、しかも超真面目なのです。
>
> これが、危ない・・・・・笑
>
> 人間らしい、喜怒哀楽の表情が顔面から消えている。
>
> 集団的無意識的な民族主義的本能というのがあるのかどうか、よく分らないけど、、、
>
> 何を、そんなに偏在性局所性といった一部分の解釈に意識をとられて全体の流れが観えないのであろうか?
>
> 非常に不思議な感じを持つ。
>
> 明らかに、心理的な病をもたれていると分れば、その方は病者として察し何らかの、別な心の接し方として、コミュニケートをとるのではないでしょうか?・・・・
> とわたしなど、思うのですね。
>
> 記号の局部<単語>に自己投影して反応される方も多いのですね。
>
> ウダウダ文にしているのは、実はこのような局所的な表意文字だけに過敏反応を避けル為に、意識的なコミュニケートの形にしているのですが、、、、
>
> 流れがあるはずなんですよね。
> 結果ではなく、思惟ですか〜・・・
>
> 例えば、
>
> わたしの個人情報が、今は知れてますよね?
> フランスに住んでて・・という情報です。
>
> そうするとですね、
>
> キリスト教信仰者だと、思ってるふしが強いんですね。
>
> 叉は、西洋哲学に傾倒しているから、
>
> 例えば、信仰心が強い仏教徒からしてみれば、すでに他者<敵?>と思い込み、書き込みを読んでるふしがあるんですよね〜
>
> もちろん、全員ではないですが、そのように見られやすいし、実際そのような意味合いを含む返事は何度も返って来るんですね。
>
> 別に、どう思われてもよいのですが、
> この個人情報が、すでに日本の外に住んでいるという事が、自分達国民からするともう他者なんですね。
>
> 自分と違う人達だという、扱いになるんですね。
>
> 面白い実験をパリの通訳さん達が話していました。
>
> 旅行会社に、勤める日本人通訳女性は、外国の方と結婚すると、苗字がカタカナですから、カタカナのネーム札と、旧姓の漢字のネーム札と両方、使い分けてた方の話しです。
>
> ホテルの客室は大概2人部屋なので、
> 万が一、旅行で一緒になった、方とお話がしたかったら、階下のロビーや、近くの喫茶店や、ホテル内のバーにでも、普通は気のあった人達が時間を過ごす空間が、部屋の外で会ったり話したり・・・という機会をもうける為にあるのですが、
>
> 何故か、ホテルの客室に、気のあう人達と集まる・・という会合をもうける方達がいらっしゃるのです。
>
> それはよいのですが、
> 通訳嬢が、日本語の漢字ネームをつけていると、その会合に誘われる回数が多く、
> カタカナネームだと、呼ばれない・・・という事を仰ってた。
>
> このような、行動の傾向も色々外国人同士の間で違いが観えてくるんですね。
> しかもパリは世界一の観光客が訪れる。
> アメリカ人、ブラジル人、北欧人、アジア人だけでなく、他(多)国の方達を相手に、何カ国も話す通訳は珍しくないんです。
>
> 自民族中心主義、自民族絶対普遍性思い込み、エトュノサントリズムの特徴は、
>
> 音、、つまりパロールより、字、エクリチュールを重視する傾向にあるというのも、なんか気持ちがい、特徴なんですよね。
>
> 人とのコミュニケート、心の意思疎通がむずかしくなったのは、
> 電話や会って話す事をしなくなったからではないでしょうかね?
> なんでもメイルで済ます事になった日常生活ですが、、、
便利(時間>と引き換えにしたのは、
大事な心を感じる事ができるという手段ではないのか?と思ったりする。
> しかも議論を記号でするというのは、そもそも、普通の事なのでしょうか?
>
> と思うのですね???
>
> ソクラテスやプラトンが生きていたら、是非とも聞いて見たい
> と思うのですね。
>
>
>
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from: 沙羅さん
2011/06/27 17:49:10
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「Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

前から 日本語で生活すると、
「すいません」という音素を、何でも カンでも、放つ、、、、
という日常生活を しいられるような感じが 小さい時からしていてたのです。
お店に入って、誰も いない時に放つ時も、
「すいませ〜ん!」なのです。
すいません、、、という音素は、
謝り の意識を 現す はずなのに、、
何故?
何も 悪い事をしていないのに、
空に 現れる 時 に SUIMASEN という 音素を 放つのかしらん?
昔から 納得出来ないでいたのですね。
空には、 生きてる 人間 の心 だけが 存在しているだけではなく、
自然界全ての 聖霊とも呼ばれる、沢山の自然霊が存在してませんか?
でも、これは形而上世界のコミュニケートなので、超常現象といういわれる世界を 体験される方達だけが 体感し、放たれる。事なので、
そのような現象には 価値を置きません、、、という方ともちろんいらっしゃるでしょうけど、、
でも、科学で証明できない事があるという分野について、人々が意識を引かれていく、、という流れは、もう止められないのではないですか?
不安な世界観を持たされれれば持たされるほど、人々は、宗教や信仰、を求め、また、新興宗教やセクト、、といったものが生まれるでしょう?
頑なで自然でない態度で、人々に応対したり、接すれば、するほど、
その現れ方は、第三者達の視界に、滑稽に写って見えるんです。
なぜなら、自然な現われではないからでしょう?
何かな、?頑なな態度というのは、何かにしがみついてしまっているのだと思うのですね、、何かを守ろうとしているのかしら?
自分が 第三者達に受け入れられないのをすでに、感じているから、なおさら、頑なな 表情で、強弁にならざるを得ない、、という態度なんでしょうか?
昔 何処の下町でも近所にいそうな 雷おやじみたいな人いましたよね?
でも、そういう方とは違うんですね。
雷おやじは、 大衆に 好かれようなんて、偽善の笑みを、浮かべて 現れたりしませんから、、、、
自然なんですね、、
その方が、健康な世界が造れると思いますけど、、、。
表象のみの理解や解釈だけに 重点をおくと、自分も表象だけが重要なのか?と思うでしょ?
つまり見える事だけに、他者達が 価値観を置いてると思っているから、自分も 外観だけにしか注意を払わない、、というような感じになり、むしろ、外観で 自分が、判断されるという 外からの判断に自分自身が 不安を感じてしまうからでしょ?
自分の他者への判断というのは、他者も自分をそう判断するという決めつけにあり、また自分の苦を生むのも、自分自身に尽きるのではないですか?
これが、信仰の教本や 経典には、結果の記載として 記号に介して 記載されるのではないでしょうか?
心理学や分析は、その途上を 説明するのですが、
とりあえず、 人間を 知らないと、何故?
そのような事が生じるのか?
という説明が出来ないと思うのです。
それで、元へ、、
「すいません」、、、という音素は、あまり人々に 良い ポジティブな心域を感じないのですよね。
「ありがとう」 は美しい 音素に感じるんです。
何処かの、お店<空間>に入るでしょ?
お店には 誰も いないのですよね?
でも、 何故?
誰かを 呼ぶ時に、「 すいませ〜ん、、」、という音素で 呼ぶのでしょうか?
悪い事、何もしてないのですから、、、
それはすでに、 知らない 他者に 接近 する時
他者の 意識を 引っ張って、すみません、、、という意識がすでに、
根底にあるからじゃないですか?
知らない 他者と 接近する時、、、
知らない 他者は、 邪魔者 扱いしたり 接したりしては いけないのではないですか?
それは 自分を、お店の店員の立場に立ててみてください。
、知らない他者に 同じように 接近してきたら、邪魔される、、
他者の介入を 最初から受け付けない、、、という閉鎖的な世界観が
先ず、元にあるので、
どうしても、謝らないと、接近できない、、、
というワンクッション躊躇の意識が、 「すいませ〜ん」という言葉が、挨拶代わりみたいな 音素となって、一般化されて、日常用語として使われているのじゃないでしょうか?
他者の接近、知らない他者達が近づいてくるという形而上世界の魂の歩み寄りは、謝りの意識が作用しているのではなく、
美しい 人間であればこそとしての意識ではないですか?
それは、他者と近づいて 一緒にいると楽しい、幸せだ、、という無垢な笑い、、赤ちゃんのあの笑いでしょう?
決して、人を貶めたり、馬鹿にしたり、おかしな事を言ってる、、という地点で仲間と笑いあったり、ドッキリカメラの笑いの視点での共感を得るために、仲間同士が、集まったり、、
そういう次元ではないと思いませんか?
自分の中に 人間としての、尊厳を忘れたら、次元は落ちていくばかりではないでしょうか?
もし、他者のテリトワールに、自分が存在しようとする 空間の場で、
放つ音素は、 謝りの音素ではなく、
むしろ、自由な意志による相手の喜びを誘う意識でしょう?
つまり、VOLONTAIRE ヴォロンテー(自分の意志による、自発的な、自由な意志) 英語音素だと、ヴォランタリアでしょう。
誰か、知らない人の注意を こちらに向ける時の呼びかけは、
「S il vous plait」シルヴプレ
もし、彼が、貴方を 気に入れば、好めば、、(直訳)
PLAIRE という単語は、(人)の気に入る、〜に好かれる
という動詞の活用を、使う、、
極端な訳で言えば、
知らないお店に入り、お店の人の意識を引くとき
「私の事 好きなら、こちらに 接近してくださいますか?」という感じなのだと思うのです。
好きとか嫌いという 感情は、 すでに存在する目の前の人を個人的な嗜好判断で、他者を好き嫌いで、判断したり排他したり、、そのような
世界観を 自分から造るのではなく、
むしろ、知らない 未知の魂や、心に向って、放つ
私の事 好きならば<気に入れば>、、
わたしとの距離を縮めませんか?接近しませんか?、、、、
という空に波紋させる 音 なのではないでしょうか?と思うのですけど、、
すいません と放つのなら、
こんにちは〜、、という音素には、 ラテン語と同じCOM(CON)という共にという意味の音素がはいっているから、
「こんにちは〜、」、は綺麗な 美しい 音素に感じますけど、、
外に向けて、意識を外に向けて、外界の自然と一体になる感覚をつかみませんか?
時間を越えるというのは、外界のモノとの共感にあると思うのです。
しかも外界には高次元のモノが存在しているはずですから、、
そのような 美しい 感情とか、美しい心とか 、、なにかあるでしょう? 真、善 美 と いう抽象的な輪郭を感じるというのでしょうか、、、、
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