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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: 沙羅さん

    2009年08月10日 00時30分16秒

    icon

    たまには、哲学でも・・・・@@

    > 数年前
    > いえ、10年以上前になるのでしょうか?

    いえいえ、オーム事件の事です。
    >
    > 松本で起きた事件から、数えると
    >
    > 大変なロングランの記録を誇る事件だったのではないか?
    >
    > しかも、そのどれも、一つ、一つの殺人事件が全て
    > 繋がっていた・・・・・というのは、後になって分った・・・・
    > というのが、気味が悪い。
    >
    > 検察が何処まで観えていたのか?知る由もないのですが、
    > 大概、メディア情報というのは、事件が起きて、それを報道する。
    >
    > そこで、任務が終ってしまって、次の新しい事件に向って追い求める。
    >
    > 事件と事件の間には、空 が存在する。
    >
    > この空を感じられるのは、一般でしょう。
    > 普通の国民ではないでしょうか?
    >
    > オーム事件が次々解明されていった時に
    > わたしが、フト思ったのは、ニーチェの「善悪の彼岸」の言葉で
    > す。
    >
    >
    > 狂気は個人にあっては希有なことである。
    > しかし、集団、党派、、民族、時代にあっては通例である。
    >
    >    ニーチェ「 善悪の彼岸 」
    >
    >
    > 多分、自分達が、行っている事が、回りから見ると
    > 異様に見えるという人達との共感が感じられないのだと思うのですね。
    >
    > しかも、オームの組織人の言表行為を分析すれば見えるのですが、
    >
    > 大概の人達は、真面目、、しかも超真面目なのです。
    >
    >    これが、危ない・・・・・笑
    >
    > 人間らしい、喜怒哀楽の表情が顔面から消えている。
    >
    > 集団的無意識的な民族主義的本能というのがあるのかどうか、よく分らないけど、、、
    >
    > 何を、そんなに偏在性局所性といった一部分の解釈に意識をとられて全体の流れが観えないのであろうか?
    >
    > 非常に不思議な感じを持つ。
    >
    > 明らかに、心理的な病をもたれていると分れば、その方は病者として察し何らかの、別な心の接し方として、コミュニケートをとるのではないでしょうか?・・・・
    > とわたしなど、思うのですね。
    >
    > 記号の局部<単語>に自己投影して反応される方も多いのですね。
    >
    > ウダウダ文にしているのは、実はこのような局所的な表意文字だけに過敏反応を避けル為に、意識的なコミュニケートの形にしているのですが、、、、
    >
    > 流れがあるはずなんですよね。
    > 結果ではなく、思惟ですか〜・・・
    >
    > 例えば、
    >
    > わたしの個人情報が、今は知れてますよね?
    > フランスに住んでて・・という情報です。
    >
    > そうするとですね、
    >
    > キリスト教信仰者だと、思ってるふしが強いんですね。
    >
    > 叉は、西洋哲学に傾倒しているから、
    >
    > 例えば、信仰心が強い仏教徒からしてみれば、すでに他者<敵?>と思い込み、書き込みを読んでるふしがあるんですよね〜
    >
    > もちろん、全員ではないですが、そのように見られやすいし、実際そのような意味合いを含む返事は何度も返って来るんですね。
    >
    > 別に、どう思われてもよいのですが、
    > この個人情報が、すでに日本の外に住んでいるという事が、自分達国民からするともう他者なんですね。
    >
    > 自分と違う人達だという、扱いになるんですね。
    >
    > 面白い実験をパリの通訳さん達が話していました。
    >
    > 旅行会社に、勤める日本人通訳女性は、外国の方と結婚すると、苗字がカタカナですから、カタカナのネーム札と、旧姓の漢字のネーム札と両方、使い分けてた方の話しです。
    >
    > ホテルの客室は大概2人部屋なので、
    > 万が一、旅行で一緒になった、方とお話がしたかったら、階下のロビーや、近くの喫茶店や、ホテル内のバーにでも、普通は気のあった人達が時間を過ごす空間が、部屋の外で会ったり話したり・・・という機会をもうける為にあるのですが、
    >
    > 何故か、ホテルの客室に、気のあう人達と集まる・・という会合をもうける方達がいらっしゃるのです。
    >
    > それはよいのですが、
    > 通訳嬢が、日本語の漢字ネームをつけていると、その会合に誘われる回数が多く、
    > カタカナネームだと、呼ばれない・・・という事を仰ってた。
    >
    > このような、行動の傾向も色々外国人同士の間で違いが観えてくるんですね。
    > しかもパリは世界一の観光客が訪れる。
    > アメリカ人、ブラジル人、北欧人、アジア人だけでなく、他(多)国の方達を相手に、何カ国も話す通訳は珍しくないんです。
    >
    > 自民族中心主義、自民族絶対普遍性思い込み、エトュノサントリズムの特徴は、
    >
    > 音、、つまりパロールより、字、エクリチュールを重視する傾向にあるというのも、なんか気持ちがい、特徴なんですよね。
    >
    > 人とのコミュニケート、心の意思疎通がむずかしくなったのは、
    > 電話や会って話す事をしなくなったからではないでしょうかね?
    > なんでもメイルで済ます事になった日常生活ですが、、、

    便利(時間>と引き換えにしたのは、
    大事な心を感じる事ができるという手段ではないのか?と思ったりする。

    > しかも議論を記号でするというのは、そもそも、普通の事なのでしょうか?
    >
    > と思うのですね???
    >
    >  ソクラテスやプラトンが生きていたら、是非とも聞いて見たい
    >  と思うのですね。
    >
    >
    >

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コメント: 全114件

from: 沙羅さん

2011年09月12日 07時12分56秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
 人類、国家、家族へ向け
 閉ざされたモラルから開かれたモラルへと導くものでならなければならいという意味は、

 敵意を含む排他心と偏愛は、私達が現実の要請に対応する
 倫理的心性からいまだに
 相当程度隔てられていることを示している。

 国家制度の上に置かれる国家制度と類似の或制度で自分たちを組織しようと模索している、巨大な人間の郡、それが現実の姿なのだ、

 その努力の結果が得られれば、他者への解放は容易なことになろう。
 しかしそのような結果は人間的なるものは一つとして、全ての人に
、無縁ではないという状態に至るために、自らを解放するという、全員の努力によってのみ得られるのである。  「行動 」 フルキエ

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from: 沙羅さん

2011年09月12日 06時49分40秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
 ルイ、ラヴェルの価値論から、

 低く評価されているいくつかの倫理的態度

 として、

===========================

 心情が干からび、関心が減退する結果

 熱情がすべて失われ、他のものに対してと同じ様に
 善に対しても無関心になる 危険を冒すことになる。
 
 「義務との単なる一致は、宇宙の運命に無関心になることによって、
 意識が、自らに与える満足である。’

==============================

心を発達させ、細かい人間の感情に、敏感に反応し、他者に心地よい響きの 音素を放てますよね?

高次の世界、魂の進化でしょう?
この三次元の世界に生まれてきたのは、、

 世間の通常規範だけを、守ればいいんでしょ?
 という意識は、倫理的態度でも低く評価されるんですね。

 能動的な意識でなければ、超越という意識にも、とどかないのではないですか?


ARC DE TRIOMPHE アーク デゥ トリオンフ 凱旋門

の下には、いくつか、フランスの歴史上 重要な政的事変が書かれているプラックが地面に埋め込まれている。

9月4日 智ちゃんとフランセスの誕生日は、フランスにとっても
大事な 記念日なので、凱旋門の床に嵌め込まられている。

PROCLAMATION DE LA REPUBLIQUE

1870年、9月4日、共和政宣言

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from: 沙羅さん

2011年09月10日 23時09分42秒

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「Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

  京都のめるろ〜さんは、いらっしゃらないので、
 
 フランスのメルローポンティーの 言葉でも綴ります。




 今日の心理学者たちは、内省は実際ほとんど何も与えないと指摘している。愛や憎悪を純粋な内的観察によって研究しようとしても、記述さるべき事柄は ほんのわずかしか見出されない。
いくらかの苦悩、何がしかの 心のときめき、こういったものは結局は平凡な動揺であり、愛の本質も、憎悪の本質もあきらかにしてくれない、

 私が興味深い考察に到達するのは、いつの場合でも、わたしが自分自身の感情と一体化することに満足せず、それを一つの行動として、わたしと他者との またわたしと、世界との関係の一変容として研究することに成功し、それをわたしが、その証人である 他者の行動と同じように
考えるに いたった時である。

   M,メルローポンティー  [ 意味と無意味 ]

地球上に山がある限り、山頂を目指す人は決して絶えないであろう。

キリストの昇天、ASCENSION、アサンション という単語は、同じく、登山する上昇する、ですから、、、

人間が神に近づきたいと山頂へ向う、、、生かされる希求運動なのでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=xNbagvkyVeE&NR=1&feature=fvwp


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from: 沙羅さん

2011年09月10日 22時39分01秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

 人文科学は自然科学と同じく、事実や出来事の構造を求めて諸々の所与の比較研究を行う場合、限界につきあたる。

             A,J トインビー「ディオゲネス」

結局、精神による現実の洞察には 3つの段階がある。

最初は、事実の認識に帰着する単純な知識である(時間を後ろから追っているのですね)

次は説明で、これは事実の原因のあるいは少なくとも事実を支配している法則の認識を含む、、<なんらかの信仰が支配する>

最後は、了解で、これは一種の生きられた経験<追体験>に拠って観察、された事実の理由についてのある種の意識を与える。

「我々は 自然を説明し、心的生活を了解する」のである、、という事を言うのは人文科学にの理論家、ドイツ人のディルタイ、ヴィルヘルム、です。

ベーコンは、 Vere scire per causas scire

科学は説明するだけ、、でそれ以上に進めない、先に進めないという事なんでしょう。つまり、現状の結果を いくら因果律が分かったからといって、ただの説明に終わっているのでしょうね。物理学、生物学が、
ベーコンの言う

「真の意味で知る事、、それは原因を知る事である」というのは、その事でしょう。

ところが、実践者は、原因や因果は 自分自身で、見つける事が出来ないのでは困るでしょう?

直観やある程度の霊的な観察と、普遍性を持つバランス能力によって、人々と接していかず、いつまでも、教義ばかりを一方的に 押し付けて盲目的に 信じさせようと、我田引水の言説ばかり唱えていても、 いつまでたっても、同じで、現状は変わらないのではないですか?

将来性、スタンスの長い 存在の仕方というのがあると思うのですが、、、
と思います。バランス能力は、環境によって重心支点も違うでしょう

人文科学は同時に了解するという 他者の存在重視にどうしてもなりますよね。

説明だけする、、、という一方的な、存在の仕方ではなく、了解の部分が大変重要ではないでしょうか?

つまり、了解は観察する主体と観察される現実とのある 融合状態を想定しているのでしょう。
それは主体が主体自身を、観察する時には完全であって、さらに他者との直接的接触においても現実的であるのでしょう。

そこから、意識相互の一致や伝達が生じる事になるのですが、、
それは、歴史学や社会学における、資料や統計が介入する場合に想像的なものになるとされてます。
しかしいずれの場合にしても、思考される以前にまず
生きられた経験が存在し、次に同時的に思考が存在する。<実践、経験が重要ですよね、ただ知識の認識や暗記に留まるという事ではなく>

我々はある事実を、それを生きることによって了解する、つまりそれを生きてる、、あるいは、生きた人々の位置に、思考によって自分自身を 置くことによって、その事実を了解するのでしょう。


次のこと、<了解すること>の本質そのものである。
つまり、我々は、直観に共同的に与えられた他者の、精神的中心を、手懸りにして、我々に対する、また周囲の世界に対する他者の諸行為<言葉、身振り、行動>を、或ものに志向的に向けられたものとして
<生きられた経験によって生きる>という事である。

    M,シェーラー 「倫理学における形式主義}

しかし、人文科学は了解的であるといっても、或る意味では説明的という部分は含むでしょう。ただそれは 程度のひくい説明手段をもつに過ぎず、
派生的な部分の同意を得る為の行為にいたる場合がしばしばでしょう。
又実践として了解すること、、を目的にするにあたり 説明するだけの行為は、原因の確定は不確かであり、手段、法則の数も少ないでしょう。


分析の必要上、説明と了解とを区別せねばならないにしても、
実際の生活においては、両者はは物理学における二つの連続的観察のように、たんなる、並置関係にはあるのではないでしょう。

時間と空間の存在がある事を、忘れてはならないでしょう。よって、それらは、相互補完的であり、説明は合理的な明晰さを、もたらし、
了解は、現実的感覚をもたらす、、、という

現れになっているのでしょうね、、

神護寺の5大虚空像菩薩です。
 

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from: 沙羅さん

2011年09月07日 22時03分20秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
高次っていったい、どういう意味ですか?

という疑問があるのですよね。

体感による 実践による高次の意味ってなんですか?

というような疑問がありますよね?


まず、その前に次元ってなんですか?
という質問をしたくないですか?

次元 、、、

人間は、昔、お猿さんですよね?

その前は、大陸を這っていましたか?

もっと、その前は お魚かな?

妊娠すると超音波で 胎児の様子が画面で見えますし、生まれた赤ちゃんにも 薄い黒い体毛がはえていたり、
その後すべて抜け落ち、丸々太った金髪の赤ちゃんへと数ヶ月後みると変貌している。

新生児と数ヶ月後の赤ちゃんは、まるで、進化の度合いを観ているようです。

超音波でみると、もっとよく分かる。

妊娠5週間くらいの頃の お腹にいる受精卵は、まるで、画像で見る限り

出目金ギョかと思った。 

エラみたいのも ある。

その下に、確かに、ぷくぷく動いている、、心臓らしい。

ナンダ?これ???

人間の進化の度合いが 超音波によって観えるのだ
10ヶ月間、、急速に 進化している、

すごいなぁぁぁ、、、

空海さんの幼名は、真魚 マオ君、???、

超音波のない時代にこの幼名を閃くのは、すごく意味がありそうで、、すごい直観をもつ ご両親なのです。

智慧 と 徳  これはとても大事でしょ?

 智慧はとにかく、徳 これは、本当に大事でしょ?

回りの人の次元に流されてしまったり、ズーズーズーと墜ちてしまっていけません。

これ、ちょっと 話がそれるのですが、

イエスやお釈迦さん、この人達の魂も以前と神界に向って修行している、、、、という事が、書かれてあったので これには大層びっくりしてしまったのだけど、なんとなく納得できる宇宙感、無限という意味で、、納得のいく 話に思えてしまうのだ。

この事が書かれてあるのは、佐藤愛子が、最後に会う、相曽誠治氏の話が書かれている下りを読んだときなのですが、、、

なんというのでしょうか、、
すべてのモノが進化に向けて 動いているというのでしょうか、、

死者も生者もないのですよ、、、

その動き(流れ)のセンス(方向)が確かにあるように思うのですよね。
その方向は、やはり上、、つまり神界なのではないか?

ただ、無意味に、時間と空間があるという事ではなく、、、

そのような漠然とした事の繋がりが観えてくるといいますか、すごく不思議なんですね。

================================


 人たる本性の尊厳に生き、死して後、汝が人なりしを疑はしむる勿れ。
 汝は人と獣とより成れば、自ら人と称せんには、人として日々を送らざるべからず、
 人たるを棄て、古き物語の如く獣に変ずる勿れ、四足にて地を這う如き、あさましくも笑ふべき姿を暴らすべからず。古きピタゴラスの徒の如く死して獣となるを思ひ、況や人として立ちて歩みつつ、
ひそかに獣に転生する勿れ。

汝の内なる心にても外なる世にても情にまさりて 広き理の地平を望み見よ。汝の神性に与かりて見えざるものに結ばれしを疎かにせず、汝のまことの知と徳をして、汝が属するは高きにあるを世に知らしめよ。

         
         トマス、ブラウン、、(1604年〜1682年)

===============================

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from: 沙羅さん

2011年09月07日 21時00分33秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
現象学という言葉がどのような考えなのか?
日本語で出版されている書き物を読んでも、一般の人に理解されるのはとても難しいと思うのですね。

でも実践している方にとっては、ごく自然に身についた思考や体験であり、むしろ最近よく聞く、スピリチュエルという世界で見かける人達の感覚や話を分析していると、現象学思考が身についているから、あのような体験や実感されるのではないか?

と思えるのですね。哲学はすごく、難しくとらえられるイメージがあるのだけど、本当は実生活日常世界での、人間の心の動きに視点を当ててる、、という事なので、中学生を対象に哲学の授業を行いますし、むしろ、哲学はあらゆる年代層、万人にとって語られる分野の学問に思えます。

そのように考えると哲学が歩む歴史は、自然な流れの現象に乗っているという感じなんです。古代から現存し続けた、宗教や信仰の世界から、形や表現の仕方、存在の仕方を変え、
精神世界、心霊科学世界と呼ばれる世界が
、人々の存在に、21世紀の人間に求められ一般的な世界へと受け入れられる。

信じる、信じないという問題ではなく、世間一般の動きを観て見る。
どのような事が、人々の意識にありどのような事が人々は求めているのか? 人間が求めているのは、時代、時代によって違いますし、哲学が形や存在の仕方を変えながら存在し続けるというのは、あくまでも、生きてる人間、生身の人間の心に視線を向けているからだと思うのです。

まず、人間を観る  という事に尽きると思うのです。

さて、精神世界で活躍する人達の宇宙観なのですが、少し、哲学的な視点から、
宇宙UNIVERS ユニヴェーについて述べてみたいのですね。

まず、宇宙UNIVERSを認識 する という事はどのような意味なのか?
「認識」フルキエ
から抜粋します。

L’univers de la connaissance 認識の宇宙

Par l’univers eu sens propre du mot, nous entendons : dans une acception étroite le globe terrestre ; au sens large qui est propre, l’ensemble des corps célestes, depuis la terre jusqu’aux plus lointaines galaxies ;avec l’espace qu’être corporel :

宇宙とは、本来、次のものを意味します。
狭義では、地球、、、広義では、<これが、本来の意味として>地球をはじめとして最も遠いギャラクシー<星雲>に至るまで、およびそれらすべてを含む空間など、天体のすべてを意味する。この宇宙は物質に過ぎず、人間は身体的存在としてその一部をなしている

mais ,en tant que sujet connaissant il le transcende et le survole, Comme le dit Pascal :
[ par l’espace l’univers me comprend et m’engloutit] par la pensée ;

しかし、認識する主体としては、人間は宇宙を超え、宇宙の上空を飛ぶ。それが パスカルの云う言葉に
「空間によって宇宙はわたしを包含し、呑み込む。思考によってわたしは宇宙を包含する」

En d’autres termes : par mon corps, je fais partie de l’univers matériel : mais, grâce à mon esprit ;J’intègre cette donnée matérielle à mon univers mental ;

表現を変えると、わたしは身体により物質的宇宙の一部をなす。そして精神のおかげで、この物質的な所与をわたしの心的な宇宙に統合する。

Par là même l’univers dont les astronomes et les physiciens cherchent à déterminer les lois et la nature se trouve doublé d’un autre univers immatériel celui-là, dont traitent les phénoménologues et les philosophes ;

それにより、天文学者や物理学者たちが諸法則や本性を明らかにしようとつとめる宇宙は、現象学者や哲学者達が扱っているもうひとつの、非物質的な宇宙と、二重映しになっている。

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from: 沙羅さん

2011年09月07日 06時57分49秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

 時々、日本の哲学議論場をのぞくと思う事のひとつ、
 自由意志の位置づけ 
 なんだか、よく見えてこないのだけど、

 例えば、キリスト教の神学の中心で話される事のひとつ

 人間の悪業が、神に力や予見や善性の不足、していることを意味するという議論が行われるとする、、、、、、、、
 
 まず、力をもたないのと、使わないというのは、まったく違う事でしょう、、と思うのですよね。

 自由意志でしょう、と思うのですね
 
同じ自由意志について

例えば、予見出来ても、言説を放つ、行動に移すか?というと、
 必ずしもそうではないと思うのですよね
 それは、
 多分、

 助けてもらって当たり前
 救ってもらうのが、当たり前
 という受動態の意識にどっぷりつかってしまうと、
 
 自由意志のある事を忘れてしまうらしいのですよね。
 違いますか?

自由意志が他者や人知を超える存在にもあると考える
あらゆるものの存在に心や魂があり、自由であるという事はどういうことなのか?考える、、
思うに
 神学の問題に限らず、

 どうも、何か人知を超える存在の有無を話す時、、、

 語る存在、対象の位置に立てるか、立てないか?
 、その立場を語るに相応しい人格なのかどうか?

 を人々は、観じようとしているのであって、

 神がいるとか いないとか、、

 その次元で話そうとしているのではないでしょう?と思うのですね

 他者の立場にたって 何らかの感情を共感出来るという人の言説と、
 他者の立場に立っているよう思っているけど、結局は、自己保存の言説を導いている、、というのは無意識なのかもしれませんね

ま、とにかく、実践にはいると、普遍性が伴うか伴わないかで、
 一目瞭然かも知れません。、、


    
 それと、人と話すとその思考をなす思惟を感じますし、その思考をなす幾層もの知識や認識の層だけでなく、それを程よくこなす 人間との経験、心情や感情の動き、、、全ての経験が重要でしょう
すると、ある事についても
 語るに相応しい人、
 その次元に立って話すに相応しい人
 という事を考えると思うのですね。、

 必要な視差かもしれないです。一律の話し方ではなく、なるたけ多くの人と接したいと思いますが、

 相応しい話題、、というのがやはりありますよね、
 
 
 書き込みの世界では 実に色々な人達がいるでしょう?、

 社会化の過程に締め付けられ不本意な神経症の病と思える病いと生きてしまう人々。
 ほんとうの自己の情熱や衝動を
 たくみに隠蔽してしまう 良心の自己催眠にかかっているような人達、、無意識分野の抑圧されたエネルギー意識的に顕現する、、

 こういう事は面と向っては話しませんが、
 実際の表象にあがる記号、書かれる内容は、哲学上の事でしょう?

 でも、何故?
 そのような書き込みになるのか?
 と分析すると、色々な事が観えてくるのですよね。

 しかし、、心の本源態というのでしょうか、

 智慧もそうですけど、、、人間的な感情、愛又は、慈悲も大事でしょうね
 

 慈悲を伴わない智慧は、<生死>の縛にあり、
 智慧を伴わない慈悲は縛にある。    維摩経

 

 

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from: 沙羅さん

2011年09月04日 06時56分46秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
  

意識のコミュニケーション

これ再度あげますね。

とても 大事です。

コミュニケーションというと、

ただ、友達が沢山いて、ワイワイ仲良くしている人達は 意思疎通がスムーズに出来て、いつも友人達が回りにいるので、

コミュニケートが出来ている、、、

 このような 見かけの解釈ではなくて、です、、、

 表象の解釈のコミュニケートではなく、

 カンタンに述べると、

例えばですね、、コミュニケートするというのは、目に見える行為に至る前の事なんですね。

むしろこのように表現したらわかりますか?

 無言の隣人の 心を 感じる事が出来るという感じです。

 感じるというのは、例えば

 「ア!この人、他者と感情交流が不通な 個人の世界にいる」、、

 という事を感じる事、共感出来るという事を

 意識のコミュニケートをする、、という事であって、

 何も、二人の共通の話題にお互い笑い転げる、、というコミュニケートは感情のコミュニケートですよね。

そのような行為は、回りの意識をひきやすい、派手な行為でしょ?
そのような 派手な行為しなければ分からないのではなく、
むしろ、なにも 起こらない生じない世界の事です。、

 意識のコミュニケートは、

 その人をパッと見て、

 「ア!この人 どこか、違う世界に いて大衆感覚から 程遠い
 ところで生きている、」、

 という感じを感じさせるんですね。

 言葉を交わす必要ないので、その人から浮き上がる雰囲気から分かるのです。

頑なな表情していますし、自然でない現われ方していますから、
すぐわかります。

意識のコミュニケートは 観じる、、という事でしょうね。このような感も コミュニケートする、、といえるでしょ?

派手に行動が生じないと、分からないのではなく、

行動に至る 原因を探しているのですから、

ですから、予知が可能になるのでしょ?

すべて 一連に時間の途上の出来事として繋がっているのですよね?

 羅針盤の方向指示器の方向を 回りの人達の影響によって、絶えず変えないと、絶えず重心、バランスを捕りながら 前進するというバランス能力ですよね?

ただ、回りと諍いを起こさず、争わず 争いだけ避ければいいというのはおかしいでしょう?

又は、まったく分かってない振りをしたり、、誠実心に欠けたり 自己保存術にだけ長けたり、とにかくそのような自分の心に嘘をついてまで我田引水的な現われ方をしていても、自分を苦しめるだけだと思うのですね。


又 回りの人達と
妥協点だけ見つけようとしていると、似たもの同士、価値観を持つ人達だけの意識を惹く形になるでしょう?

普遍性というのは、外にジワジワ、浸透していく力、波紋は外に向うのでしょう?波動の動きは波紋でしょう?

それを述べているのですね。知らない人達になんとなく同時にテレパシーが伝わっているのは、ある意味、不思議でもなんでもないのだと思います。
何故なら、意識のコミュニケートを、ちゃんネル合わせ、高次の層で思いや想い、祈り、願いなどを伝えあおうとしているからでしょう?

特別な能力のように思えるけど、特別な事ではなく、心の動き、自分の心の本質を見抜くという事だと思うのですね。

自分に向ける意識を、何故か、他者に向けて、他者の判断ばかりしていて、うまくいかないのは、自分の未熟なせいとか、自分の努力が足りないせい、、といつも、いつも、自己を、被害妄想みたいに 判断するのはよしましょうよ。自分の存在は唯一無二の 世界に一つなんですから、、美しい存在であるには、変わりない、誰も、貴方の代わりを出来る人はいないのですよね。貴方はその為に生まれてきて存在し、来世にバトンタッチ出来る存在として 今わたしの書き込み読んでくださる。

こんな 素晴らしい出会いはないでしょう?貴方と私の関係が独立する一瞬なんですから、、

自分を大事にしてくださいね。自分に 自信をもって下さい。

めるろ〜さんの死を無駄に絶対しない、、

めるろ〜さんの書き込みを読まれた事がおありなら、その時に
彼との関係が、絆が出来上がっていたのでしょう?

そのような過去の体験を活かし、ドンドン人間同士の絆を増やしていきましょうよ。私達は

他人ではないんです。


バランス能力というのはそのような結果に執着するのではなく、自然、全てのものの存在を存在させようとする、重心を、直観で観るというセンスでしょう。




意識の交流<コミュニケーション> 
        
            P FOURQUIE フルキエ 「行動」より抜粋

対人関係において、外部へ順応しすぎたり、誠実さに欠けたりする危険性はグループの大きさが限られ、意識の真の交流が 可能になるにつれて減少する。
そのことは、どう理解したらいいか?

交流<コミュニケーション>という単語の語源は 共有の観念を示す。

しかしこのこの共有は多くの段階で行われる、

事物を、特にニュースや観念を共有し、同じ感情を共有し、同一の我々のなかでいわば他者ト交じり合う事ができる。

意識の交流の用語が示すのは、交流の最も、親密な形態のひとつである。

しかし、我々が交流という単語を その限定辞<意識の>のどちらに注目
するかに寄って非常に異なった交流様式があり、その上その中に多数の中間形態を区別できるであろう。


まず交流とは、
交流する存在の区別が出来ていることが前提としていること。

我々が唯一の <我々>のなかに融合していれば、あなたが知っていることえおわたしにしらせてくれる必要はないであろうし、
わたしは あなたと同じときにそれを知るであろう。
この考察から 意識の交流(コミュニケーション)は、間接的に行われているように見える。

すなわち

 * 意識的、意思的方法で、言語による(我々は考えたり 感じたりすることを、我々の 友に知らせる)

 *  無意識に自発的な方法で、自然の合図により(顔や態度、、、などによる表現)他人はそれを解釈する

しかし言葉とか合図による間接的なこの交流は、意識の交流と呼ばれるに値するかと、問うことができる。
何故なら、この水準では 意識は互いになにかを伝えあうが、意識そのものは伝えない。だから、厳密な意味での 意識の交流<コミュニケーション>とは、ことばや合図を介せず、少なくとも、意識的にその解釈をせずに、直接的に 行われる交流である。


** 他人の精神状態を生きるそれは、経験、唯一の 《我々》のなかへの意識の融合によって、可能になった経験によって
行われるか、

**精神状態の構成要素であり、単なる結果ではない、身体面に、この精神状態を直観することに寄って行われる。


 「 存在すること、それは自己表現することであり、表現は、
すでに実現された内的存在の 忠実なイメージではなくて、 
自己を実現する手段そのものである」 

                 ラベル、《人間の魂について》

写真は、智ちゃんのご主人は、 ARCHEOLOGUE アルケオローグ考古学

に興味がおありなので、古跡場所に行くと、土を掘ってこのようなものを沢山見つけてくるらしいのです。

フランスにはあちこち歴史建造物の宝庫ですから、、

不思議のメダイユも、このようにあちこちに見つかるらしいんだけど、
1800年代にパリの聖母出現の時に 聖母マリアの言葉によって、
造られたメダイュで、フランス語は、メダイユ、ミラキュルー

ミラクルという語源ですが、

奇跡と訳さず、不思議のメダイユと訳したのが、味噌ですね。

ちゃんとこの世の生業の仕組みが分かっていらっしゃるように感じました。


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from: 沙羅さん

2011年09月04日 01時33分26秒

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「Re:Re:Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
そういえば、ニュースを見ていたら

あるエイズ患者の歯科治療を拒否した、歯科医が、裁判で
 敗訴し、数年間の歯科医療中止
 という結果が出た、、、と云っていましたが、、

 これはJUSTICE裁判がだす判決としては妥当な答えでしょうね。

============================

 精神の全ての手段は 言語のうちに閉じ込められている。

 そして、言語について熟考<反省>したことのないものは、  
 何も熟考しなかったのだ。
                アラン、「語録」
 

==============================

アランは、個々の語から出発し、それらの語源、形態と意味との変化
そして使われる意味の多様性について熟考したといわれています。

そして、個々人の放つ語について、個人的な思索の表現に際して、

他者を理解する、、そのような 個々が放つ 語 について熟考する事の為に時間を費やす事

それが大事であると述べていたのですね。

そしてその熟考をはじめるにあたり、

心(COEUR> クール

と 勇気 <COURAGE> クラージュ

そして文化、教養 <CULTURE>クルテュール カタカナ発音カルチャー

そして、信仰は<CULTE>クルテュ  等々

このような語によって導かれるのにまかせ思索するのでした。

そして、アランは、美学への前提の中で、

言語により散文を書く事の逆説は、

  「観念に従って、文章を書けば容易に平明な文体になる。

 それに 反し、語そのものや言語が提示するすべてに従うことに同意すれば、観念そのものを 引き立てることになる。その時観念は、別のまったく新しいものとして 自然の運動から 脱する・」。

                      と 言っている。

それについて、言語と思考との関係について熟考されるのでしょうね。
言葉について深く考えるという意識によってですよね?

自分ではどのように考えるか?
思考がどのようにしてその表現を見出すか?
より正確には、

同一の実在のこの二つの補いあう要素の 各々が、状況次第で、

ときに他に先行し、ときに他に従うように見えることがどのようにありえるか、、、

これは、モノを書いているとよく感じますね、、、

そのような事を熟考するのは、さらに、哲学的であると、アランは言っています。

それは、ある一種の相互的な因果性があるというのに、気がつかされるのですよね。それを、アンリ、ドラクロワは

「思考は おのれを言語によってつくりつつ、言語をつくる、

 思考が自分の姿を見るようになるのは、ただ言語のうちで自己を顧みることによってである。
しかし、思考は言語をつくることによってみずからをつくる」 
                        (言語と思考)

                 と述べているのです。


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from: 沙羅さん

2011年09月03日 23時28分05秒

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「Re:Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

 昔、フランスに住みはじめた頃、お隣さんの家の洗濯モノが
垣根の横に干されていて うちの垣根からよく見えた。

 雨が降ってきたので、慌ててお隣さんに 声をかけて

 「雨が降ってきましたよ、洗濯物が濡れますよ、」

 と 声をかけたら、

 「2度洗いになって、いいかも知れない、」、という答えが返って来た。
 そのまま、土砂降りになっても、洗濯物はそのまま、土砂降りの中
 干されているというか、洗われている状態だった。

 洗濯ものを 干す という音素は、日本語特有なのかもしれない。

 だから 干しているのに、天候がかわり、洗濯物が濡れる、、というと、いう事は、洗濯して 干してる意味がないから、

 雨が降ってくると、洗濯物を取り込む、、という行為が普遍化するのかもしれない。

 ご近所さんは、この後、何回も、土砂降りの中で、洗濯物を 干し?て2度洗いしているのを、見た事があったので、普通の事であるようなのです。

外出先で知り合いに会い そういえば、雨が降って来ても
「洗濯ものを、取り込むのを忘れた」、、、という事を話すフランス人に会った事もなければ、テレビのドラマでも 聞いた事がない。

 日本人独特の 価値観というか、意識なのかな?
 
 よく分からないけど、、

 世界にいると、面白い違いに良く出くわす。

 MSG675の続き
 哲学の必要性を感じる時、
 どのような種類の哲学か?
 と、、、と自問自答しますよね。

 何故なら、回りを見渡すとあらゆる 学説が存在し、どの学説も、それなりの存在の仕方で、もっともらしく聴こえてきますよね?

 まるで論理的に見える学説も、合理的に構築された体系も、
 明白に提示され十分な根拠づけをもった主張というのを 聞かされるのですよね?

 でも、その根拠がいつも部分的にしか 意識されていないでしょ?
 いつも、派生的な部分に意識を惹き付ける事には、巧みなんですが、

 全体像とか、総体的に 外から内側を観ると、どうしても、部分的の呼応反応に終わっているのではないですか?

 ですから、長続きしないし、その場限りの事に夢中になったり、するのではないでしょうか?

 個々人、自立する、個への尊重、人格への尊重というのは、
 これから、未来に向けて、必要不可欠な意識ですよね?
 
 そのように、地球上の人間は進化するように、その方向に向いているように思えませんか? 世界の人達 身の回りの人達の中に、目立たないけど、賢者と世間から思われる人、、存在の人がいませんか?

そういう人は、人生を導く為の堅固な骨組みを形づくっている何か感じませんか?

 でもそれは 社会的な立場、役職とか職種や例えば聖職であっても、そのような言動による言説の解釈ではなく 此処の 哲学的なセンスが、その都度、その都度、行動を決めていく動きに流動的な現れ方をしている人です。

 美しい 現われ方、無駄のない現われ方、、という存在の仕方の人がいませんか?まるで、そうなる事を知っていたかのように、それがあまりにも自然な振る舞いであったり、言説であったり、空間の中で、流動的な存在の仕方なんですよね。

「ひとは、堅固な立場に立つ事が出来る。なぜなら、そうした立場は批判的な 検討を受けず自明なものとみなされているからである。

哲学的精神を、特徴づけるものは、
反対に、自明なものは何ひとつないことを、認める傾向である」                           P,FOULQUIE

 これ、ダヴィンチの素描ですが、まるで、獅子みたいでしょう?
 1400年頃、西洋 に東洋の文化芸術品って、どれほど目に出来るのかしら?      


 


 


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from: 沙羅さん

2011年09月03日 17時42分49秒

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「Re:Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
めるろ〜さんが このコミュニケート式のブログを立てられた時、

どのような 思考の辿りだったのか?

2009年の2月の頃に戻してみたんですが、

 哲学のサイトを、カルチャーの分野として登録されているのですよね。

 これはわたしも、哲学はカルチャー教養である、、という事を述べて
 きた、MSN の名残りかしらん?と思っていた。

 哲学を身につける、、という実践に至らないと、

 哲学をしているという事にはならないので、、

 このカルチャーというカタカナ音素の捉えかたは、日本語で放つと誤用されていますよね?

 耕すが カルチャーというフランス語の意味がありますから、頭を耕す、、です

 頭を柔らかくするです。

 自由自在に観るですね。

 同じく、カルチャーには、教養という意味もありますね?

 

「教養人たるものは、神学についても、神秘神学についてさえも、その主要問題を、知らずにいる事はできない。

 神をその(有用性)、、、それがどんなに大きくても
 によってひとにすすめることは、
 神について語りながら、それがなんであるか忘れた事を示している。」

                哲学論集 Y モンシュイュ
 
 

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from: 沙羅さん

2011年09月03日 17時04分26秒

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「Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
MSG176
の続き

なんだか、今朝は、直観がすごく当たる

何処かに、哲学のタイトルの書き込みがあるはず、、と思って、、

2010年の4月をクリックしたら、

MSG176がでて来て、この題名が飛び込んできた、

ついでに、後で2010年4月の書き込み貼り付けます。

ところで、

それを述べたくて、今書き込みしているのではなく、

フランスの高校の哲学の教材に使われていた、フルキエの認識 

という本には、哲学の必要性が
書かれている章がある。

引用します。

いかなる種類の哲学が必要か、、という事で

知識ではない、大学試験に備えるような組織立った哲学の学習による
知識はもちろん(違うという意味ですよ、念の為)
読書やラジオの講演による、独学者のもっと自由に獲得された知識もまた
問題にならないだろう。
しかし、ある、学説が必要だと言えるものは、、、、言葉の正確な意味で

人生の哲学的な理解である。

つまり、倫理学であり形而上学である。

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from: 沙羅さん

2011年08月18日 22時02分04秒

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「Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
msg 605の続き

 人は、自分を、どのような存在と考えるかによって、行いは変わってくるとおもうのです。

 他者との関係についても、それをどんな存在と見るかによって、求めることが違ってくると思うのですね。



 人間の社会や政治の世界の中にも、はっきり見て取れると思うのです、、

 人と交わって、生活すると、人それぞれ、自分という存在を考える、見方が、千差万別なのですよね。

 

 例えば、わたしは、R子 さんという友人がいるとします。

 彼女の体験を聞くのです。今まで哲学一辺倒でした、
 仏教知識といっても、何故?
 仏教はこの現れ方で存在しているのか?

 この現われ方で、世界から見ると、普遍性をもつのであろうか?
 と昔から考えるのです。

 キリスト教と仏教の死生観を考えてみても、なるほど、だからそのような現れ、存在の仕方なのね、、と納得できる見解を得られる。

人は死ねば、天国へいくという考えは、この世との繋がりは観えてこない。ところが、仏教の輪廻転生は、又、蘇ってくるという考えは、この世の繋がりから切り離し辛い。

そのような信仰を信じる、信じない という以前の問題であり、そのような考えや信仰を育てる、土壌に私達民族は、日常生活を営む、、という事だと思うのですね。

他者を理解するというのは、やはり他者の考える思考の形に触れるのであるから、他者の住む国に住まなければ、観えてこない事は沢山あるでしょう。
  そんな事をツラツラ考えていた事が多かった。
 そこで、友人 R子の話はショッキングだった。

 例えば、初対面に遇う、人が、自分の相談事や悩みを言う前に、
 超能力者はわかってしまうから、何も話す前に、

 悩みの出所を、突然話してきて、これこれこうです、、、と、話す 

 超能力者W氏という存在を、話してくる。

 数学で、試験を出される前に、答案を書く、、という時間軸なのかな?

 と思ったりする。

 W氏の場合は、一番最後に、必ず、
 「他に何か、聞きたい事はありますか?」と聞いてくるという。

 つまり、その時は全て、悩みの回答や聞きたい事を話しているので、

 相談者は、唖然とするらしい、

 この時間と空間が 逆になる現われ方の 超能力者 W 氏の存在は、すごく 興味をもった、

 めるろ〜さんは、仏教で手堅い哲学実践者であった。私はと言えば、
 探求心はあちこち あるので、世間で価値の無いと思われている、事でも、あちこち、聞いて見たくなる。自由な思考に任せ、あちこち、自分の体験による、自然の呼応を確かめてみた。

 宗教や哲学を学問にし、過去の知識や認識のみに拘っていると、実践には至らないでしょう?

 というのが、わたしのめるろ〜さんへの、問いかけだったのだ。

 

 哲学に興味がある人は、超常現象を信じない人達と思い勝ちかもしれませんが、これも一種の偏見でしょう?

 現代科学に価値を置く事が、理性的な人と判断し勝ちな、この世の中にある現れの一現象ですから、、

死後の世界の事は何も分からないですから、

形而上世界についての事に、価値を見ないようにする、、、というのと、

形而上世界の事について感じる事が出来ないから、価値を見ない、、という事とは まったく意味が違いますよね?



自分自身どの分野、何に、価値を見出そうとしているのか?頼っているのか?

という事、自分自身を知る事だと思うのです。

何が、よい、何が、悪い

何が、正しい、何が、間違い

という」ような個人の物差しを つくる前の次元に 魂を宿す、、という事だと思うのです。

それで、例えば、超能力者は 未来が観えるから、信じる、、という意識はおかしいと思いませんか?

未来観え、予見や予知が当たっても、だから、その人のその後の言説を全て信じるという 意識も何か?おかしくありませんか?

言説云々ではなく、 その個 を信じてしまう、、という 意識はおかしいと思いませんか?


人間を観るという、精神力を感じないのですよね。つまり、何故か

個人に拘りやすい、アノ人は、何人で何処の出身で、何処の大学出で、
というようなエレメントで、判断しなくてはならなくなってしまう。

又、超能力者いう現われ方で世間に出ると、

なんだか、いつも、中るとか中らないとか、、

そのような 言説の結果ばかり 追う、、という 意識がわたしは分からないのですよね。

人間が人間と接するとき、人間が人間と関係を持とうとする時、

相手がたとえ、何でも わたしの未来が観えても、観えなくても、

そのような 事に 価値観を持つのではなく、やはり OOOO男とかOOOOO子さん、、という名前を持つ、魂に触れるという 人間関係を超える事はないと思うのです。

超能力者は、予見が出来るからと云っても、必ずしも、その人が次元の高い層に魂や心が存在しているという事ではないそうなんですね。

反対の意味もありですね。

人並み以上の霊視や超能力など、まったくもたず、普通の人に、見かけ観えるけど、
何故か?

回りに人々が、集まってくる。

きれいな心や 優しい心をもって、人間らしい愛情に溢れている人がこの世には存在しますね。

そのような存在の仕方、現われ方でいる人には、良い波動が空層に反響しているのだと思うのですね。
次元の高い層に 自分の魂や心を存在させようよする人達が、巷のなんでもない世界に、チョコンと存在しているようなんです。
そして
そのような人達は
知らないうちに、距離を縮める人達同士の関係が出来る途上に生きているのですよね。、

例えば、利得を求めるというような物質的な目的な関係であったり、ただ、社会に帰属する一部分の分野での共感を得るという事の目的の為であったり、または即物的な男女関係を求めるといった目的だけでの関係を求めるといった、胆略的な目的でなく、

何か、人生の本質に呼びかける、世界のどの人種や民族関係なく、生死の途上を繰り返す、肉体を有す人間に宿る 心や魂の求める永遠のゆるぎない価値みたいなものでしょうね、、
ようするに普遍と言い換えてもいいと思うのです。


そのような方が必ずしも、宗教人という事ではなく、むしろ反対に思えますね。

普通の方達というのは、普通の生活をし、結婚し、子供の親になったり、日常生活で、他者達の感情にもまれる事によって、他者側の気持ちや感情が 分かるという理解度の広さを経験により、理解するのだ思うのです。

 話がヅレましたけど、

人間をどのような存在として見るか、自身と他者にどんな事を求めるか?または、人生の本質や、目的や可能性をどう捉えるかについて、昨今の動きは、人々の抱く考えを支配するようになってきているでしょう?

科学は世界を成り立たせる要素として、物質以外の何ものも見い出さないというような唯物論 

または、進化論のように、人間の起源と人間性の本質に価値を置く見方、あるいは、

環境決定論のように、生存競争から行動をいかに、回りの環境に適合できるか、出来ないか?という面から観た、存在の意味、

また、真実といえば、科学的であるとほとんど信じて疑わないという科学信望的な考え方や主義に偏重しかける現代人が造る世界観。

日々の日常の指針を科学的なものに、FIXする。
しかし、それでは、全く人間の心が満たされなかった、物理的には、幸福といえども、この世に存在する、心的内的な病を抱える人達の数は、想像を超える数でしょう?

現代の人は、より現実を前にして、科学的かつ論理的に見つめるとすると、

心の存在を忘れていたのだと思う。

捨ててはいけない、

去るべきではいけない何かを捨ててしまおうとしているのではないか?

と思う事。

 なんでしょうねぇぇ、、
本当に、スタンスの長い、その場限りの観方ではなく、

自分の生まれてきた意味が観えるような、それでもって、他者達との共感を体感できる、真 善 美 といった、万人に通用する価値の共感

そのような 共感ができる時間を沢山 生きてるうちに体験したいですね。

1000体の千手観音像 三十三間堂の朱印です・

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from: 沙羅さん

2011年08月14日 18時13分49秒

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「Re:Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

 いつも思いますが、

 他者の中に、外国語を話す人の存在があるのなら、

 他者の意見、他者の考えに納得できない、、という位置に立つ前に、

 自分は一体、他者の事をどれくらい理解できているのか?

 という疑問を自分自身に投げかける、、という事をしませんか?

 他者や他国の事に、批判や誹謗の矢を向ける人にありがちなのは、

 その誹謗や批判をする人自身が、何故か?

 母国語だけの世界で、同言語を話す人達だけで、思考をし、同一思考を求めたり、または違いや差を見つける事だけに、一生懸命になってしまう、、、という人が多いという事はどういう事なのでしょうか?


 自分は自分の事を本当に 理解しているのでしょうか?という質問もさることながら、他者に意識を向けるのはわかりますが、他者をどれくらい自分は理解できているのだろうか?
という疑問が、まず
 一番最初に 来る意識に思えますが、、、、


 他者、または、全く違う言葉を話す 他者は、その言葉での思考の仕組みをしているのですから、

やはり、その場に住み その場の人達と、感情交換や心情交換、コミュニケートを取って、初めて、、

 「なるほど、、

 だから、このような 思考の形、意識の姿勢になるのね!」という納得できる地点に至る

という経験や体験がなく、

 何故?

 ほとんど、嗜好や感情に委ねているのでは、なかろうか?

 と思わされる、嗜好が判断に直結してしまっているのは どうしてでしょう?


 他者の存在は、自分と違う、、という存在であるのですよね?

 自分と同じ人を探そうという意識に向っていく人と

 自分と違う人に会い、何故?
 このような考えに至るのか?

 という懐疑意識が、触発される人との違いは、

 どのように、自分を長い間、人生の道のりにおいて、導いているのか?

 自分を取り巻く 人間関係が、すこしづつ 出来上がっていくのではないですか?

 閉塞的な世界をつくり勝ち、、というのは、自分自身が、そのような未来、開けた世界へ向けて、稼動する世界への目指しを向けられず、
 
 自分の身の回りの事にしか反応出来ない、観得ない世界観を自分自身で想念を放ち 自と他の世界観を造っていると思うのです。

残念ながら、、普遍性をもち、波動が高く、未知の他者達、複数他者達を、引寄せる、波動の法則により、自然に遇わされる 人達<心>の存在する世界とは違うでしょう?

対象<個>に fix 執着してもいけないでしょう?

その個の回りには、その個を存在させてる 沢山の因果関係で出来てる存在<心>があるのを 観ないとならないでしょう?

結局、全体や総体を観ざるを得ない、、という事になりませんか?

も一度、自分の心の 声 を聞いてください、、

その声は、貴方の本心というより、貴方を存在させてきた、他者の声ではありませんか?

貴方の中に存在する他者の 声 を聞く事なしに、

貴方の好き嫌いや嗜好や、日本人だから、日本人の民族意識に拘るのは当たり前、、、という表層意識は、結局今までの歴史上で経験させられた、外的から自分を守る、、、という潜在意識に無意識に 同化させられている、呼応してしまう、、という事ではないでしょうか?

他者は、対峙世界という世界での存在にしているのは、自分自身ではないですか?

自分自身が、そのような他者、対峙できる他者を探しに行っているのではないですか?

もういちど、よく考えて頂きたい、、

 自分自身を、苦に追いやる 自分の 心 を

 も一度、よくよく、自分の 心の中の、高次の世界の存在を、手探りでいいから感じ取って欲しい、、

 高次です。低次ではなく、、

 自分の存在は、低次の心や魂との呼応する為に 存在しおうとしているのではないでしょう?

 呼応したり、反応したり 影響されるのは、巷の溢れるメディアの音ではなく

 高次の魂や心の放つ 声や言説を 良く聴いて下さいね。

 高次の世界というは、決して、知識や認識と言っただけによるものではなく、美しい心域、見返りなど決して求めず、知名度を売りたがるような行為いったんの何がしかではなく、

ただ心、魂が 存在する、存在させている沢山の人々の心や魂の想い、そのもの自体 です。抽象的な存在でしょう、、

それを感性で感じる事に思えます。

そこに、 初めて、個<心>と個<心>の信頼関係が結ばれる。

そのような肉体を持つ、他者の介在は不必要なコミュニケートにより、存在していると思います。

次元の高い世界、、というのは、そのような心や魂が時空を超え、反応できる又は呼応している心や魂を宿す肉体を持つ人間が確かにいるでしょう。

そして、その世界でコミュニケートをする人間達は、自分は何々国の人で、何々教を信じているから、、などと述べないでしょう?

何故なら、不必要な情報だからに思えます、たまたま結果、この世に生まれたのは、この形です、、、
という結果が、キリスト教であったり、仏教徒であったりする訳で、

それは、存在させてきた途上の一旦であり、そこで停まっていないのですよね?

ですから、スピリチュエルの世界が、そのようなものに 拘らず、修行の為になんらかの宗教や信仰に帰属されるのは分かりますが、
それは手段の一つでしょう。

魂や心は存在し続ける 途上にあってこそ、、なんですね、

それは時空を超える、、という事でしょう、、もちろん 言葉や記号すべて唯物的な事を越える という事が 体験や実感や他者達との共感によるものでしょう、

そのような確かな、納得できる体験が、高次の魂や心を有す肉体<人間>の人達が外国、国内限らず、ドンドン多くなっている方向に向ってる感じがします。

開けたモラル、開けた世界、開けた未来への視差を持つ、という他者の存在達です。




 

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from: 沙羅さん

2011年08月14日 16時39分12秒

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「Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

 しかし、
 わたしが、初めて 高野山に行ったのは<行かされたのは>
 全く予定していなかった日だったのだ、

 全く予定していない、、

 それなのに、高野山に、突然行く事に決まる、
 
 2007年の日本滞在期間中、後2,3日後には成田を発ちフランスに帰る予定であった日だった。

 後で、考えると、渋谷の祖母の命日だったのだ。

 それは良いとして、

 いったい、何故?

 十字架と空海のメダルを首から下げる おばあさん が

 私達に 話しかけてくるのだろうか?


 十字架を首にかける知らないおばあさんが、 高野山 に出現し?

 突然、わたしの近くに歩いて 接近してくるのである。

 高野山を、参拝する人達の中で、キリスト教信者といっていいのか?、、十字架を首からぶら下げる方は、どのくらいいらっしゃるのかしら???

 いったい、何故?

 わたしが、会わされるのか?

 しかも、9月27日、祖母の命日は、パリの不思議のメダイユの聖母出現に立ち会った、カトリーヌ修道女の夢に実際出て、修道女の道に導いた1600年代の聖人の命日だ。

もちろん、そういう事は、全て生じた後になって、分析するという行為によって、一連の関連性が観得るという事なので、、

 全て、時間と空間の存在がある故であり、そのおかげであり、そのような思考<分析、因果探し、探究 ETC>が出来るのであり、

その一連性は、わたしの個人体験を抜けないのは当然でしょう。

つまり、他者は 個人体験について、唯物的判断出来ない位置にいるのだと思うし、その必要はないでしょう。、、と思うのですね。

超越体験、例えば、神との対話というような コミュニケートは、個と個のコミュニケートであり、個に放っているから、個と個の信頼関係が生じるのであり、

肉体と肉体の信頼関係に信仰が存在するのではないでしょう。

それでも、そのような形で普遍性をもつ存在の仕方をしている方は、
波動の高い人に尽きると思われます。

つまり、文字や唯物的な手段により、知名度が広がるという手段とは全く違う。

高次の世界の層での知らない他者達の心や魂の存在しようとしている心作用が、確かに存在する。その世界のコミュニケートには、美しい人間的な心作用、、願い、希望、愛、、といった、意識に触れると 共鳴する触れ合う魂の反応が確かにある、、

声、ヴォーカル VOCAL という声に関する 単語には、

 もともと、VOCATION ヴォカション 天職、適正、資質 個人の使命
 そして[神の]の召命、使命感

 という意味のある単語がありますが、

 自分の職種に関しても、一人、一人、適正の仕事が与えられているはずで、それは、この世に生まれる意味の一つでしょう。

 声 VOCAL[声の]から  VOIX ヴォア<声、音声>という単語になりますが、

 声、音 を聞く、、という[神の]声<音>を聞くというのは、重要な事に思えます。

 ジャンヌ ダルクの存在もそうですね。
 神の声を聞いたと言う彼女が体験させられた
 歴史を紐解くと聖人の存在はもともと、そのような個人的な超常類似体験によるものでしょう、、と思います。

いつの時代もそうですが、大衆や一般の判断が一番野蛮[理性的、科学的という視差に拠って]な存在で大多数という存在であり、力を持つ存在である、、という処でしょう、

そして、何が 真 であるのか?

というのは、私達が、あの世に逝った後にならないと分からない、、

感情をドタバタ、生きてる間にしていて、他者を個人判断していても、観えないと思うのですね。、


いつの時代にも
 この世には、唯物論的思考では 考えられない事が生じ、ますますそのような、現代の通じる価値観でいう理性では考えられない超常的、な事が生じ、現状に生きていく事がますます過酷に世相になれば、人間はますますそのようなものに、すがりますし、頼ります。

信仰や宗教やスピリチュエル的な事がどうの、こうの、、というのではなく、
何が?
私達の回りに生じているのか?
そして、この先は、未来を観る という予見出来る、直観能力は このような時代大変必要になってくると思うし、そのような方向に動いているでしょう。生き残る、、存在し続ける、、

サバイバル方法を暗中模索する、、21世紀に生かされるというのは、そのような2極端にわかれるのかも知れません




 
 
 
 

 

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from: 沙羅さん

2011年08月14日 06時44分39秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

 時々、

 日本語で表現していると、漢字表記にすごく チグハグな感じをもつ漢字があるのです。

 迷信、、、此の文字<音素>、どういう意味?

 迷妄とかんがえられる信仰、また道理にあわない言い伝えなどを頑固に信じる事、その判定の標準は常に総体的で、通常、現代人の理性的判断から見て、不合理と考えられるものについていう、、

 と広辞苑に表記されている。

 仏語は、SUPERSTITION スーペースティティスィヨン

 が迷信という意味に辞書ではなっているけど、、

 SUPER という語の意味は、迷い、、、という意味ではないでしょう、、
 と思うので、

 捉えかたが違うのですよね、

 日本語の訳を見ると、先に判断が落とされている

 つまり、理性的判断、、という判断が落とされている。

 しかし、これはどの時代にも当てはまるか?と当たらないと思うのです。

 理性的?

 これは所謂科学への価値感を持つ意識ですよね?

 大多数意見、大多数の価値観に委ねているのであり、

 たまたま、この今世紀時代の普遍的な価値観に委ねている。

 SUPERSTITION のSUPER が前頭詞につく言葉ですから、

 どうでもよい価値のないものを、むやみに信じるという意味ではなく、

 、上<SUPER> 超常という意味で使われていると思うのです。

、価値ある価値ないの判断を下すのは、個々人の自立した精神であるのではないか?と思うのですが、 
このような時に限り、一律の価値観を共有しないといられないという感じを受けるのだけど、、、

他者との関係つくりは、同一価値観を強制的に持つ、、という意識ではなく、

他者との関係は、やはり、心作用だと思うのですね。

 友人愛や人間愛や、恋愛や 親子愛や、夫婦愛、、そのような心情によって、他者の存在を築く事はせず、いつも 他者と自分の違いや差を見つける事で、自分の価値や 自分が、他者からどのように 思われているか?存在しようとしているか?

 こうしなきゃいけない!とある一律の物差しの判断に、統一しないとならないのではなく、他者の意識を引く、魅力的、センスがいい、興味深い、先見的、、そのような、未来への自分の希望や生きる欲望を持たされる、展開や展望を放つ、、という言説を放つ事で、他者と関係つくるのではないか?と思うのですが、、、

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from: 沙羅さん

2011年08月09日 03時57分33秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
フランスでは、高校の卒業証明は、

バカロレア試験と呼ばれる、全国一斉テストの結果によってです。

何処の高校へいっても、全国一斉のバカロレア試験により、

振り分けられる。


毎年のバカロレア試験は、哲学科目ではじまる。どの科目からはじめたって、同じではないか?と思うのは日本人のわたしくらいで、

バカロレアの試験の 最初は、フィロソフィー哲学にしないとなりません。、、、、と、フランス人は何故か?思っている。

不思議な国だ、

6月のバカロレアの試験中のニュースは、哲学教師に試験用紙の回答を応えさせるというニュースの内容だったのです。面白い



http://www.youtube.com/watch?v=_SclZTfjUVg&feature=related

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from: 沙羅さん

2011年08月08日 20時45分47秒

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「Re:Re:たまには、哲学でも・・・・@@」

昨日、箪笥にしまってある寝具の整理をして、あちこち部屋がかたずかなかった。ついでに寝ているベッドのシーツをはがし、新しいのして、ベッドかばー、枕カバー全部はがしていたら、マットレスの下から 2年前に買った、モン、サン、ミッシェルの事が書かれた雑誌が出てきた。

あぁぁ、こんな処にあったのねえ、、と思いパラパラめくって 夕飯の用意をしながらテレビを見たら、モン、サン、ミッシェルの特集番組をやっていた。

その前々日は、何故か?YOUTUBEで、空海の高野山の番組を録画していたのを見ていたら、翌日昔のボーイフレンドは、3日間 NHKで、空海特集をして見ていたというメイルを送信してきた。

今朝、車で県道を走っていたら、目の前を、大きな 鹿 が横切ってはしっていった。もちろん 野生。

鹿が、県道まで降りてくるのは見た事あるけど、それでも、4,5回しか見た事がない。、

車の往来が少ないし、視界は開けているし、平地の一直線。
わざわざ、走行中の私達の車の 前 を、横切っていった。

なんだろう?

 鹿島神宮の使いかな?

10月の猟の解禁日になれば、猟師達が 銃をもって 
山に入るよ〜、、、

こんな 平地に降りてこないで、早く 山へお帰り!

***************************
YOUTUBE
空海が遣唐使で 恵果和尚を会わされた、

長安の、 青龍寺です。

http://www.youtube.com/watch?v=WJNJgREPk5M&feature=related

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from: 沙羅さん

2011年08月08日 05時00分20秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
 
 意識の交流<コミュニケーション> 
        
            P FOURQUIE フルキエ 「行動」より抜粋

対人関係において、外部へ順応しすぎたり、誠実さに欠けたりする危険性はグループの大きさが限られ、意識の真の交流が 可能になるにつれて減少する。
そのことは、どう理解したらいいか?

交流<コミュニケーション>という単語の語源は 共有の観念を示す。

しかしこのこの共有は多くの段階で行われる、

事物を、特にニュースや観念を共有し、同じ感情を共有し、同一の我々のなかでいわば他者ト交じり合う事ができる。

意識の交流の用語が示すのは、交流の最も、親密な形態のひとつである。

しかし、我々が交流という単語を その限定辞<意識の>のどちらに注目
するかに寄って非常に異なった交流様式があり、その上その中に多数の中間形態を区別できるであろう。


まず交流とは、
交流する存在の区別が出来ていることが前提としていること。

我々が唯一の <我々>のなかに融合していれば、あなたが知っていることえおわたしにしらせてくれる必要はないであろうし、
わたしは あなたと同じときにそれを知るであろう。
この考察から 意識の交流(コミュニケーション)は、間接的に行われているように見える。

すなわち

 * 意識的、意思的方法で、言語による(我々は考えたり 感じたりすることを、我々の 友に知らせる)

 *  無意識に自発的な方法で、自然の合図により(顔や態度、、、などによる表現)他人はそれを解釈する

しかし言葉とか合図による間接的なこの交流は、意識の交流と呼ばれるに値するかと、問うことができる。
何故なら、この水準では 意識は互いになにかを伝えあうが、意識そのものは伝えない。だから、厳密な意味での 意識の交流<コミュニケーション>とは、ことばや合図を介せず、少なくとも、意識的にその解釈をせずに、直接的に 行われる交流である。


** 他人の精神状態を生きるそれは、経験、唯一の 《我々》のなかへの意識の融合によって、可能になった経験によって
行われるか、

**精神状態の構成要素であり、単なる結果ではない、身体面に、この精神状態を直観することに寄って行われる。


 「 存在すること、それは自己表現することであり、表現は、
すでに実現された内的存在の 忠実なイメージではなくて、 
自己を実現する手段そのものである」 

                 ラベル、《人間の魂について》

写真は、アルビの 聖セシール大聖堂

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from: 沙羅さん

2011年08月07日 07時34分24秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」


数年前に流行った映画、ダヴィンチコードには、ルーブル美術館のピラミッドの真下にある、マグダラのマリアのお墓の横に、一厘の赤い薔薇が
あったのが印象深い。ROSE ローズ

 赤い薔薇って本当に 宗教的にも政治的<フランス社会党のシンボル>
 恋愛的にもすごく深い意味がありますよね?

 3月11日のカトリック聖人カレンダーには、ROSEの語源を意味する名前 聖 ROSINE ロズィーンヌだった。

 それで、阪神大震災の1月17日は、どの聖人なのか?見たら 
  聖 ROSELINE ロズリン


  ROSEの名前は珍しくないけど、聖人となると それほどいないと思う。 他に365日の聖人のROSEを語源にする聖人は居るのか?
 と思って探したのだ。
  聖 ROSE DE LIMA しかなかった。

 ちなみに、1月17日の 聖ロズリンは、ダヴィンチコードの最終で、真実が暴かれる ROSELINE 聖堂の名前と同じなのです。

このROSELINE聖堂<ROSSLYN>LのYOUTUBE は興味ふかいんですよ。

このブログの視点も センスがすごく良いと思うの。

天の岩戸に隠れたアマテラスを 闇から 出すために

 アイデアを絞った神様は、あの 思いの神様ですよね。
 戸隠神社の神様です。

 闇は、確かに、、、門に音という字なんですよね、、

 音でもって、闇から明へ、、、、、

http://blog.goo.ne.jp/auwa108/e/ee4beb7055b995d86d44c447c9df3715



parisの 待ち合わせ場所で知られている、、ミカエル大天使広場

 ミカエル大天使の指す指?
 ミカエルが真正面に見えるのは、セブラン教会のとんがり帽子の屋根だった。

 室戸岬の大木の根のはり方に似ている。

2007年 セブラン教会は、アメリカミシガンから親子で初めて パリに旅行に来て母親をパリで失くされた フランセスと一緒に入った教会だ。セブラン教会に入ると分かると思いますが、
  教会内部の柱の構造の特徴は、ダヴィンチコードに出てきた
 ロズリン聖堂によく似ている。


http://www.youtube.com/watch?v=l2lxmtQKipo&feature=related

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