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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

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  • from: 沙羅さん

    2009年03月09日 23時07分19秒

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    ラテン語

    ハ!

    ラテン語、ラテン語、ランランラン、、♪ ♪  ♪

    のスレットがここはないではないか?

    誰かな? ARCアーク DEドュ TRIOMPHEトリオンフ
          凱旋門と訳した人は、、、
     
        ARCアーク は、
        門とは訳さないよ〜ん!なんちゃって、、

        門に見えるけど、門の意味してないのが、ARCアーク
      
        の意味を理解出来るか出来ないかを問われているかもよ〜ん・・・結局知覚を通して、人々の心情に浮かぶ抽象表現を含む
        語句なんですねえ〜・・創世記に出てくる、虹は、どのように記されているのかしら?原書という原本に記されてる記号が
    解ればいいんですけどね?

        

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コメント: 全31件

from: 沙羅さん

2011年09月08日 17時47分19秒

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「Re:Re:ラテン語」

hospital ホスピタル という音素を放つと、

 何故か、病気を治す、、、病人、、、医者

 という想像が 頭に浮かぶらしいのですが、

 ホスピス、という音素は、

 病い、、、という想像を引っ張ってくると、見え難いと思うのです。

 何故なら、

 普通、HOSPITALIER ホスピタリエール する
 とか、ホスピタリエールを好む人、、という使い方でこのホスピタルという音素の本当の意味を繋いでいく。

 人を歓迎し、自分の家に 知らない他者達をおもてなししたり、迎え入れる、、という風習がある国には、このホスピタル
という言葉が生まれた意味を、そのまま継続する風習を持つ、、という事なんでしょう、、と思うのです。

ホスピタル という音が生まれた 起源、、、その頃の時代に自分の心を這わして観る、

あの頃の時代って、、
あの頃って言われても 分からないかしらん?

例えば、道らしき、街道が出来る、、という時代、、

人の往来が激しくなるのはどうしてなのかしら?街道の意味は、人が 歩いているという証拠、、

何故?

人は、自分の生まれた場所から 他の場所に 行ったりするのかしら?


観光やバカンスを何処そこで過ごす、、なんていう時代の事ではなく、、

例えば、創世記が書かれる時代、、、

何処からか?知らない人達が接近してきて、知り合い、夜空など、眺めて、話すのです。

星の存在が、人々の直観に何かのメッセージを与える。
今世紀の 霊感が強い人も、手から出る波動や磁気で 人々の心の病や、予言したり、過去世をみたり、、あちこちにいる。あまり色々あちこちにいるので、もう誰を信じていいか分からないし、だいたい、信じていいものか?こちらにmそのような透視能力や霊視能力などないから、とりあえず、非科学的な事は、信じない、、、という姿勢をとっていれば、社会から 理性的な人と判断されやすい、、

という 安全策をとってみると、大多数、多数派の域に 存在するという事で、ひとまず、安心感を感じる。

でも、これだけ、社会や自然災害に見舞われると やはり、不安、、、
不安は、未来からくるので、
未来が観えないと不安は消せない、、
よって、大衆の情報機関は、そのような大衆心理をついてくるのですよね。
ありとあらゆる 情報が飛び交うでしょ?

自分は、何を 観たらいいか?
見失うのでしょう?

とにかく、しばらく、ネットや 新聞や テレビの 情報から
一切、離れてみるといいかも知れませんよ。

半年くらい、、

世の中の出来事を、知るのはよしましょう、、、

そういう 状態にした時、

自分が 何処に 行ったらいいか、、

誰かに会えるとか
誰かが、自分を何処かに案内してくれる人に会う、、とか、、

不思議な事が 生じると思うのですね。

要は、 これだけ 情報が氾濫している中でも、自分自身を 見失わない精神力を見つけてください。

安易に 低次元層と思われる 記事や、文字や書き込みや、音波や、ツマラナイ杓子定規と思える、心不在の感じられる人間関係からは、すっぱり 手を切ってしまってもいいと思うのです。
何故?
そのような事を述べるのか?というと、

自分自身に低次の波動の影響を受けやすくさせてはいけない、、という自己防衛力みたいなものです。

自己防衛は、何も、自分に対峙する何ものかと、真正面から応対するのではなく、

感情の呼応や、共感を求めてくる人達の 魂や心の存在しおうとしている次元の高さです。話が会うという人を寂しがりやの魂はかならず求め、ちかづいて来るでしょう?

まず近いても、話の接点が違う、という、意味が違います、、という
事を感じてもらうべきだと思うのですね。

知らない人を観て、アレ!と感じるのは、直観でしょう。

直観や霊感が不足してると、名刺見せたり、名刺あげて、自分の身の上を 私ってもらう、、という唯物的な手段をとらないと 人間関係が築けない、信用をおけないと、相手の信頼を得られないと、人間関係が出来ないと思っている。

そうじゃなくて、ほんとに、その人の心にピンときたら、名刺など不必要だし、どちらにしても、何か、感じたら、知らない人でも話しかけるでしょう?話しかけられた人は、知らない人だから用心するという防御の意識を強めるのではなく、、、

何故?

その場所で、その人が、話しかけてくるのか?

という 時間の継続上に 現れる人達との関係が、将来の 視差、、観ないといけない方向、、、
そのような 意味論で 解釈しないと 
般若心経で 不思議をどうして唱えられてきたのか? 観音経での
歴却不思議は、なぜなのか?


無言のメッセージとして、自分自身の人生の流れの方向、、と

日本に存在し続けてきてる お経の言葉は、2重映し、手応えを感じるという事が、実践とか実体験、、と言われるのではないですか?

違いますか?

自分自身に 体験として感じられない、又 普遍化出来ない存在の仕方や ますます、孤立してしまう、ますます 他者との心の交流が難しくなる、ますます 心が塞いで、暗い穴の中に 魂や心が居座って、誰も自分の事を分かってくれない、、、というような 孤独感を感じたら、それは、何か、意識を向ける方向は、明るい未来に存在しようとしていない、、、自分で自分の舵取りを、間違ってしまっていると思うのですね。

他者のツマラナイ判断の声は聞く必要はないのだけど、

それが、自分の魂を孤独の世界へと向けてしまう、、それは、観る方向が違うと思うのですね。


それで、ホスピタル という語源は、旅人が 普通の人の家に訪ね、
それを歓迎して、泊めてあげる、、、

食事を一緒にする、、、

社会的にそのような事が わりかし頻繁に行われているうちは、まだその国は存在し続ける事が出来ると感じるのですが、最近のニュースを見ると、そのようなホスピタル精神をもつ 人々はなんだかどこかの キリスト教団体の人達だけしか、受け入れないようになってきた。
これは、どんどん 閉鎖的な人間が多くなってきて、外部の他者を自分の家に 受け入れなくなってきている、、という事でしょうね。、

話それますが



 
 フランスに住みはじめ、
かなり このホスピタル 精神に感化されて、
 色々な人達を うちに泊めて食事をし、テーブルを囲み、言葉がわかろうが、わからまいが、構わず、ジェスチャーで、伝達する。そのような生活様式を、結構エンジョイしているのです。

 社会を構成する人達の ボランタリア精神なので、信仰とは、関係ないところで稼動している気がします。
大概 ラジオや新聞に載っているのを読んだり、口コミで、「、受け入れられる?」打診してくる。この前、何処かの、協会が、南米に3世紀前に民族移動した、元フランス人達を、何回か泊めた事があり、

近所に住む、レモンおじさんも誘って食事をした。

2世紀以前に、南米に移住し、その子孫が、フランスの自分の先祖の澄む場所を知りたくて、旅行に来る、、という事らしい。フランスにはそのような、世界に散った元、フランス民族の子孫が、自分の先祖が住んでた 村や地域を観てみたい、、と
訪ねてくるニュースをよく聞く。

先ず 苗字、、これは、音素で だいたい、何処出身の人か、分かるのですね。うちに留まった南米の人の苗字が、レモンおじさんの 息子さんが結婚した、義理の娘さんの苗字と同じだった。
話を聞くとやはり同じ出自ではないか?先祖の住む場所も一致してくる、、話は当然盛り上がる。

不思議ですよねぇぇ、、、人間って、、

ご先祖様が、会わせているんでしょうね?

でも、生きてる人間は、自分で決めて行ってると思っているらしんですが、、、

 ホスピタリティー精神でした。




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from: 沙羅さん

2010年06月15日 21時43分00秒

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「Re:ラテン語」
お昼支度をしてる時、電話が鳴った。

かなり長く鳴ってた。手を拭き受話器をとった。

誰も出ない・・・というか、ツーツーという音も聞こえないから、受話器を置いたとも感じられない。

かなり長く、「ALLO?」もしもし・・・・を繰り返してたが、

返事がないので、受話器を置いた。

ガレージに降りたら、家人が帰ってきた。

昼食の用意をしながら、気になって、Jさんの病室の直通に電話してみた。誰もとらなかった。

フランスは個室には直通の電話がつくので、レセプションに、病人の様子を聞くのには、電話違う番号にかけなおさなくてはならない。
電話に誰もでない・・というのがやはり気になって、Y氏に電話した。

「もしもし?わたし・・・」

 「あ〜・・・亡くなっちゃったよ」Y氏

 「いつ?」わたし

 「20分前」Y氏
 「今何処にいるの?」わたし

 「いま、Jさんの家だよ。着せる洋服探してる。これから病院にいくよ。Le CORPS と一緒に戻ってくるよ」Y氏

 Le CORPS ルコーというところだけ仏語で表現してきた。

 Le CORPS は遺体の意味なのですが、仏語の音素は「遺体」という日本語の音素のインパクトよりだいぶ弱い。

 Yさんはそこだけ、仏語の音素でコミュケートをしてきた。
 これが共感なんでしょう。
 何故?
 インパクトの強い日本語音素を避けて意志伝達をしたかったのか?
 それは、私達とJさんは、リアリティーを超えた心のつながりで
 結ばれていたいからに違いない。

 まだ、Jさんは、私達と一緒にいる仲間であるような存在感が
 あるからなのだ。とても彼を遺体などと呼べない・・・受け入れられない感情が私達の間にマザマザと存在しているからなのだ。

 

  仏語の音素というのはほとんど、イマジネーションの連鎖でつくられている。イマジネーションが出来なければ、仏語の会話がなりたたないところで出来ている。非常にデリケートな言語なのだ。

何故なら、遺体=CORPSではなく
    CORPS=身体、胴体、遺体 本体・・・だから
  話し手の意志と内容で、単語はそれなりの意味を含めて生きてくる。話し手の心模様如何にかかってくる。

  ところで、20分前というと、誰も出なかった、電話の呼び出し音がなった頃だ。

 6月15日・・・・空海さんと関係ある日に、
 天国に召されてしまった。       合掌

 モーツアルトのこれも彼の最後の曲、レクイエイム
 涙 LA CROMOZA

 鎮魂歌に相応しいかも・・・・・

 http://www.youtube.com/watch?v=k1-TrAvp_xs&feature=related

写真は大宰府の 観世音寺 去年Tさんと遭ったお寺です。

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from: 沙羅さん

2010年06月13日 01時06分45秒

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「Re:ラテン語」

 どうも、カタカナ音素には、含まれている意味が単純化されて、 伝達されているように思うのです。

 もう一度、レヴォルーション ではなく、REVOLUTION です。
 R と、Lの音素は全く違うのです。

 でも日本語表記にないから仕方なく、カタカナで表記しますけど、
 これは間違いに思えます。

 ですから、アルファベットで書く方が正しく理解され易いと思うのですね。
 RTEVOLUTIONは確かに革命という意味もあるのですが、
 ただ単純に、ドンパチ、プロレタリア層が仕掛けたのではなく、

 何故?
 そのような事が生じるのか?

 という何故?
 という意味や理由や原因をわかろうとしないと、

 何故?
 革命が
 REVOLUTION と呼ばれるのか?
 と言う考え方に至らないと思うのですね。

 言葉を超えるという事はそのような事に思えます。

 決して、自分が理解する局面だけの理解で、他者にコミュニケートをしても、一方通行に思えます。
 REVOLUTIONは、回転・・循環・・ラテン語では巻き戻す・・・という意味があるのです。、
 地球が回転するという事に関係があるんですね。

 つまり、地球が回転する意味は?
 時間がある・・・という事なのですから・・・
 地球は無駄に、回転しているのではない・・・という人間の生き方を個々人問うべきであるという地点に立たねばならないと思うのです。ただ、ぼ〜っと生きててはいけないと思うのですね。個々人は大事な命をもって、意味があって生まれて来た・・・という地点に立てるはずなんです。

 ただ教科書に自由、平等が書かれてあった・・という受動的な理解の仕方ではなく、今このように書いている時も、読んでいる時も、地球は回転を止めない、、、、という事はどのような意味なんでしょう???
 という事だと思うのです。

 その点、普遍を哲学が求めるというのも、

 普遍、UNI VERESEL と類似の意味合いを感じます。

全然関係ないけど、メルローポンティーの父親の名前も、
 ヨハネ、JEAN だったんですね?

 でも、メルローポンティーは、お母様と一緒に、パリのペーラシェーズ墓地に眠られている。お父様は記されてないから、離婚されたのだと思うけど、一人お母様の墓地に一緒に入られたところは、メルローポンティーの優しさを感じます。
お母様の出身地がバースピレネー県と墓石に彫られていたのだけと、ルルドからそれほど遠くないんですよね。

 

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from: 沙羅さん

2010年05月19日 20時50分21秒

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「Re:ラテン語」

 レヴォルーション・・・という単語をカタカナあるいは、漢字
 革命・・と表現される度に、

 「うぅぅ〜〜ん・・なんだかねぇ〜・・・」
 意味がうまく伝わっていないような感じがするのだけど・・・

 という感覚は何故?
 わたしの心に生じるのかしら?

 REVOLUTION
 
RとLの全く違う音素の記号が入っているんですね〜・・・

 RE の音素は、後続する行為(動詞を)繰り返すとか反復
 するという意味で、動詞の前につく接頭詞なんですね。

 輪廻転生も、 RE(繰り返す) +アンカーネINCARNER(具体化する、演じる
 具現する、肉体を与える、人間の姿にする、化身する)

 INCARNERのCARNEは、肉 ですから、
 粗雑な表現だと、肉を宿す。

  REVOLUTION という音素には、大事な音素
 エヴォルエーEVOLUE 進化する 変化する

 という音素を含むのですね。

 ラテン語は、回すVOLVEREにREがつくのですから、巻き戻すという意味ですし、
日常でも天体の事を表現する時、REVOLUTIONと使いますが、これは天体システムが壊れたのではなく・・・・笑

天体表現で、REVOLUTIONと言えば、公転する、回る・・・という意味です。

お分かりになりますか?

 ただ、反乱とか革命という記号の意味に情動をバタバタさせるのではなく〜・・・・
 何故?
 その音素を放つのか?

 革命がない・・というのは、進化がない・・という意味にもなるんですね。
 何故なら、回っていないのです。停まっているのかも知れません。

 あまりにも記号そのものに、過敏に反応するのではなく、
 何故?
 その音素の意味とするところを、よく理解した上、海外の言葉には、その言葉が生まれた意味があるので、まずそれを理解する事だと思うのです。
 REVOLUTION が百姓一揆^^みたいな反乱と同じように解釈されるのは、やはり〜〜〜・・・ちょっと〜〜〜
 ですね〜〜・・・


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from: 沙羅さん

2010年04月28日 05時07分10秒

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「Re:ラテン語」

でも〜、ほんとに不思議、、
ドレミの起源を、何故?
ヨハネ賛歌の、この一説に、矢を当てたのかしら?


汝のしもべが、弦をかなでているのです。
弦だから、弦楽器であって、吹奏でも打楽器でもなかった、、、
汝の妙なる業は、聖ヨハネの業の事だったのかしら?

聖ヨハネ、、、
そういえば、
フランスの教会や大聖堂には、聖遺骨が祀られているのですが、
あの、アミアンの大聖堂、嘆きの天使がある、アミアン大聖堂には、洗礼者聖ヨハネの頭部が、エジプトだったか?コンスタンチヌスだったか?運ばれていると書かれてあるのですが、、本当なのでしょうか?
ARC川沿いの、洗礼者聖ヨハネ、モリエンヌの教会には、聖ヨハネの3本指の聖遺骨だそうですし、、、他にも、聖ヨハネの聖遺骨はどこかに祀られているのかしら?

ホンマに、フランスは、不思議な国です。
聖母マリアの出現回数が一番多いというのも、不思議な感じがする。
ダヴィンチが愛したであろう、洗礼者、聖ヨハネなのです。

 ドレミの起源


 ドレミはラテン語の聖歌(グレゴリオ聖歌)の「歌詞」から採られています。 原典はカトリック教会での「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祝日、6月24日の第二晩課の時に歌われていた「ヨハネ讃歌」の歌詞の「一番」です。 

Ut queant laxis resonare fibris Mira gestorum famuli tuorum, Solve polluti labii reatum, Sancte Ioannes.

(汝のしもべが、弦をかきなでて、汝の妙なるわざをたたえ得るように、このけがれある唇の罪をのぞかせたまえ、聖ヨハネよ。)

 この太字で表されたところから「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」という名称(音名・階名)が採用されたのです。 最初の「Ut」がどうして「Do」になったのかは知りません。 しかし、フランス式楽典では音名はそのまま、ut re mi fa sol la si です。 





ヨハネ賛歌 (音部記号 F (へ音記号) が第3線に)

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from: 沙羅さん

2010年04月21日 22時14分21秒

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「Re:Re:ラテン語」
突然ですが、
 
 根をはる、
 根を生やす、、
 
 の 根 を、

 フランス語では、 RACINE ラシーヌと言います。

 R の発音と、L の発音は、

 全く違います。

 ダと、ズ の差と同じくらい違います。

 それなのに、
 それなのに、
 日本語だと、

 ラ行でしか現せないのは、どうにかして欲しい〜!

 ですので、

 本当は、ラシーヌではありません。

 マ!そうは言っても仕方がない。。

 でもとっても大事だと思うので述べるのです。

 それで、この根を生やすという語は、
 フランス語は動詞の取るPRENDREを使い

 PRENDRE  取るプランドルRACINE  根ラシーヌ

 意味は、根づく
     人が、同じところ、同じ場所に、根が生えたように
     動かない。長居する。住む。代々動かないで同じ場所に
     住み続ける、、、、という意味なんです。

 そうすると、どういう事が生じるか?
 というと、

 RACISTEラシスト、RACISMEラシズム

 人種差別 という

 根というRACINE ラシーヌが語源です。

 知らない場所、知らない国、知らない人、知らない言語、知らない風習、、、、、全てを、自分とは違う物と、対象視しやすいんでですね。
 
 他者と自己との間の境界線は、この根をはる、という根<場所、>に拘るという事なんですね。


  他者を、自らの中に存在させようとするのは、
 同じ場所<点>に根を張るという行為とは、反対なんですね。
 人間が、何故?
 自分に拘るのか?
 という事は、結局、自分を存在させるのが、前向きか?
 後ろ向きなのか?
 時間を前に見るのか?
 時間を後ろをむいて見るのか?

 だいたい、2方向になりますねぇぇ、、

 それがどうのこうのではなくですね、、
 こういう事を前もって知るという人間を知るという事だと思うのですね。
 自分の知らない他者の集まる世界へ、溶け込もうと
 せず、同じ場所で、代々暮らしていると、人間はどのような事が
 起きるのか?
 というと、ロゴスサントリズム、自民族中心主義
 という中心が、自己内だけの出来事で、中心を取ろうとするんですね。

 根 RACINE ラシーヌ 興味深いですね。

 言語を紐解く、心理学のお勉強でした。チャン、チャン♪

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from: 沙羅さん

2010年02月20日 07時53分43秒

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「Re:ラテン語」
午前中にソシュールのモンブラン登頂を、
わたしは、仏語で、ASCENSION アサンションと
記載していて、フト思った事がある。

このASCENSIONは、宗教的意味あいは、
キリストの昇天 復活祭から40日後に当たる。
国民の祝日にあたる。

復活祭ニ関係するので毎年移動する移動祝日なのです。

同時に、山に登る、登山、向上、の意味もあるのです。

エレベータを、仏語では、ASCENSEUR アサンスーと呼ぶのです。
EUR ユーが語尾につくと、〜する人<役目>なので、

エレベーターは、昇る人(物、役目)という解釈なんでしょう。
語源は、ASCEN アサンなんでしょう。

ちょっと移動中なので、ラテン語の辞書がないけど、
この語源を考えると、先祖、血統の意味をする、ASCENDANCE
アサンダンスがある。

不思議だわ!

 気になる不思議な事は、
 去年、5月に、突然智ちゃんの婚約者R君が、「今からウエディングドレスを持っていっていいですか?」
<智ちゃんは、日本でまだ、お母様の看護に一日中病院にいる時だった。>
と電話をかけて来た日が、このフランスのキリスト昇天祭の休日だった。
 丁度、キリギスタンから来た、マキシムとダヴィッドが家に居たのだ。
 

 実は、この事を智ちゃんに日本に行った時話した。

 、智ちゃんから、急に様態が悪くなった、「明日日本に帰ります」という電話を受けたのが、5月6日頃だった。その翌日R君に彼女の日本に無事についた事を聞くために電話を入れた

もちろん 皆、結婚式の前にお母様が他界するとは思っていなかった。
何故なら、今までも何回か悪くなって日本に帰国するという事を繰り返していた。
翌日、当時の婚約者R君に、万が一の事があったら、一ヵ月後6月上旬に私は日本に行くから、ウエディングドレスをお母様に見せるために持っていってあげられるけど、まぁ、そういう事にならない事を祈ろうね、、というくらいの感じで、R君と話しをして切った。

ところが、突然、今からウエディングドレスを持っていくけど、ご在宅ですか?という質問なのである。

わたしだって、いつも家にいつも居るわけではないのです。

この急激に回るというのが実に不思議だ。
智ちゃんに話しても、
「R君は、すごく慎重に物ごと、順序よく考える思考の持ち主なんですよ。分からないです。何故?そんなに、慌てて突然当日の4時頃電話して、5時頃家を出て、沙羅さんの家に向っているんでしょ?
有り得ない、決定の速さで、 普段の R とは思えない、、と思ってました。それに、沙羅さんもわかるとおり、わたしお母さんの気持ちを気つかったでしょ?フランスにあるはずのウエディングドレスが、何故?日本にあるのか、知ったら、ヤッパリお母さんショックじゃないですか?お母さんは、絶対結婚式に出れると本とに信じていたんです。
何故? R君は、私とそこらへんの調整をしないで、まるで、絶対沙羅さんの家に持っていかないとならないように慌てて行動におこしたのか?分からない、、」

私達は、このアサンシヨンの休日に生じた出来事の話を不思議な思いで二人で長い間話していた。


人の潜在意識というのは、まるで普段の性格から予想できないところで行為に至っているような感じなのだ。
自分というのが実に曖昧であるという事なのかもしれない。

こうなると、他者の存在が絶対ひつようになってくると思うのです。

 ASCENSION アサンシヨンの音素から少し発展させてみました。

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from: 沙羅さん

2010年02月11日 02時01分43秒

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「Re:ラテン語」
ルン、ルン、ランラン♪

 たまに、ソシュールの事でも、・・・
 
 そうそう、暗号解読官という日本語の訳になっていた、
 ダヴィンチコードに出て来たSOPHIEソフィーの職種・・・

 この暗号解読は、CRYPTOクリプト+GRAPHIE書記法

 で、CRYPTEクリプトは、納骨堂、お墓、地下礼拝堂
 の意味です。古い大聖堂、教会の地下には、クリプトがあり、昔死者を祀ったんでしょうね・・

 ダヴィンチコードも、暗号解読にアナグラムANAGRAMME[単語の綴りを置き換えで違う単語をつくる>法を試みていましたが、
ソシュールが発見した詩的技法ですよね?

ソシュールは言葉の音、音律や音の対化の法則を詩学の中に
驚く発見、規則を見つけたんですね。
詩人がひとつのテーマを密かに隠しいれるという、テーマ語はほとんどの場合固有名詞であるそうなんです。愛するAIMERエメは、MARIEマリー[マリア)になりますし、音的断片とソシュールは名ずけました。

テーマ語の法則と対化の法則を、満足させたうえで、詩人は音律の作業に取り組むというのではないか?という文字の規則を発見したそうなんです。
そこで、ソシュールは生きた証人直接の証言を得る為に、イタリアボローニャ大学教授で、ラテン語の詩人である、ジョヴァにに問いンニ、パスコーリに問い合わせてみたらしいんですね。

パスコーリの詩中のアナグラムが意図的なのか?偶然なのか?
と言う疑問です。パスコーリからは、返事がなかったそうです。

このアナグラムなんですが、無意識分野と関係があるんですね。
しかし、この時期どれくらいの言語学者がフロイトに興味をしめしたかよく分かりませんが、
ソシュールの「印欧諸語における原初的母音体系にかんする覚書記』1878年での画期的な発表を終えた、ソシュールだそうですが、生きた詩人から回答を得られなかったのは、残念です。

サンスクリットのマントラの音を聴くと、この音的断片の断片が、あらゆるところに圧縮され、また転移として聞えてくる。

般若心経もそうですが、あれだけ頻繁に無を繰り返させる意味はなんでしょう・・・と一番最初に聞いた時に気つかされるんですね。

観音経の、「ねんぴーかんのんりき」もそうですね。

漢字の意味ではなく、音に含ませる何か、なんですよね〜

しかし〜不思議ですよね?
暗号CRYPTEは、地下納骨堂の事なんですね。
死者からの伝達なんですね。

その無意識行為を利用し
扇動行為を狙うのに、コマーシャルなんかがそうですが、
繰り返し、同じ事を言って<煩いのですが>、
無意識に、買いたくないのに、なんとなく必要と思わされて、スーパーの棚に、何回もテレビのコマーシャルで見た物品に手を伸ばしているんですね。

又、「安い!」という音素で、人の意識を引っ張るのはいいですが、
結局お金に執着させる行為に加担していますものね?



情報過多も煩いですし、テレビも何もなくてもいいかな?せいぜいラジオと新聞くらいで、と思ったりしている。さすがテレビは家族の反対にあってちゃんと動くのがあるのですが、

ヴィデオもDVDも壊れてから、もう2,3年たつけど、新しく買おうと思わないところが、ますます化石化しているような気がする。
まあ〜いいわ!、生きてる人間が訪問する回数が増えれば・・・
取り合えず、毎日なんだか、忙しいのです。

 

 
 

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from: 沙羅さん

2010年02月02日 18時23分11秒

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「Re:Re:ラテン語」
> しかし、最近よく思う事の一つに、
> 人間、経験してない事は分からない、、、という事なんでしょう、、という事を強く感じるのです。
>
> 経験、
>
> 自分がこの世に一人ではないという事
>
> 自分が、沢山の人達との、沢山の知らない人達との関係<因果関係、CAUSALITE,>の引き合いで存在しようとしているという途上にいる事、存在しよう、、、という事なので
> 存在している、、という書き方も出来ないんですね。
>
> 存在している====という表記だと、
> 既に自分の立つ位置は、今コミュニケートしようとしている対話者の人より、前<未来>になってしまうんですね。
>
> これは、哲学的意味あいのコミュニケートではないんです。
>
> つまりこのような他者との接し方をしていると、お仕着せとよばれるかも知れませんし、
> 人に何か、教えてあげよう、、という意識で接しているんですね。
>
> この、人に何か、教えてあげよう、、と思った地点で、
>
> 人<他者達は>自分が教えたいと思っている事に対しては、何も興味や知りたいという欲望も、何も無い、、、
>
> と、思った方がよいと思うのですね。
>
> というより、思う事もないのが普通なのですが、、
>
> 他者と自分は同一なんですね。
>
> 信仰を持っている人と信仰を持っていない人
>
> 表記の仕方を変えれば、
> 仏教徒とイスラム教徒も同一でなんら違いはない、、という次元に立って、言葉を話そうと存在しようとしないと、普遍性を含むコミュニケートは無理だと思うのですね。
>
> この教えてあげよう、、という意識は、すでに
> 平等意識が欠如しているんですね。
>
> 日本語で日本人と接すると
> よくこの感じを、感じさせられるので、
> これは、外国で外国人と接する時に大変注意しないと、ならないと思います。
>
> 何かを、信じる
> 何かに絶対価値観をおく
>
> この何かの何か、、、その信憑性や真実性を他者と問いている、又は議論するという事は、
> 同じ民族
> 同じ言語を母国語にする人達
> 同じ思考
> 同じ経験
> 同じ食べ物
> 同じ趣味
> 同じ笑いの接点
> 同じ怒りの接点
> 同じギャグに笑える事
> 同じ価値観
> 、、、、同じエトセトラ、、、
>
> このような、同じシステム世界の中で、コミュニケートを続けられる状態はやはりおかしい、、、と思いはじめると思うのですね。
>
> 何故なら?
> 言語に頼る、、
> という自分の意識や自我でもいいですが、
> ひとつの位置にじ〜っとして、コミュニケートしている自分<意識>を外から観ると、狭い世界の中にのめりがち、、
> 一点の集中世界にのめり勝ちの自分<意識>
> 一点の視点に集中し勝ち<意識>
>
> この意識のいる場所が動かない、、固定性、
> が偏狭性、、視野の狭さを生むと思うのです。
>
>
> ヴァレりーが言った、
> 「考える為には、ふたりでなければならない、、、」
>
> わたしは、この言葉が、結構好きなのですが、
>
> 哲学をスルという、孤立性、個の世界へ、個の接点に集中し勝ち
> の意識が向う流れを、いつも他者の大事な存在性へと気つかせる。
>
> 宗教の世界分布の数字は、この他者性、他者の存在性が原因なのでしょう、、と、思うのです。
>
> 自分が、すぐ怒ったり、嬉しがったりする前の地点に立つ
>
> この人は何故?
> このような事を私に放ってくるのでしょう?
>
> という地点に立って
>
> 例えば「ぁぁ〜、、この人は、わたしを、怒らせようあるいは、嬉しがらせようとと、こういう事を言っているのかしら?」
>
> という懐疑する瞬間を持つ事も出来ると思うのですね。
>
> そのような、思考のワンクッションを置く、他者との自分の関係
> を絶えず感じ観る。
>
> 放たれた言葉は、社会を前提にし、言葉は、ひとつの社会から分離不可能だといわれるからなんですね。
>
> という事は、多くの同民族=違民族、同類=非同類
> たちの間の、手探り関係、実際の交換、身振りの伝播などと
> 不可分であるのでしょう。
>
> 言葉をただの思考の表現、人間精神のそれ自身の表現という観方、人間観察だけに留まる、、という位置に留まるのではなく、
> また言葉を、コミュニケートの道具という、道具に力点を置き、人間がその目的に応じて、思うままに、その力点を自由な表現力、自由な想像力によって放つという表現だけの留まるのでもなく
> 又、物理的と心理的を、シニフィエとシニフィアン、、という表記によってコミュニケートの次元を語る事に留まるのではなく、、
>
> 自分の知らない第三者達<対話者の他者以外>の他者との言葉のコミュニケートを目指さないとならないのではないか?
> という地点に居ると思わされるんですね。
>
> ヴィトゲンの言語ゲームの地点は、あれはあれで納得できる次元であり、その位置に立ち、放つという役回りに尽きる事、、、
> これもある視点から観ると納得できると思うのです。
>
> しかし、地球は回る、、、時間を進めなければならないでしょう、、
> どの時代に生きた、どの歴史の中に生きた人達が感じさせられる、思わされるそれぞれの世界観の中で、生じてきた事、過去を懐古しているだけに留まるのではなく、、
>
> 今も地球は、回り続けている意味は、???
> そのような、位置に立ちながら、生かされる、、
>
> 考えるためには、ふたりでなければならない、、、、
>
> ふたり、、、、
>
> 人間は、結局、愛しつづける事<反対に愛との背中合わせ、憎しみを持つ>で、今まで歴史を生じさせてきたのであろうか?
>
> 誰かの存在や誰か魂との遭遇、再会?を求めながら、生かされて生きたり死んだりしているのかしら???
>
> そして、
>
> 他者を愛する事ができなくなった人間
>
> 他者を探し求めること
> も、他者を絶えず思う事もなにも他者を考えなくなってしまった
> 人間の魂だけが蔓延る世界観が生じる前に、多分地球自身は存在し続けないのではないか?とも思う。
>
>
> 最近、テレビのコマーシャルは、
>
> C'est ma terre
>
> 「それは、わたしの地球」という言葉を放ち、
>
> 地球と私個人の関連性を、唱えるコマーシャルが多い。
>
> MA マ わたしの、、
>
> という所有格でも、個人であるのです。
>
> そして、仏語を喋る人達は、全く違和感を感じない。
>
> わたし達 NOTRE の地球ではなく
>
> やはり、MA  わたしの地球、、なのですね。
>
>  コマーシャルという、外の人達のコミュニケートが、
>
>  MA わたしの地球 という表現に至るんですね。
>
>  これは、一見平坦な意味だと、個の支配欲的な即物的な表現ですが、これは、他国の外国語が、どの地点の次元で、コミュニケートしようとしているか?
> という基礎的意味が通じる底辺がないと、全くコミュニケートが出来ないんですね。
>
>  自我の位置、
>  自我の存在する位置、、
>  
>  この位置を絶えず、自由に動かし色々な人達とのコミュニケートを試みる、、これからは、そのような他者との間、、人と人の間、
> 空と空との間、時と時の間、、
>
> 記号、言葉にあらわせられない、人間の心や魂の位置する世界での、コミュニケートが出来るように自分の位置する世界から他者の位置する世界へと向う、、そのような勇気ある意識の姿勢が求められているような気がします。
>
> 自分自身へのこだわりも、自分を知るという目的の途上はいいのですが、
> ただ、、それだけでは、片手落ちのような気がするんですね・
>
> バランスを執る
> 中間を見極める、、という意味も結局はそういう事でしょう、、
> 単純に他者と自分の中間という意味ではなく、
> まず、底辺とするところには、複数他者との公約数を含むという自分の位置出来る、自分の存在しようとする、世界がある、、という処がまず、基本であり、スタートだと思うのですね。
> 他者と自分が同一でなければ、
>
> 他者は、自分に振り向かない、、という感じの次元です。
>
> 他者が歩調を無意識に近づけてくるのは、
> 他者の、能動意識であって
> こちらが威嚇して、他者を支配下に置くという事では決してありません。
> 他者は自由であり、自分にとっては、他者の自由は、絶対であるからでしょう。
>
> そのような、世界観で、孤立してしまうのは、自分には、他者にとって、意識を惹く魅力がない、、という考え方なんですね。
>
> 威力じゃなくて、魅力<日本語はあまりピンとこない>がないんです。
>
> 結局、人を愛すと自分を愛すは同じなんですね。
>
> 自分自身を、愛する事が出来なければ、他者を愛す事も無理だと思えます。
>
> 人や他者を愛す事ばかり、一方通行に、社会道徳通念を蔓延らすのではなく、
>
> 自分自身も愛す、、
> 自分を愛しいと思う事が出来る、、
>
> 人間を知るという事は、このように、言葉を知り、言葉の意味を知り、他者とのコミュニケートを心がける。
>
> 実践という事はこういう事だと思うのです。
>
> 少し、臨床心理学的見地から、書き込みしてみました。
>
>
>

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from: 沙羅さん

2010年01月14日 18時47分45秒

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「Re:Re:ラテン語」
「又ですかぁ〜?沙羅ちゃん」

と言われそうなのを、承知で、又同じ画や写真を貼りたくなる・・・という欲望が湧くのは、

分からないからなのだ!

何故?

ダヴィンチの最後の画が、洗礼者、、ヨハネなのか?

何故?

 洗礼者、ヨハネなのか?

意味が観得ないと、
 いつまでも、意味<CAUSALITE>を探している自分がいる。

CAUSALITE コザリテは、因果ですね。


 この行為の一旦が、何回も同じ写真を貼るという現れ方をしているんでしょう・・・
 と客体的に自分を外から観察してみたりする。

ダヴィンチは、生涯最後の、聖 ヨハネの日、
1518年6月24日

 「 わたしの仕事は終らない』と言ったのだ。

何故?・・・なんの仕事が終らなくて、何を、終らせたかったのか?
  ダヴィンチの希望、ダヴィンチの願い、ダヴィンチの欲望、
  ダヴィンチの未来への予見、、その橋かけの仕事とは、何?


 
  アンボワーズ城は、ロアール河沿い
  リヨンは、
  ローヌ河だ。


 6月23日と、1日違いねえ〜〜うぅぅん・・・なんでしょう




 
> Lyonリヨンの町に、PRIMATIALE SAINT-JEAN BAPTISTE
> 首座司教、聖 洗礼ヨハネ 大聖堂があるんです。
>
> 昔、このリヨンの大司教が全国の裁治権を実行していたらしいんです。
> 大司教と裁判官が一緒だったのでしょう。
>
> この大聖堂に、 I さんと入ったんです。
>
> 一通りみて、
>
> 小さなお土産屋さんを覗いたら、
>
> この CDは、 2ユーロでいいから、お買いになりませんか?
>
> と、見たら、確か?9ユーロくらいする CDを、買ってください・・・と、お土産屋さんのおばさんから述べてくる。
>
> その C D は、その教会の、コーラス隊が謳った宗教音楽と、教会の鐘の音が入っていた。
>
> 「まあ、いいかな??何かの募金のつもりで、その CDを買ってみた。
>
> しかし、お店の人が、値下げして お客に購入してもらうみたいな事は珍しい・・・
>
> でも2ユーロだけじゃ、悪いから、他にも、本だとか、カードも買ってみた。
>
>  その CD を聞いてみたのだ。宗教音楽は、ラテン語で書かれている曲が多いので、わたしもほとんど、聴いてて分からない。
>
> それでも、あれ?と思わされた。
>
> そのCDは、最初、リヨンの首座司教、聖、洗礼ヨハネ大聖堂の鐘の音が録音されている。
> 結構、気に入って、リピートして聴いたりする。
>
> そのあと、輪唱にコーラスが謳うのですが、
>
>  サンクト、〜♪
>  サンクト〜♪
>  スピリトゥ〜♪
>  スピリトゥ〜♪ Spiritu
>
>  聞えて来る。 
>  CDのジァケットを見たら、GIOACCHINO ROSSINI
>  の、ミサ曲
>  Cum SANCTO Spiritus なのでした
>
>
>
>  マキシムが、突然、クシャクシャのキルギスタンの紙幣を見せて、
>  天山山脈だわたしに紙幣を指してという。
> 彼は、同時に近くのイシククル湖の事もよくわたしに話してきた。
>
> 美しいイシククル湖を何度も話すので、WEBで調べてみた。
> 何か玄奘のアンディースを、秘めた透き通るような目の青いマキシム青年の出現だった。、、
>
>
> WEBから転記
> 玄奘三蔵は1300年前、遥かインドへ旅立った。途中、タクラマカン砂漠から万年雪の天山山脈を越え、多くの人馬を凍死させながらイシククル湖岸にたどり着いた。
>
> http://9.pro.tok2.com/~yucky/cyuouazia-ryokou-isikukuru.html
>
> 今、思えば、何故?
> マキシムが、 Eraの曲をよく聴いていたのか?
> 何となく見えて来る。
> Era,AMENOを検索すると、何故か?
> マントラやタントラ関係の曲がヒットしてくるのです。
>
> http://www.youtube.com/watch?v=VdoSGIy9id8&feature=related
>
>

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from: 沙羅さん

2010年01月13日 09時32分41秒

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「Re:ラテン語」

なんでもそうだと思うのですが、
 やはりオリジナルにちかづくという事は理解するのに
 必要と思うのです。
 
 ラテン語を読み意味がわからないと、聖書を理解した事にはならないのでは?と思うのです。
 ユダヤ教にしても、ヘブライ語が分からなければ、ユダヤ教は分からないと思うのですね。

 外国語も、その国の言葉を話すのと、その国の言葉を話す民族は理解するのは難しいと思うのですね。

 外国人にとって、日本語を理解しなければ、やはり仏教を心底理解するのは大変と思いますし、ラテン語、ヘブライ語が理解できなければ、その国の宗教もそれに付随した哲学も、理解するのは難しいのではないか?と思う事があるのです。
サンスクリットを読む意味があるように、
ヘブライ語を読む意味も当然あるのだと思うのですね。

結局、あまり他者や他宗教や他信仰を認めないという事は、ただ理解出来ない・・という自分勝手な理由づけではないか?と思ったりする。
 自分の主張がないというのではなく、他者や他の思考を完全に理解するには、まだまだ未熟である地点にいるという事なので、
そのような未熟な状態で、他者や他信仰を判断する事ができる位置に立てないのなら、判断を下す位置にいません・・・という事で良いと思うのです。

 とくに言語の問題は、大変むずかしい。

 思考は言語と言えるのですから、言語が違えば、当然思考そのものも違ってくると思うのですね。

 自分流に解釈出来ない事はないですが、相手が自分が解釈している意味を伝えたくて、のべているのか?
確認、了解をしなければ、ならないと思うのです。

精神、エスプリ ESPRIT

という言葉は、頻繁に西洋に居ると耳にする。

自由な精神とよく言うけど、
自由な心とはあまり言わない。

平等な精神とよく言うけど
平等な心とは、あまり言わない。

心、魂という言葉は、仏教では大変頻繁に話されるけど、
精神という言葉は、あまり頻繁に話されない。

何故?

心と魂

精神と別けて表現するのでしょうか?

一見、心も精神も曖昧で似たようなものに、思えるけど、、

それで、ESPRITエスプリという言葉は、三位一体の時期からクローズアップされ、精神を説く事は、大事な事である・・・・
と、普遍化しだしたのです。

ラテン語の、SPIRITUS スピリテュースは、吹く、SPIRAREスピラーレの派生語ですから、息を吹く、ピューピュー風が吹くの
吹くです。

精神エスプリの語録、派生語になる、息を吐く<吹く>擬声語はスピラーレ、と似た、ため息を吐くときフランス人は、「スピー」と言うのでやはり、
精神と、息をする吹くという言葉は、同義語だったのでしょう。

非常に興味深いのは、
魂アームAME のラテン語、アニマANIMA

魂と精神という核心の所在に触れる二つの語なのですが、

魂のアニマに、非常に似ている語句、動物アニマルがある。

ラテン語の生きている、ANIMALISだそうなので、
魂をもつのは、生きているものという事らしいのです。

ところで、人間は確かに元は類人猿ですから、動物に含まれるといってもよいのでしょうが、
やはり、何か変でしょう?
と思うのですね。

時間と空間の存在する意味は?、人間は、AME 魂を生まれてきたにも関わらず
高次の世界へと努力しないとならないという途上の努力を絶えず、求められていると思うのですね。
いつまでも、動物の生存競争と同じような類似の対峙世界と同じ事をし、他者を押しのけたり、排他したり、認めなかったり・・・・
同属で固まりたくなったり・・・ 悪までも、自立する尊重する個があり、その個の意思はたまたま、他者の意見に同意するという事なので、
意見や思考が同じだからといっても、結束を強めたりする目的の為なのか?、紋切り型表現の声援を送ったりするというのも、実は外延から見ると、あまりスマートな行為には見えないと思うのですね。、なんだか、他者からコバンザメ行為と見られますよ〜、
みっともない行為と他者は判断しているという事、自分では観じないんですね。
客体思考が必要だと思うのです


自分という個の存在を自分自身蔑ろに扱ってはいけないと思うのですね。
 
他者も、個の存在を、その人の存在であるという風に、尊重心を持って、心と接する、という感じだと思うのですね。


 精神 ESPRIT エスプリを持つのは人間だけという自覚が必要なのでしょう。

人間と動物は違うのだ!・・
むやみやたらに、低次の道に転げ落ちるような、高い次元から低い次元への帰属、はやく述べれば、無意識の悪の行為に、甘んじては益々、人間を昔の動物へと自ら貶めていると思うのですね。

アニマANIMA(魂)は、肉体の中に宿った精神の意味に留まっているのに対し、スピリトゥース[精神]の方は、むしろ、肉体と切り離された精神、さらには、神的な霊という意味さえも、思い起さすのが、このスピリトゥース<精神>だと思うのですね

ラテン語の宗教音楽を聞いていると分かりますが、

聖なる霊<スピリトゥース、サンクテゥース>
とは謳いますが

聖なる魂<アニムス、サンクテゥース>とは
謳いませんね。

人間は、動物とは違うんです。
何が?違うか?というと、
聖なる精神をもつからなんですね。

自分が人間に生まれた意味を探すのであって
自分は動物の進化した人間の意味を探すとは違うと思うのです。


Lyonリヨンの町に、PRIMATIALE SAINT-JEAN BAPTISTE
首座司教、聖 洗礼ヨハネ 大聖堂があるんです。

昔、このリヨンの大司教が全国の裁治権を実行していたらしいんです。
大司教と裁判官が一緒だったのでしょう。

この大聖堂に、 I さんと入ったんです。

一通りみて、

小さなお土産屋さんを覗いたら、

この CDは、 2ユーロでいいから、お買いになりませんか?

と、見たら、確か?9ユーロくらいする CDを、買ってください・・・と、お土産屋さんのおばさんから述べてくる。

その C D は、その教会の、コーラス隊が謳った宗教音楽と、教会の鐘の音が入っていた。

「まあ、いいかな??何かの募金のつもりで、その CDを買ってみた。

しかし、お店の人が、値下げして お客に購入してもらうみたいな事は珍しい・・・

でも2ユーロだけじゃ、悪いから、他にも、本だとか、カードも買ってみた。

 その CD を聞いてみたのだ。宗教音楽は、ラテン語で書かれている曲が多いので、わたしもほとんど、聴いてて分からない。

それでも、あれ?と思わされた。

そのCDは、最初、リヨンの首座司教、聖、洗礼ヨハネ大聖堂の鐘の音が録音されている。
結構、気に入って、リピートして聴いたりする。

そのあと、輪唱にコーラスが謳うのですが、

 サンクト、〜♪
 サンクト〜♪
 スピリトゥ〜♪
 スピリトゥ〜♪ Spiritu

 聞えて来る。 
 CDのジァケットを見たら、GIOACCHINO ROSSINI
 の、ミサ曲
 Cum SANCTO Spiritus なのでした



 マキシムが、突然、クシャクシャのキルギスタンの紙幣を見せて、
 天山山脈だわたしに紙幣を指してという。
彼は、同時に近くのイシククル湖の事もよくわたしに話してきた。

美しいイシククル湖を何度も話すので、WEBで調べてみた。
何か玄奘のアンディースを、秘めた透き通るような目の青いマキシム青年の出現だった。、、


WEBから転記
玄奘三蔵は1300年前、遥かインドへ旅立った。途中、タクラマカン砂漠から万年雪の天山山脈を越え、多くの人馬を凍死させながらイシククル湖岸にたどり着いた。

http://9.pro.tok2.com/~yucky/cyuouazia-ryokou-isikukuru.html

今、思えば、何故?
マキシムが、 Eraの曲をよく聴いていたのか?
何となく見えて来る。
Era,AMENOを検索すると、何故か?
マントラやタントラ関係の曲がヒットしてくるのです。

http://www.youtube.com/watch?v=VdoSGIy9id8&feature=related


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from: 沙羅さん

2010年01月03日 06時58分03秒

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「Re:Re:ラテン語」
MSG 845の続き


 そういえば、頂いた年末メイルの中に、今年の紅白歌合戦の赤組の
 トリは、

 ドリカムの、「その先へ」

    です。、YOUTUBEで聞いてください、、<なんでも、メイル書いてる時は、コネクトが多くて、
   聞けなかったら、フランスから探してください>という事だった。
 

  ドリカムというグループだか、個人の名前だか、全然
何も分からないけど、
 ドリカムと、その先へ、、を入れてヒットさせた。

 あぁぁ、、これは、
 まるで、超越 TRANSCENDANCE ですねん〜

「鼻の先で過ぎる「今|は、一秒前の未知 」♪ そうそう、、

そうやって、未知を感じる事が出来るようになるものね?

「明日の種を撒くのは、今日なんだ、」♪、

という歌詞もなんとなく、うなずける。

 撒いてると知らずに撒いている、、
 訳も分からず、自分の本能のアンテナが向いてる<SENS>方向を、感じとりながら、大陸を、歩き回る、歩き回る、歩き回る

まるで、サバンナで、妊娠しているメスライオンが、
外敵のいない場所をウロウロ探しているみたいだ、、、

土地に根づく、根を生やす、まるで自分の血を大地に根づかせて、いつか、又何百年か後に戻ってくるつもりなのだろうか?

いったい、何故?
、わたしはここに居るのだろうか?

そういえば、末娘が生まれた日は、
あの去年9月4日に行った、ブルターニュの、モン、サンミッシェルに、ミカエル天使が出現した、
日、10月16日だと言われた。
マジかしらん???

そのうち、家族で、マジに、「アダムスファミリー、フランス版」にでも出演しましょう。


http://www.youtube.com/watch?v=ruRLfCHKZTs

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from: 沙羅さん

2010年01月03日 00時16分58秒

icon

「Re:ラテン語」
気になる日本語

存在する

実存

とは違いと思うのです。

文脈でわたしが、使う存在するは、BE動詞 ETRE エートル
の方なので、

実存、EXISTER イグズィステ

と等しい使い方、等しい表現は出来ないと思うのですね。
実存は、存在ETREエートルを前提としていますが

存在エートルから、EXISTER イグズィステの

EX という音素は、外、という意味、
言い換えると、存在、エートルから、そのあるがままの姿から発してと言う意味、 
EX< 外>自らを高めて、より高いレベルに身を置く SISTITシスティトゥ
だそうです。

あまり、ちゃんと説明できなかったけど、、

存在する、エートル


実存は

仏語で、話している限り、全然違う感じがするんですが、
日本語の文を読むと、
時たま、同じ意味使いで使われているところが気になるのです。

超越は、TRANSCENDANCEトランサンダンスという言葉ですが、
この記号も TRANSという接頭語がついていますので、
〜超えて
〜の向こうの
〜変化して
という意味ですね。

この自己を超出するDEPASSEMENT デパスマンは、
超越 TRANSCENDANCEトランサンダンス
として同じ意味として使われているようです。

此処で気をつけないとならないのは、

倫理生活の中で自分で手に入れることよりも、既得の富の力を重視する、小市民の保守的態度に対応する態度が存在するのですね。

超出や超越を信奉する態度が異議申し立てるのは、このような態度だと思うのですね。
生活や行動がより高いレヴェルに上昇する動きだけが重要視されるのです。
よって、日常生活に追い立てられてる、一般大衆の問題意識からかけ離れていくというのは当然に思えます。

一般の人は、仕事をして、子供を育て、家庭の一員として、また社会の一員として個が成す共同体に組み込まれているのですから、
その立場や役割の上で、理解やコミュニケートをする事をせず、
訳の分からない、神がかった事を言ったり、予言めいた事を言ったりせず、健康で心身ともに健全な人として、存在出来る、、という方向にむける、、というのは、普通に思えるんですね。

言説は、どうしても人を選ぶと思うのですね。
対話者が分からない事、感じる事ができない事を述べていても確かに、両者は時間が停まっている間に存在するしかないと思うのです。

話して、分かればこれほど、簡単な事はないですし、本音を言えば、
本など読まず、自然の空気でも吸って自然の音でも聞いてる方が、よほど知覚感覚がするどくなると思ってたりするのです。

話がずれましたけど、自己を超出DEPPASSEMENTデパスマンするという事が、存在しようとする、そして実存 EXISTERと表記されるのですが、
形而下の世界で、名簿にある苗字を先生が呼んで、
「ハイ!」と生徒が応えるという意味の実存しているという解釈ではないんですね。
そして、この超出 DEPASSEMENTの条件である自由こそが、自由が選ぶ事物とは別に、
至高善をつくりあげていると思うのですね。
形而上世界の、価値に関する客観的規範が無い場合において、唯一の価値をつくりあげるは、超出自体そのものだそうです。

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from: 沙羅さん

2010年01月02日 08時24分48秒

icon

「Re:ラテン語」

  心や心臓は、クール COEUR

 これから、勇気 クラージュ  COURAGE

 カタカナで書くと、分かり辛いけど、

 R の発音が含まれているので、

 末尾にRがくると余韻を残すんですね。

 必ず、繋がってなにかが足かけとして、時間のつなぎがあるんですね。

 わたくしのHNも、SARAHなんですが、
 Hが最後につく意味が必ずあるんですね。

  次の時につながる、橋 なんですね。

 人と人の間、、、

 空の世界 ですね。

 音の」世界は、特に、はもりますから、
 綺麗な音素を放つように、
 気をつけないといけないと思うのです。

 記号上の安易な解釈に留まっていたり、大衆の笑いや受けを受けようと、安易に紋切り型流行語を放つのも問題に思えます。

 空には、生者だけが存在しているのではなく、死者が感じる、なにかも存在していると思うのです。

 生きの短い、スタンスの短い普遍性を呼ばない、流行を追ったような世間事に一喜一憂するというのではなく、
 もっと、先の長い、遠い未来を見ようと、心静かに出来ますよね?
そうしたら、何々が自分に合わないとか、何々が嫌いだとか、
何々に、馬鹿にされたとか、、
情動表現に至る事などないと思うのです。

対峙世界にどっぷりつかっているんじゃないでしょうか?
と思うのですね。

どうでも、良いと思うのですね。
何かを、取り省いたり、避けたり、嫌ったりする事で、自分の気に入るものだけ、自分に合うものを、選択するという導き方はないと思うのですね。
結局比べて、優劣をつけてるに過ぎないと思うのです。
他と比べなくても、
自分の信じるものはその長点だけ述べれば良いと思うのです。

何故なら、比べられる他を信じている他者の存在を考える事は、皆無らしいんですね。
このような態度は、厳しく見られていると思います。
我田引水説を、他者を押しのけて導く仕方は、あり得ないのですから、、

他者を、引き寄せる、自分の言説の真実味を他者感じない魅力に欠けるという事なので、その魅力に欠ける理由を他者に負い被せて言い訳がなどないと思うのです。



「私は、反対だ」EGO CONTRA エゴ、コントラ

という定式は、本能的に、わたしは、反対の立場に身を置くとか、わたしは、わたしの気に入るようなものは見出せないという具合ですね。

自然発生的な傾向や、個々のイニシアティブに対して、これらのものは、導かれたり利用されたりするというよりも、むしろ、押し殺されてしまうのだとおもうのですね。

性格や、本性に対して、こうしたものは、その長所をほめそやされることはないのに、欠陥は罰せられるのでしょう、、


自然発生的な傾向というのは、

純粋、無垢、、といった、美や善と言ったものに対する、感覚の鋭さ、だと思うのですね。

他人の心にある、邪な心を見抜いて、自分にも同じ感情を見つける事があるといって、感動して、他者と共感することで、徒党をくむような他者との繋がりを求めててもしかたないと思うのですね。
弱さがいけないと述べているのではなく、弱点で、他者との繋がりを強化する、、という社会の土壌つくりを温床してはいけない、、と思うのですね。

そこに、自分自身の勇気であるとか、自分自身に対しての問いがあると思うのです。

自分自身に問うのであって、他者に問う事ではないでしょう、、という問題が沢山あると思うのですね。

心が、あるというのは、勇気を持たされる、
という事につながると思うのです。

子供に、「子供の良き感情を、疲れさせぬようにするために、良き感情を、こうしてはいけない<PRIVATION>と言うのではなくて、
こうしなさい<ACTION>と、言うことによって育てる」という事を同じだと思うのです。

なにもかも、私は反対だ!EGO CONTRA
という主義の人は、禁じられていることにより、多くの魅力をかんじさせることになる場合が多いですし、禁じられることによって、
ある安心感を得るのだと思います。

この状態がけいぞくすると、意気は消沈させ、やる気をなくさせることになるんですね。
なぜかというと、
自発的な動きが抑圧されると、実りをもたらす行動をおこなった場合以上に消耗するからなんでしょう。

うまくいかなかったという感情は、落胆もたらす、
DECOURAGER <DE+COURAGER<勇気>>
は、
モラルという言葉から派生した、DE+MORALISERという動詞は、モラルから引き離す、つまり堕落させるという意味ではなく
勇気から引き離される、つまり、落胆させる DE+COURAGER>という意味なんですね。


倫理的価値の特性は、意識のあらゆる能力を、否定から肯定へと、このように置換させることから成り立っているのでしょう。この置換に置いて、絶えず、否定に変わって、肯定が、我々に拒絶されている善のすべてについての考察の代わりに、我々を招いている任務についての考察が置かれている。     {価値論、}ラヴェル




 

 

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from: 沙羅さん

2009年12月21日 21時07分28秒

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「Re:ラテン語」


日本語の  「信じる」の  信 は、

 にんべんに、 言う 言 なんですね?

 フランス語の信じるは CROIRE クロワールです。

 十字架又は、十字 は、CROIX クロワ です。

 しかしです。
 
  フランス語の CROIRE クロワールという動詞は

  思う という使い方をも含んでいるんです。

  「思う」  

  と

  「信じる」

  と表現するのに、CROIRE という同じ音素の動詞を
  使い分けするべきでしょう、、という使い道、表現の仕方、
  その音素の現れ方、時間の途上に正しい述べようとする意味が含まれるんですね。

 何故?

 このような事が起きるのか?

思う
という事は、どういう意味で使い、

 信じる という意識は、どのような作用を言うのであって、
 思うと信じるという二つの意識の違いをはっきり分かり、意識して使い分ける、という行為に至る。
という仏語を日常会話、、つまり母国語にしている人達の思考回路を探求してみる

 自分自身の心の奥を見つめる
 という思考があっての事だと思うのです。

 幸い、日本語の、 思う の 思 には、心という字が入ってい る。

 しかし、信じる という意識は、心作用に思えるのに、
 心ではなく 言うという動詞が入っている。

 不思議だわぁ、、、

 同じく、時々、縁起や因果という音素を、安易に放って意味を通じ合わせようとする人がいるのですが、わたしは、時々

 心の中で、 et alors? エ!アロー???
という接続詞的な表現を放っている。

 ET ALORS は、 それで?  とか、 だからと言って何を言いたいのですか?

 という接続詞が必ず続く、、

 例えば、
 「人々の抱える問題を、苦 とするならば
 どちらにしても、縁起が生じると考えるのです、、、
 であったり、
 それは因果の関係で、人々は悩む訳です。」
 
 という、会話で停まっている。

 因果は、縁起には、どうあがいても太刀打ち出来ませんよ、、、、

 という意味あいが含まれて意味を通じさせようと
 しているのである。

 しかし、これでは、普遍化には繋がらない、
 ある一部の世界では、それなりの順繰りの流れを感じ観る事が出来る人や世俗的な世界とは個人的に縁を切ってる何かの信仰を持ってる方に限ってしまう。

 人々が求めているものは、そういう神がかったものではない。

 人々が求めているものは、人と人と普通の幸せを感じる事ができ
 心が通じ合い、働きたいという気持ちにさせられ、働く事に満足感が得られ、仕事場の雰囲気、それ以外の場での人々との出会い、人と恋ができたり、喧嘩したりしながら、
 人の心に好意を感じ、人を好きになり、喧嘩シタリ、その繰り返しをしているうちに、家族を持とうという気持ちになり、自分の子供という他人と暮らし、年代の違いを感じながら、自分の存在を感じる事が出来る。他者との交わりの中にあるのではないでしょうか?

 人々が健全な精神や心身をもてなくて、どのように
 健全な国を作れるのでしょうか?

 と思うのですね。健全な国に住み家族を養う、、健全な心身を持つ民族が、つくる国にする事がまず第一であって、

 健康な心身というのは、一番大事な事に思えるんですね。
 
 何故か?
 個人、個人を救えないのは、個人の心に問題がある、、
 と、個のつながりだけを強調して、

 いったい、その個が住む土壌の質という事を考えるという
 全体を把握するという見方が生まれない、、

 これは本当に、ヨーロッパ的思考を持ってみると不思議なんですね?

  
 たとえ不思議な体験や、超現象を体験したからっといって、
 その事に導く思考や概念をすぐ正しいとか、真理であるという
 風に安易に判断しますでしょうか???
 とも思うのですね???

 自我 でなければ思惟でもいいのですが、
 
 個人的な体験でも、又数人で超現象を体験しても、どちらでも
 良いのですが、
 結局世界の大多数の人々というのは、
 そのような個人的な体験には、興味を示さなくなって
 しまっているんですね。いくらでもそのような体験を述べる方はどの信仰か?という事にとらわれず、いらっしゃる。
そして、
 客観的な体験を同時にできるのか?という大事な点を観ているからだと思うのです。

超現象は主体が体験しているはずですので
今度は、自分が他者のなかに存在できるというのは、客体思考を喚起力させ、バランスをもった存在の仕方、存在のあり方を問われているからであって、個人的な能力は問いていないんですね。

全てが、存在の仕方、あり方、現れ方、、なんだと思うのですね。
そこには、客体、客観的見方によって世界と自分のバランスを図る事の出来る、普遍性を観る事のできる
力があると思うのですね。
その普遍性を観る事の出来る事、、、
それが哲学をする
哲学を身につける、、という事として表現されていると思うのです。

 ベルクソンが確かどこかで述べていましたけど、時間があったら調べて見ます。、

 これからの未来に生かされるという人達は、他者の中に存在しようとする、複数他者と個人の
 間、、つまり、人と人の間  に何か共同に生存しようとできるコミュニケートがあるのではないか?よ探していると思うのですね。
他者を排したり、他者を押しのけたり、他者の信仰や宗教を批判したり、認めないという行為上においては、もう世界の人達の視線が向けられているという事だと思うのですね。

つまりそのような、他者批判や他者排除の世界においては、どうしても、自分の事を認めてもらわないと存在できませんから、返って、自分の事や自分の信じている信仰や宗教や哲学を毎回、毎回説明したり提示しなくてはならなくなってくる、、という状況に至っているのだと思うのですね。

結局、構造の中で生かされてしまっているんですね。
これも、因果とか縁起と言ってしまえばそれまでですが、
その地点、時間停止の表現をしてては、仕方ないと思うのです。

人の心が何に対して、不安を感じ、何に対して真、善、美を感じたりするのでしょうか?
人、それぞれ違うでしょう。
しかし、人の心が健康になって、人と人との交わりを求め、人々が幸せになって、国や民族が未来に向って生きようという気持ちや欲望を持たされない国にあっては、何か?
おかしいと思うのですね。

おかしい原因は?ときかれ、ただ宗教(信仰>離れと簡単には述べきれない、何かがある、、という世界の人々の疑問は心にあるのだと思うのです。
そのような、疑問や懐疑している世界中の人々に向って、
「何かを信じましょう!」、、的言説は、やはり人々は拒否反応を示しますし、真実味が不足しているんですね。
しかも、何かを信じている人がその信仰や宗教や民族的な思考を述べても、人々は、その人個人の情報に意識がいきますから、
自分が良しとしている思考を、「皆さん!善の思考です。良いとされる信仰です」、述べるのは全くもって当たり前で自然な行為ですので、その地点で情動をなびかせる現象はもうないでしょう。

人々はもっと先を観ている、という事なんだと思うのですね。

それだけでも、分かれば、詰まらない争い事もなくなると思うのですね。

少し、視点を向ける先、スタンスの長い視点、、という観方でみると、詰まらない争い事は、どうでもよくなると思うのです。
むしろ、人々の心や気持ちが反応したり靡くのは、美しい心作用というような人間的で自分の利害関係や立場など全く考えない、
言葉を介すコミュニケート外の世界に何か心が感じる真とするものが存在するらしいんですね。

 



 
 




 

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from: 沙羅さん

2009年12月16日 00時39分19秒

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「Re:Re:ラテン語」

この像を見て、何方かすぐ分かる方は相当の
 フランス通でパリにしょっちゅう来ていらっしゃるでしょう。

 何方か想像つきますか?

 フランソワ、グザヴィエ さんです。

 と、仏人に言われても、
 ピーンと来ないんですね。

 そして、

 あまりにも、「偉大な人なのに、貴方はこの人を知らないの?
 名前聞いた事ない?」風の

 フランス人で信者でもない普通の女性の知人の反応に、

 ハタ?

「 誰だったかな? フランソワ、グザヴィエ、? ハンサムねえ」

 と、彼女が私のもどかしい反応にガックリしているので、
 よく考えてみる。


 ハ!、、、そうだった、

 音素がいけない。

 あの長崎カステラ(まだ言ってるのか?>で有名な、

 フランシスコ、ザヴィエル じゃないか、、、!

 自覚する。


 

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from: 沙羅さん

2009年12月15日 19時33分55秒

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「Re:ラテン語」


音素というのは、すごく重要だと思うのですね。

 潜在意識に関係しているからなんです。


 前にも、述べましたけど、

 何故?

 日本語は、 信 と 心 と 真

 が、同じ、 SHIN という音素になってしまったんでしょう?

 何故?

 何でしょう、と思うのです。

 この3つを、混ぜて扱う危険はないかしら?

 例えば、 「信じる事は真だ!」みたいな、意識を無意識に引っ張らないかしら?と色々考えるんです。

 「心は、真だ!」は何となく、頷ける、、、

 ラテン語が基礎のフランス語の 心 は、COEUR クール
なのですが、
 この音素、COEUR クールと同じ派生語なんですが、
 勇気 COURAGE クラージュなんですね。
 ミカエル天使は、魂を量る最後の審判 で地獄か天国行きかを魂の重さを量る、精神科医の記号と同じPSYCHを頭にする、
PSYCHOSTASE や PSYCHOPOMPE
魂の裁量 の役目として、又は、
判断、裁判ジャッジマンを、魂の裁量の役目のミカエルが裁判所の銅像に立ったりするのは、
この心は、勇気に繋がるという意味があるんですね。

勇気は心の産物なんでしょう。心がなければ勇気も起らない、、という力動かの方向を見て言葉はその含む意味あいを音素によって感じて、人々にコミュニケートされてきているんですね。

ですので、例えばフランス語で信仰は、CULTE カルトですね。
フランス語の正しい音素は、クルトなんです。
この信仰の派生語は、文化、CULTURE クルテュールですから、

文化と信仰の結びつきが濃いという意味合いで使われているので、
信じる事が=真、、、という意識に直結しないんですね。

言語が思考を象るというのは、こういう事をいうのだと思うのですね。
まあ、信仰を文化と捉えると、そんなに、口角泡飛ばして、他者と争うという事に至らないんじゃないか?と思うのですね。

C'est saint Michel qui pèsera les âmes lors du Jugement dernier et qui emmènera les âmes des élus au Paradis. On dit qu'il est psychostase et psychopompe.

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from: 沙羅さん

2009年12月15日 10時33分14秒

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「Re:ラテン語」
昨日は、バッハの愛のアダージヨなので、今回はこれ!

ルーブルにある、カノヴァのプシケPSYCHE<霊魂の化身、エロスに愛された美少女)です、

天使の口づけによって、一度死んだ人間を生き返らすという
伝説のプシケ PSYCHEですね。

息を吹くという吹くという動詞の音素が、SPIRAREスピラーレ
ピゅーピュー息を吹くと、
精神スピリットゥースSPIRITUSは、同じ派生語からきているからなんですね。心臓が止まった人間を、蘇生させる、意味的には死んだ人間を、生き返らすというという時にも、
RE ANIMER レ、アニメ
という音素でして、REは、再びとか再度という意味のREでして、アニメは、魂 の意味、ANIMA アニマ からきてます。

口づけによって、息を吹き込み、生き返えらす、、という意味なんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%BC


そして
PSYCH(プシ}という記号が前につくと、霊魂
(精神)の意味ですから
精神分析 PSYCHANALYSER プシカナリゼ
精神科医 PSYCHIATRE   プシキアートル

精神関係もすべて、このPSYCHという語句から現します。


 神となったプシューケーは、「愛」を支えるのは見ることでも確かめることでもなく、相手を信じる「心」である、と恋人たちにささやく役目を担うと言われる。また、試練の過程で人間として初めて生きながらに冥界の川を渡ったことから、その名は「魂」を指すことともなった。なお魂の象徴は蝶である(よって蝶もギリシア語でプシューケーという)ことから、美術作品ではしばしば背に蝶の羽を持つ姿で現される。


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from: 沙羅さん

2009年12月01日 23時40分21秒

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「Re:Re:Re:ラテン語」

 あ〜・・・・それで、人間は皆弱いんですよね。

 何かを信じないと、表現できなかったり書けなかったり探求できなかったりするんですよね。
 叉は
 同時に何かを愛さないと生きてゆけないんでしょうね?

 仕方ないんですね・・・・それを辞めなさいというのは、生きるのをよしなさいと言ってるようなもんですから・・・


 まず、人間が生きる[存在する}とは何ぞや?
 ですね。

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from: 沙羅さん

2009年12月01日 23時16分43秒

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「Re:Re:ラテン語」
Religio レりギオ

 これが、ラテン語で表わす宗教という意味だそうです。

 ちなみに、音素的に類似する単語は、 Relegere レレゲーレ[思い浮かべる}
 Religare リガーレ
 は
 フランス語の 結びつける、結ぶ Relier ルリエという単語の基だそうです。
 縛ると言う仏語の動詞は、LIER リエールですから、

 RE が 前頭に来る時はかならず、立ち帰り、考察の対象となる事柄への精神の注意深い立ち帰りを表わしています。

 前にお話しました、熟考という意味のフランス語 レフレシー
 REFLECHIR の RE と同じ立ち帰りです。

 FLECHIR フレシーは、曲げる、筋力のたわみ、屈折、屈曲作用
 の意味ですから、
 簡単にのべれば、柔軟な思考という意味なんです。
 
 固まらない、拘らない、執着しない・・・等々という意味合いで、柔軟で臨機応変にスパッスパと縦横無尽に、さっさと、機転が利き、多くの異なる立場の存在性を含むような思考という事なので、どうしても、自分自身を中心に考える事は出来ないんですね。

 昔は、通じたかも知れませんが、今は普遍性を考えれば昔ながらの思考は、頭打ちという現実に会うと思われます。

 世界が求めているのは、新しいものを探しているという事だと思うのですね。
 自分自身が変らなければ、存在し続ける事ができないのだと思うのです。
 諸行無常の響きあり・・・天下平家もガタガタ・・・と転げ落ちますし、新しいものを、人々は求めながら生きるのでしょう・・・・歴史が、示していますね。

 でもそれでも、UNIVERSEL 宇宙、と普遍が同じ音素なのは、不思議ですね?

 UNI + VERSEL ですね。

 ふう〜〜
 何回か記載して述べてますがぁ〜・・・・

 UNI は、ひとつですね〜〜〜!!!ユニなんです

 VERS ヴェーという音素は、仏語は、

 ムッシューOOさんの家の方ーー> VERS MR OOさん 

 郵便局の方向  VERS LA POSTE ヴェーラ、ポスト

 という使い方、表現の仕方なので、

 一つになる方向ーーー>宇宙、普遍、、、という意味なんですね。
 
 つまり、言葉は、動的なんですね?

 何故?宇宙と呼ばれるのでしょうか?

 何故?普遍と呼ばれるのでしょうか?

 それで、フランス語の、結びつけるRELIER ルリエールは、ラテン語の宗教という語源からの発生なんですね。

 前に、サンテクジュペリの星の王子様でも、はなしましたが、愛の定義を説くキツネは、王子様とキツネの懐くという絆をつくる
関係に、愛の意味を伝えようとしますね。
 
 原文は、APPRIVOISER アプリヴォワゼ、という単語なので、犬を飼うという時もこの単語を使うのですが、

これだと、愛の定義の能動的な関係を想像できないので、日本語翻訳者は、このAPPRIVOISERという単語を、仲良くする・・と訳しています。
真の愛に従属関係はあり得ませんから、平等の人間関係(男女)の上でしか成立しないはずです。なぜなら、お互いが未来に向けて必要な存在の在り方をしているという途上の上のお互いの存在であるはずなので、どうしても、時間軸は未来に視差を向けるはずなんです。その意味で、
サンテクジュペリの本の訳は大変ある意味難しいですね。

キツネと王子の関係を、、<懐くなずく>、という関係で表現する日本語訳者には関心しました。立ち帰りをすれば、懐かしむ・・という漢字の読み方になるので、愛する者を失えば、当然懐かしむという意識は生まれますから・・・

ところで、哲学は、この 愛と信 の意識が非常に類似しているという事で何回もデイベートの議題としてあがりますね。

日本語は、このにんべんの人と言う字に、言うという記号が、信じるの信なんですよね〜・・・

 信ずる者は救われる・・・ということわざは、他の外国語にはあるのでしょうか?
 よく分かりませんが、あまりにも安易に信じる・・・という意識を助長させてしまうのは、信,真、心、が何故か皆同じ音素なんですよね?

 信じるを、CROIREクロア 十字する・・・という音素だと、

 わたしは十字する<信じる>
 わたしは、OOさんを十字する
 わたしはOO信仰を、十字する
 わたしは、OO先生の言う事を皆、十字する[従事?}

 という音素クロアートル、<CROIRE>を、日本語の使い方を反対に直訳すると、
やはりおかしいですよね?

 でも、信じるだと日本語はおかしくなくなるんですよね?

 アランのいう通り、言葉の限界は、ほんとに思考の枠ですね。

 



  

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