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「哲学〜真理〜探求について」

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from: めるろ〜001さん

2009年02月16日 12時21分44秒

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沙羅ちゃんとボティサットヴァ

沙羅ちゃんの専用コーナーを作っておかないとと思い、スレッドとして作製いたしました。ご自由にご投稿お願い致します。

沙羅ちゃんの専用コーナーを作っておかないと
と思い、スレッドとして作製いたしました。

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from: 沙羅さん

2009年06月25日 18時16分49秒

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「Re:Re:沙羅ちゃんとボティサットヴァ」

わたしは、この前日本の実家に帰るのに、あるJRの駅で降りました。

近くの地元中学生の生徒会クラブと書いてあるパンカードを持っていて、

駅で乗り降りする乗客にむかい

「世界の子供に笑顔を・・・・・・、ユニセフ募金、よろしくお願いしま〜す」

と15人くらいのグレーの制服を着た学生が募金箱をもって、募金を募っていた。


そしたら、隣に居られた、ご婦人2,3人が、

「世界〜といってもねえ〜〜〜?.世界の子供より自分の国の子供助けないとね〜?」

と言って、隣にいる中年のご婦人の同意を得るために、話しかけてた。
隣のご婦人も

「そうよねえ〜?世界より、やることがあるわよねえ〜?」
という会話を、たまたま、聞こえてしまったのです。


これって、外国では普通の感覚でしょうか?

つまり
世界の定義が自分と対峙しているところに、実は不思議でならなかった。

わたしは不思議に感じると、すべて仏語に訳してみてフランス人にこのような会話が仏語を母国語とするフランス人の日常会話で成立するのか確かめてみる。

世界というのは、どのように解釈しているのでしょう?

自分達の立つ位置は、世界の一部なのか?それとも、世界と離れた自己の世界であり、世界と自分の国はまったく別の世界と解釈するのか?


今、一度、海外に出られる語学堪能な方は、他者と自分の位置関係、を外国の方たちはどのように捉えているか?
確認してみる必要があるように感じます。


前に、

I さんがフランスのある地方の教会の中を見学したくて、中に入ろうとしたら、扉が閉まっていた。・・・という話をしました。

地元の人に、

「教会の扉が閉まっていて、見学できないのですが?」と聞いた I さんは、

「貴女だけが、入れないのでは、ありません。私たち皆が入れないのです」・・・・という返答に目からうろこであった・・・・・


と感想を述べてきた。
地元のおばさんは、いかにも日本人にしか見えない I さんを
私たち、、つまり  WE とみなしている。しかもごく自然に、
むしろ無意識に、日本人とかアジア人であるとか、そのような判断がされていないのである。

「そんな事ありえる訳ない」、、という反論があるかもしれないけど、これは、確かに、彼らの空間を見る層の視点はそのような、人間の外見的な特徴に向かっていない、、というのがわかるはずなのです。

「彼らには、日本人としての、わたしは見えていない。」

見えているのは

人間が動いている、、、くらい
人間が居る・・・・・・くらいの感覚なのです。

他者と自分の関係は、自分自身が空の世界ではどのように
他者から観られているのか?

という感覚をつかむのに、他者の存在性は絶対不可欠なんです。

普遍性はこのありとあらゆる他者の中に自分を介す事で、
自分自身の真の姿が観得て来ると思うのです。


色々な形で、観得て来る。
つまり、
皆が皆、
自分を同じように解釈したり理解したりしているのではないというのも分かってくる。

同じ人ばかりの対話でおなじ層でのコミュニケーションばかりするというのも、
類は友を呼ぶでしょうが、

最後は、普遍性を観るという視点からいえば、広がりはないと思うのですね。

どちらにしても、普遍性というのは、同じ事をしていても仕方ないと思うのです。

万が一その人に普遍性の言葉を放つ力があれば、おのずと、知らない世界やしらない人達の間でさ〜と、扉が開くようにして、違う世界が現れるはずなんです。

別に何か難しい言葉を放つから、、という行為上の事ではなく、
空間に存在するというのは、その人が立っているその場所だけが、
さっと、違う異次元の世界のような、不思議な感覚を持つのです。


電車に遅れるとか、何か買わなきゃいけないとか、
子供に頼まれた事をしなきゃいけないとか・・

そのような日常茶飯事の目的事で頭がふりまわされているのではなく、
また、挙句の果てにそのような義務感がうっとうしくなったりしてくると思うのです。

怒られそうですが、電車に遅れたら、次のに乗ればいいし、
買わずにいれば、他のもので代用すればいいし、
子供に頼まれたのを忘れたら、忘れた・・と正直に言えば言いし。。。そしたら、子供はもう親に頼る事はないのです。
頼られる前に築かないとならない関係、人と人との間、、間を感じる事ができれば、
むやみやたらに、親に簡単に頼る子供はいないとおもうのですね。

人と人との間の空を察すれば、どの人も一生懸命なのだから、自分で出来ることは自分でしようと、思うと思うのです。

人と人との間を察する事、、、

が重要だと思うのです。

記号や、字を読む事だけではないと思うのですね。

般若心経の最初の部分には
 
 五蘊 という字がでてくるのですが、

宮坂氏の解釈では
蘊 という漢字は、「たくわえ」「あつまり」を意味し

サンスクリットでは「スカンダ」だそうです。本来の意味は、
木の幹だそうです。

この五つは

般若心経にでてくるのは、「色」「受」 「想」 「行」 「識」
で、五蘊があるから、自分という存在は確かめられるそうなんですね。


深遠な般若波羅蜜多の修行をしているとき、観自在菩薩は五蘊があ
り、それは自性空であると見極めた、、と書いてあるようなんですね。
ところが、
たとえば、考えると手足や髪の毛が自分なのでしょうか?というと、これもおかしい解釈になってくると、宮坂氏は述べています。


私には、足がある、、とは言っても、私は足であるとは言いません。

体は自分を自分たらしめている根拠に違いないのに自分そのものとかんがえるのは無理であるようなんです。
感覚も同様で、
私は苦しい という時、
わたしは苦しみである・・とは言わない。

宮坂氏はもちろん日本語で表現されているのですが、
これを仏語になおすと、実に
フランス語には便利な CA 抽象代名詞 が頻繁に使われているので、
このような日本語文体にはなりにくい、、という言語の仕組みの違いが観得てくると思うのです。

どれが正しいとか、どれが誤りであるというのではなく、その言葉言葉で、受動態、能動態、主体、客体色々な変化をさせながら、コミュニケートされるという幅広い理解の仕方が身についてくるのです。

般若心経に関しては、宮坂氏の言葉を借りると、五蘊自体は日常レベルにおける自己の総体に違いないのですが、
感覚器官のわたしには足がある
私は苦しみがある
・・という表現をしても
髪はわたしである・・
または苦しみは私であるとはのべないところからみると、
やはり5蘊はあるでも、
体もない
感覚もない、
意識もない
なにも判断しない、、、どこに自分があるのでしょう?

途中から般若心経は、、無、無、無、無〜のオンパレードなんですね。

まるで、述べている事は理解に苦しむと思うのです。

いきなり、「お前は存在しないのだ!」といわれるとまるで、主体性のない人間ができあがってくるような感じもする。
色々考えると、やはりさっぱり分からない、、というのは、

これは日常レベルでの、無我の類ではないと思うのですね。

つまり、さらに段階を上り、記号や字という唯物の解釈をしているというのではなく、むしろ記号や字を超える層での体験や体感を、なんとか近似値にちかい記号に訳されているというのが観得てくると思うのです。
しかもそのようなある体感を経験されている方の表現力もまちまちです。

般若心経の「照見する」とは、言語では「観る」と同義だそうです。

ただ、やみくもに、漫然と観ることではなく、山の上に立って眼下を観るということなので、先に生じる事がちゃんと観えていれば、自分自身の行為じたいに没頭してしまい、その行為が、周りからみると、普遍的ではなく、一部の世界での出来事に観得たりするとおもうのですね。
全体世界の出来事というのは、
自分も含む、世界の出来事流れが観得るという事だとおもうのです。
時間を後から追う発信ではなく、
時間を越える発信行為の中、またその発信行為の思惟を見抜く力、または洞察力をもたれる方たちとの世界での交信は、と、その体感や体験がなされてない方達との交信というのは、
コミュニケートがなされないはずなんです。

そのうち高次の方は、抽象表現での発信するのみになられますし、普遍性に欠けてくる
、先が観得るので、低次世界の記号解釈のみの方達にとっては、なんとなく不安になる存在と化す

抽象表現をああでもないこうでもないと、型はめしながらなんとかコミュニケートを取ろうと、徒労に終わるのですねえ〜・・

記号を超えるところでの抽象表現に対する応答は、型はめは出来ないと思うのですね。
むしろ、型はめ」しないとコミュニケートがとれない思考の癖があるという事を他の方に分からせてしまうというような空の無言の動きが生じてしまうと思うのです。
心というつかみどころのないものを表現しているはずなんですね。
心は時間と空間のない世界にいるからこそ、昔の人間の活字を書いたり、すでに亡くなった人の世界から観ている自分
つまり、観る対象と見る自分が同一になる経験から放つ事ができるのだと思うのです。
それは決して、観る対象と同一になることは、自分がそう思うという主体発信ではない時の発信であるという事、
も分からないと
コミュニケートが全く通じないようなんですね。

難しいけど、実にわかると複雑怪奇ですけど、
結局心は自由自在になりたがっているというのを感じる事、、、
そこの地点だと思うのです。

なんだかとりとめないことツラツラ書きました。


 

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