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from: 沙羅さん
2009/03/03 08:33:08
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一人言コーナー
何故か、自然の流れで一週間レモンおじさんが山の家に滞在する事になったレモンおじさんは、前のコミュで話した事があるのですが、おととし35年以上車椅子生活
何故か、自然の流れで一週間レモンおじさんが山の家に滞在する事になった
レモンおじさんは、前のコミュで話した事があるのですが、
おととし35年以上車椅子生活の奥様が亡くなられたレモンおじさんの事です。
おじさんの、娘さんは彼女が10歳の時におじさんの腕の中でなくなって、そのあと奥さんは、不治の病になり、看病もかねて、仕事を辞め、亡くなられたので、今は一人の生活なのです。
このまえ、家に羽毛ダウンを持ってきて、
もし出来たら、穴が開いたところを縫ってくれないか?
という願いだった。
縫い目が解けて、ダウンの羽毛が散らばってしまうのです。
それはいいのですが、ダウンのポケットに、硬い紙があったので、
見たら、
自分の名前と、住所が書いてあった。
聞くと、
近所に自転車をたまに乗って、<運動不足解消の為>
行くのにも
一倒れても、何処の何々とわかってもらう為、、と言って来た。
レモンおじさんは別に、成人病や他の病気があるわけでもないけど、、
いつ、自分は死ぬかわからない、、、
という地点にいるようであった。
年齢は70歳は超えてるようだが、
一人身になってから、今まで長い間、奥様の看病そして、出来なかったこと、したかった事、思う存分人生を謳歌したくなったようなのです。
自転車を乗りにいくのに、「何処で死ぬか、わからない、、」という恐怖は、わたしにはない、
年齢もあるのでしょうが、
きっと人は、年齢を重ねると、何処で倒れてもすぐ身元がわかるような不安をもちながら、毎回外するのかもしれない、、、
と思ったら、
、長年の奥様の解放から自由の身になったとはいえ、誰の遠慮もなく、好きな処へ、行けることが実現しても
今度は、押し寄せる死との闘いになっているような感じなのだ。、
、、そんな事色々考えてたら、Iさんから、メイルがきた。
なんだか、パリの事を話している日本のテレビ番組を見たといってきた。
沙羅たんが前にコミュに書いていて、私は違う感想だと言った記憶があるけ
「パリでは誰も人のことを気にしないでしょう?」
昨夜ルーブルとオルセーの特集があった。
最後しか見れなかった。
ゲストが
「パリは環境や政府が芸術家を育てるわけじゃないんです。人が・・・保守的なパリジャンが、パリジャンの無関心が触媒となるんです。かつてリルケが言ったことがあります。孤独と言うのは胸のあたりで止まるものだが、パリで味わう孤独は胃の腑まで落ちてゆく。それほどまでに異邦人に無関心で孤独にさせるんです。そして、そこで初めて自分が誰だったかを探し始めるんですね。そのパリだけの孤独に打ち勝った人だけが秀で、負けた人はパリに飲み込まれるんです。パリジャンの無関心が続く限りパリは芸術家を惹きつけ、育てて行き続けるでしょうね」
「芸術家ではないけど、わたしはパリで自分を見つけた」、、と言って来た。
わたしが彼女をすきなのは、このような向き合って話し合えることかもしれない。
孤独というのは、ある程度だれにでも」あるでしょうか、
この孤独とは、引っ込みとか外界の人とコンタクトガ取れないという言葉ではないでしょう
他者との普段を感じル事ではないかと思う。
他者には霊もいる、
他者との接触は、霊との接触以外の、、普通なのかもしてません
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from: 沙羅さん
2009/07/27 18:36:07
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「Re:一人言コーナー」
そういえば、日本の友人達と話していて、
ネトウヨ、、という言葉の
解釈について、色々はなしていて面白かゥた。
まだ、ご存知ない方は、
ご自分のお好きなサイト<WIKIでも、GOOGLEでも何でも、、という意味です>で調べてくださいね。
わたしは、
ネトウヨ、、、というカタカナ表記でしたから、
最初は、ただ、
「ネットに頻繁に現れる、、つまり、、ウヨウヨいる、、、」
という解釈をしてた、、と述べたら、
知り合い、友人達は、皆 一斉に笑ったのですが、、
まあ、わたしが現象学思考、、つまり音の感受性を重視しているというのが、観えて、面白いという事らしいです。
もちろん、右翼行為、云々は、もちろん、知ってて
言うのですが、、、、、
一番最初に聞くという現象は、
当然、普遍的に見得る、感じる事の出来る、他者との同感や共感によって、あるので、
流行言葉、、、流行語が何故?生れるか?
という社会的な表象現象を分析しているんですね。
それでもって、わたしは、日本の雑誌や本はほとんど、読む機会ありませんから、
日本の社会、土壌の質は、他国の表象現象の差によって、
観えてくるんです。
何故?
日本のサイトに2チャンネルというのが存在するのか?
であって、
2チャンネルじたいを判断しているのではないんです。
<2チャンネルをよく読むと、アレ?と思わせる書き込みに逢う時がある>
日本の 荒らし行為、、、、
これも、外国のネット世界での、荒らし行為日本ほど、
あるんですかぁーー?
明らかに、心理的、精神的に病んでいるように思えます。
日常の生活、日常の普通の生活というのは、ちゃんと
滞りなく、外部者、他者との感情交流は、なしているのでしょうか?
と思える方が、書き込み行為に熱中されてるのか、
一生懸命なのか?よくわかりませんが、、、、
非常に危険な状態である人、よくサイトやブログやコミュの書き込み読んでて、思うんです。
超越者の書き込みも、読みますが、、、
思うに、
見てると、
自分の日常、自分の身に起きた事、自分の生活、自分の事は、全く述べない方、、で
ただ、他者の書き込みを読み、
ただ、 判断される方
例えば、二人称の呼びかけに落ちる頻度が非常に多いんです。
そして、貴方は妄想している、、、みたいな書き込みが多いのに気つくんです。
この書き込みの、形が増えましたよねえー。。
自分から他者という一方通行だけなんです。
対象の何か書かれた方は、妄想しているとかなんとかは、
別に、構わないんですね。
なかには、妄想っぽいのもあるかしら?と思う時もありますし、
この人は、超越者であろう、、という事を感じる時も確かにあるんです。
ところがですねえーーー
この超越者、、日本語では解脱でも悟るでも、色々あるのですが、
もちろん、外国にも、日本語の解脱者であるとか、悟った方という語録に類似した言葉で現して、そのような方達の能力は、興味深いので、、別に、仏教徒だから、、という事ではないんですね。
日本の精神病院に頻繁においでいただければ、わかるのですが
ご自分の事を、自分はイエスである、、又は、ブッダである、又、菩薩である、、と、仰られる方は、結構いらっしゃるんです。
もちろん、外国の病院にも、似たような言説を放つ方は結構いらっしゃるんですね。
ですから、そのような方がたの事がもし本当であれば、
地球上には、かなり沢山の菩薩や、ブッダやキリストやマリアが、存在しなくてはならなくなるんですね。
何故?
彼らは、精神的な病とみなされて病院に入院されているのでしょうか?
もちろん、そのような言説だけで、お医者さんは判断しているのではないんですが、、、
結局、キーポイントは、
他者と、自分の関係 なんです。
他者の中に自分が存在しなくなると、形而下の生活能力も衰えてくるんです。
、人との感情交流が難しい、赤ちゃんの声や泣き声が、何を意味しているのか自分はあかちゃんではないから、わからない<感じない>
他者が、何を述べてるのか、意味を理解できなくなる。
総合的な判断によるのですが、、
ニーチェも、晩年はスイスのバーゼルの精神病院なんですね。
知り合いの分析医達との会話で、
あの頃、ヴィデオがあれば、かなりニーチェの分析も、バーゼルのお医者さん以外の意見を聞けるのではなかったのか?
ただ、ニーチェのカルテを読んでも、
記号表記ではシニフィエで書かれますから、、、
実体がつかめないんですね。
超越者を普通の人間の世界での存在性をみつけてもらい、人生を歩んでもらいたい、、、
心理学や精神科学の存在は、人間として生れたなら、人間として健康な生活を営み、健常な精神や心理を持ってもらいたい、、結局他者の幸福を願わずには、生れてこない分野であると思われます。
問題なのは、日本は、オーム事件を蔓延らせた、土壌を養成する原因は、人々の個々の精神や心の中にあると思われます。
オームがどうのこうのではなく、
オームをあのような巨大なシステムに、浸透させてしまった、
蔓延らせてしまった、原因は私たち日本人の他者と自己の間にあると思うのです。
他者を言葉や雰囲気で支配しだす。
言葉でも記号でもよいのですが、
言葉は、音なんです。
信じるという字は、
にんべん に 言う です。
人が、言う と書いて 信じるなんですね。
仏語は、信じると和仏で調べるのと
仏和で調べるのと、、
信じる、 CROIRE クロワール
思う、考える PENSER パンセー
両方単語が出てくる、、と何度も書きましたけど、
何故?
思う、考える、信じる、、という意識が、その意味あい、使い方によって、違ってくるんでしょうかね?
信じる の 信 は、ひと<にんべん> が 言う
なので、神ではないですね。
キリストでも、字が書けたかよくわかりませんが、
お釈迦様の字筆というのがあるのかどうかもよくわかりませんけど、、、、、
私自身は、そのような方達の存在が存在して欲しいと願いますが、実際の話、眼の前にいらっしゃらないから、
皆さんの眼の前で、こういう事があって、このように話されました、、という事は実現できない昔の方がたなんですよね。
と、すると
自分の存在しようとする世界というのは、自分と全くちがう他者との間のコミュニケートにおいて、どのように他者の中に自分の存在性が観えているか、存在しているか?に尽きると思うのです。
自分の思った事を自分がただ放つ一方通行は、会話とは言えないんですね。
もちろん、ただ聞く側に徹するだけ、、という読者や対話者もいらっしゃいますけど、
どちらにしても、
自分の述べる事というのは、自分で判断する事はできても、
普遍性は
他者が判断する側にいるんですね。
そこに、存在できるか?出来ないか?
ただの、自分本位の言説でるか?それとも、偏狭世界に通じる言説であるか?
すべて、他者との関係になってくると思われます。
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