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「哲学〜真理〜探求について」

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  • from: めるろ〜001さん

    2009年10月01日 13時18分20秒

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    ベトナムにおいて

    ベトナム政府が関与していると思われる
    仏教寺院の破壊と修行僧や僧尼に対する暴力があった模様です。

    ベトナム共産党政府は、情報の隠蔽をしているのではないかと思われます。
    重大な人権侵害であり、それがもしベトナム政府の意志によって行われたとすると、チベット民族迫害以来の政府による人権侵害になります。
    (世界には、人権が意図的に侵害されている事態は他にもありますが)

    イスラム教のように、戦闘の武器を持った一派が居る訳でもなく、
    修行をするのみの仏教寺院での破壊と虐待は、
    大変問題である。

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コメント: 全1件

from: 沙羅さん

2009年10月01日 17時35分18秒

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「Re:ベトナムにおいて」
めるろ〜さん


ベトナム政府が関与していると思われる
> 仏教寺院の破壊と修行僧や僧尼に対する暴力があった模様です。
>
 
ほんとうに、世界は混沌としていますよね〜・・・
どうなんでしょうねえ〜・・・ほんまに〜〜
自国内での対立、国力と宗教<国民>
自国外対立 中国とチベットのような問題 国と国 
この視点に立つのは、他の国に立つ・・という視点ですから、
自分達の国が同じ扱いを受けたらどうするのか?
という他者<他国>の立場に立って、感情を動かす事のできる地点なんだと思うのです。
自分がチベット密教を信じてるから、世界が反応している事とは全く違います。<人々の心の扱われ方、接し方、つまり僧職達の魂の扱われ方や接し方に不当な力が加わる事に、キリスト教国の人々も怒りを感じるのだと思うのです。>
つまり、自分達の国が、そのような[心]の扱いを他者から受けたらやはり、心痛を感じると思うのですね。
そのような、他者<他国>を介して、自己へ感化する事のできる運動が行われないと、いつまでも他人事、他国事・・という意識しか湧かないのではないか?と思われます。
心の接し方・・・を感じる事のできる・・という事は

結局、複数他者から観ると、自分という者は、どのように他者から観得ているのか?、どのような存在と化しているのか?

という事を、他者を介して感じる事ができるという心のコミュニケート層があると思うのです。
この層への働きはつまり開けたモラルの意識だと思うのです。
自分とは全く違う分野の人間が、自然に近づいてくる・・・・という現象におのずと繋がるはずです。
決して、同じ言語を話す対話や国内において、同じ思考形態に反応するという関係性を築くという内向的<自己内>に向かっている方向での、繋がりを築くという事ではないと思うのです。


その層の心の伝達が、存在し続けるであり、言い換えると普遍化するであり、又言い換えると、複数他者との間に存在し続ける<人と人の間、つまり人間>人間として人と人との間に存在し続ける・・・・と言う抽象表現によって表現する事になると思うのです。
思うのですが
ベトナムの様に、国内の問題というのは、何処まで国外の国[他国]や人間が関与できるんでしょうか?
すごく難しいですよね?情報隠滅ももちろんあるでしょうし、誤報も飛び交いますし、、、
自国内での、国力や権力に対する、対立できる国民側の力のバランスが保てないと、このような力関係による対立関係にある対象は排他行為に至る・・そのような人権に関わる問題が簡単に生じる事になるのかもしれません。

ヴィトゲンは、可能性の総体を空間と呼ぶ事にしているとおもいますが、
事実と
事態という二つの捉え方もちゃんと意識して論考にあげていると思うのです。
事実は、実際現実に起こったとして捉えるのにたいし、
事態は時間軸でいうとその前状態、
起りうる事柄ですし、
対象についても同じ思考の特徴に思えるのですね。
ただし、対象については、性質や関係が複合的に絡んでいるはずですから、ヴィトゲンの論考が今一踏み込む事の出来なかった箇所、命題として数多くあげられなかった箇所・・・というのは、記号化がむずかしかったのかも知れません。

対象についても、ヴィトゲンが述べる様に
考える性質をもたない内的性質や外的な性質も当然考えなければならないと思うのです。
何から、何まで一つの法則に当てはめられない、対象との関係の複雑な質も思考しないとならないと思うのです。

どちらにしても、知らない他者、今まで関係を結ばない他者同士が、なんらかの因果関係によって、働きかけてこないという事は、多分、自分と他者との関連層が観得ないと思うのです。そういえば、因果連鎖を信じる事は迷信である・・というのもヴィトゲンの言葉でしたけど、この言葉もそのまま、解釈するのではなく迷信とは、因果連鎖を信じる事に、ほかならないという意味合いでの解釈の仕方の流れをくみ取るという臨機応変な観方が、ヴィトゲンの述べたい真の心に近づく手段ではないかしら?と思うのです。
ヴィトゲン自身も、この『因果連鎖を信じるのは迷信である」という訳部分について、オグデンへの手紙において、そのような訳は誤まりですという注釈されているようです。
「わたしは、因果連鎖を信じることが、迷信の一つであると、言いたいのでは」ありません。」と内容の手紙からもわかる通り、
言葉を理解するというのは、大変注意を要すると思うのです。




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