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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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from: 沙羅さん

2009年08月10日 00時30分16秒

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たまには、哲学でも・・・・@@

>数年前>いえ、10年以上前になるのでしょうか?いえいえ、オーム事件の事です。>>松本で起きた事件から、数えると>>大変なロングランの記録を誇る事件だ

> 数年前
> いえ、10年以上前になるのでしょうか?

いえいえ、オーム事件の事です。
>
> 松本で起きた事件から、数えると
>
> 大変なロングランの記録を誇る事件だったのではないか?
>
> しかも、そのどれも、一つ、一つの殺人事件が全て
> 繋がっていた・・・・・というのは、後になって分った・・・・
> というのが、気味が悪い。
>
> 検察が何処まで観えていたのか?知る由もないのですが、
> 大概、メディア情報というのは、事件が起きて、それを報道する。
>
> そこで、任務が終ってしまって、次の新しい事件に向って追い求める。
>
> 事件と事件の間には、空 が存在する。
>
> この空を感じられるのは、一般でしょう。
> 普通の国民ではないでしょうか?
>
> オーム事件が次々解明されていった時に
> わたしが、フト思ったのは、ニーチェの「善悪の彼岸」の言葉で
> す。
>
>
> 狂気は個人にあっては希有なことである。
> しかし、集団、党派、、民族、時代にあっては通例である。
>
>    ニーチェ「 善悪の彼岸 」
>
>
> 多分、自分達が、行っている事が、回りから見ると
> 異様に見えるという人達との共感が感じられないのだと思うのですね。
>
> しかも、オームの組織人の言表行為を分析すれば見えるのですが、
>
> 大概の人達は、真面目、、しかも超真面目なのです。
>
>    これが、危ない・・・・・笑
>
> 人間らしい、喜怒哀楽の表情が顔面から消えている。
>
> 集団的無意識的な民族主義的本能というのがあるのかどうか、よく分らないけど、、、
>
> 何を、そんなに偏在性局所性といった一部分の解釈に意識をとられて全体の流れが観えないのであろうか?
>
> 非常に不思議な感じを持つ。
>
> 明らかに、心理的な病をもたれていると分れば、その方は病者として察し何らかの、別な心の接し方として、コミュニケートをとるのではないでしょうか?・・・・
> とわたしなど、思うのですね。
>
> 記号の局部<単語>に自己投影して反応される方も多いのですね。
>
> ウダウダ文にしているのは、実はこのような局所的な表意文字だけに過敏反応を避けル為に、意識的なコミュニケートの形にしているのですが、、、、
>
> 流れがあるはずなんですよね。
> 結果ではなく、思惟ですか〜・・・
>
> 例えば、
>
> わたしの個人情報が、今は知れてますよね?
> フランスに住んでて・・という情報です。
>
> そうするとですね、
>
> キリスト教信仰者だと、思ってるふしが強いんですね。
>
> 叉は、西洋哲学に傾倒しているから、
>
> 例えば、信仰心が強い仏教徒からしてみれば、すでに他者<敵?>と思い込み、書き込みを読んでるふしがあるんですよね〜
>
> もちろん、全員ではないですが、そのように見られやすいし、実際そのような意味合いを含む返事は何度も返って来るんですね。
>
> 別に、どう思われてもよいのですが、
> この個人情報が、すでに日本の外に住んでいるという事が、自分達国民からするともう他者なんですね。
>
> 自分と違う人達だという、扱いになるんですね。
>
> 面白い実験をパリの通訳さん達が話していました。
>
> 旅行会社に、勤める日本人通訳女性は、外国の方と結婚すると、苗字がカタカナですから、カタカナのネーム札と、旧姓の漢字のネーム札と両方、使い分けてた方の話しです。
>
> ホテルの客室は大概2人部屋なので、
> 万が一、旅行で一緒になった、方とお話がしたかったら、階下のロビーや、近くの喫茶店や、ホテル内のバーにでも、普通は気のあった人達が時間を過ごす空間が、部屋の外で会ったり話したり・・・という機会をもうける為にあるのですが、
>
> 何故か、ホテルの客室に、気のあう人達と集まる・・という会合をもうける方達がいらっしゃるのです。
>
> それはよいのですが、
> 通訳嬢が、日本語の漢字ネームをつけていると、その会合に誘われる回数が多く、
> カタカナネームだと、呼ばれない・・・という事を仰ってた。
>
> このような、行動の傾向も色々外国人同士の間で違いが観えてくるんですね。
> しかもパリは世界一の観光客が訪れる。
> アメリカ人、ブラジル人、北欧人、アジア人だけでなく、他(多)国の方達を相手に、何カ国も話す通訳は珍しくないんです。
>
> 自民族中心主義、自民族絶対普遍性思い込み、エトュノサントリズムの特徴は、
>
> 音、、つまりパロールより、字、エクリチュールを重視する傾向にあるというのも、なんか気持ちがい、特徴なんですよね。
>
> 人とのコミュニケート、心の意思疎通がむずかしくなったのは、
> 電話や会って話す事をしなくなったからではないでしょうかね?
> なんでもメイルで済ます事になった日常生活ですが、、、

便利(時間>と引き換えにしたのは、
大事な心を感じる事ができるという手段ではないのか?と思ったりする。

> しかも議論を記号でするというのは、そもそも、普通の事なのでしょうか?
>
> と思うのですね???
>
>  ソクラテスやプラトンが生きていたら、是非とも聞いて見たい
>  と思うのですね。
>
>
>

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from: 沙羅さん

2010年01月29日 01時05分12秒

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「Re:たまには、哲学でも・・・・@@」
言語学を勉強すると、

 結局

 「事物を創りだすのは視点」なのである・・とソシュールが
 言った意味合いが観得てくると思うのです。

 対象は造りだされなければならないし、
 何かについて発信する地点で、一つの視点から事物を創り出して述べているのに過ぎないと思うのですね。

 という事は、言葉や言語といったものがあらかじめ存在しているのではなく、私達が客観的に存在すると思い込んで日本語という言語にせよ、単語にせよ文にせよ、あるいは音節といった、言語学者の<視点>によって切り出されたものに過ぎないと思うのですね。
という事は、、
言語ナリ、、といった対象が実体として、客観的に存在しているのではない以上、
私達が
言語とは?なにか?
といった問いさえも、立てることが出来なくなってくると思うのですね。
 
 と、すると、、どうするか?というと、いかなる視点、かず多くの視点から言語を考察するという手段しかなくなってくる。

「何々が、正しい」であったり
『何々が、絶対だ!」・・
というような言説を述べる方はは、
 『何々が正しい?とか、絶対真理である?・・という個人発信の内容の吟味はどうでもよく、
一体、
何故?
その人に、そのような言説を放たせる理由があるのか?
・・という全体把握だと思うのです。

何故なら、世界の人達との存在があり、世界の人達との関係性を感じない・・と言う言説を共時態で放つという事じたい、すでに普遍性を失くしていると思うのです。

 今まで学んできた重要な視点を学び、あらゆる情況に応じ、臨機応変に自由自在にアダプトしやすいように、又くまされる対話者によっても違いますから、老若男女経験によって身についた、対話しかないと思うのです。
実践は身についてないと、何も応用出来ないと思うのですね。
百人百様なのですから、百人百様の視点で、反応してくるんですね。
言語について語りうるには、いかなる視点があるのか?いかなる視点が可能なのか?
私達自身の言語論というのは、そうした複数の言語論たちへの検討をつうじてしか生み出されることはないと思うのですね。

他者の述べる事は、ほとんど
何故?
そのような事を述べてくるのか?
という意味で聞いていると
まるで、ほとんど意味が観得ないんですよね。
ほとんど、言ってる意味が観得ないですから、分からないのが普通だと思っているのですが、
ところが、
なんでも他者の述べる事がすぐお分かりになって、了解される方がいらっしゃるけど、これも不思議な現象ですよね。

他者の話す事を自分なり、自分の理解の仕方で理解するのは誰でもできますけど、コミュニケーションは、
何故?
その事を放つのか?
という意味で、会話を回すと思っていました。

会話そのものの存在をさせるといった、現れ方だと思っていました。

他者の述べた事への感想文は、翌日でも翌々日でも出来ますから、
時間を生きてるという感じは体験できないと思うのです。

「因果はどうして観るのですか?」
「どうやって、因果を見つけるのですか?」

というのが、大概の人達、普通の人達の質問なのですから、

その応えは

 「因果と縁起で人生は回っています」・・という応え方は

 質疑応答になっていませんよね?
 理由や仕方を聞いているのに、
 〜〜が在ります。
 では、変でしょう?と思うのです。
最初から時間軸上の途上の仕方を問いているのに、
 対象の結果<在ります>を説かれても、
 これでは、、
 「そんな事は、前から知っています」という展開になるのは目に見えていると思うのです。

 「どうして?
 そうなるの?」
 と聞いているのに、
 「そうなります」という答えは、子供でもおかしいと思う事はできると思うのです。

 この地点で、体験の有る無し、つまり、頭で覚えこむ認識や知職で、体験が伴なわない・・という事はおおよそ、観得てくると思うのです。

 このような事をず〜と、観ていて

 つまり、時間と空間の存在での言語を介して
 コミュニケートをする問題は、おのずと
 観得てくるんですね。

 それではどうすればよいか!・・という実践に入るには、
 心理学はやはり必要不可欠になってくると思います。

 何故なら、言語学は、言語という客観的、実在的な対象にたいする考察であるというよりも、言語に関する個々のディスクールの集合としてしか存在しないそうなんです。
この点で、言語学は、文学、哲学と変わりが無いのでしょう。
ところが、科学としての自覚が明確な言語学がそうであるのだから、言語学、記号論、精神分析、哲学、文学理論さまざまな知の領域を横断する言語論の場合は、
どうしても固有名詞がより不可欠なものであるのは、当然かも知れません。

 システム、構造としての言語<記号論的視点>
 無意識としての言語<精神分析的視点> 
 行為、コミュニケーションとしての言語[言語使用論的視点>

人々と話す
人々と心の交通のネットワークを心がける。

これは、フロイトそして、ソシュール、そして我らのヴィトちゃんヴィトゲンシュタインも含め、言語をひとつのシステム、あるいは構造としてとらえるか?
言語を無意識との関連において捉えるか
<よくいますね?結局我田引水的、自分の信じている定説や対象が良いと導く方・・・
世間の人達に、あ〜やっぱりなぁ〜・・・と思わせたらお終いなんですけど、、どうしても、自分に拘るとそのような言説しか放てないのかもしれません。他者不在なんですね。本とは、他者に感じさせないとならないのですが〜>

また、言語を行為として、困難なコミュニケーションの場においてとらえるかは、
この3つの見方は言葉という現象にたいする全くことなった、現実、リアリティーに基づいているとしかないでしょうね。

あ〜なんだか、たまに哲学を真面目に書いたりするのです。

でも、哲学しててよかったなあ〜と思うのは、
哲学は全てを含むという視点だと思うのですね。

範囲がとてつもなく広いのですが、それだけやりがいもありますね。

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