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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

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  • from: めるろ〜001さん

    2010年03月16日 13時35分05秒

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    タカギさんへ

    『狂人三歩手前』買いました。
    これって、もう済んだ話じゃないですか?

    まあ、もう一度、キアスム論理を使って紐解くと、
    人間の時間の中で、ごく一部分の「死」という問題を捉え、
    中島義道は、それを「糧に生を楽しく生きている」という話ですよね。
    中島義道は、生きているから楽しいと言っていて、
    現に生きている。

    人間の時間で、生きている時間の方が遥に長い。
    何故に、ごく一部分の「死」をテーマにするのか。
    そして、そのテーマにとらわれる未成熟の人間を脅すのか。

    僕の場合、死より遥に長い時間である生の方が
    哲学的価値がある。

    また、宇宙は数十億年に破滅するというのは間違いです。
    物質は重力を伴っているので、どこかと引き合う。
    これは物質である限り変わらない。
    ということは、宇宙にある大量の質量は、
    変化するということですね。

    中島義道は現在も生きながらえ、死を扱うことで、
    自分で生を楽しんでいる。
    そんな人の論理、実践していない論理、
    それを真に受けるのは、実に損している。

    死の対峙語は生です。
    中島義道の論理に足りないのは、
    「生の時間はどうした。」ということです。

    楽しく生きる中島義道と中島義道の論理を
    真に受けて損をしている読者。
    それも不十分な論理を展開しているだけなのです。

    いや、生の哲学はもっと文字数を必要とし、
    もっと、哲学的に難しい問題を提示する。

    中島義道はそこから逃げているというべきでしょう。

    人は、その人が何かを残したその痕跡で、
    次のステップに行くのである。

    すると、それは死の遺産ではなく、その人の生の遺産である。
    生の遺産をきちっと残すこと、その方が大事なのではないですか?

    自分の中で、自分の時間の中で、死の時間というホンの少しの時間にとらわれて、遥に長い生の時間を無駄にするということは、
    成熟していないといえるでしょう。

    来る時は来る、しかし、いつ来るかわからないものを
    ずっと考えることは、無駄だ。

    僕は、自分の人生の時間で遥に長い、<楽しく生きる>という
    時間を増やすことを考えます。

    だって、当の中島義道も生の時間に任せて生きているのですから。

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コメント: 全16件

from: 沙羅さん

2010年04月10日 15時15分28秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
タカギさん

 まずですね〜
 何故?
 このような表記の仕方になるのでしょうか?

 貴女が、ヨーロッパでも、まぁ、、どこでも
 よいですが、同じ質問も、何方かにされてみてください。

 人間の命は誰でも尊いと応えるはずです。

 尊くない命などありません。

  それは何度も述べているはずですよ。

 貴方が、いつも、いつも、記号で書かれていないものは、
 無視された、、、、という自虐思考に、
 このような、コミュニケートの問題が宿すのであろう事は、
 だいたい文章を分析すると観えるんです。

 ですから、ご自分を、能力が低いだとか、学校の成績がどうのこうの、、、、、と他者と比べて、いつもご自分を追い詰めるのは、
同時に、他者を比べて馬鹿にしてしまうという側面を持ち合わせているという事になるんですね。

 心理学で言われる自殺と他殺が、裏返しの行為であるというのは
 どちらの行為も、同じ人間の中に萌芽として含まれてしまっているからなんです。

 それとね?

  わたしは、対話者の文をコピーする事は、まずないのですが、、、、、、、
 以下の、貴方の書かれている

 貴方の書き方が、悪い というご指摘ですが、、、

 と書かれてありますが、、、、

 悪い、、、と言った覚えはないのですが???。

 この悪い、、という音素は 個人一人に向けて放つ音素には不適要に思うんですよね。自分自身に向けるのは、まだしも〜、、
 ですから、安易に自分がそう思われてる、、、という推測で
 この 悪 という音素を放たれない方が良いと思うのです。
 安易に使う、音素ではないと思うのですね。

 西洋の言葉に、同じ意味あいでのMAL マルが
 あるのですが、どう考えても、日本語の使い方の
 悪は、固執的で断定的な感じがするんですね。

 しかも他者に向けての攻撃の音素に聴こえるのですよね。
 だから、個人にタカギさんも私が、そのように述べたように、
 解釈したがるのではないですか?

 善悪の判断は、神のみが出来るのであって、
 おろかな人間が、出来る事じゃないと思うのですね。

 まず、人間であるという謙虚さが問われていると思うのです。
 タカギさんを含めた全ての人間達への謙虚さなんですね。

 人を個人判断で勝手に裁けば、自分も他者から他者の個人的な判断で裁かれると思ってしまうんです。
だから、恐怖がおのずとわくのだと思うのです。
他者から排除されるのではないか?
といういつも、いつも虚勢をはらなくてはならなくなってしまったり、、、、
 日本社会の大変な心の問題の、苛め という問題も
 そのような繋がりの悪循環だと思います。
 
 自分が思う恐怖は、他者も同じと思ってしまっている
 他者から見た自分をも映してしまっているんです。

 でも、他者は本当に、そう思っているのか?
 いないのか?の、他者との心の価値判断や共感や、体感によるコミュニケートは出来ていないんですね。

 ですから、タカギさんには、
 わたしが、聞いた質問には応えてくれない、、、
 という風に思ってしまうのだと思うのです。

 あの、、タカギさん宛以外のスレッドの書き込みは、御目を通されていらっしゃる?
 
 あのね?
 キリスト教は、イエスが、私達のおろかな罪を背負ってくれたらしいんですね。

 ですから、万が一他者に、何か、悪い事をしてしまった、、というような思いがあって、他者に謝れないような事があったり、人に言えない悩みがあったら、西洋の宗教は、誰かに聞いてもらう、、
自分の中に、溜めておかないで、放つ、、、という
事で、確かに気が楽になるんです。
これは心理学でもそうですが、
「、こんな事いったら、他者は自分の事を、こんな風に思わないか?とか悪人扱いしないだろうか?
通常の人と思わないんじゃないか?」という不安や恐怖を持ってしまって、中々、人に言えない不安や恐怖、世間の目が怖いんですよね。
だから、なかなか、言葉にだして言えない。
でも、他者を決して、判断しない、、
それこそ、善人であるとも悪人であるとも、判断はしない
ただ、貴方の言葉を聞いてくれる事を、してくれる人がいると思います。

まあ、西洋宗教は、そういった流れで、神父さんや牧師さんの役目が昔からあったのだと思うのです。

そのような、他者を決して、変な色眼鏡で判断しない方がいらっしやれば、心から話を聞いてくれる方を探された方がいいかも知れません。
掲示板は、そのような個人的な繋がりをむすぶものではないので、一般公開されるので、そのような目的に使えないんですね。

という事で、人間に尊くない命があるとかないとかの判断は、人間のする判断ではなく、神の領域に入っていると思うので、

それだったら、わたしは、人間の崇高性、、つまり人間は皆尊い命を持つ、、という一種の賭けですかね?

 それに賭ける方に、同意します、、、という
 一つの思惟をつくる示唆かもしれませんね。

 まあ、そんな感じです。

  

  > >沙羅さん
>
> 長いお返事を頂きました。しかし、私の質問をなぜ無視されるのですか?
>
> 私は宗教でも哲学でもなく、心理学的な治療を受けた方がいいとのアドバイスは最もかもしれません。死の恐怖が日常生活に支障を来たしているのは事実です。
> ある人が言うには「哲学と狂気は隣り合わせ」だそうです。
>
> 私の書き方が悪いとのご指摘ですが、なぜ抽象的な言葉を使って遠回しに批サなさるのですか?これからは、一言ズバっと単刀直入にご指摘いただけると有難いです。その方がすっきりします。
>
> 人間の命の尊さについては、尊くない命もあると思います。これが私の結論です。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月10日 14時06分41秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
>タカギさん

このサークルの主催者は私ですので、
私に対しての言葉ならば甘んじてうけますが、
親切心でなにか答えを出そうとしている人に、
強硬な質問は避けてください。

真理への近道について、

やはり、地獄があるとか、最終結論であるということに執着しては
真理には到達できませんね。
真理は<可逆性>による繰り返しの後に見えてくるものであり、
想像上の産物に心が囚われているようでは、真理には行き着きません。

それは、無いものとして思考しないと真理には行きつきません。
いや、真理の始まりにもついていないというべきでしょう。

真理の始まりは、自分がいかに無知であったかを理解することから始まります。

遅刻しそうなので、とりあえずおしまい。

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from: タカギさん

2010年04月10日 13時54分26秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
>沙羅さん

長いお返事を頂きました。しかし、私の質問をなぜ無視されるのですか?

私は宗教でも哲学でもなく、心理学的な治療を受けた方がいいとのアドバイスは最もかもしれません。死の恐怖が日常生活に支障を来たしているのは事実です。
ある人が言うには「哲学と狂気は隣り合わせ」だそうです。

私の書き方が悪いとのご指摘ですが、なぜ抽象的な言葉を使って遠回しに批判なさるのですか?これからは、一言ズバっと単刀直入にご指摘いただけると有難いです。その方がすっきりします。

人間の命の尊さについては、尊くない命もあると思います。これが私の結論です。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月10日 13時45分54秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
>タカギさんへ

多分箇条書きの方が理解しやすいんだと思うので、
箇条書きにしてみます。

1.時間論と存在論の開花は『大日経』と空海『般若心経秘鍵』を
  読んだからです。
  (仏教の時間論といえば普通は龍樹著『中論』です。)

2.<真理が見えている>という解釈は色々あるでしょうが、
  真理の絶対条件である<可逆性>を踏まえているので
  真理であるといえます。

3.『聖書』の読み方は、聖書は歴史的に書かれていて、
  創世記から救済まで色々な事件や物事を用いて
  救済することを書いています。
  もう一つは、喜びがあったら悲しみ、死があったら生がある。
  苦があったら楽があるという風に、実際の今の苦しみから
  脱するように書かれています。
  それはそれで、文学だと思います。

4.正しいとか正しくないとかに囚われていると、
  そこに書かれているの字の並びに注目してしまいます。
  文章に注目してしまうということですね。
  正しいという判断は、一番最後の方にすべき判断であり、
  その前に議論があります。
  議論というのは、その場の状況というものに左右されるので、
  自由で面白いものです。
  その議論の場を思い起こすことが大事なのですね。

5.地獄というのは、物理的にあるものではなく、
  想像のものです。(今更ながら、ここから?
  という感じです。)中世のモノでもありますが、
  真理に到達していない「迷いの人にも地獄はあるでしょう。」
  しかし、それは、迷いを脱すると消えるものですし、
  地獄はあると考えるより、地獄は無いと考える方が
  迷いから脱する道は近いでしょう。

6.神がいるかどうかというものが信仰上のものならば
  神がいる場合もあるでしょうし、いない場合もある。
  仏教のようにロジカルに神を想定していないので、
  <神はいないかもしれないし居るかもしれない>
  というのが信仰上の定義でしょう。
  仏教的哲学的には神は居ないとするのが正解です。
  これが、小学2年生で導き出したものです。

  ちなみに仏教では神は、「本地垂迹説」なので
  仏様の化身が神ですね。

7.「人はどうせ死ぬのさ」といい、人生は無駄だといい、
  何故生きるのか?
  中島義道にしても何故生きるのか。
  生きている方が楽しいからです。
  ここの矛盾が解けないと、真理を理解するのは
  難しいでしょうね。

8.再び真理に興味があるようですが、
  真理というものが、生きている限りつかめる可能性のある
  ものであり、死したら、つかめません。
  真理にはそういう付帯事項があるのです。
>
> めるろ〜さんは時間論を展開されていますが、いつ頃から何の影響を受けてそう考えるようになったのですか?
>
> 当たり前のように信じてきた時間の考え方を急に変えるのはとても難しいことです。刷り込まれているのかもしれません。そして疑いなく信じてきた、そして今があるような気がします。
>
> 「キリスト教が正しかったら」という個所は、他の宗教などについても言えると思います。仏教がもしも正しかったら、仏教に従っていないと酷い目にあいます。新興宗教の幸福の科学が正しかったら、それに従っていないと死後に恐ろしい目にあいます。死後どうなるかわからないので何度も言うようですが不安なのです。そして、現世をどのように生きていったらいいのかも分からないのです。
>
> 地獄はキリスト教が正しいなら、どこかにあるはずです。中世以前の思考ではなく、今でも通用するものです。
>
> 「思考の底辺を、科学的だとかよその人が言ったり書いたりしたものを時間感覚なしに、一緒にするから、真理が見えないのです。」
>
> これらは、あたかも真理が見えている人が言うであろう台詞です。めるろ〜さんには真理が見えているのですか?
>
> 神がいるかどうかは、どんなに考えてもわかりません。聖書に神がいると書いてあるから神がいるのか、それともそれらとは関係なく神がいるのかは、わからないでしょう。
>
> 私の中では「どうせ死ぬのさ」という言葉が未だに強い力を持っています。最低どころか最強です。意味も持っていると思います。
>
> 誰でも、今まで自分が信じてきた考え方や価値観を変えるように揺さぶりを掛けられると不安になるのではないでしょうか。まさにそれが今の状態です。それを頑固じじいと言うのは厳しすぎませんか。
>
> 聖書を読む心構えからなっていないと仰るのであれば、その心構えを伝授していただきたいものです。
>
> 私は永遠と希望を求めてめるろ〜さんのサークルに参加させてもらっています。
>
> ここには永遠の真理がたくさん詰まっているのですか。具体的にはどういったことですか?
>
> 一人で本を読むのはいいのですが、やはり独り善がりになりがちのようです。指摘していただけることは、とても有難いことだと思っています。

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from: タカギさん

2010年04月10日 13時21分10秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
>めるろ〜001さん

めるろ〜さんは時間論を展開されていますが、いつ頃から何の影響を受けてそう考えるようになったのですか?

当たり前のように信じてきた時間の考え方を急に変えるのはとても難しいことです。刷り込まれているのかもしれません。そして疑いなく信じてきた、そして今があるような気がします。

「キリスト教が正しかったら」という個所は、他の宗教などについても言えると思います。仏教がもしも正しかったら、仏教に従っていないと酷い目にあいます。新興宗教の幸福の科学が正しかったら、それに従っていないと死後に恐ろしい目にあいます。死後どうなるかわからないので何度も言うようですが不安なのです。そして、現世をどのように生きていったらいいのかも分からないのです。

地獄はキリスト教が正しいなら、どこかにあるはずです。中世以前の思考ではなく、今でも通用するものです。

「思考の底辺を、科学的だとかよその人が言ったり書いたりしたものを時間感覚なしに、一緒にするから、真理が見えないのです。」

これらは、あたかも真理が見えている人が言うであろう台詞です。めるろ〜さんには真理が見えているのですか?

神がいるかどうかは、どんなに考えてもわかりません。聖書に神がいると書いてあるから神がいるのか、それともそれらとは関係なく神がいるのかは、わからないでしょう。

私の中では「どうせ死ぬのさ」という言葉が未だに強い力を持っています。最低どころか最強です。意味も持っていると思います。

誰でも、今まで自分が信じてきた考え方や価値観を変えるように揺さぶりを掛けられると不安になるのではないでしょうか。まさにそれが今の状態です。それを頑固じじいと言うのは厳しすぎませんか。

聖書を読む心構えからなっていないと仰るのであれば、その心構えを伝授していただきたいものです。

私は永遠と希望を求めてめるろ〜さんのサークルに参加させてもらっています。

ここには永遠の真理がたくさん詰まっているのですか。具体的にはどういったことですか?

一人で本を読むのはいいのですが、やはり独り善がりになりがちのようです。指摘していただけることは、とても有難いことだと思っています。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月08日 12時25分53秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
>タカギさん

人間は物理的時間というのは、何かの尺度を解してしか
頭の中に理解できません。
しかし、身体の時間は、何か考え事をしていてはっと気付くと
時間が過ぎていたりする<実際の生活の時間>です。
これを感じていない人は一切いません。

また、タカギさんの考えている時間は、物理的時間などというものではなく、論理的時間です。
人間が作り上げる時間ですね。

物理的時間というのは、人間が関わるとか関わらないとかに全く影響されない重力に左右される時間のことです。

人間が普通感じているのは、身体の時間しかないのです。
しかし、時計があり(何かの尺度)<その時間を見ている>
そういうことが日常なので、勘違いしているのです。
人間は、時計の時間を垣間見ているだけなのです。
時計だって正確ではない、しかし、それを基準にというか尺度にして動いているだけです。

身体の時間を理解できないというのは、
正に<摺り込み>された時間というのをすっかり信じているんですね。
信じるというのは、間違っていても信じるのです。
でもそれに気付かない。
それが<今のタカギさん>です。

科学的に妥当な時間というのは、人間がある尺度に従って
作り上げたというものであり、ねずみの時間とゾウの時間の例を
高校の生物の時間に習ったと思うのですが、
科学的だから真理だというものではないのです。

妥当なという基準も曖昧ですし、
やはり、身体の時間が人間の時間なのです。
ねずみの時間でもなくゾウの時間でもなく、
人間の時間です。

しかし、物理的時間に従って、<永遠を考える>というのですから、それは全くの作り物ですね。
そこに気付かないといけません。

人間は永遠を想定しているだけで体験できません。
<その永遠時間>と<身体の時間>を比べているのですから
そもそも、思考の基準が成り立っていません。
分数でいうと、分子は同様に増えても、分母が違うので、
比較し難いのですね。

今度タカギさんが、同じ分母で考えることが出来るまで、
時間論はお預けですね。

「キリスト教が正しかったら。」というのは、小学2年生で
プロテスタント教会の宣教師を論破した者としては、
笑止千万ですね。

あぁ、『大日経』を読めば、書いてあります。
『聖書』に書いてあることが、論理的に整合性が無いことは
神学者も認めています。
文章の論理は合っているのですよ。
何故違うか、それはそれぞれの聖者が
自分自身の身体的時間に副って、
自分が感じたイエスをそれぞれに書いているからですね。

『聖書』の者たちも、自分の身体的時間を越えられないのです。

そもそも地獄に落ちるその地獄はどこにあるのですか?
それは勧善懲悪か統制の為に
人間(教会の人)が作り上げた中世以前の思考ですね。
そんな昔に思考を戻すのは辞めて下さい。

思考の底辺がごちゃまぜなのです。
思考の底辺を、科学的だとかよその人が言ったり書いたりしたものを時間感覚なしに、一緒にするから、真理が見えないのです。

僕は神はいないともいましたが、
神はいるとも言っているのが分かりますか?
ただ、おばさんの言う神は、『聖書』の中に神がいる。
または、『聖書』に神がいると書いてあるからという理由で
神がいるといっているので、その意味では「神はいない」というのが正解です。
何故ならば『聖書』は伝記の集まりであり、
仏教でいうと凄く最後に検討する文学であるからです。
仏教でも神はいます。話の流れと違う神ですが。。。

大事なところは、
<死んだらどうなるのか>という事実と
<生きていていることはどういうことか>という事実と
どちらの<事実>を正確に述べることが出来ますか?

圧倒的に<生きているとはどういうことか>という事実でしょう。
「人間は死んだら灰になる。」でも、「バクテリアに食べられる。」でもいいですが、どれも決まっていません。

空海は、<(死したら)青い骨になる>と言っていますが、
空海は、それを知りながら「即身成仏」を称えています。
これは、論理の時間と身体の時間と物質の時間を
区別していたからです。

何故、現代人は、身体の時間を忘れているのでしょうか?
物質の時間と論理の時間を混同するようになったのでしょうか?

人間が80年生きるとします。
物質は、生きるとか生きないとかないとすると、
変化するだけで、その根本は変わらない。
(↑これが「色即是空」という意味です。)

どれだけ、尺度の違うものを持ってきても、
論理が終結しないのは、尺度(分母)が違うからですね。
そこに気付かないと、前に進みません。

不思議なもので、時計を置いて、山にハイキングに行ったり、
スキーをしたり、釣りをしたり、ゲームをしたりすると、
一瞬だと思ったのに、時間が流れているという場合がありますね。
この違いは、人間が感じている身体の時間と物質の時間が
別の尺度で動いているからです。

しかし、文章では、何かしら違和感なく理解できますね。
ここなんです。<摺り込み>が行われているところは。

タカギさんは思考のクセといっていますが、
それは、尺度が違うものを一緒にしているということと
同じです。そのクセは、真理から一番遠ざけているところですね。

「どうせ死ぬのさ」という言葉は、終結の言葉ではないので、
何の意味も持ちません。
最低であっても最強ではないですね。

永遠に関する言葉は見つけていないじゃないですか?

人に「あなたは間違っている」とか言っている前に、
人の話を聞かないと、ただの頑固じじいでしかないですよ。
それは『聖書』を読んで云々以前に、『聖書』を読む心構えからなっていませんね。

タカギさんは<永遠>を求めて、ここに来ているんじゃないですか?少なくとも僕はそう思っています。

ここには<永遠の真理>がたくさん詰まっているんですよ。


> 物理的時間で解釈するのは、それ以外の解釈を知らないからです。また、最も妥当な科学的な解釈だと思うからです。だから、どうしても永遠の時間を考えてしまいます。永遠の時間と比較して人間一人の生を実に短く切ないものと考えてしまうようです。考え方のクセかもしれません。
>
> 時間論は難しいですね。「人間が生きて物事を認識するそういう事象の中で、生の時間が長いという意味です。」も意味がよくわかりません。めるろ〜さんがこう考えるようになったのは、いつ頃からなんですか?何に(具体的には書物の名など)影響を受けてそう考えるに至ったのでしょうか?


>
> 人間が永遠の時間を求めるのは、人間が死ぬと分かっているからですか。そうかもしれません。
>
> 聖書云々言ってくるおばさんにめるろ〜さんが言われたことは、キリスト教が正しかったら死後に地獄行きになると思います。恐ろしいことです。神はいないと言っているからです。
>
> 「現実と思考の差も理解しないといけませんね。」とコメントを頂きましたが、私が知りたいのは思考ではなくて事実です。死んだらどうなるかという事実のみです。極端なことを言えば思考などどうでもいいのです。
>
> 死への問いの答えは、死んだら骨になるといったものだったでしょうか?違ったら教えて下さい。
>
> 私の論理は立ち話レベルですか・・・。もっとレベルの高いところでの論理を求むとのことですが、果たしてレベルが高くなったところで何になるのでしょうか。「どうせ死ぬのさ」というフレーズがまた頭に浮かんできました。
>
> 『「 めるろ〜さんが言うように、「生の裏側が死だということではなく、生の時間のホンの端っこが死だということです。」なら、この世の生を楽しめるかとも思うのですが、果たして本当にそれが正しいのでしょうか。もしも、正しくなければひどく後悔することになると思います。ここが怖いところです。」
> この中の、「正しいのでしょうか。」がどうやったらそういう言葉が発せられるのか理解できません。ごく普通でごく当たり前のことなのに。』
>
> なぜごく普通でごく当たり前のことなのですか?私にはそこのところが理解できません。

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from: 沙羅さん

2010年04月07日 20時40分29秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」

103の続き

 今、めるろ〜さんへのタカギさんの返信読ませていただいたのだけど・・・・

 少しだけ述べてみます。

 ご質問の、

   死んだらその後、どうなるのか?

 というご質問は、 普通は土に灰となって還ります。


 という応えですよね?

でも、タカギさん自身が、

 自分で、「そうでは困る・・・
     そんな、馬鹿な事はない・・・・
     何か、死後にあるはずだ!・・・・・でも、わからない
     だから、死は怖いなあ〜・・・・・どうにかしない        と・・・」

 と、心の奥で、叫んでいるのでしょう?

 では、誰か宗教家の方のお話や、霊界の世界の人に聞いた場合は
 貴方の不安はなくなりますか?

 ある程度の、宗教のお話は、心に来るもの

 人にもちろんよりますが・・・ありますよね?

 わたしは、遅れてるけど、先々週初めて、霊能者の
 江原浩之さんのテレビ報送など見てみましたよ。
YOUTUBEだけど・・・・

 驚いたのは、哲学の実践を庶民レベルで語っているんですよね。
 赤ちゃんと老人も皆同じ魂だから、
 年齢差がない・・・・
 といって、他界した1歳半の赤ちゃんの、メッセージを次々のべるんですよね。
 まるで、そのうちの家族みたいに、色々な家族の個人の情報や、家の中の様子を中てるんですよね。

 魂に、年齢差がないのは、わたし自身も、子供を観ていてかんじていましたから、
 そうすると、お年寄りの魂も、若い人と同じなんですよね。

 決して、お年寄りに
 「年がいがない!」と言って、注意したり馬鹿になどしてはいけないのですね。

 お年寄りも、ドンドン人生を謳歌した方がいいと思うのです。
 自分の人生なのですから、・・・・

 霊能者達は、ある意味臨床心理学のお医者さんと同じような事を言って、心の不安をとりのぞくような事しますよね。

 一番良くないのは、わからない・・・という不安をもつ事なんですね。
 見えないから、、感じないから、、、分らない・・
という不安ですよね。
 死 の不安ですよね?

 でも誰も、体験して戻ってきた人はいないんですよね。<科学的にはですが>

 もし、その未体験による 死への恐怖 がどうにもならない・・・とおっしゃるのなら、
 宗教か、または哲学というより、心理学治療の方が良いと思うのです。別に心療内科に行くのは特別ではないと思うのです。
 そういった、近代の助けを借りながら、自分自身で少しづつ
 人生を見つめられる、そして、自分自身を認められ、自分自身の尊い命を感じられ、同時に他人の命も尊い存在と思えてくる

 そうすれば、他者と自分とを、安易に比べ、差異に一喜一憂する事はないと思うのです。
 自分は自分、タカギサンはタカギさん、めるろ〜さんはめるろ〜さん、皆、違って当り前ですし、皆尊い命の人間一人の存在なんですね。

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from: タカギさん

2010年04月07日 12時38分46秒

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「Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
>めるろ〜001さん

物理的時間で解釈するのは、それ以外の解釈を知らないからです。また、最も妥当な科学的な解釈だと思うからです。だから、どうしても永遠の時間を考えてしまいます。永遠の時間と比較して人間一人の生を実に短く切ないものと考えてしまうようです。考え方のクセかもしれません。

時間論は難しいですね。「人間が生きて物事を認識するそういう事象の中で、生の時間が長いという意味です。」も意味がよくわかりません。めるろ〜さんがこう考えるようになったのは、いつ頃からなんですか?何に(具体的には書物の名など)影響を受けてそう考えるに至ったのでしょうか?

人間が永遠の時間を求めるのは、人間が死ぬと分かっているからですか。そうかもしれません。

聖書云々言ってくるおばさんにめるろ〜さんが言われたことは、キリスト教が正しかったら死後に地獄行きになると思います。恐ろしいことです。神はいないと言っているからです。

「現実と思考の差も理解しないといけませんね。」とコメントを頂きましたが、私が知りたいのは思考ではなくて事実です。死んだらどうなるかという事実のみです。極端なことを言えば思考などどうでもいいのです。

死への問いの答えは、死んだら骨になるといったものだったでしょうか?違ったら教えて下さい。

私の論理は立ち話レベルですか・・・。もっとレベルの高いところでの論理を求むとのことですが、果たしてレベルが高くなったところで何になるのでしょうか。「どうせ死ぬのさ」というフレーズがまた頭に浮かんできました。

『「 めるろ〜さんが言うように、「生の裏側が死だということではなく、生の時間のホンの端っこが死だということです。」なら、この世の生を楽しめるかとも思うのですが、果たして本当にそれが正しいのでしょうか。もしも、正しくなければひどく後悔することになると思います。ここが怖いところです。」
この中の、「正しいのでしょうか。」がどうやったらそういう言葉が発せられるのか理解できません。ごく普通でごく当たり前のことなのに。』

なぜごく普通でごく当たり前のことなのですか?私にはそこのところが理解できません。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月07日 09時34分41秒

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「Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
>タカギさん

「> めるろ〜さんが言うように、「生の裏側が死だということではなく、生の時間のホンの端っこが死だということです。」なら、この世の生を楽しめるかとも思うのですが、果たして本当にそれが正しいのでしょうか。もしも、正しくなければひどく後悔することになると思います。ここが怖いところです。」

この中の、「正しいのでしょうか。」がどうやったらそういう
言葉が発せられるのか理解できません。
ごく普通でごく当たり前のことなのに。

そこのところの思考が間違っているのですね。
現実の時間と思考による時間の交錯が見られます。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月07日 05時45分28秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
仏教の場合、
仏教説話や伝記というのは、一番重要度の低いものですね。
何故なら、本人が承認しているものではなく、
そう言い伝えられているものの<伝承>だからですね。
釈尊の修行している像が見つかったとしても、
それは、釈尊が存命の時に出来たものではなく、
釈尊が涅槃に入られてから以後のことですね。
仏教では、そういうことを明確に取り扱っているのです。

経論書の次ぎに説話伝記なのです。

多くの高僧の議論と精査の後に出来上がった<経典>、
その経典を解釈する<論書>
その論書を流儀で解釈する<義疏>

その次に伝記説話の類ですね。

仏教をお勉強する時に最初にぶつかる難所ですね。
一人が一生掛けて読むには、まだ余りある本の量なのです。
そこで、それぞれの専門家が出てきた。
それが、宗派ですね。(現在ではかなり違う意味ですが)

ですから、南都六宗といっても共存出来たのですね。
しかし、財産分与などが絡むと、お互いを罵りあう。
正宗と学会のようになるのですね。
学会は、然したる歴史的根拠を断ち切って、
新たに解釈しているものですが、どのような歴史的根拠があるのか
と思う時がありますね。
結局、<財産をよこせ>という邪な心が具現化したもの
であるのにね。

金にモノをいわせ、どんどん土地を買い、
あたかも歴史的な根拠があるかのように見せている。
お金を寄進する人を優遇する。
そういう体系を作り構築したものは全国に及び、
まるで根の張ったもののように振舞う。
別に学会ばかりではなく、他の宗派にもありますが、
そういうところには税金を掛けるべきですね。

理由は始まりに根拠が無いので、既成事実を作るために強引ともいえる論理でお布施をさせるということですね。
それは宗教ではなく、宗教の名を語った集金業務だろうと。

キリスト教を語った同じ様な組織も摘発を受けていますが、
仏教でも摘発をどんどんして欲しいと思います。

まあ、「幸福の科学」とかいう教義をコロコロ変えるところも
教義を変えたら違うものでしょうと言いたい。
時代が違うから教義を変えるというなら、
もっと普遍的なことを書いてから信者に言えと言いたいですね。
その教義の殆どは仏教からのパクリとキリスト教イスラム教のパクリですね。
パクリで間に合わせて教義らしきものを作り、
信者から金を巻き上げるのは集金業務以外の何ものでもないです。


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from: めるろ〜001さん

2010年04月07日 05時16分14秒

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「Re:Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
人間の時間。

<自己が意識する時間>、
その人の記憶が成立するところから、意識が白濁するまでの時間
<人間の生物としての時間>
母親から産まれて、脳や心臓が止まるまでの時間(人間として壊死が始まる)

どちらも物理的時間の中でのことですが、
その意味合いは違います。
勿論隣り合わせですが混同すると論理がおかしくなります。
って、殆どの人が論理がおかしいことが分かりますが、
哲学としてという性格のものではなく、
立ち話としての性格のものですので、
そういう点では目くじらを立てることはないです。

しかし、人を批判したり、
それが(あなたの)判断がおかしいとか言ったりする場合、
明確に区別する必要があります。
タカギさんの場合、論理が立ち話レベルなのです。

だから、タカギさんが僕に「おかしいでしょ?」というのは
ちょっと、お門違いですね。

もっとレベルの高いところでの論理を求めます。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月07日 05時07分19秒

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「Re:Re:Re:Re:タカギさんへ」
『聖書』の解釈というのは、神学上はいいところばかり抜き出して、その神学者や哲学者が勝手につくりあげる。
というのが定番になっていますが、別に構わないと思います。

神学というとルカ伝(やはり伝記でありイエスが書いたものではない)が中心のものが多いようです。
しかしながら、ルカ伝に継ぎ接ぎし、他の伝記も混ぜて、
論理を通るものとする場合が多い。
それぞれに、指し示す時期も違うしそれは仕方ないのかもしれません。

何故に哲学者が、『聖書』をもって、
神の存在証明をしようとするか?
それは洗礼を受けているというのもあると思いますが、
文章の象徴と痕跡を探っているのだと思います。
しかしながら、哲学者が創り上げる神は、神学のそれとは
何かが違います。
それは、『聖書』の構成である伝記の象徴的解釈から
<普遍性>を導き出そうとしているのですね。

伝記のストーリーとは別のストーリーがそこに出来上がる。
つまり、文章の象徴を抜き出すことによって、その哲学者しか作りえない<神>が出来上がるのです。
その作り上げた後で、それを<自己の神(理神)>として崇めるのですね。

その理神と伝記で書かれている神が同じだと。
しかし、そうじゃないでしょ。信仰の順番が違う。

そこが、神学の神と哲学の神と違うところです。
それを文字が同じだから、同じものだとするところに
問題があるのです。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月06日 13時44分02秒

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「Re:Re:Re:タカギさんへ」
>タカギさん

「死よりも所為の時間の方が圧倒的に長い」
という意味を誤解しているようです。

何故に、物理的時間で解釈するのですか?
人間が生きて物事を認識するそういう事象の中で、
生の時間が長いという意味です。

また、永遠の時間を求めるのは、
人間が死ぬと分かっているからです。

しかし、そういう永遠の時間などというものは、認識し得ない。
解釈としてあるだけなのですね。

先ほど、聖書云々言ってくるおばさんが来たので、
「(あなたの言う)神はいないですが反論は出来ますか?」
「第一に、ルカ伝など伝記を元にしての理論など、
日本昔話をまとめて辻褄が合うように解釈しているだけで、
聖書の中にある伝記はそれぞれ違うじゃないですか?」
「ご都合主義で、あれとアレを繋げて・・・。などというのは、
幼稚な行為ですよ。」
といっておきました。

聖書が伝記で成り立っている。
その伝記はそれぞれ違う。
コレは事実ですし、反論は出来ないでしょう。

ただ、人間が普遍性を求めて思考すること、
これは、人間に生の限りがあるので普遍性を求めるのは、
ある意味仕方ないことだと思います。

タカギさん、ちゃんと文章は読まないといけません。
現実と思考の差も理解しないといけませんね。

死への問いの答えは、以前書きましたが
読んでいませんか?


> めるろ〜さんは、「死よりも生の時間の方が長い」とお考えのようですね。
> また、中島義道の論理には、生の時間への考察が欠如しているという指摘も。
>
> めるろ〜さんが言うように、「生の裏側が死だということではなく、生の時間のホンの端っこが死だということです。」なら、この世の生を楽しめるかとも思うのですが、果たして本当にそれが正しいのでしょうか。もしも、正しくなければひどく後悔することになると思います。ここが怖いところです。
>
> これは、もしかしたら、生と死をどう見るかという宗教的な話や死生観になってきそうな感じがします。
>
> 私は毎日少しずつ『聖書』を読んでいます。キリスト教の考え方に触れながら思うことは、めるろ〜さんの言う事が正しいのであれば、なぜ人は永遠の命に憧れるのでしょうか、ということです。人は皆、死の瞬間に世界から自分が消滅することを怖れているのではないでしょうか。消えてしまうのが怖いのです。さらに、天国へ行きたい、地獄へは行きたくない、という思いも多くの人が抱いていることでしょう。
>
> 私は『狂人三歩手前』の15ページの6行目、「どうせ死ぬのさ」の一言に対して抵抗できずにいます。この言葉が全てを叩き壊します。救いといえば、宗教しかないのかもしれません。「死んだ後にどうなるのか?」私の関心はそこにあります。死後次第で現世での生き方も変わってくるのです。「現世の報い」とか仏教にもありますよね?
>
> 死んだ後に、天国も地獄もなく無になり、ただ時間だけが容赦なく過ぎていき何十億年、何百億年という時が過ぎていく、こう考えると背筋が寒くなります。(死んだらどうなるかの一例です。くれぐれも、こうだとは決めつけていません)
>
> 「いつ、どこで、どのように私は死に、死んだらどうなるか」これが分からない限り一歩も前へ進めません。人生には意味や価値があるのかといったことも、これがわからないと何も言えないと思います。私はこの問いの前で思考停止している、そんな感じです。

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from: タカギさん

2010年04月05日 14時58分42秒

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「Re:Re:タカギさんへ」
>めるろ〜001さん

まず、お返事遅れました。

わざわざ中島氏の『狂人三歩手前』を買っていただき、ありがとうございます。

めるろ〜さんは、「死よりも生の時間の方が長い」とお考えのようですね。
また、中島義道の論理には、生の時間への考察が欠如しているという指摘も。

めるろ〜さんが言うように、「生の裏側が死だということではなく、生の時間のホンの端っこが死だということです。」なら、この世の生を楽しめるかとも思うのですが、果たして本当にそれが正しいのでしょうか。もしも、正しくなければひどく後悔することになると思います。ここが怖いところです。

これは、もしかしたら、生と死をどう見るかという宗教的な話や死生観になってきそうな感じがします。

私は毎日少しずつ『聖書』を読んでいます。キリスト教の考え方に触れながら思うことは、めるろ〜さんの言う事が正しいのであれば、なぜ人は永遠の命に憧れるのでしょうか、ということです。人は皆、死の瞬間に世界から自分が消滅することを怖れているのではないでしょうか。消えてしまうのが怖いのです。さらに、天国へ行きたい、地獄へは行きたくない、という思いも多くの人が抱いていることでしょう。

私は『狂人三歩手前』の15ページの6行目、「どうせ死ぬのさ」の一言に対して抵抗できずにいます。この言葉が全てを叩き壊します。救いといえば、宗教しかないのかもしれません。「死んだ後にどうなるのか?」私の関心はそこにあります。死後次第で現世での生き方も変わってくるのです。「現世の報い」とか仏教にもありますよね?

死んだ後に、天国も地獄もなく無になり、ただ時間だけが容赦なく過ぎていき何十億年、何百億年という時が過ぎていく、こう考えると背筋が寒くなります。(死んだらどうなるかの一例です。くれぐれも、こうだとは決めつけていません)

「いつ、どこで、どのように私は死に、死んだらどうなるか」これが分からない限り一歩も前へ進めません。人生には意味や価値があるのかといったことも、これがわからないと何も言えないと思います。私はこの問いの前で思考停止している、そんな感じです。

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from: 沙羅さん

2010年03月16日 19時18分24秒

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「Re:タカギさんへ」
おはようございます


『狂人三歩手前』の本は、読んでいませんが、
少し思った事だけ、書いてみます。

 新生児の様子を生まれた時から観察していると、
色々な事が見えたり、不思議に思ったりするんです。

一番、感じるのは、新生児が目を開けた時の感覚なんですね。

生後、一週間の赤ちゃんは、何が?快感で何が苦と感じるのかな?
であったり、、、

この年齢の赤ちゃんが感じる痛みや不快感は、出産の経験を赤ちゃんなりにさせられてきている・・・

あの狭い産道の中を、長い時間かけて生まれてくる時間、赤ちゃんの立場に立ってみると、とても快感ではなく、不快、痛み、息苦しさ、、、等々、、、
そのような経験をさせられて、生まれてくる。

赤ちゃんにとってはとんでもない経験であろうと、想像するのです。

自分の記憶にないから、今の自分の言動に全く影響がない経験である・・という言い切れる事は出来ないと思うのですね。

心理学的な事はここでは、述べませんが、霊能者または超能力者と呼ばれる人達叉は、普通の人でも時々、お腹にいた時の記憶を持っている人がいる<ちなみに、江原氏もYOUTUBEで、その記憶があり、どのような記憶で自分の感覚として残っているのか、、という説明をしていました。スタジオにいらっしゃる、ある芸能人の女性も、お腹にいる時の記憶があって説明されていた。ですので、この生まれる前、叉は生まれる時の記憶を持っているいる人は、霊能者であるとか、超能力云々には関係ない事のようなのです。>

この記憶なのですが、人間は記憶が快であれば、それを求めようとしますし、不快であればそれを避けようとする。
恐怖の記憶を持てば、当然避けようとするはずなんです。

特別な症例を除きます。

が、
生まれた赤ちゃんが目を開けると、こちらが見えてないのが分かります。
まずこの世界の出来事が、どのような仕組みなのか?
まず、この世のコードみたいのを、探さないと、コミュニケートがとれないんです。

目を開けて、母親の顔が目の前にあっても、母親の顔は見えてないのは、よく分かります。
何故なら、空間の中に存在するものの遠近距離というコードがまだつくられていないからだと思うのです。
母親の顔や、母親が手をかざして振っても、赤ちゃんの視線は動きませんし、「あかちやんは見えてない」・・・という感覚をこちらは持たされます。

この見えていない・・・という表現は、
視力がない叉は、視的障害がある・・・という事とはちがうんですね。
これは唯物論的世界での表現なんです。

ダヴィンチが描く絵画には、この時の赤ちゃん、まだ3次元世界のコードが分からず、宙を観ているような視線をしている赤ちゃんの視線を表現しているのがあるのですが、実際新生児の視線はダヴィンチの赤ちゃんの眼ソックリなのを、私自身が感じられるんです。

新生児の反応はすごく人間太古の歴史の変化をみているみたいで、興味ふかいのです。

目の前にある母親の顔に視線を定める事はまずない・・というか、
見えないのですね。

新生児の視線が、まずこの世に生まれて探すのは、

光なんです。

光のある方に、す〜っと顔を向ける、、
光のある方向に、視線を向ける・・・
その時、耳元で、「〜ちゃん」と呼んでも、
まず、新生児が、目を開いて反応し、探そうとするのは

声が聞えてく方向ではなく、

光がくる方向なんです。決して闇ではありません。

何故?

 人間がこの世に生まれてきたのか?
 その理由さがしを永遠としているような感じがします。

 そういう風に、考えますと、、、、、

 人間は、光っているものの方へどうしても
 向いたくなる・・・という方向に背を向ける訳にはいかない
 生き物ではないか?と思う訳なんですね。

 それを、希望がなければ、生きられません・・・から・・
 とある時は、ルカさんが反応されてそのような言葉に還元させられる。
 
 この光なんですが〜・・・
 これを、一種の死後の世界とダブらせてしまう・・という人が
 やはりいらっしゃるようなんですね。
 つまり死が美化されてしまうような感じです。

 何故?
 でしょうね?
 
 と、色々考えるのは、心理学のお勉強が必要かもしれないと
 思っています。・・・・という事で終わりにします・・・・^^







 

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from: めるろ〜001さん

2010年03月16日 13時47分20秒

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「Re:タカギさんへ」
学会の人たちから言うと
評価が低いのは、随分小さい時間しか取り扱っていない人であるということですね。
それは評価が低いのは頷けます。
東大出ているんだから、もっと、沢山の時間のことを解明して欲しいというところでしょうね。

どこがキアスムだったのかというと、
生と死ですね。

このとなり併せの言葉は、いつも隣り合わせですが、
圧倒的に、生の時間の方が長く大きいということを突きました。

生と死の絡み合い(キアスム)は、生の裏側が死だということではなく、生の時間のホンの端っこが死だということです。

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