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from: めるろ〜001さん
2010/04/11 05:10:02
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真理と時間論
真理も生と死を扱うようになると
摺り込みに拠る信仰が邪魔して
真理の言葉ではあるけれど、
真理の時間には行かないようです。
真理の言葉とは、横糸のようなもので
真理の時間は縦糸ですね。
(沙羅ちゃんよりヒント)
例えば、無知の始まりがゼロ点ならば、どこまで行っても、
30点の人がゼロ点を見ても70点の人がゼロ点を見ても
<ゼロ点はゼロ点の地点である>というのは変わらない。
これを、<人は死したら無になる>という言葉に置き換えても
同じですね。
点数が100点分あるのに、ゼロ点だけを取り上げているということですね。
あとの99点を知らずに、「コレは絶対的真理である。」と
いい続けることは、そのゼロの地点から抜け出していない
ということです。
こういう地点から抜け出すことは
仏教でいうと「諦観」ということですね。
この諦観を習得できないから、人間は煩悩の中に居ると
釈尊は言っています。
『大日経』では、そういう人間模様を十段階に分けて
論じています。(それだけではないですが)
漢字の弱い人なら、避けて行きたい漢字の山の仏教経典ですが、
現代にも生きているのは、その時間論と存在論をしっかり
構築しているからですね。
国訳本も翻訳本、抄訳本も出ていますので、
挑戦するのもいいでしょう。
仏教では、空海がいうように、
経典は縦糸で論書は横糸であるので
経論書と読んでいくのが、織物を見る方法でしょう。
織物もいろいろある。
それが、宗派つまり<涅槃への行き方>ですね。
正確には、<仏陀に成る仕方>です。
宗派とは<仏陀に成る方法の考え方>という意味だったのです。
これが日本風に転換されてきたというべきでしょうね。
話は逸れましたが、
<生きている時間は、それぞれの段階で真理がある。>
というのが時間論の真理でしょう。
色々分け方もあるとは思います。
しかしながら、生まれた時間、乳児の時間、幼児の時間、
小学生の時間、中学生の時間、高校の時間、新社会人の時間、
壮年の時間、老いた時間、死の時間とまだまだ
たくさんの時間の区分けは出来るでしょうが、
死の時間だけの真理に執着していると、
圧倒的に多くの生きている時間の真理を知らずに過ごすことに
なります。
永遠を求めるならば、それぞれの時間の真理を
こなして行かないといけない。
ごく一部の死の時間だけを大事にしていても、
他の真理を知らないで、その<ゼロ点>の真理だけでは
物事の真理が語れない。
そういうことです。
あと99点の時間の真理は知らないで、何かを主張しても
「ゼロ点の真理だけではねぇ・・・。」となるのは、
当たり前ですね。
ゼロ点では最強の真理かもしれません。
しかし、あと99点の真理はどうするんですか?
それだけでは何も語っていませんし、
それどころかそれを過大評価することによって、
無知のままで留まることを主張するだけですね。
論理上構築される<永遠>という時間も、
その人の一部の時間の真理で語られたら、
「どの辺とどの辺が真理なの?」と子供に
聞き直されるだけです。
それでは普遍的真理などには到底いけません。
「人は死したら無になる。」それだけでは、
お金のことも、おコメのことも国のことも・・・・
すべて何も語っていないまま、そのゼロ点に固執したままなのです。
それって、しがみ付くほど価値があるものなのか?
いや、何かを説明したのか?
何にも説明していないし、何の役にも立たない。
それにしがみ付く価値はあるか?
やっぱりゼロ点はゼロ点なのですね。
圧倒的に多い、生きている時間に関して語る方が、
<永遠の真理に近づく道である>
永遠の時間は、一つの瞬間の時間の積み重ねであるからですね。
その時間がどんどん積み重なって、<いつまでも相違ない>と
なった時に、その言葉は永遠の時間を獲得したといえるのですね。
ホンの一部の時間を過大評価しても過大評価でしかない。
そういうことです。
例えば、そのゼロ点の地点を守り通して、何も生まない人は
人々の記憶からすぐに消え去るでしょう。
しかし、居たかどうか分からないイエスしかり、
ゴーダマ・シッダールタしかり、プラトンしかり、
ダヴィンチしかりヴィトゲンシュタインしかり、
アインシュタインしかり、空海しかり・・・
死したときの時間だけにしがみ付いていたら、
出現してこない人たちばかりです。
偉人たちは生きている時間を思考し、結果を残した人たちです。
別に、寄進して寺や神社に名前が載るだけでも
<生きている時間を刻み込んだ>といえるでしょう。
墓碑は、その人の生きている時間を刻み込んだものです。
そのリレーが本であり仏像であり彫刻や絵画、音楽などですね。
何を個人から受け取り、何を引き継ぐか。
引き継がないまでも、何を渡すのか。
それがゼロ点の地点のものならば、何も引き継いでいないといえる。
決して、それが最強ではないといえます。
それどころか最弱です。
それは、何も生んでいないのですから。-
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from: めるろ〜001さん
2010/04/11 05:23:35
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「Re:真理と時間論」
これを釈尊流にいうと、
「執着から離れなさい。」
そう釈尊なら優しくおっしゃるでしょう。
我慢しなさいという宗教は多いですが、
実際の時間論に準じて、
「執着から離れなさい」といった宗教は仏教だけですね。
しかしながら、人間には、色々な段階があるのですから、
「執着から離れなさい」といわれても、
どう離れて良いか分からない段階の人も居ます。
所謂、無知の人たちですね。
ですから、仏教は、「発心しなさい」というのですね。
仏になる道を歩みなさいと。
多くの宗教は人としての道を説きますが、
仏教は、ブッダになる道を説くのです。
執着から解き放たれ、大楽に至る道、それが仏教の教えです。
それを経典にしたのがお経です。
人は無知な段階は、その執着から離れないので、
無知なもの、ゼロなモノ、
それを最強という。
この論理矛盾から解き放たれないと、いけないでしょうね。
そして、生きているから<可逆性>が確保されるのであって、
死したら、<可逆性>は確保されない。
つまり、真理にはたどり着かないということですね。
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