新規登録がまだの方

下の[新規登録]ボタンを押してコミュニティに登録してください。

新規登録(無料)

登録がお済みの方はこちら

コミュ二ティポイントのご案内

詳しく見る

「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

公開 メンバー数:13人

チャットに入る

サークルに参加する

サークル内の発言を検索する

新しいトピックを立てる

サークルで活動するには参加が必要です。
「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
※参加を制限しているサークルもあります。

閉じる

  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月11日 05時10分02秒

    icon

    真理と時間論

    真理も生と死を扱うようになると
    摺り込みに拠る信仰が邪魔して
    真理の言葉ではあるけれど、
    真理の時間には行かないようです。

    真理の言葉とは、横糸のようなもので
    真理の時間は縦糸ですね。
    (沙羅ちゃんよりヒント)

    例えば、無知の始まりがゼロ点ならば、どこまで行っても、
    30点の人がゼロ点を見ても70点の人がゼロ点を見ても
    <ゼロ点はゼロ点の地点である>というのは変わらない。

    これを、<人は死したら無になる>という言葉に置き換えても
    同じですね。

    点数が100点分あるのに、ゼロ点だけを取り上げているということですね。
    あとの99点を知らずに、「コレは絶対的真理である。」と
    いい続けることは、そのゼロの地点から抜け出していない
    ということです。

    こういう地点から抜け出すことは
    仏教でいうと「諦観」ということですね。

    この諦観を習得できないから、人間は煩悩の中に居ると
    釈尊は言っています。

    『大日経』では、そういう人間模様を十段階に分けて
    論じています。(それだけではないですが)

    漢字の弱い人なら、避けて行きたい漢字の山の仏教経典ですが、
    現代にも生きているのは、その時間論と存在論をしっかり
    構築しているからですね。

    国訳本も翻訳本、抄訳本も出ていますので、
    挑戦するのもいいでしょう。

    仏教では、空海がいうように、
    経典は縦糸で論書は横糸であるので
    経論書と読んでいくのが、織物を見る方法でしょう。
    織物もいろいろある。
    それが、宗派つまり<涅槃への行き方>ですね。
    正確には、<仏陀に成る仕方>です。
    宗派とは<仏陀に成る方法の考え方>という意味だったのです。
    これが日本風に転換されてきたというべきでしょうね。

    話は逸れましたが、
    <生きている時間は、それぞれの段階で真理がある。>
    というのが時間論の真理でしょう。
    色々分け方もあるとは思います。

    しかしながら、生まれた時間、乳児の時間、幼児の時間、
    小学生の時間、中学生の時間、高校の時間、新社会人の時間、
    壮年の時間、老いた時間、死の時間とまだまだ
    たくさんの時間の区分けは出来るでしょうが、
    死の時間だけの真理に執着していると、
    圧倒的に多くの生きている時間の真理を知らずに過ごすことに
    なります。

    永遠を求めるならば、それぞれの時間の真理を
    こなして行かないといけない。

    ごく一部の死の時間だけを大事にしていても、
    他の真理を知らないで、その<ゼロ点>の真理だけでは
    物事の真理が語れない。

    そういうことです。
    あと99点の時間の真理は知らないで、何かを主張しても
    「ゼロ点の真理だけではねぇ・・・。」となるのは、
    当たり前ですね。

    ゼロ点では最強の真理かもしれません。
    しかし、あと99点の真理はどうするんですか?

    それだけでは何も語っていませんし、
    それどころかそれを過大評価することによって、
    無知のままで留まることを主張するだけですね。

    論理上構築される<永遠>という時間も、
    その人の一部の時間の真理で語られたら、
    「どの辺とどの辺が真理なの?」と子供に
    聞き直されるだけです。

    それでは普遍的真理などには到底いけません。
    「人は死したら無になる。」それだけでは、
    お金のことも、おコメのことも国のことも・・・・
    すべて何も語っていないまま、そのゼロ点に固執したままなのです。
    それって、しがみ付くほど価値があるものなのか?

    いや、何かを説明したのか?
    何にも説明していないし、何の役にも立たない。
    それにしがみ付く価値はあるか?
    やっぱりゼロ点はゼロ点なのですね。

    圧倒的に多い、生きている時間に関して語る方が、
    <永遠の真理に近づく道である>

    永遠の時間は、一つの瞬間の時間の積み重ねであるからですね。
    その時間がどんどん積み重なって、<いつまでも相違ない>と
    なった時に、その言葉は永遠の時間を獲得したといえるのですね。

    ホンの一部の時間を過大評価しても過大評価でしかない。
    そういうことです。

    例えば、そのゼロ点の地点を守り通して、何も生まない人は
    人々の記憶からすぐに消え去るでしょう。
    しかし、居たかどうか分からないイエスしかり、
    ゴーダマ・シッダールタしかり、プラトンしかり、
    ダヴィンチしかりヴィトゲンシュタインしかり、
    アインシュタインしかり、空海しかり・・・

    死したときの時間だけにしがみ付いていたら、
    出現してこない人たちばかりです。

    偉人たちは生きている時間を思考し、結果を残した人たちです。
    別に、寄進して寺や神社に名前が載るだけでも
    <生きている時間を刻み込んだ>といえるでしょう。

    墓碑は、その人の生きている時間を刻み込んだものです。

    そのリレーが本であり仏像であり彫刻や絵画、音楽などですね。
    何を個人から受け取り、何を引き継ぐか。
    引き継がないまでも、何を渡すのか。

    それがゼロ点の地点のものならば、何も引き継いでいないといえる。
    決して、それが最強ではないといえます。
    それどころか最弱です。
    それは、何も生んでいないのですから。

    • コメントする

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 1
    • 拍手する

      サークルで活動するには参加が必要です。
      「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
      ※参加を制限しているサークルもあります。

      閉じる

    • 0

    icon拍手者リスト

コメント: 全1件

from: めるろ〜001さん

2010年04月11日 05時23分35秒

icon

「Re:真理と時間論」
これを釈尊流にいうと、
「執着から離れなさい。」

そう釈尊なら優しくおっしゃるでしょう。

我慢しなさいという宗教は多いですが、
実際の時間論に準じて、
「執着から離れなさい」といった宗教は仏教だけですね。

しかしながら、人間には、色々な段階があるのですから、
「執着から離れなさい」といわれても、
どう離れて良いか分からない段階の人も居ます。
所謂、無知の人たちですね。

ですから、仏教は、「発心しなさい」というのですね。
仏になる道を歩みなさいと。

多くの宗教は人としての道を説きますが、
仏教は、ブッダになる道を説くのです。
執着から解き放たれ、大楽に至る道、それが仏教の教えです。
それを経典にしたのがお経です。

人は無知な段階は、その執着から離れないので、
無知なもの、ゼロなモノ、
それを最強という。

この論理矛盾から解き放たれないと、いけないでしょうね。

そして、生きているから<可逆性>が確保されるのであって、
死したら、<可逆性>は確保されない。

つまり、真理にはたどり着かないということですね。

  • コメントする

    サークルで活動するには参加が必要です。
    「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
    ※参加を制限しているサークルもあります。

    閉じる

  • 拍手する

    サークルで活動するには参加が必要です。
    「サークルに参加する」ボタンをクリックしてください。
    ※参加を制限しているサークルもあります。

    閉じる

  • 0

icon拍手者リスト