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「哲学〜真理〜探求について」

「哲学〜真理〜探求について」>掲示板

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  • from: めるろ〜001さん

    2010年04月26日 12時25分11秒

    icon

    仏教とは(哲学的分析)

    ご存知の通り、仏教とは、<自己が仏になる道>のことです。
    仏典は、その道筋を書いてあります。
    しかしながら、哲学と同様に、
    仏典には、自己が世界を感情抜きに見る。
    という部分から始まります。
    原始仏教においては、四諦や八正道といった自己が世界を見る見方をどのようにして見るか、その「無常」の様子を「苦」ととらえ、
    因縁(因果関係)と捉えている。
    そういう中で、自己ですら「無我」である。
    (自己の成立は自己に固有のものではなく、因果関係で存立する)
    という認識を持つように書かれている。

    普通、人は、「自己はここに居るではないか。」と思い、
    自己を中心にモノを考えるというのが、別に変なことではなく、
    普通のこととしてある。しかし、仏教では、そういう自己への固執も振り払うべくしないと、「解脱」は出来ないと教える。

    解脱は、「苦」から解き離れることである。

    ここまでが、原始仏教が教えるところである。
    この行すら大変なことでありますが、
    ここからが、菩薩行の域に入ります。

    慈悲(他者救済)と智慧(般若波羅密多)を駆使することが
    出来る、または、他者へ指導することが出来るということですね。

    「菩薩道に発心する」という語と
    「仏教に発心する」という語が交錯する場合がありますが、
    ここでは、「菩薩道に発心する」ということですね。

    これを、三乗の分類で当て嵌めると、
    声聞乗は、師の教えを聞いて悟ること
    独覚乗は、色々な教えを自己の中で実践し悟ること
    ここまでが、自己が世界を観想し、行ずるという部分ですね。

    シャーリプトラ(舎利子)もこの段階の長老として
    『般若波羅密多心経』も扱っている。
    菩薩になって、釈尊と同じ行をして、
    その上で、舎利子に説法する。

    そして、最高の悟りの境地は、般若波羅密多行の上に成り立つと。

    多くの宗派は、この『般若波羅密多心経』を仏教の中心経典として
    取り扱っている。

    浄土系は、そのような厳しい修行ではなく、現在の行いを
    <清らかにすること>で、菩薩や如来が極楽浄土に導く。
    というところに悟りへの道を開いている。

    法華という最高の境地を求めるというのは、
    実は一般人には危うい意味を含んでいる。

    最高を求めるということは決して悪いことではない。
    しかし、最高だけを求めるのは、仏教全体の流れや歴史を含むまでには遠い道である。

    『法華経』は成立から見ても一つの経典ではなく、
    観音経の部分、陀羅尼の部分など、
    発心から悟りを得るまでの道程は結構な道程である。

    「行ずるすべてがお題目を唱えることからである。」
    ということもそういうところからきているのではないか。
    (大変微妙な表現ですが・・・。)

    『法華経』は、『法華経』以外を排除して、
    『法華経』が最高の経典であると書かれているので、
    そこが微妙なのですね。
    釈尊は<そういう対機説法で何を導きたかったのか。>と。

    中国で発展した禅の修業は、三乗をそのまま実践しようと
    するものでしょう。(禅は詳しくないので)

    仏教が人間形成の最終点を示しているのであれば、
    世界の宗教としての意味は十分にあるでしょう。

    しかし、信仰をいうものは、文化や習慣も伴っているので、
    頭でっかちになってもいけない。

    お互いを認め合い、交流する中で洗練されていくのが
    最もいい宗教のあり方ではないか。

    武器を持って、他宗教を迫害するなどは持っての外です。
    どこも自己の信ずる宗教を重んじますし、
    宗教によっては自己の選択の余地が無い場合もあります。

    仏教においては、行ずることを得意とする者も
    行ずることが難しい者も救おうという姿勢が見られます。

    同じ人間であるので、階級も奴隷も存在させてはいけないし、
    思考や思想の違いがあっても、
    共有するものを求めることをやめてはいけない。

    すぐに、相手を否定するのではなく、聞くという
    その因縁を確かめる姿勢が仏教徒には必要です。

    哲学では、真理は自己の頭の中にあるのではなく、
    人と人の間に<共有する認識>を真理と呼ぶのですね。

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from: めるろ〜001さん

2010年04月27日 13時35分03秒

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「Re:Re:仏教とは(哲学的分析)」
>沙羅ちゃん

分かり易いです。

『法華経』が指摘するように、
仏教の修行には段階が存在します。

世界や宇宙の認識の仕方、それに対する修行のあり方、
など、基本的なことは、上座部仏教のあり方で行じられている
と思います。

今度はそういう自己のあり方というところを超えて、
他者救済に重きをおくのですね。
他者を救済するのですから、また別の修行をしなければなりません。
般若波羅密多行も菩薩の修行の一つですね。

しかしながら、他者と向き合っている限り対機説法の形式は
免れず、繰り返し、普遍への修行との接点を行ったり来たり
しなければなりません。

菩薩行の中でも、普遍への修行を真ん中にして、
対機説法←→普遍への修行←→成仏(不変)という
幅を持っているのだと思います。

対機説法は世界と接するという意味の<俗>という部分でしょうし
成仏は<聖>の部分でしょう。

この変わらない不変の状態が、密教的な金剛乗なのだと思います。
金剛はダイヤモンド、乗は、悟りに行く時の乗り物ですので、
<ダイヤモンドの乗り物>という訳です。
普遍化はその金剛乗のホンの少し前、
<仏と出会っている自己>の状態と思います。
(他でも普遍化は可能ですが)

仏教では、神は、修行をする者を護る神ということですので、
人にも僧にも仏にも神が護ります。

人を護るのに使うのが、護符ですね。
護符つまり、「お守り」ですね。

<おみくじ>がお寺(天台宗)で考えられたものですので、
そこに神の文字が入っていてもなんら不思議はないんですね。

オウム真理教(現アーレフ)の登場写真が、無表情なのは、
なんででしょうね。
特に関心はないですが・・・・。

> 心<魂>の存在なんですよね?
> 時間と空間が存在すること、
> 人間が進化する、、という意味は???

これは、考えますね。
昔のというか歴史上の人が精神の根底を探り、
科学が暮らしを変え、商業が物々交換から色んな交換パターンを生み出した。
生活はこれらにより大きく変化してきている。
多くは死者達からの<便り>ですね。

ご先祖様が居なければ今はない。

を実感する時だと思います。

過去に敬意を表しながら、未来を見据える。
未来を見据える時に何に留意したら良いか。

自由、博愛、平等といった表向きの表現ではなく、
もっと、肌と肌を接した愛憎を見るのですね。

何が普遍化され、不変になれば良いか。

時間と存在の在り方は、不変と相俟って、
厳しい表現を求めて来ますね。

そこには、論理学が何かに突き破られる状態があると思います。

>
> わたくしも、最近、色々原始仏教から、大乗があらわれる途上を考えるんですよね〜、、、
>
> その途上に存在するのは、時間と空間ですから、
> 時間と空間が存在する意味が
> 死者達の心<思い、願い)のメッセージをつうじさせようと、必ず介在できる波動の高い方ガタが、その時代、その時代に必ず現れるようなんです。これは西洋でも同じに思えます。レヴィナスの誕生や、レヴィナスの存在の意味性が命日という点に現されてしまったのか?とも思ったりするんです。
> 日本は 神仏の補完構造といった歴史の変遷も考えます。
> 法華経が提示するのは、他者=死者<使者?>とのコミュニケートであるようなんですね。それこそ、時間と空間に生かされる人間だけの、倫理概念を逸脱してしまうようなコミュニケート
> 、突飛な人と人の間のコミュニケートもあるようなんです。
>
> どちらにしても、心は皆平等、、というような、日和見的、世間てい向けのレベルでの、存在の仕方が無理なのでしょう、、、という手応えを、感じてくるんです。
>
> この地点から高次世界への道は、かなり振り分けられてしまうと思われます。述べ方を変えると、こちらの意志(自由意志)に関係なくという感じです。
>
> これは、本当に驚きなんですよね。
>
> インドのカースト制時代に、もし?
> フランス革命が勃発したら?、
> 精神、、エスプリ
> が生まれるとしたら?、その理由は?原因?
>
> 自由、平等、そして博愛を謳った、マリアンヌ精神の存在する意味は???
>
> 心<魂>の存在なんですよね?
> 時間と空間が存在すること、
> 人間が進化する、、という意味は???
>
> 色々考えるんです。
> そういえば、昨日テレビで、ドバイの都市計画、20年前と、今の様子と、人間の無制限な欲望による崩壊などなど、
> 興味深い番組がありましたけど、
> 世界には、そのようなキャピタルとは、全く無関係に生かされる人達の無数な人達の心や魂が存在している、、という事を忘れル問いう事はどういう事なのか?
> 他者達の心や魂の存在を、感じられなくなってしまった時、、、
>
> 世界がどのような、方向に流れて向うのか?
>
> 軌道修正が出来ない程、自分自身の世界の事だけに、執着してしまい、他者達との心のコミュニケートが出来ないようなんですね。
> フトオームの執行部に居られたかたがたの顔面〜感じられる無表情、、というか、溢れるような生気を感じられない、、現れ方と類似しているのを感じるんですね。
>
> そういえば
> 、話飛びますが
> わたくしが、R子さんの亡くなられたご主人の霊がメルボルンのお友達のところに出られて、そのお友達が日本行きの計画をたてたのは、霊能者に会う随分前からだったのに、、ご主人の「R子に会いに行って欲しい」と、毎晩耳元で言われている、、と言うのが観得る、、、
> と、日本旅行直前に会われた霊能者に言われた、、
> という話を聞かされた時、
> 聞かされた、私もインパクトを感じてしまうんですよね。
> 自分の友だちですから、、、、メディアや雑誌を読んでるわけではないので、、、
>
> わたくしが、そのメルボルンのお友達の次の2番目に
> 、ルンルン気分<笑>で、R子さんに会いに行く計画を、一人でたてていたりするんです。この一人で、計画を立ててると思い込んでいる途上が実は一人ではないようなんですね。
>
> メルボルンと、ヨーロッパ、フランスと、日本と、フランセスが住んでいるアメリカですかね?マキシムの住むキルギスタンもありますし、、、
> 何だか、たいした出費せず、世界旅行でもしてる感じなんですけど、、笑
>
> 「歴史の流れの意味性を探しているのよ?」
> という、哲学をする、未来への普遍性を探す、、、
> という意識の姿勢を、あの世の霊界の人達自身も知っているのではないか?という地点での、個人的なコミュニケートが、向こうから放ってくる、、というのが気味が悪いんですね?
>
> つまり、観られている、、、という感じなんです。
> でも、これはきっとそういう風になっていたからであって、何かの意図的な意志があるのではないのかも?
> という事も考えたり、、、
> まあ、中道は、何処なんでしょう?
> と自分自身でも、又違った次元でのセンター、力点を観なければならないようなんです。
>
> マタマタ話違いますが、
> 仏教は誰でも仏になれるという、、ところだけクローズアップされてしまう、、というのは、多分人間の弱さを最初から意図的に狙ったというか、言葉悪いですが、仏教が普遍化されやすいように、
> そのような言葉が頻繁に、放たれるのかもしれません。
>
> 正直、ヨーロッパの神殿や、聖堂、教会に、
> 商売繁盛であったり、受験合格祈願のお守りやお札が売られていたら、信仰や宗教の存在する意味を、やはり疑うでしょうし、
> 信仰や宗教の、人ビトの心い存在する意味や存在の仕方に重要な意味があるのだと思うのです。
>
> そういった意味を考えると、仏教の考えには素晴らしいその土地に根ざした理由があるのに、空での現れ方が本当に純粋ではないんですよね。美しくない、現れ方なんです。本当に、残念です。
>
> その現れ方どうにかして欲しいのです。もう小乗でも大乗でも中乗でもどうでも良いと言っては又怒られますが、未来への普遍化を考えると仏教が続いて行く事を願う者として、その醜い現れ方をどうにかして欲しいと思うのです。
>
> 信仰離れ云々ではなく、決まった信仰を持たない人達が増えると思われるであろう、コレからの未来の人達の心に訴え、納得出来るであろう、現れ方、そのような仏教としての美しい現れ方をして欲しいと思うのです。
>
> 話ずれましたが、
> 小乗のの声聞の仏弟子達が、実は大乗の菩薩であることが、仏から明らかにされ
> 未来の長い時間の末に仏になるという予言(書かれて)いるのは法華経でも、方便品(しゃく門と本門を分けルと)の後、比喩本以下に書かれていたのでしょうか?
> 仏教徒でない私なので、読んだ記憶はないようなんですが、
> 多分わたくし2300歳くらいなんでしょうか?
> 読んだかも知れません。。。笑
>
>
> という事で、徒然に述べてみました。分かり辛くてめるろ〜さんどうもごめんなさいです。
>
>
>
>
> ご存知の通り、仏教とは、<自己が仏になる道>のことです。
> > 仏典は、その道筋を書いてあります。
> > しかしながら、哲学と同様に、
> > 仏典には、自己が世界を感情抜きに見る。
> > という部分から始まります。
> > 原始仏教においては、四諦や八正道といった自己が世界を見る見方をどのようにして見るか、その「無常」の様子を「苦」ととらえ、
> > 因縁(因果関係)と捉えている。
> > そういう中で、自己ですら「無我」である。
> > (自己の成立は自己に固有のものではなく、因果関係で存立する)
> > という認識を持つように書かれている。
> >
> > 普通、人は、「自己はここに居るではないか。」と思い、
> > 自己を中心にモノを考えるというのが、別に変なことではなく、
> > 普通のこととしてある。しかし、仏教では、そういう自己への固執も振り払うべくしないと、「解脱」は出来ないと教える。
> >
> > 解脱は、「苦」から解き離れることである。
> >
> > ここまでが、原始仏教が教えるところである。
> > この行すら大変なことでありますが、
> > ここからが、菩薩行の域に入ります。
> >
> > 慈悲(他者救済)と智慧(般若波羅密多)を駆使することが
> > 出来る、または、他者へ指導することが出来るということですね。
> >
> > 「菩薩道に発心する」という語と
> > 「仏教に発心する」という語が交錯する場合がありますが、
> > ここでは、「菩薩道に発心する」ということですね。
> >
> > これを、三乗の分類で当て嵌めると、
> > 声聞乗は、師の教えを聞いて悟ること
> > 独覚乗は、色々な教えを自己の中で実践し悟ること
> > ここまでが、自己が世界を観想し、行ずるという部分ですね。
> >
> > シャーリプトラ(舎利子)もこの段階の長老として
> > 『般若波羅密多心経』も扱っている。
> > 菩薩になって、釈尊と同じ行をして、
> > その上で、舎利子に説法する。
> >
> > そして、最高の悟りの境地は、般若波羅密多行の上に成り立つと。
> >
> > 多くの宗派は、この『般若波羅密多心経』を仏教の中心経典として
> > 取り扱っている。
> >
> > 浄土系は、そのような厳しい修行ではなく、現在の行いを
> > <清らかにすること>で、菩薩や如来が極楽浄土に導く。
> > というところに悟りへの道を開いている。
> >
> > 法華という最高の境地を求めるというのは、
> > 実は一般人には危うい意味を含んでいる。
> >
> > 最高を求めるということは決して悪いことではない。
> > しかし、最高だけを求めるのは、仏教全体の流れや歴史を含むまでには遠い道である。
> >
> > 『法華経』は成立から見ても一つの経典ではなく、
> > 観音経の部分、陀羅尼の部分など、
> > 発心から悟りを得るまでの道程は結構な道程である。
> >
> > 「行ずるすべてがお題目を唱えることからである。」
> > ということもそういうところからきているのではないか。
> > (大変微妙な表現ですが・・・。)
> >
> > 『法華経』は、『法華経』以外を排除して、
> > 『法華経』が最高の経典であると書かれているので、
> > そこが微妙なのですね。
> > 釈尊は<そういう対機説法で何を導きたかったのか。>と。
> >
> > 中国で発展した禅の修業は、三乗をそのまま実践しようと
> > するものでしょう。(禅は詳しくないので)
> >
> > 仏教が人間形成の最終点を示しているのであれば、
> > 世界の宗教としての意味は十分にあるでしょう。
> >
> > しかし、信仰をいうものは、文化や習慣も伴っているので、
> > 頭でっかちになってもいけない。
> >
> > お互いを認め合い、交流する中で洗練されていくのが
> > 最もいい宗教のあり方ではないか。
> >
> > 武器を持って、他宗教を迫害するなどは持っての外です。
> > どこも自己の信ずる宗教を重んじますし、
> > 宗教によっては自己の選択の余地が無い場合もあります。
> >
> > 仏教においては、行ずることを得意とする者も
> > 行ずることが難しい者も救おうという姿勢が見られます。
> >
> > 同じ人間であるので、階級も奴隷も存在させてはいけないし、
> > 思考や思想の違いがあっても、
> > 共有するものを求めることをやめてはいけない。
> >
> > すぐに、相手を否定するのではなく、聞くという
> > その因縁を確かめる姿勢が仏教徒には必要です。
> >
> > 哲学では、真理は自己の頭の中にあるのではなく、
> > 人と人の間に<共有する認識>を真理と呼ぶのですね。
> >

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from: 沙羅さん

2010年04月26日 17時43分10秒

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「Re:仏教とは(哲学的分析)」
めるろ〜さん

わたくしも、最近、色々原始仏教から、大乗があらわれる途上を考えるんですよね〜、、、

その途上に存在するのは、時間と空間ですから、
時間と空間が存在する意味が
死者達の心<思い、願い)のメッセージをつうじさせようと、必ず介在できる波動の高い方ガタが、その時代、その時代に必ず現れるようなんです。これは西洋でも同じに思えます。レヴィナスの誕生や、レヴィナスの存在の意味性が命日という点に現されてしまったのか?とも思ったりするんです。
日本は 神仏の補完構造といった歴史の変遷も考えます。
法華経が提示するのは、他者=死者<使者?>とのコミュニケートであるようなんですね。それこそ、時間と空間に生かされる人間だけの、倫理概念を逸脱してしまうようなコミュニケート
、突飛な人と人の間のコミュニケートもあるようなんです。

どちらにしても、心は皆平等、、というような、日和見的、世間てい向けのレベルでの、存在の仕方が無理なのでしょう、、、という手応えを、感じてくるんです。

この地点から高次世界への道は、かなり振り分けられてしまうと思われます。述べ方を変えると、こちらの意志(自由意志)に関係なくという感じです。

これは、本当に驚きなんですよね。

インドのカースト制時代に、もし?
フランス革命が勃発したら?、
精神、、エスプリ
が生まれるとしたら?、その理由は?原因?

自由、平等、そして博愛を謳った、マリアンヌ精神の存在する意味は???

心<魂>の存在なんですよね?
時間と空間が存在すること、
人間が進化する、、という意味は???

色々考えるんです。
そういえば、昨日テレビで、ドバイの都市計画、20年前と、今の様子と、人間の無制限な欲望による崩壊などなど、
興味深い番組がありましたけど、
世界には、そのようなキャピタルとは、全く無関係に生かされる人達の無数な人達の心や魂が存在している、、という事を忘れル問いう事はどういう事なのか?
他者達の心や魂の存在を、感じられなくなってしまった時、、、

世界がどのような、方向に流れて向うのか?

軌道修正が出来ない程、自分自身の世界の事だけに、執着してしまい、他者達との心のコミュニケートが出来ないようなんですね。
フトオームの執行部に居られたかたがたの顔面〜感じられる無表情、、というか、溢れるような生気を感じられない、、現れ方と類似しているのを感じるんですね。

そういえば
、話飛びますが
わたくしが、R子さんの亡くなられたご主人の霊がメルボルンのお友達のところに出られて、そのお友達が日本行きの計画をたてたのは、霊能者に会う随分前からだったのに、、ご主人の「R子に会いに行って欲しい」と、毎晩耳元で言われている、、と言うのが観得る、、、
と、日本旅行直前に会われた霊能者に言われた、、
という話を聞かされた時、
聞かされた、私もインパクトを感じてしまうんですよね。
自分の友だちですから、、、、メディアや雑誌を読んでるわけではないので、、、

わたくしが、そのメルボルンのお友達の次の2番目に
、ルンルン気分<笑>で、R子さんに会いに行く計画を、一人でたてていたりするんです。この一人で、計画を立ててると思い込んでいる途上が実は一人ではないようなんですね。

メルボルンと、ヨーロッパ、フランスと、日本と、フランセスが住んでいるアメリカですかね?マキシムの住むキルギスタンもありますし、、、
何だか、たいした出費せず、世界旅行でもしてる感じなんですけど、、笑

「歴史の流れの意味性を探しているのよ?」
という、哲学をする、未来への普遍性を探す、、、
という意識の姿勢を、あの世の霊界の人達自身も知っているのではないか?という地点での、個人的なコミュニケートが、向こうから放ってくる、、というのが気味が悪いんですね?

つまり、観られている、、、という感じなんです。
でも、これはきっとそういう風になっていたからであって、何かの意図的な意志があるのではないのかも?
という事も考えたり、、、
まあ、中道は、何処なんでしょう?
と自分自身でも、又違った次元でのセンター、力点を観なければならないようなんです。

マタマタ話違いますが、
仏教は誰でも仏になれるという、、ところだけクローズアップされてしまう、、というのは、多分人間の弱さを最初から意図的に狙ったというか、言葉悪いですが、仏教が普遍化されやすいように、
そのような言葉が頻繁に、放たれるのかもしれません。

正直、ヨーロッパの神殿や、聖堂、教会に、
商売繁盛であったり、受験合格祈願のお守りやお札が売られていたら、信仰や宗教の存在する意味を、やはり疑うでしょうし、
信仰や宗教の、人ビトの心い存在する意味や存在の仕方に重要な意味があるのだと思うのです。

そういった意味を考えると、仏教の考えには素晴らしいその土地に根ざした理由があるのに、空での現れ方が本当に純粋ではないんですよね。美しくない、現れ方なんです。本当に、残念です。

その現れ方どうにかして欲しいのです。もう小乗でも大乗でも中乗でもどうでも良いと言っては又怒られますが、未来への普遍化を考えると仏教が続いて行く事を願う者として、その醜い現れ方をどうにかして欲しいと思うのです。

信仰離れ云々ではなく、決まった信仰を持たない人達が増えると思われるであろう、コレからの未来の人達の心に訴え、納得出来るであろう、現れ方、そのような仏教としての美しい現れ方をして欲しいと思うのです。

話ずれましたが、
小乗のの声聞の仏弟子達が、実は大乗の菩薩であることが、仏から明らかにされ
未来の長い時間の末に仏になるという予言(書かれて)いるのは法華経でも、方便品(しゃく門と本門を分けルと)の後、比喩本以下に書かれていたのでしょうか?
仏教徒でない私なので、読んだ記憶はないようなんですが、
多分わたくし2300歳くらいなんでしょうか?
読んだかも知れません。。。笑


という事で、徒然に述べてみました。分かり辛くてめるろ〜さんどうもごめんなさいです。




ご存知の通り、仏教とは、<自己が仏になる道>のことです。
> 仏典は、その道筋を書いてあります。
> しかしながら、哲学と同様に、
> 仏典には、自己が世界を感情抜きに見る。
> という部分から始まります。
> 原始仏教においては、四諦や八正道といった自己が世界を見る見方をどのようにして見るか、その「無常」の様子を「苦」ととらえ、
> 因縁(因果関係)と捉えている。
> そういう中で、自己ですら「無我」である。
> (自己の成立は自己に固有のものではなく、因果関係で存立する)
> という認識を持つように書かれている。
>
> 普通、人は、「自己はここに居るではないか。」と思い、
> 自己を中心にモノを考えるというのが、別に変なことではなく、
> 普通のこととしてある。しかし、仏教では、そういう自己への固執も振り払うべくしないと、「解脱」は出来ないと教える。
>
> 解脱は、「苦」から解き離れることである。
>
> ここまでが、原始仏教が教えるところである。
> この行すら大変なことでありますが、
> ここからが、菩薩行の域に入ります。
>
> 慈悲(他者救済)と智慧(般若波羅密多)を駆使することが
> 出来る、または、他者へ指導することが出来るということですね。
>
> 「菩薩道に発心する」という語と
> 「仏教に発心する」という語が交錯する場合がありますが、
> ここでは、「菩薩道に発心する」ということですね。
>
> これを、三乗の分類で当て嵌めると、
> 声聞乗は、師の教えを聞いて悟ること
> 独覚乗は、色々な教えを自己の中で実践し悟ること
> ここまでが、自己が世界を観想し、行ずるという部分ですね。
>
> シャーリプトラ(舎利子)もこの段階の長老として
> 『般若波羅密多心経』も扱っている。
> 菩薩になって、釈尊と同じ行をして、
> その上で、舎利子に説法する。
>
> そして、最高の悟りの境地は、般若波羅密多行の上に成り立つと。
>
> 多くの宗派は、この『般若波羅密多心経』を仏教の中心経典として
> 取り扱っている。
>
> 浄土系は、そのような厳しい修行ではなく、現在の行いを
> <清らかにすること>で、菩薩や如来が極楽浄土に導く。
> というところに悟りへの道を開いている。
>
> 法華という最高の境地を求めるというのは、
> 実は一般人には危うい意味を含んでいる。
>
> 最高を求めるということは決して悪いことではない。
> しかし、最高だけを求めるのは、仏教全体の流れや歴史を含むまでには遠い道である。
>
> 『法華経』は成立から見ても一つの経典ではなく、
> 観音経の部分、陀羅尼の部分など、
> 発心から悟りを得るまでの道程は結構な道程である。
>
> 「行ずるすべてがお題目を唱えることからである。」
> ということもそういうところからきているのではないか。
> (大変微妙な表現ですが・・・。)
>
> 『法華経』は、『法華経』以外を排除して、
> 『法華経』が最高の経典であると書かれているので、
> そこが微妙なのですね。
> 釈尊は<そういう対機説法で何を導きたかったのか。>と。
>
> 中国で発展した禅の修業は、三乗をそのまま実践しようと
> するものでしょう。(禅は詳しくないので)
>
> 仏教が人間形成の最終点を示しているのであれば、
> 世界の宗教としての意味は十分にあるでしょう。
>
> しかし、信仰をいうものは、文化や習慣も伴っているので、
> 頭でっかちになってもいけない。
>
> お互いを認め合い、交流する中で洗練されていくのが
> 最もいい宗教のあり方ではないか。
>
> 武器を持って、他宗教を迫害するなどは持っての外です。
> どこも自己の信ずる宗教を重んじますし、
> 宗教によっては自己の選択の余地が無い場合もあります。
>
> 仏教においては、行ずることを得意とする者も
> 行ずることが難しい者も救おうという姿勢が見られます。
>
> 同じ人間であるので、階級も奴隷も存在させてはいけないし、
> 思考や思想の違いがあっても、
> 共有するものを求めることをやめてはいけない。
>
> すぐに、相手を否定するのではなく、聞くという
> その因縁を確かめる姿勢が仏教徒には必要です。
>
> 哲学では、真理は自己の頭の中にあるのではなく、
> 人と人の間に<共有する認識>を真理と呼ぶのですね。
>

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from: めるろ〜001さん

2010年04月26日 12時33分31秒

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「Re:仏教とは(哲学的分析)」
ゴーダマシダールタが、出家したのは、
「親族の死などにニヒリズムを感じ、出家した。」と
以前は、考えていました。

しかし、ゴーダマシダールタは、
<人生の終着点を如何に微笑を持って迎えるか>という
救済と智慧を求めて出家したと
指摘している方がいらっしゃいました。
この方は原始仏教の研究者ですが、
最近、この方の本に感銘を受けました。

これが、人と人との間の真理ではないかと。

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